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松下春雄の「下落合風景」だろうか? [気になる下落合]

松下春雄「風景」1927.jpg
 松下春雄Click!の作品には、どこの風景を描いたのかわからない画面が何点か存在している。それらの作品タイトルは、単に『風景』とつけられて場所の特定がなされていない。なにか特徴的な建物や地形が描かれていれば、比較的に場所の特定は容易だし、当時の松下春雄Click!はこんなところまで写生しに歩いていたのか……と、その活動エリアも透けて見えてくるのだけれど、いくら眺めても思い当たる場所が見つからない作品がある。1927年(昭和2)に制作され、『風景』と名づけられた冒頭の画面もそのひとつだ。
 1926年(大正15)から1927年(昭和2)にかけての当時、松下春雄Click!が住んでいたのは下落合1445番地に建っていた鎌田方Click!の下宿だ。いまだ独身の時代で、淑子夫人Click!とは結婚していない。この時期、盛んに描いていたのは佐伯祐三Click!と同様に「下落合風景」Click!であり、中でも目白文化村Click!と西坂の徳川義恕邸Click!は何度かモチーフに選んで繰り返し制作している。また、ときに椎名町駅から武蔵野鉄道Click!に乗って出かけたのだろう、豊島園Click!の風景作品も何点か見ることができる。
 豊島園の作品として確認できるのは、まず1926年(大正15)制作の『愉しき初夏の一隅』が挙げられる。同園にある洋式庭園の中心に設けられた音楽堂を背景に、子どもたちが遊具で遊ぶ情景を描いたものだ。また、翌1927年(昭和2)になると、ストレートに『豊島園』とタイトルされた2点の風景作品が残されている。さまざまな花々が咲き乱れる中を、ふたりの女の子が歩いている光景だ。ふたりの少女は、特にモデルがいるわけではなくイメージなのだろう、徳川邸のバラ園を描いた作品(『徳川別邸内』Click!)や、目白文化村の第一文化村水道タンクを描いた作品(『五月野茨を摘む』Click!)にも、同じようなコスチュームで登場している。いずれの作品も、水彩で描かれたものだ。
 このころの松下作品は、いまだ水彩がメインであり油彩作品はまれに見られる画面だった。そして、冒頭の1927年(昭和2)に制作された『風景』は、当時ではめずらしい油彩の画面だ。この時期に見られる表現の流れからとらえると、この画面は下落合か豊島園のどちらかにありそうな風景を描いたもの……と考えたくなる。だが、そのどちらにも思い当たる描画ポイントがないのだ。
 画面を観察すると、まず左手前の妙な建物が目につく。コンクリートらしい質感で建てられた、2階建てらしいモダンな建築なのだが、大小の煙突が2本、平坦な屋根を突き破って空へ伸びている。どことなく病院か工場を思わせる風情だが、きわめて特徴的でめずらしい建築だ。松下春雄は、かなり高い位置から見下ろすように家々を描いており、画面に描かれた家は西洋館が多いように見える。遠景にとらえられた、おそらく下見板張りとみられる緑色の壁面をした洋館や、赤い屋根にベージュの外壁をした西洋館は、まるで目白福音教会Click!の敷地内に建てられた、2棟の宣教師館Click!のようなデザインだ。また、中央に描かれたモダンなデザインの住宅は、第二文化村から下る振り子坂の途中に建っていた「モダンハウス」Click!のようなデザインをしている。
愉しき初夏の一隅1926.jpg
豊島園絵はがき.jpg
豊島園(昭和初期).jpg
 画面の地形は、手前の崖線から急激に落ちこんでいるが、右手前方に向かって再び盛り上がっているように見える。つまり、見下ろしている家々は、南に向かって浅い谷間のように窪んだ地勢に建っているようだ。光線は左寄りの背後から射しており、家々の屋根の向きを考慮すると左手が南東、または南の方角になりそうだ。陽射しは比較的強く、太陽が傾いた夕方のようには見えない。どこか下落合にありそうな風景に見えるけれど、1927年(昭和2)現在でこのような家々や地形は、山手線が走る線路際の東端から中井御霊社Click!のあるバッケClick!の西端まで、思い当たる場所が見あたらない。
 そもそも下落合の西部には、いまだ住宅の数がきわめて少ない昭和最初期の作品だ。だから、比較的家々が数多く建ち並ぶ下落合の東部から中部にかけてを疑ったのだが、この画面が描かれてから9年後、1936年(昭和11)に撮影された空中写真を仔細に観察しても、似たような地形の箇所は発見できるが、このような配置で家々が建ち並ぶエリアは存在していない。また、コンクリート建築と思われる屋根から、煙突が2本突き出ていた家の伝承も、わたしは聞いたことがない。これほど特徴的な建物なら、どこかのエピソードに登場してもよさそうなのだ。
 さらに、わたしは豊島園周辺の風景を疑った。この時期、松下春雄は豊島園を頻繁に訪れているようであり、同園の南側には旧・米沢藩(上杉家)の人々が集まって結成した「城南住宅組合」が、1924年(大正13)2月から豊島城跡(のち豊島園)の南側へ「城南田園住宅」Click!の造成をはじめていたからだ。だが、その住宅街をいくら見まわしても、屋根から煙突が2本突き出た家や、描かれたような西洋館群の家並みを確認することができないし地形も一致しない。しかも、大正末の郊外住宅地だった城南田園住宅だが、西洋館よりもどっしりとした日本家屋が目につく街並みだった。
豊島園1927_1.jpg
豊島園1927_2.jpg
風景1926頃.jpg
 もうひとつ、松下春雄には不思議な作品が残されている。周囲を木々に囲まれた中に、突如として辰野金吾Click!が設計したような、おそらくレンガ造りの巨大な西洋館がポツンと描かれている作品だ。1926年(大正15)制作の『風景』と題された水彩作品だが、このような情景も下落合には存在しない。最初は、第一文化村の東側に建っていたレンガ造りの大きな箱根土地本社のビルを疑ったが、同社に尖塔は存在していないし周囲の情景が明らかに異なっている。手前に1本の煙突のみが描かれているが、煙突を必要とする建物自体が存在しないのも妙な光景だ。このような建築は、当時の豊島園の園内とその周辺にも存在していない。
 念のため、松下春雄が旅先でスケッチした風景ではないかと考え、長女にあたる山本和男様・彩子様Click!夫妻の手もとに保存された昭和初期の4冊のアルバム類を参照しても、これらの画面に見あう風景は発見できなかった。アルバムには、やはり独身時代よりも淑子夫人Click!と結婚してから撮影したもののほうが多く、旅先の写真も出身地の名古屋をはじめ、我孫子や伊勢・志摩と限られたものしか残されていない。
 松下春雄は、モチーフに選んだ情景をほぼそのまま画面に写す画家だと思われ(イメージとして添加されるふたりの少女は別にして)、たとえば松本竣介Click!のように街角を切り取って自在にコラージュし、またはデフォルメしつつ“構成”しなおして表現する画家ではないはずだ。でも、ときにそのような試みをしていなかった……とはいいきれない。特に大正末から昭和初期にかけ、水彩から油彩へと向かう表現の過渡期であったことを前提に、また冒頭の『風景』(1927年)がめずらしく油彩表現であることを考えあわせると、可能性がゼロとはいえないのではないだろうか。あるいは、わたしの知らない松下春雄の出身地、つまり名古屋の風景を写したものだろうか?
松下春雄192207.jpg
サンサシオン展19280415-19.jpg
鬼頭鍋三郎「風景」1929頃.jpg
 もし1927年(昭和2)制作の『風景』が当時の下落合の実景だとすれば、きわめて短期間しか存在しなかった街並みではないか?……という可能性も、わずかながら残っている。同年にはじまった金融恐慌は、翌年から世界的なレベルでの大恐慌へと向かい、下落合に建っていたオシャレな家々もその影響を受けたのか、街並みが少なからず変化していく時代でもあるからだ。

写真上:1927年(昭和2)に制作された、キャンバスに油彩の松下春雄『風景』。
◆写真中上は、1926年(大正15)に豊島園で描かれた松下春雄『愉しき初夏の一隅』。は、昭和初期に作られた豊島園の音楽堂から洋風庭園あたりの人着絵はがき。は、昭和初期に斜めフカンから撮影された豊島園と城南田園住宅。
◆写真中下は、1927年(昭和2)に描かれた松下春雄『豊島園』。は、1926年(大正15)ごろに制作された描画場所が不明な『風景』。
◆写真下は、1922年(大正11)7月に撮影された本郷洋画研究所時代の松下春雄。は、1928年(昭和3)4月15~19日に愛知県商品陳列所で開催された第5回サンサシオン展の記念写真。前列左から遠山清・松下春雄・不詳で、後列左から鬼頭鍋三郎Click!・不詳・加藤松三郎。は、1929年(昭和4)ごろに制作された鬼頭鍋三郎『風景』。まだ葛ヶ谷(西落合)Click!へアトリエを建てていない時期だが、下落合1385番地に住んでいた松下夫妻の新居には顔を見せていたと思われ、「下落合風景」Click!の可能性がある1作。