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すぐに「斬ってやる!」の高田町議会。 [気になるエトセトラ]

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 1932年(昭和7)に豊島区が成立する直前、高田町最後の町長となった海老澤了之介Click!は、1902年(明治35)に水戸中学を卒業すると、早稲田大学を受験するために東京へやってきている。下宿先は、北豊島郡雑司ヶ谷村707番地だった。山手線の池袋停車場Click!ができるのは翌1903年(明治36)で、雑司ヶ谷一帯はいまだ田畑が拡がる中に森が点在するような風情だった。
 雑司ヶ谷は、江戸期から別名「富士見の里」と呼ばれるほど富士山Click!の眺望がよく、鬼子母神Click!から地図に直線を引いて確認すると、おそらく目白崖線がつづく下落合の御留山Click!の上あたりから突きでて見えていたのだろう。いまだ清戸道Click!(せいどどう=高田村誌Click!)と呼ばれていた目白通りには、練馬方面からやってくる野菜を満載した大八車Click!や肥車が通行し、ときおり目白停車場Click!や学習院へと向かうClick!(じんりき)が走り抜けていた。春になると、学習院の通りに植えられたサクラ並木がみごとに花開き、周辺の住民たちは花見に誘われたようだ。
 海老澤了之介は、雑司ヶ谷から早稲田大学まで通学しているが徒歩15分ほどの距離だったろう。当時の早大は、いわゆる見わたすかぎりの早稲田田圃Click!の中に、場ちがいな校舎の甍がそびえるような閑散とした風景で、隣接する大隈邸は水田の中にある孤島のように見えたという。商店街は正門前にしか形成されておらず、幕府の高田馬場Click!跡がいまだクッキリと残っていた時代だ。当時の通学の様子を、1954年(昭和29)に出版された海老澤了之介『追憶』(私家版)から引用してみよう。
  
 雑司ヶ谷から早稲田への通学は、面影橋から高田の馬場を経て行つたが、帰路は音羽通りに出て、葱、蒟蒻などを荒縄でぶら下げては帰つたものである。それでも人気のない田舎道の事であつたから、少しもはづかしい思ひをせずに済んだ。今思へば全く隔世の感がある。小石川伝通院前の西川と言ふ牛肉屋から、毎日御用聞きが来た。十銭の牛肉を先輩と私とお婆さんの三人で煮込みのおじやに作つて食べたりした。当時の下宿料は五円であつた。電燈は未だなく、竹ほやの石油ランプとマツチとを枕元に揃へて寝た。学生の常で、昼は遊んで夜勉強するのであるが、一月、二月ともなると寒さが身に沁みて来る。そんな寒い或る晩の事であつた。丑満の時ともなると、いよいよあたりは静まりかへつて、静寂そのものである。すると丁度目白駅の方向に当つて甲高い、そして澄み切つた声で、コーンと一と声聞えた。(中略) 始めて(ママ)之は狐にちがひないと気付いた時、啼声はすぐそこに近付いて聞えた。
  
 海老澤了之介が通った文学部哲学科の同窓には、戦後まで交友をつづけた下落合1712番地の第二文化村Click!に住む石橋湛山Click!がいた。石橋湛山は、1958年(昭和33)に出版された海老澤了之介『新編若葉の梢』Click!(新編若葉の梢刊行会)へは序文、『追憶』(私家版)には色紙を書いて寄せている。
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 海老澤了之介が地域行政の世界へ足を踏みいれたのは、父親が隠居してあとを継ぐことになったからだ。当時の高田町(現・目白/雑司ヶ谷/南池袋地域)は、大正期から昭和初期にかけ市街地からの人口流入が爆発的に増えつづけた激動の時代だった。特に1923年(大正12)の関東大震災Click!以降は、地域のインフラをいくら整備しても不足する、1950~60年代の神奈川県Click!のような混乱状況だった。だから、新しい時代状況に適応できない人々(おもに旧住民)と、新たなインフラの仕組みや制度づくりをめざす人々との間では、深刻な軋轢が生じることになった。
 当時の高田町に設置された常設・臨時委員会だけ見ても、学務委員会や警備委員会、社会事業調査委員会、条例規制改正委員会、下水道委員会、武蔵野鉄道護国寺線促進委員会、神田川改修促進委員会、荒玉水道促進委員会、瓦斯料金値下実行委員会、歳末慰問委員会、市郡併合特別調査委員会…etc.と、その名称をなぞるだけで当時の高田町がおかれていためまぐるしい様子が透けて見える。みるみる膨れあがる町勢に対し、ひとことでいえば「なにもかもが足りない」混乱した事態を迎えていた。
 海老澤了之介は、もともと高田地域に住む“有力者”たちを説得して、新しい街づくりに協力させるのが助役時代、そして町長時代のおもな仕事になっていた感さえある。中には、「男の約束を反故にした」とかいいつつ、日本刀を持ちだして「海老澤を斬ってやる」と公言する人物までが現れた。高田警察署では、町長に24時間の護衛をつけるまで緊迫した事態がつづいていた。同書より、当該箇所を引用してみよう。
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 (前略)当時町会議員で、上り屋敷に坂本辰之助君といふ新聞記者であつて、史学家を自負してゐる人がゐた。而しよくも勉強をしてゐた人であつたから、町会では純情の人だけにうるさい。物の理解方が、僕等とは少し違つてゐたから、納得することが出来ないとカンカンにおこる。調子が激越して、口角泡を吹くやうになると大変、僕も亦余りの度々のことであるから、大声を発して反撃してやると、決然席を蹴つて帰つて仕舞ふ。帰つてからが大変で、日本刀を出して海老澤を斬るといつて意気巻いたと言ふ一トくさりがあつたが、一度も斬りに来る事がなかつた。それからもう一人、誰であつたか、その人の名を忘れたが、この人も亦町の有力者で、私には好意ある人であつた。この人も日本刀を磨いて、海老澤を斬るといふ騒ぎになつた、町長のことであるから、目白警察署でも捨ててはおけず、毎日三人昼夜交替に護衛に来て、泊まつて行つた。
  
 海老澤了之介は「忘れたが」と書いているが、町の有力者の名を忘れるはずがない。ここで留意したいのは、もともと裕福な農家であり明治以降は一帯の地主になる街の“有力者”たちが、みな先祖から受け継いだ刀剣を所持していることだ。刀剣を所持していたのは武家だけでなく(そのような錯覚Click!を植えつけたのは時代劇だろう)、町人や農民(近郊農民は鉄砲Click!まで)も所有していたことを改めて確認しておきたい。
 1932年(昭和7)に東京35区制Click!が敷かれるとき、区名をなににするかで豊島区も3つの区名で争っている。高田町は、西巣鴨町と長崎町を併せて「目白区」にすることを主張し、巣鴨町はなぜか瀧野川町を仲間はずれにして、高田・西巣鴨・長崎を併せて「巣鴨区」にしたいといいだした。
 この時点で、山手線の目白駅Click!ができたことにより、「目白」Click!の概念が小石川町(現・文京区)の目白(目白不動のあった関口や目白台の地域)から、大きく西へズレはじめていたのが判然としている。また、巣鴨町が高田町といっしょになることに抵抗感がないのは、高田町内に巣鴨町の代地がいくつか点在していたからだろう。さらに、西巣鴨町は池袋町といっしょになって「池袋区」を主張している。
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 「目白区」と「巣鴨区」「池袋区」が三つ巴になって争ったが、いずれの名称にも決まらずに旧・郡名でもあり、豊島氏の故事にちなむ無難な「豊島区」に決定したのは、区名に関する町同士の争いや遺恨を、後世に残さないようにするためだったのだろう。誰かが再び、「斬ってやる!」などと刀を急いで研磨Click!にかけることのないように…。

◆写真上:目白通りに面し、1932年(昭和7)まで存在した高田町役場跡の現状。
◆写真中上は、1932年(昭和7)5月10日の高田町議会で中央奥に立っているのが高田町最後の町長・海老澤了之介。は、晩年の海老澤了之介()と早大哲学科時代に同窓だった石橋湛山(右)。は、昭和初期に撮影された改修工事前の弦巻川(鶴巻川)。
◆写真中下は、昭和初期の大恐慌で増えつづける失業者対策も兼ねた弦巻川の暗渠化工事。は、人が立って歩けるほど巨大な弦巻川の暗渠トンネル。は、戦後の1954年(昭和29)に撮影された弦巻川湧水源の丸池(成蹊池)。
◆写真下は、根津山道(現・グリーン大通り)の開設記念写真。左から2人めが、高田町に3,000坪以上の土地を寄附した根津山の所有者・根津嘉一郎で、4人目が町長の海老澤了之介。は、1931年(昭和6)からスタートした根津山の下水道工事。は、同年から行われ1933年(昭和8)までに竣工した旧・神田上水の改修工事。左側に写る火の見のような櫓状の構造物は、江戸友禅・小紋や藍染めなど染め物の干し場。

記事中にも「男の約束」が登場していますが、別に「男」に限らず女性でも約束をたがえられたら怒るでしょう。『さよなら・今日は』のDVD化を願って、今回の“予告編”は1974年(昭和49)1月12日(土)に放映された第15回「男の約束」です。いつもは新聞記者か刑事役が多い鈴木瑞穂が、めずらしく下落合の地主役で登場しています。加東大介の演技も懐かしいですが、すでに前年から出演していた山田五十鈴が、第15回から準レギュラーとして毎回登場するようになります。
 「父親の作品を処分」とか跡地にマンション建設とか、やたら下落合ではリアルな台詞が多いのも印象的です。w この回、一作(原田芳雄)は仙台へ子供の母親探しで旅行中、冬子(大原麗子)は正月に信州へ帰省しているためアトリエには不在で、「鉄の馬」を切り盛りしているのは緑(中野良子)ということになっています。「下落合の高台に君臨する仁王様」の日記が、緑によって書かれるのもこの回でした。いつも下痢気味で、あわててトイレへ駆けこもうとする高橋清(緒形拳)の情けない表情からスタートします。
Part01
Part02
Part03
Part04
Part05
Part06
Part07
Part08
Part09
Part10
Part11
Part12
Part13
Part14

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中村彝が見ていたカルピスのある風景。 [気になる下落合]

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 1919年(大正8)7月7日七夕の日、カルピスClick!は全国でいっせいに発売された。カルピスが誕生したのは、酵素の一種とみられる「醍醐素」に、砂糖を混ぜて放置していたのが自然発酵した偶然の産物だった。それを味わった開発者は、美味に驚いて商品化を企画している。偶然に自然発酵した「カルピスの素」は、なんの素材をもとに具体的にどのような手順で、何時間かけて発酵させれば美味しくなるのかがまったく不明だった。それを改めて検証する作業に、R&Dの担当者は膨大な試行錯誤を繰り返したようだ、
 中村彝Click!が初めてカルピスを口にしたのは、翌1920年(大正9)4月ごろに新宿中村屋Click!相馬愛蔵Click!がプレゼントしたのが最初と思われるので、発売から1年もたたずに味わっていることになる。以来、彝はカルピスが病みつきになり、1924年(大正13)12月に死去するまで愛飲しつづけたようだ。カルピスの「カル」はカルシウム、「ピス」は仏教の「熟酥(じゅくそ)」すなわち「サルピス」からとって命名されている。仏教へ帰依していた同社専務の三島海雲は、カルピスの命名について次のように書いている。
 1989年(平成元)出版の、『70年のあゆみ』(カルビス食品工業)から引用してみよう。
  
 「カルピスという名前が、いかにも清涼飲料水らしいとよく人にほめられる。カルピスの『カル』はカルシウムから、『ビス』はサンスクリット語からとった。仏教では、乳・酪・生酥・熟酥・醍醐を五味と言い、醍醐をサルピルマンダ、塾酥をサルピスと言う。五味の最高位は醍醐だから、ほんとうはカルピスではなく、カルピルでなければならないのだが、それではいかにも歯切れが悪いので、私はカルピスにしようと思っていた」(『長寿の日常記』)/すべてのことに関して、常にその道の一流の専門家の意見を聞くことにしている海雲は、この命名のときも、音楽家として著名であった山田耕筰と、サンスクリットの権威であり浄土宗では生きた宝とまでいわれた渡辺海旭に相談した。
  
 発売とほぼ同時に、カルピスは大正期を通じて空前の大ヒット商品となっている。今日のように製造過程まで含めたオートメーションの生産ラインがあるわけではないので、すべてが地道な手作業による生産体制だった。
 発売の年には、すでに日本全国ばかりでなく、中国の大連や上海にまで販売代理店を設置している。つまり製品の売れ行きを探りつつ、国内で実績を積んだあと海外へ進出するのではなく、発売とほとんど同時に製品の海外展開を試みた、大正期の企業としてはカルピスは稀有な存在となった。その好調な売れ行きを記録している様子を、同書収録の1919年(大正8)12月に出された第5回の営業報告書から引用してみよう。
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 カルピスは醍醐味、醍醐素の身代りとして7月7日より発売致しました。本品は意外の好評を博しまして、前途好望の兆候を示しております。本品の販売に付きましては、斯界のオーソリチーと称せられて居りまする東京日本橋詰國分商店を以て関東販売元となし、大阪祭原商店を以て関西一手発売元と致しました。其他、大連市の矢中商店、上海の松下洋行を以て各其地方の一手発売元と致しました、何れも非常の意気込を以て着手して居る模様であります。其活動の反響は大正9年2、3ヶ月以後にあると予想致して居ります。
  
 同年12月の時点で、卸売り店を招いての販促会が開かれているが、当初は15~16名(社)が参加していた。ところが3ヶ月後、翌1920年(大正9)3月の集会では35名(社)、翌1921年(大正10)2月には40名(社)以上、そして同年4月には50名(社)以上と、順調に業績を伸ばしているのが見てとれる。
 売り上げも好調に推移し、1926年(大正15)の売上高は発売時の18倍に達し、半年ごとの売上高計算では1925年(大正14)上期と1919年(大正8)下期とを比較すると、実に36倍という伸び率を記録した。当然、手作業による生産が追いつかず、市場にカルピスが行きわたらない欠品状態まで生じている。事業責任者である専務の三島海雲は、原液の製造工程を自動化して品質を低下させず、すべて人海戦術で乗り切ろうとしている。当時のカルピスは、次のような手順でつくられていた。
 ①乳酸菌および酵母を種菌として脱脂乳を培養してつくったスターターを、あらかじめ加熱殺菌した脱脂乳に加える。
 ②それを、木製の発酵槽の中で一昼夜乳酸発酵させて、酸乳をつくる。
 ③でんぷん糖化液(水飴)を乳酸発酵させた液に炭酸カルシウムを加えて得られる粗結晶の乳酸カルシウムを、酸乳に加える。
 ④この酸乳に砂糖を十分溶解させ、熟成発酵させる。
 ⑤オレンジとレモンの皮からしぼったオイルを原料とする天然香料を加えて仕上げ。
 カルピスの売り上げが記録的に伸びたのは、先述のように1925年(大正14)のことであり、1923年(大正12)9月の関東大震災Click!をはさんだ復興期のことだ。このとき、首都圏ではカルピス人気が沸騰する要因をつくったエピソードが語り継がれている。
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 三島海雲は、大震災のとき東京府北豊島郡の向山町(現・練馬区向山)にある本社にいたが、市街地に比べ揺れが弱かったのか幸い本社社屋は無事だった。そこで、残暑がつづく炎天下に氷と希釈用の水を用意し、焼け野原の市街地へトラックで運んでは、被災者にカルピスを配ってまわった。当時の様子を、同書から引用してみよう。
  
 私は工場にあった木樽十数本に入っているカルピスの原液を全部出させ、金庫のあり金2,000円余を全部出して、この費用に充てた。そして、翌2日から私自身もトラックに乗って被災地を回り、原液が無くなるまで配り続けた。震災後の数日は焼けつくような暑さだったから、私のトラック隊は、行く先々の避難所で大歓迎を受け、感謝された。大阪毎日の記者が、震災第一報で私のトラック隊のことを取り上げた。このとき、私には宣伝しようなどという気持はミジンもなかった。しかし、結果として、カルピスは全国に知られることになった。のちに『あのときのカルピスの味が忘れられない。私はカルピスのためになんでも協力しますよ』という人が官界にも民間にも幾人も出てきた。
  
 幕末に彰義隊と靖共隊を助(す)け、大江戸びいきだった亀甲萬(キッコーマン)の茂木七郎左衛門Click!ではないけれど、このような義侠を江戸東京人は忘れない。カルピスは同年、営業的には大打撃をこうむるが、首都圏のマーケットは義理がたく震災後もカルピスを選んでは飲みつづけた。そして、ようやく復興のきざしが見えた1925年(大正14)、カルピス人気はおもに東日本で爆発し、空前の売り上げを記録することになる。発売から4~5年で、これほどの大ヒットを記録した商品は、地震に備えた保険商品や焼け跡復興用の住宅建材の需要を除けば、大正期を通じてほとんどない。
 中村彝も目にしたであろう「初恋の味」のキャッチフレーズは発売の翌年、1920年(大正9)にすでに発案されている。だが、カルピスは子どもから老人まで飲む飲料なので、当初、三島専務は「恋」という表現にターゲティングのズレから難色をしめした。社内の宣伝部にも、慎重論が多かったという。だが、1922年(大正11)4月には、このキャッチを採用した新聞広告を東京日日新聞に出稿している。
 ところが、警察から「色恋は社会の公序良俗を乱すことなので、白日のもとで口にすべき言葉ではない」という、今日からみれば信じられないようなオバカな理由でクレームが入った。だが、当時は大正デモクラシーの時代なので、「初恋の味」のキャッチはまたたく間に全国へ拡がり、実質的に警察当局が表現を規制することができなくなってしまった。以来、約100年間にわたり同キャッチフレーズはカルピスのみならず、企業全体のショルダー的な位置づけとして今日までつづいている。
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 同社が「初恋の味」広告を出稿したのと同年、1922年(大正11)10月に「帝展の入選者、九分はカルピス愛用家」というキャッチフレーズの新聞広告を出稿している。中村彝(当時は帝展審査員)は、確かにカルピスの大ファンだったが、ほかの帝展への入選画家たちも愛飲していたのだろうか。「九分」は90%の意味だが、三島海雲のことだから無作為で選んだ帝展の画家たちへ、試供品とともにアンケート調査を実施している可能性が高い。それとも、だいたいの感触でつくってしまった、裏づけのないキャッチだろうか。大正期のカルピス広告を見ていて、ニヤリとさせられたフレーズだ。

◆写真上:1919年(大正8)7月7日に発売された初期のカルピスは、七夕らしく「ミルキーウェイ(天の川)」をデザインした紺地に白の水玉模様の包み紙だった。
◆写真中上上左は、1922年(大正11)に上野で開催された平和記念東京博覧会Click!に出店したカルピス館。上右は、1924年(大正13)に勝山分工場の視察で撮影された記念写真の三島海雲(左端)。は、発売最初期型の箱に入れられたカルピス。は、1922年(大正11)4月に初めて「初恋の味」のキャッチフレーズを採用した新聞広告。
◆写真中下は、カルピスのポスターやブリキ看板などPOP類。は、1923年(大正12)6月に制作された新聞広告で、以後「初恋の味」のキャッチが定着する。
◆写真下は、1922年(大正11)10月制作の帝展画家は「九分はカルピス愛用家」広告。は、1924年(大正13)2月に制作された馴染み深いシンボルマークの広告。

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落合第四小学校の開校記念写真。 [気になる下落合]

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 先日、資料を整理していたら、めずらしい写真を見つけた。1932年(昭和7)4月に設置された落合第四尋常小学校Click!の開校時を含む、戦前に撮影された写真が載った冊子だ。掲載されていたのは、2002年(平成14)に発行された『落四のあゆみ/開校70周年記念誌』だ。以前、堀尾慶治様Click!がお持ちの1941年(昭和16)卒業アルバムClick!に掲載された写真をご紹介しているが、開校直後に撮影されたとみられる画面は、それより9年前の写真ということになる。
 まず冒頭の写真は、1932年(昭和7)の開校から間もない時期に撮られた写真で、西側の校舎ぎわから校庭で体操する生徒たちを撮影したものだ。南(右手)へと下る相馬坂の向こうには、相馬孟胤邸Click!の敷地内にあたる御留山Click!がきれいに見えている。ちょうど正面やや右手が、現在のおとめ山公園で四阿(あずまや)が設置されているピークにあたる。校庭の右端に見えている、斜めの棒のようなものは低学年用に設置されたすべり台の一部だ。左に見えている校庭掲示板のさらに左側に、相馬坂から校庭へと入る校門がある。
 写真は、陽射しの方角と人物たちの影から朝礼風景だろう、校庭に集合する生徒たちをとらえたものだ。校庭の中央あたりから“「”字型の校舎の角のほうへカメラを向けてシャッターを切っている。おそらく開校後間もないころと思われ、“「”型校舎の角に大型拡声器(スピーカー)がいまだ設置されていない。また、画面左側の校舎前に植えられたヒマラヤスギの丈が小さく、教室1階の窓をいまだ越していない。
 写真は、高学年の授業風景を撮影したものだ。写真が粗すぎて、黒板の白墨文字が読みとれないが、「〇〇〇〇の長所短所」と書いてあるように見えるので社会科の授業だろうか。写っているのは男組で生徒数は多く、確認できるだけでも35人ほどが写っている。画面左の枠外、窓側に座る生徒たちを含めると、1クラス45~50人ほどになるだろうか。まだ1932年(昭和7)ごろの教室なので、教壇の横に「一億一心」とか「これからだ/出せ一億の底力」といった、戦時標語Click!のポスターは貼られていない。
 写真は、落合第四尋常小学校の開校時から少したって撮影された、“「”字型校舎の角にあたる部分だ。ヒマラヤスギの丈が伸び、校舎の角には大型拡声器(スピーカー)が設置されている。花壇も設置されたのか、ヒマラヤスギの下には白い垣根が見えているが、昇降口の右手に生えていた樹木がなくなっている。代わりに土が掘り返され、新たに花壇を造ろうとしているようだ。ちなみに、9年後に撮影された1941年(昭和16)の卒業アルバムには、校舎の角に写る大型スピーカーが見えない。近隣から苦情がでて、少し小型の四角い野外スピーカーに付け替えたものだろうか。
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 少し余談だけれど、落合第四小学校のチャイムの音が、1990年代に入ってからほとんど聞こえなくなった。おそらく、ご近所から「うるさい!」といわれて、だんだんボリュームを下げていった結果だろう。1970年代には、かなり遠くまでチャイムの音が響いていたし、近隣の家々では窓を閉め切っていたとしても落四小のチャイムClick!は聞こえたはずだ。そのチャイムの音と時間で、「そろそろお昼か」とか「ああ、もうそんな時間か」とか、生活のサイクルをまわしていた方も少なからずいたにちがいない。
 きっと、落合第二尋常小学校Click!のスピーカーから流れる童謡に腹を立てていた宮本百合子Click!のような人がいて、学校に申し入れをしたのではないだろうか。確かに文章を考えているとき、「チーチーパッパ」が大音量で流れてきたら、わたしも家から逃げだして喫茶店にでも避難するだろう。また、なにか作曲中の音楽家の方にしてみれば、たまったものではない。運動会が近づくと、落四小では下落合一帯の住宅へ運動会の行事用にスピーカーから音楽を流すから、あらかじめ「ご了承ください」というようなチラシを撒くようになったので、よほど気をつかっているのがわかる。
 次の写真は、1937年(昭和12)に校庭の崖下へプールが完成したときの記念写真だ。男組と女組と思われる2クラスが写っており、右手の崖上に校庭が拡がっている。プールの背景(西側)には、大倉山(権兵衛山)Click!の山麓の緑がとらえられているが、この時期の大倉山はほとんど宅地開発がなされておらず、いまだ権兵衛坂Click!も存在していない。斜面には濃い樹林が繁り、山頂のあたり一帯には草原がひらけ、大倉山の神木だったカシの巨木Click!も、大きな枝を拡げていただろう。かろうじて山頂の北側には、テニスコートと数戸の小さな建物が確認できる程度だ。また、写真にとらえられた背景の林のさらに西側(正面左手)には、落合キリスト伝導館(旧・基督伝導隊活水学院Click!)の大きめな建物があるはずだが、樹林が濃くて建物のかたちを確認できない。
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 『落四のあゆみ/開校70周年記念誌』では、1941年(昭和16)の日米開戦から学童疎開Click!、空襲の様子なども伝えている。同誌から、少し引用してみよう。
  
 戦争はますます激しくなり、東京の町にも空襲があり、たくさんの爆弾が落とされるようになりました。昭和19年、4年生以上の子どもたちは、空襲をさけて学童疎開をしました。第1次として266名が、茨城県西茨城郡西山内村の西念寺などに出発しました。その翌年には、第2次として、群馬県佐波郡芝根村の常楽寺(42名)・法連寺(27名)などに疎開しました。茨城県に疎開していた児童は、県下の空襲が激しくなり、後に群馬県の疎開先に合流しました。/疎開中は、お寺で寝起きしたり、勉強したりしました。食べ物や薬さえ不足し、がまんばかりのきびしい生活でした。/下落合もたびたび空襲を受け、多くの家屋が焼けました。/落合第四小学校の校庭にも爆弾が落ち、炎が上がりましたが、当時校舎を使用していた警視庁警備隊や、地域の人々の協力で消し止められ、校舎は焼けずにすみました。
  
 もし校庭に250キロ爆弾でも落ちたら、爆風で下見板張りの脆弱な校舎は相当なダメージを受けたと思われるので、消火が必要だったのは焼夷弾だろう。
 さて、戦時中の記述に添えられた写真のキャプションが、ちょっとおかしい。まず、「戦争当時のまちの様子」として紹介されている写真だが、これは1928年(昭和3)の冬(おそらく雨量換算で50.3mmの大雪が降った2月14日の数日後)、1926年(大正15)に練馬Click!へ移転した目白中学校Click!の広大な空き地から、目白通り方面の商店街を撮影した写真Click!だ。いまだ大正期の姿を残した目白通りの様子で、1928年(昭和3)の時期を「戦争当時」とはいわないだろう。ちなみに、日米開戦当時の1941年(昭和16)には、目白通りの拡幅も済み、目白中学校の跡地にはすでに家々が建ち並んでいる。
 また、空襲による「焼けあと」として紹介されている写真だが、これは1966年(昭和41)7月15日に「落合新聞」Click!竹田助雄Click!が撮影した写真で、下落合2丁目829番地(現・下落合4丁目)で宅地造成中のパワーショベルの土に人骨が混じり、驚いて作業を中止した建設会社のスタッフたちが写っている。つまり、下落合の横穴古墳群Click!が発見された瞬間で、戦争や空襲とはまったく関係のない写真だ。(爆!) 写真へ半円とともに書きこまれた2・3・4の白い数字は、第2号墳から第4号墳までの位置を示しており、写真の出典は新宿区教育委員会の報告書か、調査を担当した早稲田大学の資料だろう。
 落合第四小学校はそろそろ90周年も近いので、また『落四のあゆみ』のような冊子を制作するのであれば、上記2点の写真はぜひ差し替えていただきたい。
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 最後に、もうひとつ気になったのは画家の西原比呂志が描いた挿画だ。『落合翠ヶ丘』というタイトルで、おそらく縄文時代をイメージして描いていると思われるが、土器の表現を除いて、これではプレ縄文期の旧石器時代人のイメージだ。前世紀の三内丸山遺跡の発掘以降、次々と新たな発見により縄文時代のイメージが大きくくつがえり、稲作も含め弥生時代との区別が曖昧になりつつあるので、縄文人=槍を振りまわす「ウッホウホホの原始人」(それにしては、やたら高度で芸術的な土器を焼くアンバランスな人々w)のような、子どもたちに誤解を与える表現は避けるべきではないだろうか。

◆写真上:1932年(昭和7)の開校から間もないころ、校庭で撮影された体育授業。
◆写真中上は、朝礼時に撮影された1葉。は、開校当時の授業風景。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる落合第四尋常小学校と撮影ポイント。すでにプールは竣工していた時期なので、「火保図」の採取ミスと思われる。
◆写真中下は、大きな拡声器が取り付けられた校舎。は、1937年(昭和12)に校庭下へ設置されたプールの記念写真。は、キャプションがおかしい写真2葉と、「焼けあと」の全景写真である1966年(昭和41)7月15日に竹田助雄が撮影した下落合横穴古墳群の発見現場。左手に、人骨を掘りあてたパワーショベルが写っている。
◆写真下は、1936年(昭和11)に撮影された落四小でプールはまだ設置されていない。は、1945年(昭和20)5月17日にB29偵察機から撮影された落四小。同年4月13日夜半の空襲で、周囲の延焼が確認できる。は、2002年(平成14)の開校70周年のときに撮影された空中写真。同小学校のプールは、落合第四幼稚園の屋上に移設されている。

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交叉する中村彝と清水多嘉示。 [気になる下落合]

清水多嘉示1.jpg
 このサイトの記事では、清水多嘉示Click!の名前はすでに登場している。それは中村彝Click!がらみテーマではなく、佐伯祐三Click!がテーマの彫刻家・陽咸二Click!をめぐる物語Click!の一部においてだった。二度めの帯仏中、ヴィル・エヴラール精神病院で死去した佐伯祐三のデスマスクClick!をとろうとする際、日名子実三とともに清水多嘉示が制作依頼者の名前として挙がっている。
 デスマスクの制作は、清水多嘉示と同じアパートに住んでいた佐伯米子Click!から依頼されたものだが、ほぼ同時に山田新一Click!も佐伯のデスマスク制作を日名子実三へと依頼している。だが、ついに佐伯のデスマスクは制作されずじまいだった。このエピソードから、清水多嘉示はパリで佐伯祐三の周辺にいた彫刻家のイメージが生じ、後年の仕事も彫刻がメインだった関係から、中村彝との深い関係を見落としていたのだ。清水多嘉示は、1917年(大正6)に岡田三郎助Click!藤島武二Click!が設立した本郷洋画研究所で学ぶかたわら、中村彝に師事して下落合のアトリエを頻繁に訪れている。
 最初に下落合の彝アトリエを訪れたのは、1917年(大正6)6月23日(土)だった。東京気象台によれば3日も降りつづく梅雨の中、ようやく小降りになった泥道を歩きながら訪問するのはたいへんだったろうが、それほど清水多嘉示は彝に会いたかったらしい。下落合464番地の林泉園Click!の丘上に彝アトリエが完成してから、ほぼ1年後のことだ。だが、このとき中村彝は外出中で不在だったため、会えずにそのまま帰っている。当時、毎日あるいは隔日で通っていた、歯医者に出かけて留守だったのかもしれない。この時期の清水多嘉示は、彫刻家ではなく洋画家をめざしていた。彝アトリエを訪ねるきっかけとなったのは、前年1916年(大正5)の秋に開かれた第10回文展で展示されていた、彝の『田中館博士の肖像』Click!を観て感動したからだった。
 つづいて、同年6月28日(木)に再び彝アトリエを訪ね、ようやく彝に出会えている。この日も、午後から雨が降る梅雨らしい不安定な天気だった。それ以降、1923年(大正12)3月に日本郵船の諏訪丸でフランスに渡るまで、清水多嘉示は頻繁に彝アトリエを訪問していた。清水は中村彝を訪ねるたびに、自身が描いた静物画や肖像画、風景画などを見せ講評を仰いでいる。また、ときにはカリンの果実や缶詰をお土産に持参していたようだ。昔から、カリンは身体の免疫力を高める果物として知られており、彝が罹患している結核の病状を気づかってのことだろう。
 清水多嘉示が登場する中村彝の書簡を、1926年(大正15)に岩波書店から出版された『芸術の無限感』から、いくつか引用してみよう。
  
 (大正九年)八月丗日 下落合四六四/越後柏崎四ツ谷 洲崎義郎様
 来月一日から愈、院展二科が始まります。院展の「ルノアール」は大さ十二号と八号位の商品ださうですが、それは実に素敵なものだ相です。今年は友人連が余り出品しないので物足らないが、それでも院展へ耳野(卯三郎)君、二科へ清水(多嘉示)と瀬澤とが通りました。
 (大正十年)十一月十五日 下落合四六四/長野県諏訪郡平野村新屋敷 黒澤久乃様
 その後いゝ絵が御出来になりましたか。清水(多嘉示)君は勉強して居られますか。
 (大正十一年)九月十日(?) 下落合四六四/越後柏崎四ツ谷 洲崎義郎様
 自分の病にのみかまけて大へん御無沙汰をしました。その後御変りありませんか。鶴田(吾郎)君や、曾宮(一念)君や、(鈴木)金平君の兄さん達が上つて大分賑かだつた相ですね。御上京は何時頃になりますか。上野の二科には曾宮君が一枚と清水(多嘉示)君が一枚出して居ます。(カッコ内引用者註)
  
 清水多嘉示の作品が二科展に初めて通ったのは、1919年(大正8)の第6回二科展に出品した『風景』と『カルタ』の2作品だった。
中村彝封筒1.jpg
中村彝封筒2.jpg
中村彝1.jpg 中村彝2.jpg
 ときに、清水多嘉示は彝アトリエへ長時間とどまり、周辺の風景をスケッチしていた様子をお嬢様である青山様からうかがっている。青山様によれば、「崖地が描かれている画面」もあるということなので、おそらく彝アトリエ前の桜並木の下、林泉園(明治期には近衛家Click!落合遊園地Click!)の谷戸が描かれているのではないかと思われる。
 大正中期における下落合(現・中落合/中井含む)の東部といえば、東京が関東大震災Click!にみまわれる前の風情で、明治期からの別荘地だった雰囲気が色濃く残る光景だったろう。華族やおカネ持ちの大きな屋敷が、森の間に距離をおいて見え隠れするように建ち並んでいただろうが、目白文化村Click!近衛町Click!の開発計画はいまだ手つかずの時期だ。青山様のお話では、彝アトリエを訪れていた時期に描いたとみられる風景画が何点か残っているそうなので、もし機会があればこちらでもご紹介したいと考えている。
 さて、清水多嘉示は本郷洋画研究所の指導がつまらなかったらしく、故郷である長野県諏訪にもどり東京へ勉強に出る以前は、岡谷尋常小学校代用教員の図工教員になっている。1918年(大正7)のことで、清水多嘉示が20歳のときだ。その後、1919年秋には諏訪高女の美術教師になってからも清水は機会があれば彝アトリエを訪問しつづけ、1919年(大正8)の夏には彝が転地療養Click!している茨城県の平磯海岸まで出かけている。このときも、数多くの自作を携えて広瀬家の別荘を訪問し、そのまま彝とともに別荘へ泊まっている。
 ここで留意したいのは、中村彝が文展(帝展)や二科の画家を問わず、同等に接している点だろうか。現代でさえ、そのようなワク組(というかセクト主義的な垣根)はよく聞かれるけれど、国が主催する文展(帝展)は同展に出品する画家同士が親密に交流し、アンチ・アカデミズムの二科は文展(帝展)を睨みながら在野の画家仲間で交流する……というのがあたりまえの時代だった。ところが、中村彝はこの垣根をまったく意識していないように見える。ただし、二科の画家たちに対しては草土社Click!の仕事と同様に、手紙の文面などで辛辣な言葉を浴びせているが……。
 中村彝のもっとも身近にいた画家のひとり、曾宮一念Click!も文部省の展覧会とは無縁な二科の画家だった。1919年(大正8)8月29日、清水多嘉示のもとには二科入選の祝いのハガキが中村彝からとどいている。もう少し時代が下った、たとえば大正末から昭和初期にかけて活躍した画会の代表的な存在である1930年協会Click!を見れば、帝展や二科などの会派を問わずに画家たちが参集して制作しているが、大正前・中期の段階では中村彝の垣根を意識しないフレキシブルな感覚は、めずらしかったのではないだろうか。
 その後も、清水多嘉示は彝アトリエを訪ねつづけ、中村彝の庭で彝のポートレートを写真撮影をしたり、1920年(大正9)9月1日には彝と連れ立って俥(じんりき)で下落合から上野まで出かけ、二科展と院展を鑑賞している。また、彝は清水多嘉示をよほど気に入っていたものか、1921年(大正10)11月には訪問した彼に、1915年(大正4)制作の『自画像』をプレゼントしている。そして翌1922年(大正11)には、清水多嘉示の主宰により中原悌二郎Click!と中村彝の「作品展」を、故郷である長野県の諏訪高等女学校(現・諏訪二葉高校)講堂(2月5~10日)と、松本女子師範学校(2月11~12日)の2ヶ所で開催した。
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 このあと、清水多嘉示はフランス留学を計画し、そのとき勤務していた諏訪高等女学校の美術教師の後任について、中村彝と曾宮一念に相談している。その結果、両人の推薦したのが彝の弟子のひとりである宮芳平Click!だった。ちなみに、中村彝の没後に宮芳平を菅野女学校の美術教師へ推薦したのも曾宮一念Click!だ。こうして、1923年(大正12)3月に清水多嘉示はフランスへ向けて出発していった。
 さて、前出の『芸術の無限感』にはたった1通だけ、フランスの清水多嘉示にあてた彝の手紙が掲載されている。1923年(大正12)の秋に書かれたものだが、1928年(昭和3)まで帰国しない清水多嘉示あての手紙が、なぜ1926年(大正15)に出版された『芸術の無限感』に収録されているのか不思議だが、ひょっとすると同書の編集委員だった鶴田吾郎Click!か曾宮一念が、フランスに手紙を書いて公開してもいい彝の手紙があれば返送してほしいと、清水に依頼しているのかもしれない。
 清水に「タピ」=タペストリーを送るよう依頼する、中村彝の手紙を引用してみよう。
  
 (大正十二年)秋 下落合四六四/仏蘭西 清水多嘉示君
 向ふへ行つてからの君が至極達者であるといふこと、ブルデル氏について傍ら彫刻を学び、着実な勉強をつゞけて此頃は大変いゝ絵をかきつゝあるといふことを、野田(半三)君から聞いて大いに喜んだ。どうか時代の浮薄な風潮に溺れず、芸術の本質的価値に対する慧眼と、深い内観による正しい技巧を獲得して帰つて来て呉れ。(中略) 多分君も今年の二科の画集は見たことだらうと思ふが、あれは全く国辱のやうな気がして仕方がない。(中略) さて別封の為替百円は、これで何か静物や人物画のバック等に用ゆべきタピの類で(中略)ごく安物で、比較的気持ちの悪くないものを古でいゝから仕入れて欲しいのだがどうだらう。馬越(舛太郎)君と相談して散歩のついでにでも目に止つたものをいゝ加減に買つて呉れゝばそれで結構だ。御忙しい処をほんとに御気の毒だが、なるべく早く送つてくれ。それでないと僕の寿命が長くは待ち切れさうもないから……余り吟味せずに、どんなのでもいゝからなるべく早く、ナルベク。(カッコ内引用者註)
  
 とりあえず、二科の清水多嘉示が日本を離れて留学したせいか、二科展の作品群はさっそく「国辱」ものにされてしまったが、彝の死後に第12回二科展(1925年)で『冬日』Click!『荒園』Click!、『晩秋風景』の3作品で樗牛賞を受賞Click!し、中村彝アトリエで記者会見Click!を開いた曾宮一念は、この手紙をどのような想いで見ていただろうか。
中村彝手紙.jpg
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タペストリー1.jpg タペストリー2.jpg
 中村彝の文面からは、フランス製のタペストリーを1日でも早く入手したがっている様子が、悪化する自身の健康状態に対する焦燥感とともにストレートに伝わってくる。彝は、「何か静物や人物画のバック等」と書いているので、タペストリーはまちがいなく壁ないしはドアに架け、モチーフのひとつとして描きたかったのだろう。このとき、中村彝の頭の中にあったタペストリーのデザインは、幾何学模様だったのか絵画調の作品だったのかはさだかではないが、絵柄についての言及がいっさいないところをみると、清水多嘉示とは事前にデザインについて打ち合わせ済みだったような気配がする。それは、この手紙のひとつ前に出された手紙の中で、触れられているテーマなのだろうか。

◆写真上:パリのサロン・ドートンヌで、洋画と彫刻が同時入選した画室の清水多嘉示。
◆写真中上:1923年(大正12)12月22日のスタンプが押された、中村彝からパリの清水多嘉示あてに出された手紙で宛名書き()と差出人名()。は、清水多嘉示が彝アトリエの庭で撮影した中村彝。の籐椅子に座る写真はめずらしいが、の芝庭に立つ彝の写真は『芸術の無限感』に収録されている。
◆写真中下:清水多嘉示が彝アトリエ近くで描いたと想定できる、湧水池のある林泉園の斜面(/提供:堀尾慶治様Click!)と林泉園からつづく渓流沿いの近衛町斜面(/提供:酒井正義様Click!)。は、フランスからの帰国後に帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)の教師時代の清水多嘉示(中央)。
◆写真下は、1923年(大正12)12月22日消印の中村彝から清水にあてた手紙。は、鈴木誠アトリエClick!時代のドアの1枚()と、1925年(大正14)2月におそらく下落合1443番地の木星社Click!福田久道Click!によって撮影されたアトリエ西側のドア()。は、ヨーロッパのタペストリーに多い幾何学模様デザイン。
掲載されている清水多嘉示の資料類は、保存・監修/青山敏子様によるものです。

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大倉山の神木と権兵衛坂の「牟礼田邸」。 [気になる下落合]

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 下落合にある氷川明神社Click!の少し東側から上る、権兵衛坂(大倉坂)と呼ばれる急坂には、十返千鶴子Click!が「御禁止山の神木」と名づけたカシの老木が生えていた。だが、戦前の一時期まで大倉財閥が所有していたこの山は、地元では名前がないので「権兵衛山」あるいは「大倉山」と呼ばれていたので、正確には「大倉山(権兵衛山)の神木」と表現するのが正しいのだろう。御留山Click!(御禁止山)は160mほど東へ寄ったピークを中核とする一帯であり、1939年(昭和14)までは相馬孟胤邸Click!の敷地内にあった。
 当然ながら十返千鶴子も、「大倉山」という呼称を知っていたが、竹田助雄Click!の「落合新聞」へエッセイを寄稿するにあたり、彼の記事で「御禁止山」という文字を頻繁に目にしていたせいか、あえて「御禁止山の神木」としているのかもしれない。1966年(昭和41)11月30日に発行された「落合新聞」の、十返千鶴子『御禁止山の神木』から引用してみよう。ちなみに、同エッセイの挿画は佐伯米子Click!が担当している。
  
 わたしの家の入口にそって大きな樫の老樹がある。ここに家を建てて住んだ十年ほど前には、この樫も、樹齢二〇〇年くらいと推定される大木の貫録をみせて、亭々と聳えたつ梢のさきに、神々しいまでの威厳をただよわせていた。/このあたりは、落合秘境と地つづきの南斜面で、地もとの人には大倉山という名で呼ばれている、木々の多い場所である。ほんらいは、御禁止(おとめ)山の一部らしいのだが、もと大倉家の所有地であったために、その名で呼ばれているようだ。/それはさておき、ここに家を建てた当時は、今よりももっと木立が深く、樹齢一〇〇年は降らないと思われる樅の木や、枝ぶりのよい松林などで、昼なお暗い、うっそうたる坂道だったものである。その中でも、わたくしの家のまん前にそそりたつ樫の大木だけは、ひときわ高く、誇らしげにその梢を大空に拡げきって、堂々たる威容をみせていたのである。/「あの樫だけは、この大倉山の御神木ですからね、ぜったいに切り倒したりしてはいけませんよ、祟りがあるからね」
  
 1970年末から80年代にかけ、学生のわたしは権兵衛坂を何度か上下しているが、このカシの老木については特に記憶がない。坂の両側には、いまだ樹木がたくさん繁っていたので、特に印象に残らなかったものだろうか。「十返」という表札は、めずらしい苗字なのでなんとなく憶えている気はするのだが、そこが戦後の十返千鶴子(あるいは十返肇Click!)の自邸なのを知ったのは、もう少しあとの時代だ。
 当時の権兵衛山(大倉山)には、ところどころにケヤキやマツなどの緑がまだまだ多く繁り、息切れがする傾斜の急なバッケ坂Click!だったにもかかわらず、すがすがしくて気持ちのいい坂道だったのを憶えている。ようやく坂を上り終え、七曲坂Click!と合流するあたりからは、北側のやや下った細い路地沿いにヒマラヤスギの大木が見えていた。このヒマラヤスギは、戦前から路地沿いに植えられていたもので、昭和初期にはことに一帯を薄暗く不気味に見せていたと、七曲坂の庚申塚Click!について取材しているとき、堀尾慶治様Click!からもうかがったことがある。
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 その後、カシの「神木」は勢いがなくなり、十返邸の屋根を覆うほどだった枝葉が年々少なくなっていったらしい。このエッセイが書かれた1966年(昭和41)の時点で、幹から分岐した枝が「わずか一、二本残るだけ」になってしまったので、ほどなく枯死してしまったのかもしれない。ただし、この「神木」が存在しなかったとしても、学生時代に歩いた権兵衛坂は住宅の庭に繁る樹木も含め、まだまだ緑が濃かった印象がある。
 ここで少し余談だけれど、佐伯祐三Click!「制作メモ」Click!によれば、1926年(大正15)9月24日に描いた「下落合風景」作品Click!に、「かしの木のある家」Click!というタイトルがある。それに該当しそうな画面は、モノクロ写真で残されてはいるが、いまだどこの丘の風景を描いたのか不明な作品だ。丘の中腹にカシと思われる樹木がポツンと描かれ、丘上に当時は一般的だったふつうの住宅が3軒描かれている。
 十返千鶴子の「神木」エッセイを読んだとき、佐伯の「かしの木のある家」の画面を真っ先に思い浮かべたのだが、残念ながら大正末から昭和初期にかけて、このような風情は大倉山(権兵衛山)には見られない。そもそも、この丘が宅地開発されるのは戦後になってからのことで、戦前には急な斜面に林や原っぱが拡がる“山林”状態のまま、住宅はほとんど1軒も建っていなかった。
 さて、戦後に拓かれた権兵衛坂が通う住宅地を、小説に取り入れて書いたのが中井英夫Click!『虚無への供物』Click!だ。以前にも、権兵衛坂の中腹からの眺めを描写した同作の文章を引用したことがあるが、十返千鶴子のエッセイ『御禁止山の神木』に書かれている風景と『虚無への供物』の執筆は、時代的にほぼ同時期で重なっている。中井英夫は、最終的に「ザ・ヒヌマ・マーダー」を解決する「牟礼田の家」を、権兵衛坂の急峻な斜面に設定している。
 部厚い長編小説『虚無への供物』の中で、「下落合の牟礼田の家」の様子が描かれるのは、全編を通して4ヶ所。白壁の邸で、南を向いてアトリエ風の大きな窓がある家、そして麓の下落合氷川明神社から見上げることができる家という描写はあるが、1950年代末に見られた権兵衛山(大倉山)全体の風情、大樹が多かった木々については特に触れられていない。これは、ある意味では当然といえば当然なのかもしれない。
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 1987年(昭和62)に三一書房から出版された『中井英夫作品集Ⅹ/死』所収の『虚無への供物』より、第二章に登場する「牟礼田の家」の描写から引用してみよう。
  
 高田馬場の駅前から、交番の横の狭い商店街に車を乗り入れ、橋を渡っていくらも行かぬ小さな神社の前で降り立つと、久生は手をあげて、崖の中腹に見えている白塗りの家を指さした。南に向いて、アトリエ風な大きいガラス窓の部屋がせり出し、辛子色のカーテンの傍に、黒い人影が動いている。/「ここからまた、ぐるっと狭い坂道を廻って上ってゆくの。ねえ、ここでならあの“犯人自身が遠方から殺人行為を目撃する”っていうトリックが出来そうでしょう。読まなかった? いつかの『続・幻影城』に出てるの。ホラ、あのカーテンの傍にいるのは藍ちゃんらしいけど、ちょうど顔までは判らなくて、背恰好だけ判るぐらいの距離だから、先に藍ちゃんを殺した犯人が、何かの仕掛をして、ここから他の目撃者と一緒に犯行を見守ればいいってわけ。それにちょっと歩くと、ね、もう隠れて見えないんですもの」
  
 ここには高田馬場駅から栄通り、田島橋、下落合氷川明神社、そして「狭い坂道」の権兵衛坂までの情景が描かれているが、当時は十三間通りClick!(新目白通り)が存在していないので、田島橋をわたり西武線の踏み切りを越えて氷川社の前でクルマから降りるまで、両側には小規模な工場や商店街が並ぶ、やたらカーブの多い細い道筋に感じただろう。氷川社の周囲にも、かろうじて1931年(昭和6)まで下落合駅Click!前だった商店街の風情が残っていた時代だ。また、他の章に書かれた「牟礼田の家」でも同様だが、特に大倉山の斜面に生えた特徴的な「神木」や大木についての描写はない。
 下落合の西部、下落合4丁目2123番地(現・中井2丁目)に住んで『虚無への供物』を執筆していた中井英夫は、おそらく散歩の途中で権兵衛坂を上り、「牟礼田の家」のイメージを膨らませているのだろう。ときに、権兵衛坂が大きくクラックする斜面に建つ、緑に覆われた十返邸の前で足を止めて新宿方面を眺めているのかもしれない。でも、当時の下落合はケヤキやクヌギ、カシ、クスなどの大木があちこちに繁り、権兵衛坂に生えていたカシの老樹や多彩な大木をことさら描写する意味、すなわち当時の下落合ではごく一般的でありふれた目白崖線沿いの風景を、特に描く“必要性”を感じなかったのだ。
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 また、より緑が濃かった下落合の西部に住む中井英夫にしてみれば、権兵衛坂が通う急斜面は下落合ではよく目にする、ありふれた住宅街の一画……ぐらいにしか感じなかったものだろう。もし彼が、大倉山の「神木」についてあらかじめいくばくかの知識を持っていれば、世界じゅうの神話や宗教的な事蹟には敏感な彼のことだから、なんらかの謂れとともに「牟礼田の家」の描写へと取り入れていたかもしれない。

◆写真上:2007年(平成19)に権兵衛坂で撮影した、解体前の十返千鶴子邸。
◆写真中上は、リニューアル工事中の同邸。右手に見える大きな樹木は、戦前から繁っていたホオの木だろうか。は、大倉山(権兵衛山)の山頂界隈。は、「落合新聞」1966年(昭和41)11月30日号に掲載された十返千鶴子『御禁止山の神木』。
◆写真中下は1947年(昭和22)の空中写真にみる大倉山(権兵衛山)、は1963年(昭和38)の十返邸、は1975年(昭和50)の同邸。1963年の写真で、邸の南側に見えていた大樹が1975年の写真では消えているように見える。
◆写真下は、下落合でも有数の傾斜角のある権兵衛坂。中左は、1964年(昭和39)に「塔晶夫」名で講談社から出版された『虚無への供物』の中扉。中井英夫の背後に写る大谷石の塀は、当時住んでいた池添邸の塀の一部だと思われる。中右は、現在も残る長大な池添邸の塀。は、下落合氷川社から「牟礼田の家」の「立ちつくす黒い影」を見上げた『虚無への供物』エピローグの視野と大倉山麓から丘上を見上げたところ。

おまけ:余談だが、1960年代には大倉山(権兵衛山)の山頂付近には、大倉さんが住んでいたようだ。1960年(昭和35)に住宅協会から発行された「東京都全住宅案内帳」より。
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落合に残る東の「丸山」と西の「丸塚」。 [気になる下落合]

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 全国に、「丸山(円山)」や「摺鉢山」「大塚」などの名称がふられた古墳名Click!が数多いことは、以前からもこちらでご紹介している。地形の形状を見て、まるで球の半分が地面から盛り上がっているような丘や、あたかも摺鉢を伏せたような形状の地形、あるいは明らかのなんらか大規模な塚山を見て、付近の住民から感覚的に付けられた古い地名(丘名)なのだろう。
 同様に、そのような丘の上部を利用し、鎌倉期から江戸期にかけて社(やしろ)の境内が設置されたりすると、「天神山」「稲荷山」「八幡山」…などという名称に転化し、「丸山」や「摺鉢山」「大塚」と同様に古墳名にされるケースが多い。戦後は逆に、このような由緒ありげな地名が発見されると、一帯が田畑や住宅街へと開発されていない場合は、新たな古墳発見の可能性が高いと見なされ、積極的に考古学的な調査が行なわれるようにもなっている。
 河川を見下ろす丘や傾斜地の多い落合地域にも、「丸山」Click!「摺鉢山」Click!「大塚」Click!などの地名が残っていたこと、そして地名が残る周囲には江戸期の農地開発や明治以降の宅地開発、あるいは鉄道工事や道路敷設などで破壊された、大型の古墳が存在したのではないか?……というテーマも、繰り返しここの記事で取り上げてきた。今回は、古い時代からの伝承や逸話を参照しながら、下落合の西部から葛ヶ谷Click!(現・西落合)にかけての独特な地名の由来を探ってみたい。
 下落合(現・中落合/中井2丁目含む)の西部や、葛ヶ谷にかけての名所や旧蹟、故事伝承の記録あるいは紹介は、こちらでもたびたび引用している金子直德Click!『和佳場の小図絵』Click!や、大田南畝Click!『高田雲雀』Click!などでもきわめて少ない。江戸期には、市街地からさらに遠く離れているため、あまり注目されず散策されなかった領域なのか、あるいは野方や江古田のエリアに近いため、江戸期にはそちらで書かれた地誌本のたぐいが知られていたものだろうか。現代に伝わる落合地域の資料では、下落合西部から葛ヶ谷にかけての記録が希薄となっている。
 だが、それを補うように残されているのが、1932年(昭和7)に自性院Click!が発行した大澤永潤『自性院縁起と葵陰夜話』(非売品)だ。その記述から、おそらく1000年以上前の平安期から明治以降にかけてまで、地域で語られてきた伝承を掘り起こし、織りまぜながら編集しているとみられ、江戸期に編まれた記録のいわば“空白地帯”を埋める貴重な資料となっている。
 記述を、先の地名テーマにもどそう。下落合の東部には、「丸山」という地名(字名)が昭和初期までかろうじて残っていた。もっとも早い「丸山」地名の採取は、1909年(明治42)に陸軍参謀本部が作成した2色の1/10,000地形図にみられる。もっとも、テキストとして採取されたのは明治期だが、それ以前から下落合村ではエリアの字名として受け継がれてきたのだろう。「丸山」が採取されているのは御留山Click!南側の麓、下落合氷川明神Click!のすぐ東側あたりだ。
 このあと、大正期には「丸山」の字名は郵便の住所化されて、目白崖線の丘上(御留山~近衛町Click!)まで拡がっていくことになる。わたしは、きれいな釣鐘型をした氷川明神の境内Click!が、本来は古墳ではなかったかと疑っているので、その西側に大正初期まで残った「摺鉢山」Click!の伝承とともに、「丸山」はその墳丘が崩される以前に地勢を見てつけられた、江戸期以前からの地名ではないかと想像している。
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 東の「丸山」に対し、西側にもまた古墳をイメージさせる字名、ないしはポイント的な史跡名が多く残されている。いや、むしろ西側のほうが東の「丸山」のように漠然とはしておらず、規定された位置も含め確度が高いだろうか。下落合の西側や葛ヶ谷の一帯にかけ、「丸塚」や「塚田」「天神山」「馬塚」など、いかにも古墳に付随していそうな字名を確認することができる。まず、「丸塚」の伝承から探ってみよう。前掲の大澤永潤が著した、『自性院縁起と葵陰夜話』から引用してみる。
  
 牢屋敷は現今の朝日湯より約一丁程南方にて昔牢獄在りしと伝へられ古碑、古瓦多数地下より出でしと申されます。又『丸塚』が在りましたと。
  
 ここでいう「牢屋敷」は、江戸期の幕府に由来するものか、あるいはそれ以前から設置されていたものかは不明だが、掘れば屋敷の瓦が出たということなので、その昔なんらかの施設が存在し、それが語り継がれていたのはまちがいないだろう。古代の古墳域は、往々にして近寄りがたい禁忌的な伝承や、「屍家(しいや)」Click!または「死屋」など怖ろしい物語が継承されていることが多く、マイナーな施設の建設や墓地、動物などの死骸捨て場にされていた例も多い。だからこそ、古墳のエリアを寺社の境内として“浄化”し、聖域化する必要も生じているのだろう。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 村の西方字境に丸塚在り、昔死馬を捨てしより里人呼んで馬捨場といふ此死馬をソマといひしと、恐らく「ソマ」は粗馬の故でありませう、死馬ある時は遠近の野犬此処に集り、死馬の肉を食ひ争ふといふ其死馬の憐れな有様が又恐ろしい悪魔のやうに見ゆる所から起つたものでせう。後世これら死馬の供養の為め馬頭観世音の供養塔が建立せられてあります。
  
 「ソ・マ」(so-ma)は原日本語(アイヌ語に継承)で、「焼き場」あるいは「焼き棚」と葬儀場そのものの意味につながる。明らかに「丸塚」が、江戸期以前からだろうか動物の死骸を葬る(捨てる)、禁忌的なエリアに指定されていたのがわかる。また「丸塚」とは別に、江戸期に馬の死骸を捨てる専用の「馬塚」も、葛ヶ谷御霊社Click!の北の街道沿い、井上哲学堂Click!のすぐ東側に確認することができる。
丸塚2.JPG
天神山・馬塚1936.jpg
天神山・馬塚1947.jpg
 さらに、妙正寺川沿いの田畑の中にポツンと塚状の突起が残されていたのだろう、「塚田」という地名も残っていた。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 此地は現今オリエンタル写真学校南方妙正寺川沿ひの地で昔細田地頭の旧積地(ママ)であると申され、この川下の地境を塚田と申されました、昔某氏の古墳が在つたとか伝へられゐます。(ママ)
  
 すでに被葬者の素性も不明になっているが、鎌倉期の地頭・細田氏の名前が伝わっている。だが、少なくとも平安末から鎌倉初期の和田氏、あるいは鎌倉期の細田氏に関する古墳ではないだろう。なぜなら、和田山Click!(井上哲学堂)を中心に和田氏Click!あるいは細田氏の伝承は地元でハッキリと受け継がれているにもかかわらず、「塚田」の被葬者が不明なのはそれ以前の時代、より古い時期からの史蹟だったことを想起させるのだ。
 「塚田」にもまた、多くの古墳がそうであるように、なんらかの禁忌的な物語が伝わっていたものだろうか。江戸期に盛んに行われた、農地を拡大する開墾事業でも崩されずに、田畑の中に塚を覆う樹木とともにポツンと残され、のちにメルクマールとしての地名化した可能性が高いように思う。
 さて、以前にご紹介した妙見山Click!の西150mほどのところ、青梅街道の敷設で崩されてしまった位置には、天神が祀られていた「天神山」と呼ばれる地名があったことも記録されている。おそらく、江戸期まで塚状の地形上に天神社が築かれていたのだろう、疣(いぼ)に関する疫病に効果がある神として、天神社は付近一帯から広く崇敬を集めたようだ。そして、江古田村の「コブ長」さんや長崎村の「コブ源」さんなど「コブとり爺さん」の逸話までが残されている。同書より、再び引用してみよう。
  
 天満宮の祀られてありし所で現今は道路と化して居ますが村の内田留造氏方の北方であつたと申されます、此の社は俗に疣天神といふて、何か疣に似た病疫ならば願ひの儘霊験在り、忽ち快癒致しますと申されて居ます、(以下略)
  
 ちなみに、天神山Click!は大きめな古墳にふられた代表的な地名で、全国各地に地名を冠する「天神山古墳」と名づけられた古墳期の遺跡が散在している。新宿エリアでは、成子天神Click!が建立された成子地域の天神山と、大久保の西向天神Click!が建立され富士塚Click!が築かれた天神山が有名だろうか。
新青梅街道.JPG
塚田.JPG
自性院.JPG
 下落合の西端や葛ヶ谷には、まだまだ怪しい古地名や史蹟が多いのだが、キリがないのでこのあたりにする。旧・平川Click!(現・神田川)沿いを歩き、人工的な塚状の突起を見つけると祠を建立してまわったとみられる、室町期の僧・昌蓮Click!に由来する「百八塚」は、はたして妙正寺川沿いの下落合西部や葛ヶ谷方面にまで及んでいたのだろうか。

◆写真上:道路の左手が、「丸塚」の築かれていた目白学園の北側斜面。
◆写真中上は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる各塚の位置。は、1936年(昭和11)と1947年(昭和22)の空中写真にみる「丸塚」と「塚田」の位置。
◆写真中下は、「丸塚」の近くに残るアトリエ建築。は、1936年(昭和11)と1947年(昭和22)の空中写真にみる「天神山」と「馬塚」の位置。
◆写真下は、新青梅街道(正面)と目白通り(右手)の分岐。青梅街道をそのまま進むと、「天神山」と疣天神にぶつかる時代があった。は、「塚田」があった妙正寺川沿い(左岸)の現状。は、さまざまな伝承が縁起物語として伝わる自性院本堂。

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『新編武蔵風土記稿』にみる小名「中井」。 [気になる下落合]

下落合北川向.JPG
 相変わらず江戸期の資料を漁っているが、「中井」の呼称について書かれたものに、もうひとつ『新編武蔵風土記稿』がある。大田南畝Click!によって1788年(天明8)に増補版が執筆・編集されている『高田雲雀』Click!に次ぐ資料だろうか。ただし、『新編武蔵風土記稿』は文化・文政期(1804~1829年)にかけ、昌平坂学問所地理局によって編纂された266巻におよぶ地誌本だが、将軍に献上された原本は失われて存在しない。
 国立公文書館にあるのは、後世のものとみられる写本と1884年(明治17)に内務省地理局が編集した活字本の2種類だ。そして現在、図書館や史料室などで参照できる『新編武蔵風土記稿』は、基本的に明治に入ってから編集された活版印刷の資料が底本となっている。だから、その内容がどこまで本来の正確性を保っているか、明治政府の手によってどのような改変・編集が加えられてしまったのかが不明だ。このような前提を踏まえつつ、『新編武蔵風土記稿』に記載された「中井」について、江戸期から明治期にかけての落合地域の行政状況も踏まえつつ、及ばずながら考察してみたい。
 『新編武蔵風土記稿』の上落合村と下落合村についての記述は、おしなべて上落合村のほうがボリュームが多い。同書が記録された時点では、上落合村にあった家屋が52戸に対して下落合村が67戸と戸数が多く、また上落合村が東西10町南北6町に対し下落合村が東西20町南北5町余と、上落合村に対して下落合村のほうが倍の面積があるにもかかわらず、上落合村のほうを優先するような書き方をしている。おそらく、同じ御料地(天領)同士でも生産量に大きな差があった、すなわち「あまるべの里」Click!とも呼ばれた上落合村のほうが、幕府に収める年貢が下落合村よりも多かったからだと思われる。
 当時の下落合村は、村域が広いにもかかわらず開墾の手の入れられない将軍家の広大な鷹狩り場=御留山Click!を抱えており、また崖線沿いに濃い森林が随所に繁っていて、開拓して田畑を耕作できるエリアがかなり限定されていただろう。また、丘上や斜面の土地が多いので畑地は拓けても、水利の面から田圃を増やすのは容易でなかったにちがいない。したがって、村の身上(台所)は上落合村のほうが豊かであり、また幕府に収める年貢高も勝っていたのではないかとみられる。ちなみに、下落合村の村域にある御留山を管理していたのが、大田南畝『高田雲雀』の記録によれば上落合村であったことからも、両村における豊かさのちがいや力関係の差が垣間見える。
 では、『新編武蔵風土記稿』から上落合村について見てみよう。ちなみに出典は、これまで多く資料や文献に引用されている、1957年(昭和32)に雄山閣から出版された蘆田伊人・編「大日本地誌体系」シリーズの『新編武蔵風土記稿』第1巻からとする。
  
 〇上落合村
 上落合村は日本橋より二里余の行程なり、村名は神田上水の溝渠と井草川と当初にて落合と故かく名付と云、【小田原役帳】に、興津加賀守知行二十貫五百七十文江戸落合、及太田新六郎知行内寄子衆配当十貫五百文江戸落合鈴木分長野彌六郎分とあり、是も拠は上水闢けさる前既に井ノ頭より流出せる川ありしとみゆ、上下二村に分れしも古き事にて、正保改には既に上下落合二村とす、家数五十二、四境東は上戸塚村西は多摩郡上高田村、南も同郡中野村北は下落合村、東西十町南北六町、用水は井草川より引用ゆ、古より御料所なり、検地は寛文十年野村彦太夫、享保十八年筧播磨守糺せり、村内に秩父道中田無村への往還かゝる道幅三間余、又中程に古の奥州道あり、(以下略)
  
新編武蔵風土記稿1884内務省地理局(国会図書館).jpg
新編武蔵風土記稿1884国立公文書館.jpg 新編武蔵風土記稿1957雄山閣.jpg
 この記述によっても、江戸初期から拓けていた幕府直轄地であり、ゆえに村の内証(財政)は幕府が着目するほど豊かだったことを想起させる。神田上水と井草川(現・妙正寺川)が流れ、水はけのよい土地がらから穀物が豊かにみのる「あまるべ」郷だったのだろう。次に、下落合村の記述を小名「中井」の項目も含めて、同書より引用してみよう。
  
 〇下落合村
 下落合村は日本橋より行程二里、家数六十七、四境東は下高田村西は多摩郡上高田村南は上落合上戸塚の二村北は長崎村なり、東西二十町南北五町余、正保年中は御料の外太田新左衛門采地なり、後御料の地を小石川祥雲寺領に賜ひ、今新左衛門が子孫太田内蔵五郎が知行及祥雲寺領交れり、用水は前村に同じ、(中略)
 小名 七曲(左右松林の山にて少しの坂あり、屈曲せし所数廻なればかく唱ふ) 中井
  
 下落合村は、あっさりとした記述で終わっているが、耕作地が少なく石高(収穫高)も低かったために、過去に采地(領地)となる事蹟も少なかったのだろう。
 さて、下落合村の項目の中に小名として「中井」の名称が登場している。大田南畝が採取した「中井村」とは呼ばれず、村の付かない小名「中井」として記録されている。『新編武蔵風土記稿』の編者は、大田南畝の『高田雲雀』を参照していた可能性があり、大田が「中井村」を「落合上下の間を云」、すなわち妙正寺川が流れる低地あたりと規定しているのを前提にしてか、あるいは場所が判然とせずに不明のまま採録したのか、特に「中井」に関しては場所の特定を行っていない。
 先に記したように、上落合村のほうが財政的にも豊かで行政的にも力が強い時代は、江戸期が終わり明治期に入っても、しばらくは変わらなかっただろう。それを示唆する記録が、地図や郵政による住所ふりの地名(字名)として残されている。地名の成立について詳しい方なら、地名がどこを中心点として、あるいはどのエリアを優先して名づけられているのかがわかれば、その地域一帯の村や町など行政機関の力関係が透けて見える……というのは周知のことだろう。上落合村と下落合村の関係にも、それが透けて見えるのだ。
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落合町全図1929.jpg
 『新編武蔵風土記稿』では「井草川」と書かれている妙正寺川は、江戸期が終わり明治期に入っても地元では「北川」Click!と呼称されていた。下落合の南端を流れる妙正寺川を「北川」と表現するのは、下落合村からの呼称ではなく明らかに上落合側からの呼び名だ。また、明治以降に作成された地図には、妙正寺川の北岸一帯は「北川向」という字名が記載されている。現在の、中井駅前から中ノ道(現・中井通り)につづく一帯、すなわち下落合エリアの字名だ。これもまた、北川の向こう側と表現するのは、上落合側からの視点にちがいない。「北川向」は政府の郵政事業にも導入され、住所表記では昭和初期まで活きていた字名だった。
 ところが、大正期に入ると落合村(1924年より落合町)では上落合と下落合の立場が逆転Click!する。上落合が、いまだ明治期からつづく農村が多かったのに対し、下落合では目白文化村Click!近衛町Click!をはじめとする郊外文化住宅街の建設や、川沿いへの工場誘致Click!西武鉄道Click!の誘致などが本格化し、村の財政が下落合側を主軸として大きく潤うことになった。そのころから、おそらく妙正寺川沿いにふられた「北川向」など、旧・上落合村からの視点に由来する字名や名称などが気になりだしたのだろう。
 大正末から昭和初期にかけ、旧・下落合村に住む地元の有力者たち(特に明治末から1927年まで村長をつとめた人物のヘゲモニーが大きいと思う)は、江戸期の文献をひっくり返しながら、「北川向」に代わる小字名を探したか、村の古老たちに聞きとり調査をしてまわったかもしれない。また、近々設置される予定の鉄道駅が妙正寺川沿いの「北川向」あたりにできることも、どこか頭のすみに入れていただろうか? こうして、大田南畝の『高田雲雀』の記述に「中井村」(幕府の行政区画ではなく狭いエリアの通称であることは前回の記事にも書いた)を、『新編武蔵風土記稿』には「中井」を発見して、根拠は「これだ!」とニヤリとしたにちがいない。
 あらかじめ駅名への命名に関する“実績”づくりのためか、下落合の昔ながらの字名である「大上」(目白崖線で最高点の標高37.5m)を、一時的に低地の地名である「中井」に変更したものの、昭和初期には急いでもとの「大上」へともどし、敷設された西武線の駅名に改めて「中井」と付けるよう西武鉄道に働きかけた。これで、上落合側を視座とする「北川向」という呼称は、遠からず消滅するだろうと喜んだかもしれない。
西武線中井駅.jpg
下落合大上.JPG
 でも、下落合の有力者たちが考えた妙案は、あくまでも「下落合の北川向」を消滅させるための「下落合の中井」だったろう。まさか、1967年(昭和42)の町名変更Click!で、旧村名であり大字だった肝心の下落合という地域名が多くのエリアから消滅し、駅名に引きずられて旧・下落合4~5丁目の斜面から丘上、平地にかけてまでが、とうに忘れられていた小名「中井」に取って代わられてしまうとは、およそ思ってもみなかったにちがいない。江戸時代の一時期に呼ばれていたらしい、川沿いの「中井(村)」の経緯を知る古老たちにしてみれば、「子が親を食っちまった」ように感じていたのではないだろうか。

◆写真上:大正橋から見た妙正寺川(北川)で、右岸の下落合が字「北川向」にあたる。
◆写真中上は、1884年(明治17)に活字印刷された内務省地理局版『新編武蔵風土記稿』巻の十二にみる「中井」表記。下左は、国立公文書館内閣文庫が収蔵している同書の表紙。下右は、1957年(昭和32)に雄山閣から出版された「大日本地誌体系(一)」の1冊で、引用などでもっともポピュラーな『新編武蔵風土記稿』第1巻。
◆写真中下は、1911年(明治44)に作成された逓信省の「落合村全図」にみる下落合の字「北川向」。は、1929年(昭和4)に作成された「落合町全図」。
◆写真下は、中井駅へと通じる西武線の線路で、両側一帯が字「北川向」と呼ばれていた。は、下落合ではもっとも標高が高い大上にある目白大学。大正の後半から末にかけての一時期、なぜか昔ながらの字名「大上」が「中井」にされていた。

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地球を転がすフンコロガシの歌。 [気になる下落合]

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 植物学者の大賀一郎Click!は、1917年(大正6)から南満州鉄道(株)の教育研究所員として大連に勤務している。大連での6年間にわたる勤務を通じて、フランテン泥炭地から古いハスの実を採集して研究に没頭した。1923年(大正13)には、採集したハスの種子1,000個を携えて、米国ボルチモアにあるジョンスホプキンス大学へ留学している。
 1926年(大正15)に米国留学からもどると、奉天教育専門学校の教授に就任して、次々とハスClick!に関する論文を発表している。そして、1931年(昭和6)に「満州事変」が勃発すると、落ち着いた研究ができないために15年ぶりに帰国した。この間、ハスをはじめ歌子夫人とともに「満州」に分布する植物に関する研究を深めていったが、なぜか昆虫のフンコロガシ(糞虫=スカラベ)に興味をおぼえたらしく、植物研究と並行してフンコロガシの研究もつづけている。
 大賀一郎は当初、中国北部に見られるスカラベに「バフンコロガシ」と名づけている。だが、実際に調べてみると「バフンコロガシ」が転がしている糞玉は、牛糞に羊糞、人糞が多く馬糞はかなり少ないことが判明した。もっとも多かったのは、牛糞を転がすケースだったようだ。だから、「馬」を取って「フンコロガシ」に改めたほうがいいと、常に感じていたらしい。
 フンコロガシは、日本のような湿度の高い地域には少なく、乾燥した中国やモンゴル、トルコ、地中海沿岸、エジプトなどに見られる昆虫だ。有名な『ファーブル昆虫記』には、フランスのフンコロガシが登場するけれど、大賀一郎は「満州」のそれは習性がかなり異なっているとしている。中国のフンコロガシについて、1929年(昭和4)に発行された「アミーバ」(生き物趣味の会)所収の、大賀一郎『満州の珍「ふんころがし」』から引用してみよう。
  
 ファーブル氏の研究は、主としてスカラベサクレであるが、満州にいるのはそれではない。習性に少し異なる所がある。ふつうに見られるものに二種ある。二匹で昼間糞玉を転がす形の小さな種類と、一匹で主に夜間糞玉を転がす形の大きいものとである。この二種は習性がよほど違う。二匹で玉を転がす小さな方はGymnopleus sinnatus Fab.であるらしい。一匹で玉を転がす大きな方はファーブル氏の研究されたのと同属スカラベ(Scarabeus)で種名はわからない。学名の考察は専門家にゆずるとして、いま前者を「ふんころがし」、後者を「おおふんころがし」としておく。
  
 中国には、古くからフンコロガシを意味する名詞がたくさん存在しており、大賀一郎は古い中国の文献に当たりながら、そのいくつかを書きとめている。すなわち、「蜣蝍(きょうしょく)」「羌蝍(きょうしょく)」「胡蜣蝍(こきょうしょく)」「蛣蜣(きつきょう)」「天社」「弄丸(ろうがん)」「転丸」「転丸子」「推丸」「黒牛児」「鉄甲将軍」「夜遊将軍」「推車客」「蜣蝍将軍(きょうしょくしょうぐん)」……などなどだ。また、フンコロガシが当時の漢方薬にも用いられていたことを記録している。
大連市街地.jpg
フンコロガシ.jpg
 フンコロガシは、メスが後ろ足で糞玉を転がしていくのだが、オスはそれを手伝うために前にまわって糞玉を引いていく。ところが、おかしなことに糞玉を転がしているメスは、引いているオスがライバルのオスにどこかへ蹴とばされ、“別人”に変わっていてもいっこうに気にしない。同様に、糞玉を一所懸命に引いているオスは、押しているメスが他の横着でずるいメスに横取りされ、“別人”にすり替わっていても「あれっ?」などとは思わず、ぜんぜん気にしない。さらに、メスは糞玉を必ず後ろ足で転がすが、オスはそのような動作はまったくしない。だから、フンコロガシと聞いて通常イメージする姿は、すべてメスの習性ということになる。
 大正期に「満州」で流行った唱歌に、「ばふんころがし」という歌がある。『満州唱歌集』にも収録された歌らしいが、同『満州の珍「ふんころがし」』より引用してみよう。
  
  ばふんころがし
    
 やっこら やっこら やっこら やっこら
  ばふんのいのちだ お前の地球だ
  その手をかわして その足ひいたり
  上見た 下見た まだ日は長いぞ
 やっこら やっこら やっこら やっこら
    
 やっこら やっこら やっこら やっこら
  ばふんのいのちだ お前の地球だ
  その手をはずすな その足ふんばれ
  上見た 下見た もう日は暮れるぞ
 やっこら やっこら やっこら やっこら
  
エジプトスカラベ太陽神.jpg
大賀一郎.jpg
 フンコロガシが、「天体」あるいは「星」を転がしているイメージというのは、別にこの歌の作者が想像しただけでなく、古代エジプトの遠い宇宙観にまでさかのぼることができる。古代エジプトでは、スカラベ(タマオシコガネ)は太陽神の象徴であり、糞玉=太陽を転がして日の出から日の入りをつかさどっているとイメージされていた。もちろん、当時は地球が回転しているのではなく、太陽が地球の周囲を半日かけて、コロコロと回転しながら移動していると考えられたからだ。
 フンコロガシが太陽ではなく、地球を転がしているという絵本がどこかにあるそうだが、わたしはまだ見たことがない。巨大なフンコロガシが、地球を転がすのに飽きて眠ってしまい、世界は昼の国と夜の国だけになってしまう。そこで、ふたりの子どもがフンコロガシを起こしに冒険の旅へ出かける……というストーリーらしい。
 絵本では知らないが、映画では観たことがある。2005年に制作された、手島領監督の『NEW HORIZON』(Jam Films S)だ。この虫のネームを聞いただけで、名前の面白さからつい笑ってしまうのだけれど、横浜を舞台に日本人と米国人、中国人が織りなす夜の世界だけになってしまった物語が、フンコロガシから「健康」「平和」「愛」の3文字へと収斂する同作には、思わず爆笑してしまった。地球を回転させるのがフンコロガシだからこそ、あまりにもバカバカしくて笑えるのであり、「病気」「戦争」「憎悪」を対極へと押しやる強烈なユーモアが反響して感じられるのだろう。
Jam Films S.jpg NEW HORIZONアニメ.jpg
NEW HORIZON.jpg
 大賀一郎は、本来は植物が専門の博士のはずだが、専門外のフンコロガシに惹きつけられたのは、やはりそのユーモラスな動作であり習性からではないだろうか。フンコロガシを集めて飼っていたかどうかは知らないが、地中からハスの種子を1,000個集めるぐらいだから、きっとフンコロガシもたくさん集めて飼育していたのかもしれない。

◆写真上:帰国する前、1929年(昭和4)ごろに「満州」で撮られた大賀一郎・歌子夫妻。
◆写真中上は、南満州鉄道(株)の本社があった大連の市街地。は、和名が糞虫のタマオシコガネ(スカラベ)=フンコロガシ。(Wikipediaより)
◆写真中下は、フンコロガシを太陽神に見立ててイメージした古代エジプトのアクセサリー。は、小学生たちにハスについて解説をする晩年の大賀一郎。
◆写真下上左は、『NEW HORIZON』が収録されたDVD『Jam Films S』(セガ)のジャケット。上右は、手島領監督『NEW HORIZON』に登場する絵本のフンコロガシ。は、フンコロガシの絵本を子どもに読んで聞かせる同作のワンシーン。

おまけ:本格的な夏を迎え、下落合の動物たちの動きが活発化している。カブトムシの♀の次は、コクワガタの♀がやってきた。玄関先では、オオカマキリの子どもたちが大量に生まれ、部屋に侵入した大きなハナアブに追いかけられ、虫が苦手な娘はパニックになっている。家の前の路上では、どこからやってきたのかカルガモの親子が路側帯を散歩し、クルマや野良ネコが危険なので警官たちが出動して保護し下落合の湧水池へ無事に放した。20~30年前の新宿では、考えられない情景だ。
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中村彝生誕130年記念のパーティー。 [気になる下落合]

中村彝とカルピス.JPG
 2,000件めを記念する物語記事は、いまの下落合の出来事から……。
  
 7月3日の月曜日、下落合の中村彝Click!アトリエには生誕130年記念を祝う人たちが参集した。のべ200名ぐらいの方々が、アトリエに集っただろうか。こちらでも何度か書いているけれど、当時の郊外に住んだ画家たちは落合も長崎も高田(目白)も池袋も、郡町村の境界に関係なく往来して居住している。それら画家たちの物語や軌跡を描くのに、現在の新宿区も豊島区も関係がない。わたしが、このお話をうかがったとき、真っ先に考えたのがそのことだった。
 最初に中村彝生誕130年記念会(パーティー)のお話をうかがったのは、元・新宿区議の根本様Click!からだった。さっそく、彝アトリエで開かれた打ち合わせに出かけると、前・新宿区議会議長の深沢様と元・NHKプロデューサーの葉方様がみえ、記念会のコンセプトと催しの内容の打ち合わせがはじまった。わたしの頭の中には、2つのことしかなかった。ひとつは、上述のように落合地域に居住し往来した画家たちに、「新宿区も豊島区もない」ということ。つまり、この催しに豊島区の高野区長もお呼びしよう……という企画だ。
 豊島区では毎年、「池袋モンパルナス」Click!の「まちかど回遊美術館」で街歩きをする際、いつも下落合に現存している中村彝アトリエと佐伯祐三Click!アトリエを見学ポイントとして含めてくれている。だから、今度はこのような催しには、豊島区側にもぜひ声をおかけしたいという思いがあった。高野区長であれば、文化・芸術に関することなら必ず注目してくれるだろうし、気さくに「近所のオジサン
Click!のノリwで彝アトリエまできてくれるだろうという感触もあった。高野区長とは目白美術館の刑部人展Click!以来で、同区の文化事業に深くかかわる小林様ともども、ちょっとお話したいこともできたのだ。
 わたしの頭の中にあったもうひとつのテーマは、こういう催しで一度はあつかってみたかった中村彝と「カルピス」Click!の関係だ。中村彝は、1920年(大正9)4月ごろからカルピスを飲みはじめ、おそらく死去するまですっかりカルピスが病みつきになっている。きっかけは、彝が手紙に書く「中村パン屋のオヤヂ」こと新宿中村屋Click!相馬愛蔵Click!が、病中見舞いに前年(1919年)に発売されたばかりのカルピスを、下落合のアトリエへとどけたことからはじまる。当時のカルピスは、滋養強壮や健康保全を効用にして売られていた飲料だった。以来、友人の証言によれば、多いときは1日1本を空けてしまうほど、彝はカルピスフリークになってしまったらしい。カルピスは作品のモチーフとしても登場し、アトリエ東側の壁
には1923年(大正12)に制作された『カルピスの包み紙のある静物』(レプリカ)も架かっている。
 当時のカルピスは、今日のようにカルピスウォーターとかカルピスソーダなど、あらかじめ水やソーダで割ったものではなく原液のままだ。わたしが子どものころまで、カルピスといえば原液のままだったが、最近は希釈しないですぐに飲める製品のほうが主流になっている。そこで、『カルピスの包み紙のある静物』の横に、中村彝とカルピスに関する新しいパネルを用意することと、カルピス本社の広報室に連絡してご協力をお願いするのがわたしのマターとなった。同社の広報室ではすぐに快諾いただけ、カルピスウォーター150本ぶんをお送りいただけることになった。
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 当日は33℃を超える猛暑となったので、新宿中村屋さんが用意してくれたコーヒーや、カルピスウォーターが熱中症予防の水分補給には役に立ったのではないだろうか。ただし有志が集まり、そもそも予算ゼロで手弁当の催しのため、カルピスウォーターが常温のままだったのがちょっと残念な点だ。彝アトリエのスタッフのみなさんが、小さな冷蔵庫に入れて冷やしてくれてはいたが、もちろん少ない本数だったので間に合わなかった。持ち帰った方々は、おそらく冷蔵庫でよく冷やすか氷を浮かべるかして、中村彝とカルピスの時代に想いをはせながら味わっていただけたのではないかと思う。
 生誕130周年記念パーティーには、吉住新宿区長をはじめ高野豊島区長、新宿中村屋の鈴木社長、彝が新宿中村屋を出た直後に旅行した伊豆大島ゆかりの方、旧・中村彝会の代表で鈴木良三Click!の弟子であり医師で画家の野口様、新宿歴史博物館のみなさんなど、多彩な方々が来られた。そして、吉武東里Click!が設計した島津一郎アトリエClick!を保存されている中村様がおみえなので、さっそく豊島区の高野区長と小林様へ改めてご紹介し、金山平三アトリエClick!が壊されてしまったいま、豊島区側の街歩きにも島津一郎アトリエを加えていただきたい旨をお話した。聞けば小林様は、街歩きのとき同アトリエへすでに立ち寄ったことがおありとのこと。島津一郎アトリエは、アビラ村Click!金山平三Click!刑部人Click!などに関連した美術的な側面にとどまらず、建築のテーマからもきわめて重要な存在だ。
 それともうひとつ、わたしの大収穫は、中村彝の弟子だった清水多嘉示のお嬢様・青山様にお会いできたことだ。洋画家であり彫刻家でもある清水多嘉示は、1923年(大正12)3月に渡欧するまで1917年(大正6)6月28日から中村彝アトリエへ頻繁に通い、写真が趣味だったのか中村彝のスナップ風の日常写真を撮影していること、彝アトリエの周辺で風景を写生しており、その中には「下落合風景」とタイトルされた作品も混じっていること、彝アトリエへ通いながら日記をつけていること、フランスでは佐伯祐三といっしょに撮られた集合写真をお持ちなこと、そして中村彝から清水多嘉示にあてた手紙類を数多くお持ちで、それらの私信類は1926年(大正15)に岩波書店から出版された中村彝『芸術の無限感』Click!には未収録のものばかりなこと……などなどだ。未収録となったのは、もちろん清水多嘉示が1928年(昭和3)まで滞仏中であり、『芸術の無限感』が編纂されたときには日本にいなかったからだ。
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 特に気になったのが、パリに滞在する清水多嘉示あてに、中村彝はおそらくモチーフのひとつに使いたかったのだろう、フランス製のタペストリーを早く送るよう督促する手紙を、1923年(大正12)に銀座伊東屋の原稿用紙に書いて送っている。壁掛けのタペストリーですぐに想い浮かぶのが、彝アトリエの西側ドアClick!に描かれていたとみられる、なんらかの幾何学模様のようなデザインだ。1924年12月24日に中村彝が死去した直後、翌1925年(大正14)の2月までドアの模様は視認できるが、その後はまったく確認できないなんらかのペインティングと思われる図柄だ。1929年(昭和4)に、彝アトリエが鈴木誠アトリエClick!になってからは、当該のドアは早い時期に外され別の用途に使われたものか、あるいは上部をガラス付きのドアに改造され、塗り直されて居間用のドアに流用されてしまったものか、いっさいが不明のままだ。
 中村彝が、清水多嘉示あてにタペストリーを送るよう書いているのは1923年(大正12)の手紙なので、その後フランスから送られたのかどうかは不明だが、壁ないしはドアにフランス製のタペストリーを架け、静物画か人物画
の背景にしようとしていた可能性がある。しかも、それは彝の最晩年のことであり、ドアの幾何学模様の織物のような、まるで壁掛けのようなデザインとなんらかの関係がありそうな予感が強くしている。清水多嘉示に関するテーマと、彝が愛飲していた当時のカルピスについては、また機会があれば改めてご紹介したい。
「タピ」=タペストリーを送れという彝の手紙は、1通が『芸術の無限感』の1923年(大正12)秋の書簡として収録されていることに気づいた。詳細については、改めて記事にしたい。
 さて、中村彝生誕130年記念会のパーティーでは、アトリエ内部に鈴木良三Click!をはじめ画家たちの作品(実物)が展示され、昼すぎからは箏とギターの演奏会や、中村彝をめぐる新宿歴史博物館のレクチャー、子どもたちの写生会などが開かれたはずだが、わたしはウィークデーなので仕事を途中で放り出してきたこともあり、1時すぎには失礼させていただいた。同記念会には、TVカメラや取材の記者たちも来ていたようなので、どこかで報道されたのかもしれない。
清水多嘉示資料1.JPG
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 今回のような美術的なテーマのもと、画家の記念行事が下落合に現存するアトリエで開かれたのは、わたしの記憶する限り初めてのことだと思うが、今年の7月3日が中村彝の生誕130年なのにつづき、来年2018年4月28日は佐伯祐三の生誕120年記念日だ。全国各地で佐伯祐三にちなんだ展覧会が企画・予定されているのかもしれないけれど、佐伯アトリエを抱える下落合でも、またちょっとなにか催したくなる大盛況の中村彝生誕130年記念パーティーだった。最後に、いろいろご面倒をおかけしました。ありがとうございました。>彝アトリエのスタッフのみなさん

◆写真上:背後に架かる『カルピスの包み紙のある静物』(1923年)と特設パネルの前へ、久しぶりにカルピスウォーターを持って登場した中村センセ。w
◆写真中上は、午前10時30分ごろ記念会準備中の中村彝アトリエ。アトリエ内には、たくさんの作品が展示された。は、「中村彝のカルピス好き」の特設パネルで、制作には豊島区側にお住いの美術家の方にご協力いただいた。
◆写真中下は、午前11時の開会と同時に数多くの人々がアトリエに集まってきた。は、新宿区の吉住区長()と豊島区の高野区長()のあいさつで、これからも新宿区と豊島区の文化行政において交流・協力関係を築いていくことが確認された。
◆写真下:アトリエ内に展示された、めずらしい清水多嘉示の資料類。アトリエの中村彝をとらえた3枚の写真のうち、右下の藤椅子に座る姿はめずらしい1葉。いちばんの写真は、アトリエで配られた新宿中村屋の月餅と、伊豆大島のツバキの実を彩色した鈴つきのストラップ。

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郊外野菜を運ぶ大八車の中身。 [気になるエトセトラ]

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 これまでの記事の中で、落合地域に通う街道を往来する人々の姿として、東京郊外の野菜を大八車や牛馬車に満載して、市街地にある青果市場(やっちゃ場)へと運ぶ情景を何度かご紹介してきた。落合地域には、おもに東京市街へと抜ける4本の街道が貫通している。これらの幹線道路は、おもに江戸期(道によっては鎌倉街道の時代)から、重要な交通や物流ルートとして機能してきた。
 まず、練馬や板橋の方面から通う練馬街道あるいは清戸道Click!(現・目白通りなど)、鷺宮や石神井方面から通う街道(現・新青梅街道)、新井方面から通う鎌倉期に由来する中ノ道Click!(雑司ヶ谷道=新井薬師道)、そして中野方面からつづいている街道(現・早稲田通り)などだ。これらの道路を野菜を積んだ大八車や牛車、馬車などが明治以降も頻繁に往来していた。また、街道から街道への抜け道として落合の道筋が利用されており、以前に上落合の鶏鳴坂Click!などのエピソードをご紹介している。
 もちろん、落合地域で獲れた野菜や果物も、これらの物流ルートを利用して市街地にあるマーケットへと運ばれている。落合地域で生産されたのは、一時は米国にまで輸出した沢庵漬けに適する落合大根Click!や、その甘さが評判になって大正期にはブランド化していた落合柿Click!などだ。妙正寺川の旧・バッケの水車小屋Click!を借りて住み、父親の野菜仲買商を手伝っていた1930年協会Click!小島善太郎Click!は、大八車に野菜を積んでは下落合から江戸川橋や神田の青果市場へと運んでいた。小島の半生記『若き日の自画像』Click!(雪華社/1968年)には、より遠くの神田青果市場へ運んだほうが、高い値をつけて買ってくれたというエピソードが紹介されている。
 さて、落合地域を通過する車には、具体的にどのような野菜が積まれていたのだろうか。ほとんどの資料では「郊外野菜」としか記されておらず、東京郊外で栽培されていたダイコン以外の具体的な野菜の種類が不明だ。そこで、荻窪に住んでいた井伏鱒二の作品に、郊外野菜を出荷する情景が描かれていないかと思い探したところ、『荻窪風土記』(1982年)があった。荻窪(杉並区)でも、やはり主要産品はダイコンだが、そのほかに運ばれた細かな野菜の種類や、運搬の方法までが記録されている。
 井伏鱒二は関東大震災Click!ののち、早稲田大学Click!にもほど近い牛込鶴巻町の南越館という下宿屋Click!にいたが、1927年(昭和2)の初夏に豊多摩郡井荻村下井草1810番地(現・杉並区清水1丁目)に家を新築して転居している。中央線・荻窪駅の北側で、周囲にはいまだ田畑が遠くまで拡がっているような風景だった。場所がら、周辺の農民とも親しくなっている。以下、1986年(昭和61)に新潮社から出版された、『井伏鱒二自選全集』第12巻収録の『荻窪風土記』から引用してみよう。
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 これは弥次郎さんばかりでなく、この辺の農家で朝市場へ行く者は、みんなこの通り夜業で仕度をして出荷した。大根のほかに、白菜、牛蒡、人参、からし菜、山椒の芽など、季節に応じて出した。淀橋の東洋市場へ行くのもあり、早稲田や諏訪の森のヤッチャ場へ行くのもあり、京橋のヤッチャ場へ行くのもある。出発は殆どみんな真夜中だから、家族の者が道明りの提灯を持つてついて行く。中野坂上と鳴子坂の袂のところの立ちん坊は、元は一回五厘から一銭で車の後押しをしてゐたが、第一次欧州戦争後は一回二銭から三銭ぐらゐ押し賃を取るやうになつた。/淀橋から先の新宿大宗寺あたりまで行けば、後は下り坂になるし白々と夜が明ける。家族の者は、新宿か四谷の駅から提灯を持つて帰つて来る。電車で帰れば新宿から荻窪まで片道十銭だが、歩いて帰れば女の足で二時間かかる。(中略) 帰りの車は朝荷のやうに重くはないが、金肥を積んだり人糞を汲んだ肥桶を載せたりすると、坂を越えるときまた立ちん坊に後押しさせなくてはならぬ。
  
 おそらく、荻窪から市街地の市場へ野菜を運ぶ際も、できるだけ遠くの市場へ運んだほうが高値で買いとってくれた事情は同じだろう。だから、出荷する日はほとんど真夜中に起きだしては、できるだけ東京の中心エリアにある市場をめざし、家族総出で運んでいった。挙げられている野菜類は、大正期から昭和初期にかけての品種であり、幕末から明治期には栽培が大流行した茶葉、あるいは昭和10年以降にやはり流行した露地栽培のトマトが出荷されたのではないだろうか。
 当初は、江戸期と変わらない大八車を、人々が曳き押ししていく運搬方法のままだったが、大正の半ばには大八車の箍(たが)が鉄製の二輪だったのが、四輪のゴム製車輪に変わり、したがって速度がでる四輪車を牛や馬に曳かせる運搬法が主流になっていった。目白通りや早稲田通りで、よく見かけられた牛車や馬車が曳いていたのは、この進化型の大正四輪大八車だろう。また、これらの車には生野菜ばかりでなく、米俵や加工された沢庵漬け、肥料となる下肥桶Click!なども積まれて運ばれた。1925年(大正14)現在、井荻村全体で街道をいく運搬用の馬車が46台あったと記録されている。
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 さて、この郊外野菜の運搬に関して、『荻窪風土記』には面白いエピソードが紹介されている。荻窪地域では、1923年(大正12)の関東大震災が起きるまで、品川の岸壁を出港する船の汽笛が聞こえていたという。ところが、震災を境に急にパッタリと聞こえなくなり、野菜を運搬中に青梅街道の成子坂(鳴子坂)Click!へと差しかかると、東京湾の汽笛の音がよく聞こえてきた……という逸話だ。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 「いや、品川の汽笛の音は、大震災後、晴雨にかかはらず聞えなくなつた。確かにさうだ。府中の大明神様の大太鼓の音も、もとは祭の日に荻窪まで聞えたもんだ。大震災後、やがてこれも聞えなくなつた。この辺の澄んでた空気が、急にさうでなくなつたといふことぢやないのかね」/何かプラス・マイナスの関係で、汽笛の音を消すやうになつたのだ。/大正十二年が関東大震災で、弥次郎さんは大正十三年に徴兵検査を受けた。そのころはもう汽笛の音が聞えなくなつてゐたが、府中大明神の大太鼓の音はまだ微かに聞え、お祭の当日は六の宮の御輿が出て、一番から六番までの大太鼓の音が聞えたさうだ。/「ところが大震災後も、品川の汽笛は、鳴子坂あたりでならまだ聞えてゐた」と弥次郎さんが言つた。/荻窪から京橋のヤッチャ場へ車を曳いて行く途中、たまたま鳴子坂の上に出ると早朝の汽笛の音を聞くことが出来たといふ。その後、また暫くすると、鳴子坂の上からも汽笛は聞えなくなつたさうだ。
  
 いまは、再び成子坂界隈の住宅街でも、東京湾からの汽笛は響いているだろうか。もちろん、街じゅうが活動しているふだんの夜は無理かもしれないが、大晦日の夜などにはよく聞こえるのではないだろうか。
 わが家でも、大晦日から年越しの午前0時にかけては、東京湾に停泊している艦船がいっせいに鳴らす「年越しボーッ」が、強い北風さえ吹いてなければよく響いて聞こえている。また、東京湾や大川(隅田川)で開催される花火大会Click!の音も、親父が嫌いだった空襲時の対空砲火Click!の音のように聞こえてくる。井伏鱒二は、「澄んでいた空気」がなくなったから汽笛が聞こえなくなったのではないかと想像しているが、その伝でいけば空気が澄んできたので新宿の北部でも、聞こえやすくなってきているのだろうか。
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 早朝に市場へ野菜類を運ぶために、街道沿いには休息する一膳飯屋や茶屋、酒屋などが店開きしていた。井伏鱒二の聞きとり調査によれば、大正前期の青梅街道沿いにあった一膳飯屋では、丼飯1杯が2銭、煮しめ1皿も2銭だったらしい。これに景気づけの焼酎を注文すれば、おそらく10銭もあればいい気持ちで満腹したのではないだろうか。

◆写真上:江戸期から大正期まで活躍した、街の物流には不可欠だった大八車。
◆写真中上は、1929年(昭和4)の1/10,000地形図にみる井荻村下井草1810番地界隈。は、1936年に撮影された空中写真にみる同番地の井伏鱒二邸。は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された空中写真にみる同邸。
◆写真中下:ダイコン畑()と長ネギ畑()。は、20代の井伏鱒二()と1982年(昭和57)に新潮社から出版された『荻窪風土記』(新潮文庫版/)。
◆写真下は、大葉のサトイモ畑。は、ナツアカネとキゴシハナアブで畑にはいろいろな虫がくる。は、東京の農家でよく見かけるニホンオオカミClick!の御嶽社護符。

おまけ:1933年(昭和8)に撮影された、東京駅と丸ビル前を通過する農民の野菜牛車。当時はめずらしくない光景で、ゴム製四輪の進化型大八車で神田市場に野菜を卸した帰り道だろう。街の“欧米化”にアタマが染まっていた薩長政府が見たら、「カンベンしてくれ!」となるアジアの国らしい眺めだ。おそらく目黒方面の農民だと思われるが、ついでに帝国ホテルと鹿鳴館跡の前を通ってくれるとアジアの日本を印象づけて面白い。
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