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淡谷のり子の機先の制し方。 [気になる下落合]

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 作曲家の服部良一は戦時中、まったく軍歌をつくろうとせず軍部を煙に巻いてはジャズを平然と演奏していた。一時期は上落合と下落合に家族とともに住み、田口省吾Click!前田寛治Click!のもとへモデルに通っていた淡谷のり子Click!は、戦時中に真正面から軍部、特に陸軍憲兵隊との命がけの衝突を繰り返していた。このふたり、気が合うのか非常に仲がよかったことでも知られている。
 1943年(昭和18)3月に、東京宝塚劇場で「国民劇」として上演された、服部良一が監督をつとめるオペラ『桃太郎』には、森の魔女役として淡谷のり子も出演している。淡谷の魔女役はピッタリだったろうが、桃太郎を高峰秀子Click!、サルを榎本健一、キジを灰田勝彦、イヌを岸田明が演じた同劇では、軍歌あるいは軍楽調の曲はあまり用いられず、当時はヨーロッパの前世紀あるいは前々世紀の古臭い音楽に対して、「軽音楽」と差別的に扱われていた音楽がBGMに多用されている。
 特に、陸軍報道部長の揮毫である「撃ちてし止まん」の幟を背負った桃太郎(高峰秀子)が、鬼ヶ島で鬼退治をするシーンでは、ディキシーランドJAZZのにぎやかな『タイガー・ラグ』が用いられ、内務省監督官に指摘されると「これはマライの虎狩りの音楽だ」といって煙に巻いた話は有名だ。服部良一は、米国のJAZZをラジオなどで演奏するときは、ドイツやイタリアの作曲家の名を冠した「シューベルト・アラモード」とか「ある日のモーツァルト」、「影絵のベートーヴェン」などと適当なタイトルをデッチ上げ、平然とスタンダードJAZZを流している。
 JAZZをはじめとする米国音楽や、おもにドイツとイタリアを除いたヨーロッパ音楽が「敵性音楽」だと規定され、国内での演奏が禁止されたのは、日米開戦間もない1941年(昭和16)12月30日の政府談話が最初だ。つづいて、翌1942年(昭和17)1月13日には、内閣情報局「週報」328号の中で、具体的な「米英音楽の追放」の実施要項を発表している。以下、同「週報」328号(現代仮名づかい修正版)から引用してみよう。
  
 米英音楽の追放
 大東亜戦争もいよいよ第二年目を迎え、今や国を挙げてその総力を米英撃滅の一点に集中し、是が非でもこの一戦を勝ち抜かねばならぬ決戦の時となりました。大東亜戦争は、単に武力戦であるばかりでなく、文化、思想その他の全面に亙るものであって、特に米英思想の撃滅が一切の根本であることを思いますと、文化の主要な一部門である音楽部門での米英色を断固として一掃する必要のあることは申すまでもありません。/情報局と内務省では、大東亜戦争の勃発直後に、米英音楽とその蓄音機レコードを指導し、取締るため、当面の措置として、音楽家に敵国作品の演奏をしないように方針を定め、また、これらのレコードの発売にも厳重な指示を与えたのでありますが、それにも拘わらず、未だに軽佻浮薄、物質至上、末梢感覚万能の国民性を露出した米英音楽レコードを演奏するものが跡を絶たない有様でありますので、今回さらにこの趣旨の徹底を期すため、演奏を不適当と認める米英音楽作品蓄音機レコード一覧表を作って、全国の関係者に配布し、国民の士気の昂揚と健全娯楽の発展を促進することになりました。
  
 この禁止令で、米英音楽の演奏や録音・レコード販売がいっさいできなくなるのだが、戦争が進み敗色が濃くなるにつれて、当局は病的かつヒステリックな取り締まりを強化し、特高Click!の監視は家庭における音楽鑑賞にまで及んでいく。
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 音楽に無知な特高が、家宅捜査でモーツァルトやベートーヴェンなどドイツ・グラモフォンのレコードを押収したり、蓄音機でベートーヴェンを聴いていた人物を連行して暴行を加えたりと、もはや錯乱状態に近い狂奔ぶりだった。ましてや、米国のJAZZレコードを保有していた家庭では、まったく聴けない状況がつづき、戦前に周囲へ漏れていた音の記憶から近隣に密告され、特高に踏みこまれて押収された例さえあった。
 1980年代の終わりから90年代にかけ、「スイングジャーナル」へ『生きているジャズ史』を連載していた油井正一Click!は、特高による「JAZZレコードの押収などなかった」と書いて、さっそく同年代のJAZZ愛好家の読者から反論を受けている。JAZZレコードを隠していた油井正一自身に、そのような個人的体験が運よくなかったからといって安易に敷衍化し、史的事実を丸ごと「なかった」ことにしてはマズいだろう。
 淡谷のり子は、内閣情報局「週報」328号によって、およそ自分の持ち歌のほとんどを否定されたに等しかった。したがって、「オオ・ソレミヨ」や「帰れソレントへ」などのイタリア民謡、アルゼンチンタンゴ、日本の歌曲などをレパートリーにするしかなかった。陸軍からの軍歌吹きこみの依頼を断りつづけ、「ドイツやイタリアで戦う兵士たちのことを思えば、礼装で歌わなければ失礼になる」と、コスチュームの豪華なドレスも脱ごうとはしなかった。
 憲兵隊や特高からは終始目をつけられ、特に憲兵隊からの呼び出しによる嫌がらせは繰り返された。淡谷が書いた「始末書」の高さが、数十センチといわれるゆえんだ。特にステージドレスに関する憲兵隊からの嫌がらせは執拗で、淡谷もついにキレて憲兵隊で激高しようだ。吉武輝子が収録した彼女の言葉を、『ブルースの女王淡谷のり子』(文藝春秋/1989年)から正確に引用すれば、「こんなつまらないことを、兵隊さんがいつまでもグダグダ言ってたんじゃ、戦争に負けてしまいますよ」といってしまった。日米が開戦してから、どれほど日本の戦局が不利になろうが、「戦争に負ける」という言葉は禁句になっていた。うちの親父も学生時代、「どう考えても、(アメリカに)勝てるわけがね~や」と不用意に発言Click!したのを誰かに密告され、現に警察へ引っぱられている。
 淡谷のり子は、即座に憲兵から「非国民!」と恫喝され、憲兵隊の留置所へそのまま入れられそうになった。それに対して、彼女も大声で怒鳴り返している。同書から、そのまま引用してみよう。「なにが非国民ですか。わたしはお上からビタ一文いただかずに、兵隊さんを慰問してまわっていますよ。わたしのように無料奉仕をしている歌手が他にいますか。お調べになってください。なんでそのわたしが、非国民呼ばわりされなくてはいけないんですか」。このとき、担当憲兵もあっけにとられたのか、始末書をとるのも忘れて帰された……と書かれている。
 だが、憲兵隊の取り調べや対応がそれほど甘いとは思えず、おそらく取り調べに当たった憲兵は、慰問では決して軍歌を歌わず内地のステージ姿のまま歌う、「淡谷のり子を派遣してくれ」という前線からの要望が多いことを知っていて、拘束したくても実質できなかったか、あるいは淡谷のり子の戦前からの“隠れファン”だったのではないだろうか。
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 また、憲兵隊からアイシャドウやつけまつげが時局がら不謹慎だと、再三にわたって呼び出されている。これに対して淡谷は、「わたしの顔を見てください。こんなブスが素顔でステージに立って、どうなるというのですか」と応酬し、そのたびに始末書をとられている。舞台上のメイクがもとで、彼女は50枚近くの始末書を憲兵隊に残した。
 淡谷のり子によれば、前線の慰問は陸軍よりも海軍のほうがスマートだったという。兵士たちのリクエストも多く、禁止されていたJAZZやブルース、シャンソンも海軍では暗黙のうちにフリーだった。上海に駐留していた海軍が催したコンサートでは、禁止されていた「巴里祭」や「暗い日曜日」、「別れのブルース」などが次々とリクエストされ、彼女もうっぷんを晴らすかのように1ステージで約50曲も歌いつづけている。当局による禁止曲がリクエストされるたびに、監視官だった海軍将校は席を外し、部屋の外で淡谷のり子の歌にジッと聴き入っていたという。
 陸軍の前線で歌ったとき、見るからに強面(こわもて)の軍刀を下げた陸軍将校が監視官として貼りついていたので、淡谷は当たり障りのない歌曲の「宵待草」や「浜辺の歌」などを歌ってみたが、兵士たちはただ黙って聴き入るだけで拍手はこなかった。おそらく、彼女のヒット曲が次々と聞けると思った兵士たちは、ニラみをきかす監視官のもとで緊張して萎縮し、半ばガッカリしていたのだろう。ところが、「オオ・ソレミヨ」を歌い終わったとたんに、舞台の背後からいっせいに拍手がきた。そこには、英米軍の捕虜たちが30人ほど並んでいた。
 その拍手を機会に、淡谷のり子は陸軍兵士に背を向けると、捕虜たちに向かって歌いだした。アルゼンチン・タンゴや「帰れソレントへ」など数曲歌ったあと、捕虜たちから大きな拍手や喝采をあびた。そのとたん、軍刀の鯉口を切り柄に手をかけた監視官が、舞台上の彼女に「皇軍の兵士に尻を向けて歌うとは何事だ」と迫ってきた。そのときの、淡谷のり子の平然とした言葉が記録されている。「わたしは芸人です。拍手をしてくれた方の方を向くのがあたりまえですよ。だいたい兵隊さんが歌を聴きたいというから、無料で歌っているのに、なんですか、拍手ひとつしないなんて。失礼にもほどがあります」。
 戦地慰問に動員されながら、謝礼をもらわない代わりに決して軍歌や時局歌を歌わない淡谷のり子は、おそらく陸軍の前線じゅうに知れわたっていたのだろう。いまさら軍歌など聴きたくない前線では、彼女が慰問に近くまできていることを知ると、わざわざクルマをまわして、ほんの少しでも兵士たちの前で好きな曲を歌ってくれないかと、大学出らしい将校たちが迎えにくることもあったようだ。
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 叔父の淡谷悠蔵が、平和運動に関わったとして治安維持法違反で特高に逮捕されると、淡谷のり子はさっそく花束とバナナの差し入れに警察署を訪れている。特高が規則で花束はダメだというと、刑事の胸に花束を押しつけ「理由が言えないような規則は、すぐお止めなさい」と怒って帰ってしまった。「昨夜遅く、淡谷のり子が来て、君に花束とバナナを差し入れてくれと言うんだ。監房には規則で花は入れられないと断わったら、そんなくだらない規則はなくしなさいと、叱られてしまってね。気の強い人だね。それでバナナは差し入れて、花は見せるだけにすることにして、やっと帰ってもらったよ」と、律儀な東北人だったらしい特高刑事は、花束を淡谷悠蔵へ見せている。
 さて、このエピソードから72年後の2017年(平成29)6月、膨大な犠牲を払って結果的に獲得できた日本の「戦後民主主義」が、いともたやすく窒息・死滅させられようとしている。このまま状況が進めば、1925年(大正14)5月の「大正デモクラシー」が死滅した時点へと逆もどりだ。警察の恣意的な解釈で、いくらでも国民を(予防)逮捕・拘禁できる監視・恫喝体制、そして国民の主張や異論をいともたやすく威圧し封じこめる手段を手に入れた国家権力は、まさに北朝鮮や中国と同質のものだ。

写真上:モデルになるため、淡谷のり子が下落合から通った長崎の路地。カーブの向こうに、長崎町1832番地(現・目白5丁目)の田口省吾アトリエが建っていた。
◆写真中上は、戦前に撮影された淡谷のり子。下左は、1937年(昭和12)に大ヒットした淡谷のり子『別れのブース』。下右は、翌1938年(昭和13)出版の同楽譜。
◆写真中下は、1945年(昭和20)5月17日にB29偵察機が撮影した下落合と目白・長崎界隈。4月13日夜半の第1次山手空襲Click!が、鉄道駅と幹線道路沿いをねらった様子がよくわかる。は、上記の偵察写真にも写る御留山の谷戸の現状。
◆写真下:下落合や上落合の時代、淡谷のり子は周辺を家族と散策しただろうか。