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妙正寺川沿いのトマトが消えるわけ。 [気になる下落合]

トマト畑1.JPG
 山元恵一は、下落合4丁目2080番地の名渡山愛順アトリエClick!に住んでいるとき、すぐ南側にアトリエをかまえていた金山平三Click!から「ガンジー」のあだ名をもらっている。そのせいか、中井駅前の喫茶店「ワゴン」Click!のママ・萩原稲子Click!からも「ガンジー」と呼ばれていたらしい。
 そう証言しているのは、今年(2017年)3~4月に沖縄県立博物館・美術館で開催された「山元恵一 まなざしのシュルレアリスム」展図録に収録された、仲嶺康輝Click!『学生時代の山元恵一君』の中でだ。その部分を、同図録から引用してみよう。
  
 山元君は「マドロスの歌」が大変すきで下落合のアトリエでもよく歌っていた。中井駅の近く、川のそばに「ワゴン」という小さな音楽喫茶の店があった。ここの経営をしているマダムは詩人萩原朔太郎氏と別れた女で話もなかなかすきな人だったので時にはこの喫茶店に行った。南風原朝光さんの家から近かった。当時熊岡美彦画伯に師事して油絵の勉強をしていた笹岡了一さんも近くにいたので「ワゴン」によく来た。いつの間にか友達になってお互いのアトリエに行き来した。たしかこのマダムは笹岡さんと一緒になったと記憶している。/山元君は学生時代から色が黒くてやせていたので金山平三先生が山元君に、君の顔はガンジーに似ているねといってとうとう自他ともにガンジーで通っていた。喫茶店のマダムも山元君が来ないときはガンジーはどうしたのと言っていた。
  
 まず、笹岡了一が1935年(昭和10)に結婚したのは、秋元松子であって萩原稲子ではない。萩原稲子がいっしょになったのは、彼女と萩原朔太郎との間にできた娘・葉子によれば、神楽坂にいた詩人・三富朽葉Click!の甥である三富某という画学生だった。
 また、下落合3丁目1909番地にあった「ワゴン」Click!のすぐ南側、妙正寺川に架かる寺斉橋Click!の付近には、画家たちが入りやすい借家(アトリエ付きだったかもしれない)があったものか、大正末には林重義Click!(上落合725番地→716番地)や、林武Click!(上落合725番地)が住みついている。1930年代ともなると、あちこちに集合住宅なども建っていたとみられ、アパートメント静修園Click!のように独立美術協会Click!に出展する画家たちが集まって暮らしていたところもあった。
 さて、名渡山愛順アトリエ(一原五常アトリエ)あるいは林明善アトリエにいた仲嶺康輝たちは、ときどき周辺を散歩がてら写生をして歩いている。ときには、妙正寺川沿いを歩いて北上し、練馬街道(大正期からの長崎バス通りClick!のことで江戸期の練馬街道とは少しズレがある)へ出ると、そのまま武蔵野鉄道沿いに歩いて練馬区に開園した豊島園まで歩いていくこともあった。往復16kmほどの行程になるけれど、当時の歩き慣れていた貧乏学生たちには、たいした距離には感じなかっただろう。
牧野虎雄「麦秋」1933.jpg
名渡山愛順.jpg 山元恵一.jpg
山元恵一「貴方を愛する時と憎む時」1951.jpg
 当時の妙正寺川沿いには、1933年(昭和8)に牧野虎雄Click!『麦秋』Click!に描いたような麦畑が一面に拡がり、それに混じって野菜畑が散在するような風情だったろう。野菜畑の中には、日本人の味覚にあうよう昭和初期に盛んに品種改良がつづけられていた、トマト畑も多くあったらしい。バッケが原Click!付近の農家では、ときどきトマトがごっそりと摘みとられているのに気づいていた可能性がある。あたりでは、北原橋西詰めの上高田422番地に建っていた故・虫明柏太アトリエに住む、いかにも貧乏所帯そうな中出三也Click!甲斐仁代Click!が、疑いの目で見られていたかもしれない。w
 だが、トマトを失敬してったのは、付近を散策する下落合からやってきた画学生たちだった。同図録より、再び仲嶺保輝の文章を引用してみよう。
  
 西村菊雄君は僕と同じく帝国美術学校に入ったが父西村助八の死亡やら自分の病気やらで美校を最後まで行かずにやめてしまった。妙正寺川のほとりは農家が点々として麦畑、トマト畑があった。豊島園(練馬区)までは約8キロ位の所で山元・西村・僕と散歩しながら、途中農園のトマトを失敬して食べたりして夏休みの或る日出かけた。もとより三人ともお金は殆ど持っていない。表門まで行ったら入園料が高くて入れないので入園をあきらめて園の周囲をめぐり金網の外から、又木々の間から遊んでいる人達を見た。広大な園の周囲を廻っているうちに園内から流れて外へ注ぐ川の石垣の所まで来た。その川の水面と金網との間は水位が低くなって人間が通れる位の所なので、又その附近誰も通っていない裏路にあったので三人はそこから園内にしのび込んだ。金はないので池のボート遊びや様々の遊園施設を横目で見ながら唯見学だけしていた。
  
 当時のトマト栽培は、もちろんビニールハウスなど存在しないので露地栽培だったろう。上高田も近い妙正寺川の周辺は、大正末から耕地整理がスタートしていたはずだが、1930年代になってもいまだあちこちに畑地が残る風情だった。
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沖縄画家散歩コース.jpg
トマト畑2.JPG
 豊島園は、1927年(昭和2)に全面開園した郊外遊園地で、近くに住む人々の人気を集めていた。もちろん画家たちも、モチーフ探しに豊島園へと通っていたようだ。下落合の画家では、豊島園の風景を連作していた松下春雄Click!が知られている。もっとも、松下春雄は淑子夫人Click!子どもたちClick!を連れてピクニック気分で、豊島園を訪れる機会が多かったのかもしれない。3人の画学生は、帝展でもチラホラ見かけはじめた「豊島園風景」に興味を持ち、下落合から歩いていったものだろうか。
 名渡山愛順アトリエを出なければならなくなった3人は、林明善アトリエの仲嶺康輝をはじめバラバラに住むようになるが、どうやら同じ落合地域かその周辺域に住んでいたようだ。同図録の仲嶺康輝『学生時代の山元恵一君』には、「山元君とは美校も住居も別れたが徒歩で10分位の所でお互いは良く行ったり来たりした」と書かれているので、手もとの山元恵一年譜では住所まで確認できないけれど、おそらく下落合か上落合の借家に住みつづけていたのだろう。
 また、同じころ沖縄出身の若い画家たちが集まって「沖縄美術協会」を結成している。同協会には山元恵一、仲嶺康輝、西村菊雄、南風原朝光、兼城賢章、渡嘉敷唯盛らが参加し、1934年(昭和9)6月に神田の東京堂2階でグループ展を開催している。当時の様子を、1986年(昭和61)に発行された「新生美術」5月号収録の、仲嶺康輝『東京市淀橋区下落合時代の思い出』から引用してみよう。
  
 下落合時代には、山元恵一、大城皓也、兼城賢章、西村菊雄らと神田の東京堂二階で、沖縄美術協会として展覧会をやり在京沖縄県人の方々から激励された事もあった。名渡山愛順は光風会展や帝展に出品の度に作品のキャンバスを巻いて沖縄から持参して私のいる林画室に泊った。/夏には、多摩美の水垣正・鹿島守久・細木原茂直・本間淳夫らと一しょに、名渡山愛順がよく裸婦制作をしたモデル嬢もつれて、海の銀座片瀬、江ノ島へ出かけた事もあった。
  
 名渡山愛順が連れ歩いていたお気に入りのモデルも、東京美術学校Click!や帝展の画家たちからはお馴染みの、宮崎モデル紹介所Click!に所属していたのかもしれない。
南風原朝光.jpg 大城皓也.jpg
南風原朝光「野菜と果物」1940.jpg
大城皓也「ニシムイを望む」1964.jpg
 最後に余談だけれど、仲嶺康輝たち3人は名渡山愛順とは同級生だった島津一郎Click!をときどき訪ねていたようだ。島津源吉邸Click!内にある吉武東里Click!が設計したアトリエClick!は、まちがいなく訪問したことが書かれているが、1938年(昭和13)現在、下落合4丁目2091番地にある松本竣介アトリエClick!の東隣りに記録された、島津一郎の自邸を訪ねていやしないだろうか。島津アトリエは現存することもあり、その建設経緯や詳細は知られているけれど、松本竣介アトリエの東隣りに独立して建てられていた島津一郎邸は、いまだよく知られていない存在なのだ。このあたり、名渡山愛順が詳しいだろうか。

◆写真上:妙正寺川沿いから、目白学園の丘を眺めたところ。同学園の南にある中井御霊社のすぐ下に、林明善アトリエは建っていた。画学生3人は、この丘のバッケ(崖地)を下りると、川沿いに北(画面左手)へ向かって歩いていった。
◆写真中上は、1933年(昭和8)制作の牧野虎雄『麦秋』。は、名渡山愛順()と山元恵一()。は、1951年(昭和26)制作の山元恵一『貴方を愛する時と憎む時』。
◆写真中下は、1973年(昭和48)に制作された山元恵一『若夏』。は、画学生たちが豊島園へ向け下落合から西落合を抜けて歩いた、腹が減ったときトマト食い放題のウキウキ散歩コース。は、いまも妙正寺川沿いにはアトリエ建築が残る。
◆写真下は、南風原朝光()と大城皓也()。は、1940年(昭和16)制作の南風原朝光『野菜と果物』。は、1964年(昭和39)制作の大城皓也『ニシムイを望む』。沖縄の那覇市首里儀保町には、「ニシムイ」と呼ばれる画家たちの美術村があった。

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『蘇州夜曲』じゃなくて『春の唄』。 [気になる下落合]

八ノ坂.JPG
 下落合に集った沖縄の画家たちについて、仲嶺保輝Click!の回顧エッセイを引用しながらご紹介してきた。その中に、こんな記述がある。1986年(昭和61)に発行された「新生美術」5月号(新生美術協会)収録の、仲嶺康輝『東京市淀橋区下落合時代の思い出』より引用してみよう。
  
 私のいた林明善画室の隣には、早大法学部長寺尾元彦がいて、油絵を習いたいからといって、油絵具一揃いを買い、休日などによく絵を描きに来られた。/寺尾部長は、早大法学部内に沖縄の人で優秀な教授がいると話して下さった。この人が後の早大総長大浜信泉である。/林画室の入口近くには、歌手の渡辺はま子が月村という表札と並んで住んでいて、そこを通る時、よくピアノと歌声が聞こえて来た。中井駅に行く途中には小説家の吉屋信子がいてよく犬を連れて散歩しているのを見かけた。
  
 この文章によれば、下落合4丁目2162番地(現・中井2丁目)の林明善アトリエClick!の隣りには、「渡辺はま子」が住んでいたことになっている。だが、昭和初期に生まれた方ならすぐにもピンときて、「そりゃ、渡辺はま子じゃなくて、同じ歌手にはちがいねえけど渡辺光子さ。下落合に山口淑子(李香蘭)Click!だけじゃなくて、渡辺はま子までがそろってたら、もう仕事してる場合じゃないぜ!」となるだろう。w
 仲嶺康輝は、「月村」という表札を見ているにもかかわらず、渡辺光子(月村光子)と渡辺はま子をとりちがえている。しかもピアノの音や歌声が聴こえていたのなら、すぐにも曲や歌声から渡辺はま子ではなく、渡辺光子のほうだと気づいていたはずだ。わたしの親の世代から上の方で、特に当時の芸能界に詳しくない方だったとしても、ちょっとありえない、考えられない人ちがいだろう。
 事実、第二文化村Click!に通う坂道の途中、下落合1725番地には山口淑子(李香蘭)邸Click!(事務所が設定した“公邸”ではなく、おそらく私邸あるいは実家)があったので、同じ下落合の町内に渡辺はま子までが住んでいたら、町内の男子たちは落ち着かずウキウキ気分になりっぱなしになったのではないか。およそ、九条武子Click!宮崎白蓮Click!の人気どころではなかっただろう。ましてや、山口淑子(李香蘭)のようにときどき近所を散歩して文化村の住民に目撃されてたりすると、周囲の学生や青年、ヲジサンたちはいつもソワソワと散歩に出たがったにちがいない。w 親父も、有楽町界隈の話になると思いだしては話してくれたが、のちのコンサートでは入場待ちの観客が日劇のまわりを3周Click!も取り囲むような、超人気の女性たちだった。
 仲嶺康輝が林明善アトリエにいたころ、ふたりの人気は映画あるいは音楽(レコード)、ステージ、ラジオ番組などを通じてウナギ上りだった。いまの若い子たちには、まったくピンとこないかもしれないけれど、「結婚したい女性ランキング2017」(リクルート社調べ)で、1位の綾瀬はるかと2位の新垣結衣が同じ町内に住んで、ときどき近所を散歩している……というようなインパクトを想像してもらえば、少しはおわかりいただけるだろうか。しかし、残念ながら中井御霊社Click!の下、下落合4丁目2162番地の邸に住んでいたのは、渡辺はま子ではなく渡辺光子(月村光子)のほうだった。
 わたしは、親父が口ずさんでいた渡辺はま子の『蘇州夜曲』『支那の夜』や李香蘭のそれらは、ワンフレーズぐらいしか唄えないけれど、渡辺光子(月村光子)のヒット曲のひとつ『春の唄』Click!は、最後までつづけて唄える。いや、戦後に中学校や高校の音楽教科書にも採用されたので、わたしだけでなく多くの方が唄えるのではないだろうか?
新生美術198605.jpg 渡辺光子.jpg
渡辺はま子ブロマイド.jpg 李香蘭.jpg
 ♪ラララ赤い花束 車に積んで
 ♪春が来た来た 丘から町へ
 ♪すみれ買いましょ あの花売りの
 ♪かわい瞳に 春のゆめ
 月村光子は『春の唄』のほか、『旅は青空』『時雨ひととき』『街の流れ鳥』などの歌が次々とヒットし、一気に流行歌手の仲間入りをしている。彼女は、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽部)で教師をするかたわら、さまざまな歌手名を使い分けながら歌謡曲を連続ヒットさせる、非常にめずらしい存在だった。芸名だけでも、渡辺光子(結婚後は月村光子)をはじめ川島信子、川瀬綾子、川辺綾子、川辺葭子、島津千代子、田辺光子、綾小路満子、フローラ瑠璃子、水浪澄子、水野喜代子、春海綾子、中村春枝……etc.と、本人も混乱したのではないかと思えるほど、たくさんの歌姫名を持っていた。戦後は、生まれ故郷の東京を離れ、関西の宝塚音楽学校で歌謡の教師をつとめている。
 さて、少し余談だけれど、渡辺光子(月村光子)よりもケタちがいに人気があった渡辺はま子は、仲嶺康輝が林明善アトリエに住んでいた1936年(昭和11)、『忘れちやいやヨ』Click!をレコーディングしている。早稲田大学の応援歌発表会に招かれて、同曲を唄ったところ大好評でヒットのきざしが見えはじめた矢先、突然、内務省から「あたかも娼婦の嬌態を眼前で見るが如き歌唱、エロを満喫させる」とされて、上演禁止とレコードの販売禁止を命じられた。当然、それを機会に同省の特高警察Click!からも目をつけられただろう。だが、彼女は曲名を変え歌詞の一部を変更するだけで唄いつづけ、わずか3ヶ月足らずでレコード売上げ15万枚という大ヒットを記録している。
月村光子邸跡.JPG
月村光子「名曲玉手箱」.jpg
月村光子「想ひ出の月影」.jpg
 当時、新宿を中心とした“都の西北”界隈では内務省および特高警察、さらには軍部からの思想・宗教弾圧Click!や、さまざまな生活・メディア・芸術表現への抑圧・統制・干渉Click!を眼前にして、次のような『東京行進曲』の替え歌がひそかに唄われていた。
 ♪昔恋しいワセダの自由
 ♪今の暴圧だれが知る
 ♪モガと踊つてビラ張つて更けて
 ♪明けりや処分の涙雨      (歌詞採集:今和次郎Click!)
 ちなみに、昭和初期の治安維持法ならぬ現在の「共謀罪」が施行されれば、いつなんどき国家や警察の恣意的な規定で、このような状況に陥ってもなんら不思議ではない危機的な状況を迎えていることに、決して鈍感でいてはならないだろう。
 さて、仲嶺康輝が渡辺光子(月村光子)邸の隣りに住んでいた前後、彼は周辺に拡がる風景を仲間とともに写生してまわり、いくつか「下落合風景」のタブローを仕上げている。今年(2017年)の春に開催された「山元恵一 まなざしのシュルレアリスム」展図録(沖縄県立博物館・美術館)に収録の、仲嶺康輝『学生時代の山元恵一君』から引用してみよう。
  
 今の中井附近は、家が建ちならび、昔の風景は見られないが当時は武蔵野の特色である欅林や麦畑、野菜畑、竹林等があり人家が所々にあったので、我々はよくこの附近の風景を描きに行った。油絵の風景も描くが何といっても絵の基礎はデッサンである事を忘れなかった。/小林萬吾先生の画塾である「同舟舎洋画研究所」に行くのは中央線の東中野駅まで20分位歩いて国電に乗り信濃町駅で下車して、これから又20分歩いて小林萬吾先生の研究所に通った。ここの研究所も川端画学校と同じく各県から来た美術浪人がいて、ここは約20人位いた。
  
 もし、彼らが描いた「下落合風景」が残っていれば、いまでは貴重な作品群となっただろう。広い下落合の東部や中部を描いた作品は比較的多いが、中井御霊社のある西端近くを描いた作品はかなり少ないからだ。下落合を歩きまわっていた佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!でも、下落合の西端を描いた作品は2~3点しか見つからない。
月村光子邸1938.jpg
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新宿東口喫茶店.jpg
 このサイトでは、落合地域に住んだ芸術家(おもに画家や作家など)は数多く取り上げてきているけれど、音楽家にはこれまであまりスポットを当てずにスルーしてきた。多彩な資料をひっくり返していると歌手や演奏家、作曲家などのネームに出あうことがあるので、これからは気づいた時点で少しずつご紹介できればと考えている。

◆写真上:八ノ坂を下から見上げたところで、下落合4丁目20162番地の林明善アトリエや月村光子(渡辺光子)邸は、左手の路地を少し入ったところに建っていた。
◆写真中上上左は、1986年(昭和61)発行の「新生美術」5月号。上右は、渡辺光子(月村光子)のブロマイド。は、渡辺はま子()と李香蘭()のブロマイド。
◆写真中下は、渡辺光子(月村光子)が住んでいたあたりの現状。手前左の早大教授の寺尾元彦邸跡と、奥の林明善アトリエにはさまれるような位置に「月村」の表札が出ていた。月村光子のレコードレーベルで、『名曲玉手箱』()と『想ひ出の月影』()。
◆写真下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる月村光子(渡辺光子)邸あたり。以前にも書いたが、「火保図」は寺尾元彦邸の形状を誤採取している。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる月村光子邸。は、画塾へ通った仲嶺康輝たちがコーヒー1杯で2時間以上ねばった新宿の喫茶店。左手が新宿駅舎なので、東口駅前の東京パンの2階にあった喫茶部から山手線方向を向いて撮影している。

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金山平三のパーティで踊る仲嶺康輝。 [気になる下落合]

林明善アトリエ跡.JPG
 1934年(昭和9)になると、沖縄からの画学生だった仲嶺康輝は、蘭塔坂Click!(二ノ坂)上にある名渡山愛順が借りていた下落合4丁目2080番地の一原五常アトリエClick!から、下落合4丁目2162番地の林明善のアトリエへと転居している。林明善は、片多徳郎Click!に師事した名古屋出身の洋画家で、帝展を中心に活躍していた。
 林明善は、名古屋市中区の古渡町にある犬御堂(現在は道路拡張にともない廃寺)という寺にいて、僧職をつとめながら帝展へ出品する異色の洋画家だった。ほとんどを名古屋の寺ですごすのだが、帝展や第一美術展の時期が近づくと、下落合の2階建てスレート葺きのアトリエへやってきては作品を仕上げていた。仲嶺康輝は林明善が名古屋にいる間、アトリエの“留守番”として住みこみの管理人となったわけだ。林明善アトリエのあった下落合4丁目2162番地は、中井御霊社Click!のちょうど南斜面、目白崖線の最西端にあたる八ノ坂の西に接するエリアだ。吉屋信子Click!が、1928年(昭和3)夏の散歩で歩いた中ノ道(現・中井通り)の途中、「牛」Click!を撮影したポイントの左背後の斜面に、林明善アトリエは位置している。
 このアトリエで留守番をしてすごしている1935年(昭和10)10月、仲嶺康輝はゴタゴタつづきの帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)から、牧野虎雄Click!の奨めで多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)へと転校している。牧野は当時、多摩美校の初代洋画部長をつとめていた。同じころ、仲嶺は山元恵一と西村菊雄の3人で連れ立って、下落合1丁目404番地(現・下落合2丁目)の近衛町Click!へ、自邸とアトリエClick!を新築した安井曾太郎Click!を訪ねている。帝展画家たちとの交流が多かった3人にしてみれば、二科の安井曾太郎を訪問したのはめずらしく、特に小林萬吾の同舟舎洋画研究所へと通い、のちにシュルリアリスムへと進む山元恵一は、美校や画塾でのアカデミックな表現にウンザリしていただろうか、安井の画面が新鮮に感じられたかもしれない。
 1986年(昭和61)に発行された「新生美術」5月号収録の、仲嶺康輝『東京市淀橋区下落合時代の思い出』から引用してみよう。
  
 山元・西村と私の三人は目白駅の近くにいた安井曾太郎のアトリエを訪ねた事がある。なかなかアトリエを人に見せないので有名だが、沖縄から洋画の勉強に来た事を話したらアトリエを見せて下さって茶菓子を頂き激励して下さった。
  
 安井曾太郎は、「アトリエを人に見せないので有名」と書いてあるけれど、山口蚊象(のち山口文象Click!と改名)設計のアトリエはかなり自慢だったらしく、当時の建築雑誌や美術雑誌などの取材に応じてはアトリエ内を公開している。
林明善アトリエ1936.jpg
七の坂-八ノ坂1938.jpg
中井御霊社稲荷.JPG
 さて、下落合西部のアビラ村には、下落合2080番地の金山平三Click!や下落合741番地の満谷国四郎Click!後藤慶二Click!が設計した大久保百人町のアトリエに住んでいた南薫造Click!などが大正末に呼びかけて以来、帝展を中心とする画家たちが集合しはじめていた。名渡山愛順が一原五常アトリエを借りていたのは、おそらく東京美術学校で島津一郎Click!と同級生だった縁からだろう。当時の様子を、同誌からつづけて引用してみよう。
  
 この近くには、島津製作所の社長島津源吉の数千坪の屋敷に豪邸があった。その社長の息子に島津一郎がいた。一郎は、名渡山愛順と同級生で、そのため我々も懇意の中となり、よく一郎のアトリエに遊びに行った。一郎のアトリエは、島津家の大きな家敷(ママ)の一隅に、大きな住宅のような建物を持ち、よく専属モデル嬢を使って制作していた。刑部人の奥さんは一郎の姉で、島津家の広大な家敷の一角に邸宅を与えられていた。刑部人の息子祐三は、名渡山愛拡と美校時代の同級生と聞く。
  
 ここで、このサイトではおなじみの名前が次々と登場している。島津源吉邸Click!の庭にある、噴水の北側に建設された島津一郎アトリエClick!についてや、下落合4丁目2096番地の刑部人アトリエClick!、また、ここの記事ではよく写真やコメントを紹介させていただいている刑部佑三様Click!が、名渡山愛擴(拡)の同窓生とは存じ上げなかった。
 また、仲嶺康輝が下落合4丁目2080番地の名渡山愛順アトリエ(一原五常アトリエ)に、山元恵一たちと寄宿していたころの思い出として、次のような文章を書いている。今年(2017年)3~4月に、沖縄県立博物館・美術館で開かれた「山元恵一展 まなざしのシュルレアリスム」展図録の、仲嶺康輝『学生時代の山本恵一君』から引用してみよう。
  
 私達の住んでいるアトリエから金山先生のアトリエまでは約7、80米、そこから中井駅まで約200米あって、この200米位のまがった坂道はスペインのアビラ村に似ているというわけで、金山先生がアビラ坂と名付けられた。私達はよく金山先生のアトリエにも遊びに行ったが、ここからは中井(西武線)の駅は、すぐ下にあって、ここを隔て、南側の向いが上落合で、上落合の欅の木々の間から遠く新宿の建物が見られた。上落合には南風原朝光さんが家族と一緒に住んで居られ、我々はよく遊びに出かけ南風原さんも亦我々のいるアトリエに来られた。
  
二ノ坂上.JPG
金山アトリエパーティ.jpg
制作中の金山平三.jpg
 仲嶺康輝が、下落合4丁目2162番地の林明善アトリエに住んでいるとき、1936年(昭和11)の二二六事件Click!に遭遇している。その文章の中で、「学校へ行くために中井駅まで行ったら、東京の全交通機関はストップ」と書いているけれど、明らかに勘ちがいだろう。つい先日も二二六事件Click!の朝、西武線の中井駅から山手線、中央線と乗り継いで登校した名取義一の文章Click!をご紹介したばかりだ。
 前夜からの大雪で電車に遅れは出ていたかもしれないが、東京各地の省線や私鉄はいつもどおり運行されており、それに乗って登校あるいは出社した人々の証言は、これまで何度もここでご紹介している。東京市に戒厳令がしかれ、芝浦に海軍の陸戦隊が上陸して一触即発の状況となった後日の出来事と、2月26日当日の朝の出来事とを混同しているのではないだろうか。
 仲嶺康輝は年末が近づくと、金山平三アトリエClick!で催される忘年会(ダンスパーティ)Click!へ出席するため、友人たちと踊りの練習に熱中した。もちろん、沖縄舞踊の出し物だったが、金山平三が沖縄舞踊に惹かれて自身でも踊るClick!ようになったのは、近くにいた名渡山愛順や、沖縄の若い画学生からの影響だったのかもしれない。再び「新生美術」5月号収録の、仲嶺康輝『東京市淀橋区下落合時代の思い出』から引用してみよう。
  
 私が留守番をしていた林画室は、友人・知人がよく来訪し、忘年会の時には皆が肉や魚や酒等を持って来てくれて若き日を楽しんだ。金山平三のアトリエでは、忘年会には、有名な画家(おもに帝展系)が集まってダンスパーティーをやった。私は郷里の青年で村芝居の経験のある数人を深川から林画室に来てもらって、リハーサルをし、金山平三の広いアトリエの作品を別室に片付けての忘年会に沖縄の舞踊を特別出演させたら大変な拍手であった。
  
 やがて、林明善アトリエには画学生の小林久や荻太郎が、愛知県からやってきて同居するようになる。だが、学校を卒業したあとも、そのまま林明善アトリエに住みつづけられると思っていた仲嶺康輝は、ほどなく1938年(昭和13)3月に林明善の訃報を受けとり驚愕している。林は、いまだ40歳の若さだった。
 のちに、アトリエは林明善の鈴子夫人が同じ名古屋出身の洋画家・遠山清に売却し、仲嶺は下落合から出ていかざるをえなくなった。彼は中野区鷺宮1丁目に土地を借りて、20坪ほどの小さな赤レンガ造りの平屋アトリエを建設している。
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七ノ坂-八ノ坂1960.jpg
御霊坂階段.JPG
 仲嶺康輝が暮らした林明善アトリエの西、バッケClick!下(現・御霊坂のある位置)には、下落合と上高田の境界となる妙正寺川が流れていた。その両岸には、麦畑やトマト畑が拡がっていたのだが、紅く実ったトマトを失敬するトマト泥棒が出没している。川沿いのトマト畑が、点々と被害に遭っているようなのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:中井御霊社の下、下落合4丁目2162番地の林明善アトリエ跡。(左手奥)
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる林明善アトリエで、仲嶺康輝が住んでいた時期と重なる。は、1938年(昭和13)の火保図にみる林明善アトリエ。「火保図」では東隣りの寺尾元彦邸(早大法学部長)とくっついているように採取されているが、実際には別棟で同図の誤採取。は、中井御霊社に合祀されている稲荷社。社殿左側の、急激に落ちこんでいる斜面の真下が林明善アトリエ。
◆写真中下は、二の坂上の名渡山愛順アトリエ(一原五常アトリエ)側から眺めた、突き当たりの金山平三アトリエ跡。は、金山アトリエで毎年開かれた忘年会の芝居+踊り+仮装パーティーで、左端が変装した金山平三。は、十和田で制作中の金山平三。(中島香菜様Click!から提供いただいた「刑部人資料」より)
◆写真下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる旧・林明善アトリエ。は、1960年(昭和35)の「東京都全住宅案内帳」(住宅協会)にみる同界隈の様子。は、当時の画家たちも目にしていたと思われる中井御霊社から西側へと下る大谷石のバッケ階段。

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沖縄の画学生が集った一原五常アトリエ。 [気になる下落合]

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 下落合4丁目2080番地(現・中井2丁目)には、帝展の洋画家・一原五常Click!がアトリエを建設して住んでいた。おそらく下落合西部の、東京土地住宅Click!によるアビラ村構想Click!により、帝展の画家たちに誘われて昭和初期にアトリエを建てているとみられる。だが、1925年(大正14)に東京土地住宅が破綻してアビラ村事業Click!の継続ができなくなり、一原五常自身が絵画制作だけでは生活が苦しかったのか鹿児島に職を見つけて転居してから、一原アトリエは貸し家となった。そこへ1927年(昭和2)ごろ住みついたのが、沖縄出身の洋画家・名渡山愛順だった。
 名渡山アトリエとなった家には、近所に住んだ金山平三Click!島津一郎Click!などが出入りしたが、沖縄からやってきた画家の卵たちが寄宿するようになる。1931年(昭和6)には、東京美術学校をめざす仲嶺康輝や山元恵一、西村菊雄らが名渡山アトリエに住み、小林萬吾Click!の同舟舎洋画研究所に通っている。
 このあたりの経緯は、1986年(昭和61)に新生美術協会が発行した「新生美術」5月号所収の、仲嶺康輝『東京市淀橋区下落合時代の思い出』に比較的詳しく書かれているのだが、仲嶺におよそ東京の土地勘や地場の記憶がないせいか、この文章には不正確で妙な記述や誤りが目立つ。たとえば、文章の出だしからして、わたしはひっかかってしまった。
  
 昭和二十年三月九日の夜から翌十日朝にかけ米機B29による東京大空襲は、多大の被害をもたらし、帝都は一夜にして焼野ヶ原と化し、そのため東京都の三十五区は戦後今日の二十三区に変った。
  
 戦前から地元に住む方がこれを読んだら、すぐにも「?」だろう。3月10日の東京大空襲Click!は、B29の大編隊により最初の1弾が着弾したのが、3月10日午前0時8分(投下時点の7分説もある)であり、前日の9日夜はいまだ空襲警報の段階だった。前夜の23時すぎから翌日の未明にかけて行なわれた、同年4月13日夜半および5月25日夜半の二度にわたる山手空襲Click!と東京大空襲を混同してないだろうか? また、「そのため」に東京35区Click!が22区(のち23区)になってしまったのではなく、敗戦を機に人口の急減で戦後の行政統合と自治体の業務効率化、財政緊縮の流れにより23区化 (面積は35区とほぼ同じだ)されたのであって、東京大空襲とは直接なんら関係がない。
 下落合における表現も同様で、耳野卯三郎Click!(上高田422番地=最寄りは西武線の新井薬師駅)や大久保作次郎Click!(下落合540番地=最寄りは山手線の目白駅)、鈴木誠Click!(下落合464番地=同)、片多徳郎Click!(下落合596番地=最寄りは西武線の下落合駅)など各画家のアトリエをすべて「中井駅附近」と書くなど、このあたり土地勘のおかしさをあらかじめ含みおきつつ、同文から引用してみよう。
  
 昭和十年神宮外苑の日本青年会館に沖縄から舞踏団が来て三日位沖縄の種々の芸能が披露された。真境名由康。新垣松含ら大ぜいの舞踏団であった。/私は、金山夫妻と、医学博士でアララギ派の歌人斎藤茂吉夫妻のおともをして行った。金山平三夫妻は沖縄がすきになり、それから間もなくして沖縄に旅行された。/名渡山愛順は、美校を卒業して夫妻と愛拡が沖縄に帰り、借りていたアトリエは家主に返さねばならぬので、私達三人は別に附近に家をかりて、自炊生活をする事になった。高田馬場駅の近くには、洋画家の安宅安五郎がいて、私達三人は、笹岡了一に連れられてアトリエを訪問した。中井駅の近くには詩人萩原朔太郎と離縁したマダムが、ワゴンという喫茶店を経営して私達三人は笹岡了一、南風原朝光らとここでコーヒーを飲みながら談笑した。南風原朝光は、すぐ近くの上落合に住んでいた。
  
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名渡山愛順「首里の追憶」1946.jpg
名渡山愛順「青藍絣の女」1959.jpg
 これを読むと、金山平三Click!斎藤茂吉Click!は疎開先の山形県大石田で知り合ったのではなく、もっと以前から知人関係にあったことがわかる。急速に親しくなったのが、大石田での疎開生活だったのだろう。また、金山平三は沖縄舞踊も踊れたClick!らしいことがうかがわれて面白い。また、萩原稲子Click!の喫茶店「ワゴン」Click!には、文学関係者だけでなく画家たちも常連で出入りしていた様子がうかがえる。
 また、仲嶺康輝は帝展つながりのせいか、下落合(2丁目)604番地に住む牧野虎雄アトリエClick!を頻繁に訪問していたようだ。牧野アトリエの並びや向かいにあった、二科の曾宮一念Click!(下落合623番地)や帝展の片多徳郎のアトリエについては記述がないので、特に訪ねはしなかったのだろう。つづけて、同文から引用してみよう。
  
 下落合駅の近くには、洋画家の牧野虎雄が木造瓦葺、平屋に独身で住んでいて制作していた。一日に清酒二升五合を飲み、訪れる人には、お茶がわりに酒を出していた。日本間の畳の上ですわって絵を描き、小道具は熊手で自分の所に引き寄せていた。酒のみの妻はかわいそうだと言って妻帯せずときどき新橋の芸者屋に行っていた。アルコール中毒で絵を描く時も、学校で絵の指導する時もガソリンがきれたと言って洋服のポケットから出して小瓶の洋酒を飲んでいた。/牧野虎雄は、旺玄社(戦後旺玄会)の創立者で、ふだんの身の廻りは、酒屋の番頭が見ていた。
  
 1932年(昭和7)の前後、牧野虎雄はすでに重度のアルコール依存症だったことがわかる。向かいにアトリエをかまえていた、より重症なアル中の片多徳郎が訪ねてきたりすると、牧野アトリエは目もあてられない状態になったのではないか。
 なお、曾宮一念のスケッチや回顧録Click!などから、牧野アトリエは洋間ばかりの家だと想定していたが、和洋折衷住宅だったのかどうやら和室をアトリエとして使っていた様子がうかがえる。したがって、以前の記事でご紹介した牧野虎雄の写真Click!は、年齢的な容貌からいっても長崎アトリエClick!ではなく、下落合604番地のアトリエの可能性が高い。
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山元恵一「ペルーの皿」1974.jpg
 名渡山愛順は、1932年(昭和7)に沖縄にアトリエを建て、同時に沖縄県立第二高等女学校で教職につくために帰郷するので、しばらく共同生活をつづけていた3人の画学生は、やがて一原五常アトリエを出なければならなくなった。代わりに借りたのが、下落合4丁目2162番地(現・中井2丁目)の林明善アトリエだった。中井御霊社のちょうど南側にあたる、八ノ坂の西側一帯の地番だが、名古屋で僧職に就いている林明善の留守番というかたちでアトリエを借り受けている。
 さて、少し余談になるけれど、仲嶺康輝はこの文章の中で佐伯祐三Click!による『下落合風景』Click!の場所特定を試みている。八島邸の赤い屋根を入れた八島さんの前通りClick!(星野通りClick!)を、金山平三アトリエClick!前の南北通りを北から南に向いて描いたものだと規定している。つまり、突き当たりに見える大きな屋根の家が金山アトリエだとした。おそらく、1931~34年(昭和6~9)ごろ実際に目撃した風景の断片を思い返しながら、描画ポイントの特定を試みたものだろう。だが、佐伯の画面に描かれた道が左ではなく右へクラックしている様子、犬を連れて散歩する人物が右手の坂を下っていく様子、描かれた三間道路には下水道の整備など早くから手が加えられている様子、同風景を描いた他のバリエーション作品(たとえば晴れ間のあるバージョン)の光線が射しこむ方角のちがいなどから、仲嶺の特定位置とはことごとく一致しない。
 そしてなによりも、蘭塔坂(二ノ坂)Click!三ノ坂Click!にはさまれた金山平三アトリエ前の南北道が拓かれ、上ノ道から南下する路地とつながったのは昭和に入って少ししてからであり、佐伯がいた1926年(大正15)ごろには道路自体が存在せず、家もほとんど見あたらない一面の野原だったはずだ。ついでに、仲嶺康輝は1986年(昭和61)に下落合4丁目(現・中井2丁目)を歩きながら、「新生美術」用の写真撮影をしているようなのだが、島津源吉邸Click!母家の建設位置を四ノ坂の西側と書いたり、刑部人アトリエClick!を三ノ坂に面したアトリエ東隣りの2階家に規定するなど、50年以上も前の曖昧な記憶に頼らず、もう少し事前に東京あるいは下落合の下調べをしてから原稿を書くべきだったろう。
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 仲嶺康輝は、林明善アトリエから帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)さらには多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)へ通いつつ、金山平三Click!アトリエのダンスパーティClick!(忘年会)などへ頻繁に顔を出している。しばらくすると、愛知県からやってきた洋画家をめざす荻太郎や小林久と同居するようになるのだが、それはまた、次の物語……。

◆写真上:下落合4丁目2080番地(現・中井2丁目)の一原五常アトリエ跡で、昭和初期には一原が不在となり名渡山愛順が借り受け沖縄の画学生たちが集合していた。
◆写真中上は、戦後すぐのころの名渡山愛順。は、1946年(昭和21)に制作された名渡山愛順『首里の追憶』。は、1959年(昭和34)制作の同『青藍絣の女』。
◆写真中下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる一原五常アトリエ。は、1934年(昭和9)に撮られた「沖縄美術協会」展の記念写真。前列右端が山元恵一、後列右からふたりめが仲嶺康輝で右端が西村菊雄。は、1974年(昭和49)制作の山元恵一『ペルーの皿』。シュルレアリズムの作風は、どこか三岸好太郎Click!を想起させる。
◆写真下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる一原五常アトリエ。は、1960年(昭和35)の「東京都全住宅案内帳」(住宅協会)にみる一原アトリエ。は、2012年(平成24)11月撮影の一原アトリエ側の道筋から眺めた解体寸前の金山アトリエ。

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米騒動に起因する東京各地の「市場」。 [気になる下落合]

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 大正末から昭和初期にかけ、東京各地に出現した食料品や日用雑貨を扱う「東京市営市場」あるいは「東京府営市場」が、もともとは1918年(大正7)に起きた「米騒動」に起因していることは、あまり知られていない。当時の行政(寺内正毅内閣)は、日に日に高騰する米価に対しなんら有効な政策を打ち出せず、政府が高い米を買い上げて各地で臨時に大安売りするという、付け焼刃Click!のような散発的な施策に明け暮れていた。
 寺内内閣が行っていた刹那的な米の安売り販売は、東京市内ばかりでなく東京府の郡部でも行われ、数多くの住民たちが米を求めて殺到している。廉売所を警備するため、警官隊ばかりでなく消防士までが動員された。だが、詰めかけた住民全員に米がいきわたるはずもなく、また一般の住民たちより先に政府関係者や警察官が、「試食用」と称して大量に米を買い占めているのが発覚し、現場は不穏な空気に包まれたようだ。
 落合村の東隣りにある高田村でも、1918年(大正7)3月3日に政府による米の廉価販売が行われている。臨時の販売所が設置されたのは、高田村砂利場にある「怪談乳房榎」Click!で有名な南蔵院Click!の境内だった。当日の状況を、ほとんどリアルタイムで記録し1919年(大正8)に出版された、『高田村誌』Click!(高田村誌編纂所)所収の「都新聞」記事から引用してみよう。
  
 高田倉庫会社の第二回白米安売は三日高田村砂利場の南蔵院で行はれた、前回の雑踏に鑑みて買手は朝八時頃から続々詰めかけて待つて居るので開始時間を繰上げ正午から売出した、山門には厳重な矢来を設け六名の巡査と消防夫が扉を固め時期を見計つて百人位づゝ場内に入れたが其時場外の競争は非常なもので初めは前回に来て買へなかつた優先券を持つた人々だけを入場させて売つた、柳下村長吉野助役は三名の書記を連れて出張し万事の世話をしたが前回は一人に二斗と限つたが今回は広く一般に霑ふ様に四升以上八升一斗の量り売りもした、首相官邸の使者秋元仙之助といふ人は試食用として四俵又小石川署の巡査や巡査部長八十名は一斗づゝ買つた、斯して午後四時迄に五百俵の在庫米を悉く売り尽してそれでも猶不足を告げたので夕刻更に高田四家町足達商店の商品数十俵を追加した、次は三月十日高田村在住者に限り第三回を行ひ千人乃至千五百人に限り販売するさうである。
  
 高田倉庫株式会社Click!は、目白駅(地上駅)Click!前にあった鉄道倉庫で、当時は1916年(大正5)に設立されたばかりの会社だった。同社の相談役には、元・高田村村長で高田農商銀行頭取だった新倉徳三郎Click!が就任している。このあと、1918年(大正7)7月に富山県に端を発した、米穀店や米を積んだ船舶・列車などを襲撃する「米騒動」は、またたく間に全国各地へと飛び火していくことになる。
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 同年8月には、東京各地でも米価の高騰に抗議する群衆やデモ隊と警官隊との衝突が相次ぎ、街中は一気に騒然とした空気に包まれていった。上掲の『高田村誌』でも指摘されているとおり、政府が買い上げ一般市民向けに用意した安売り米を、廉売所の周辺に住む当の政府関係者や公務員、警察官たちが優先的に入手・着服するという不正が発覚するにおよび、ついに無能な政府に対する東京市民と郡部の府民たちの怒りが爆発した……と書くほうが正確だろう。寺内内閣は翌9月、「米騒動」の責任をとって総辞職することになる。わずか2年ともたない、短命な内閣だった。
 政府の無策ぶりを見かねた東京商業会議所では、華族や財閥、富豪などから急きょ寄付を募って、約300万円ほど集まった資金をベースに、東京市内および東京府の郡部で組織だった米の流通ネットワークを新たに構築し、東京市や東京府と連携して常設の廉価販売所(市場)を開設している。やがて、米価が下がり「米騒動」が一段落すると、同会議所の手もとには60万円ほどの資金が残った。この資金をもとに、東京市と東京府は米穀をはじめとする食料品、あるいは日用雑貨品を安く販売する「市場」を、東京各地に設ける構想を立案している。
 60万円のうち、40万円を東京市が20万円を東京府が活用し、東京各地で「市場」の建設に着手していった。「米騒動」の翌年1919年(大正8)には、早くも市と府を合わせて67ヶ所の市場が開設されている。そして、大正期が終わった1928年(昭和3)現在では、東京市内に12ヶ所の大規模な市場が、郡部には34ヶ所の市場が常設されていた。郡部(東京府)における市場開設の様子を、1929年(昭和4)に中央公論社から出版された今和次郎Click!『大東京案内』より引用してみよう。
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 一方府の方では、二十万円の指定寄附を基礎に、東京府日用品市場組合を組織して、市場を経営した。大正七年十一月には既に仕事を始め、翌年八月には市郡を通じて六十七ヶ所となつたが、内務省からなほその増設を条件として百万円の低利資金を借り、財団法人組織にあらためた。/現在府の市場のある場所は、(中略) 等三十四ヶ所である。/店舗約五百。昭和三年度(昭和三年七月から四年六月まで)の三十四市場の総売上高は、九百三十七万六千余円となつてゐる。
  
 1928年(昭和3)の時点で、落合地域の周辺には高田町1709番地(のち目白町2丁目1709番地)の目白駅前にあたる「目白市場」Click!、戸塚町上戸塚18番地(のち戸塚3丁目18番地)の高田馬場駅前にあたる「戸塚市場」などが開設されている。
 同じころ、銭湯「草津温泉」Click!近くの下落合1886番地には「下落合市場」Click!が、村山知義アトリエClick!西側の旧・月見岡八幡社Click!近く上落合196番地には「上落合市場」がオープンしている。また、目白通りをはさんだ北側、長崎南町2丁目4105番地(のち椎名町6丁目4105番地)には「長崎市場」Click!が開設された。落合地域の市場が、どのような意匠をしていたのか記録がないので不明だが、公営の「目白市場」および「長崎市場」は中世のヨーロッパ建築のような、まるで往年の「名曲喫茶」のような古城を思わせるデザインをしていた。
 落合地域では、「下落合市場」が1926年(大正15)に、「上落合市場」が1928年(昭和3)に開設されているが、町域が広いせいか1929年(昭和4)には尾崎翠Click!宅のすぐ北側にあたる妙正寺川沿いの上落合721番地に「上落合中井市場」(おそらく妙正寺川の直線化工事を控える空き地に設立された臨時市場だろう)が、1930年(昭和5)には光徳寺の北東側にあたる上落合428番地に「親和市場」が設置されている。
 また、1932年(昭和7)出版の『落合町誌』(落合町誌刊行会)には記録されていないが、1929年(昭和4)に作成された「落合町全図」には、目白文化村Click!箱根土地本社ビルClick!向かいにあった交番Click!の裏、下落合1389番地にも「市場」が採取されている。これらの市場が、すべて公営だったとは到底思えないが、少なくとも「上落合市場」と「下落合市場」は東京府日用品市場組合の経営だったと思われる。
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 上落合には3市場、下落合には中西部に1市場(+1市場)と、山手線寄りの下落合東部には市場が存在していないが、これは1923年(大正12)設立の目白駅前にある「目白市場」を利用できたのと、昭和に入って高田町金久保沢1113番地の谷間、すなわち目白駅西側の八兵衛稲荷Click!(豊坂稲荷)のある豊坂下に、新たな市場が開設されていたからだろう。この“金久保沢市場”は公営の「目白市場」に近いため、おそらく公設ではなく高田倉庫あたりが経営する私設市場だった可能性が高そうだ。

◆写真上小川薫様Click!が保存されている上原としアルバムClick!に収録の、1935年(昭和10)前後に目白駅近くで撮影された記念写真の1葉。東環乗合自動車Click!に勤めるドライバーの背後に写っている小ジャレた建物が、目白市場の西側側面だと思われる。よく観察すると、屋根の意匠などが長崎市場とそっくりなのがわかる。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる目白市場と冒頭写真の撮影ポイント。は、同年に撮影された別角度の写真。は、目白市場跡の現状。
◆写真中下は、1948年(昭和23)撮影の目白市場焼け跡。は、1929年(昭和4)の「戸塚町全図」にみる戸塚市場。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる戸塚市場。
◆写真下は、上原アルバムに収録された長崎市場。人物は、長崎の町内運動場Click!で開かれた壮行会の出征兵士。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる洛西館Click!の隣りの長崎市場。は、1929年(昭和4)の「落合町全図」にみる下落合市場。

戦後にも、「目白市場」の焼け跡には同様に「目白市場」という名のマーケットができるが、戦前の東京府による「目白市場」とは同じ名称ながら別ものだ。
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淡谷のり子の機先の制し方。 [気になる下落合]

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 作曲家の服部良一は戦時中、まったく軍歌をつくろうとせず軍部を煙に巻いてはジャズを平然と演奏していた。一時期は上落合と下落合に家族とともに住み、田口省吾Click!前田寛治Click!のもとへモデルに通っていた淡谷のり子Click!は、戦時中に真正面から軍部、特に陸軍憲兵隊との命がけの衝突を繰り返していた。このふたり、気が合うのか非常に仲がよかったことでも知られている。
 1943年(昭和18)3月に、東京宝塚劇場で「国民劇」として上演された、服部良一が監督をつとめるオペラ『桃太郎』には、森の魔女役として淡谷のり子も出演している。淡谷の魔女役はピッタリだったろうが、桃太郎を高峰秀子Click!、サルを榎本健一、キジを灰田勝彦、イヌを岸田明が演じた同劇では、軍歌あるいは軍楽調の曲はあまり用いられず、当時はヨーロッパの前世紀あるいは前々世紀の古臭い音楽に対して、「軽音楽」と差別的に扱われていた音楽がBGMに多用されている。
 特に、陸軍報道部長の揮毫である「撃ちてし止まん」の幟を背負った桃太郎(高峰秀子)が、鬼ヶ島で鬼退治をするシーンでは、ディキシーランドJAZZのにぎやかな『タイガー・ラグ』が用いられ、内務省監督官に指摘されると「これはマライの虎狩りの音楽だ」といって煙に巻いた話は有名だ。服部良一は、米国のJAZZをラジオなどで演奏するときは、ドイツやイタリアの作曲家の名を冠した「シューベルト・アラモード」とか「ある日のモーツァルト」、「影絵のベートーヴェン」などと適当なタイトルをデッチ上げ、平然とスタンダードJAZZを流している。
 JAZZをはじめとする米国音楽や、おもにドイツとイタリアを除いたヨーロッパ音楽が「敵性音楽」だと規定され、国内での演奏が禁止されたのは、日米開戦間もない1941年(昭和16)12月30日の政府談話が最初だ。つづいて、翌1942年(昭和17)1月13日には、内閣情報局「週報」328号の中で、具体的な「米英音楽の追放」の実施要項を発表している。以下、同「週報」328号(現代仮名づかい修正版)から引用してみよう。
  
 米英音楽の追放
 大東亜戦争もいよいよ第二年目を迎え、今や国を挙げてその総力を米英撃滅の一点に集中し、是が非でもこの一戦を勝ち抜かねばならぬ決戦の時となりました。大東亜戦争は、単に武力戦であるばかりでなく、文化、思想その他の全面に亙るものであって、特に米英思想の撃滅が一切の根本であることを思いますと、文化の主要な一部門である音楽部門での米英色を断固として一掃する必要のあることは申すまでもありません。/情報局と内務省では、大東亜戦争の勃発直後に、米英音楽とその蓄音機レコードを指導し、取締るため、当面の措置として、音楽家に敵国作品の演奏をしないように方針を定め、また、これらのレコードの発売にも厳重な指示を与えたのでありますが、それにも拘わらず、未だに軽佻浮薄、物質至上、末梢感覚万能の国民性を露出した米英音楽レコードを演奏するものが跡を絶たない有様でありますので、今回さらにこの趣旨の徹底を期すため、演奏を不適当と認める米英音楽作品蓄音機レコード一覧表を作って、全国の関係者に配布し、国民の士気の昂揚と健全娯楽の発展を促進することになりました。
  
 この禁止令で、米英音楽の演奏や録音・レコード販売がいっさいできなくなるのだが、戦争が進み敗色が濃くなるにつれて、当局は病的かつヒステリックな取り締まりを強化し、特高Click!の監視は家庭における音楽鑑賞にまで及んでいく。
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 音楽に無知な特高が、家宅捜査でモーツァルトやベートーヴェンなどドイツ・グラモフォンのレコードを押収したり、蓄音機でベートーヴェンを聴いていた人物を連行して暴行を加えたりと、もはや錯乱状態に近い狂奔ぶりだった。ましてや、米国のJAZZレコードを保有していた家庭では、まったく聴けない状況がつづき、戦前に周囲へ漏れていた音の記憶から近隣に密告され、特高に踏みこまれて押収された例さえあった。
 1980年代の終わりから90年代にかけ、「スイングジャーナル」へ『生きているジャズ史』を連載していた油井正一Click!は、特高による「JAZZレコードの押収などなかった」と書いて、さっそく同年代のJAZZ愛好家の読者から反論を受けている。JAZZレコードを隠していた油井正一自身に、そのような個人的体験が運よくなかったからといって安易に敷衍化し、史的事実を丸ごと「なかった」ことにしてはマズいだろう。
 淡谷のり子は、内閣情報局「週報」328号によって、およそ自分の持ち歌のほとんどを否定されたに等しかった。したがって、「オオ・ソレミヨ」や「帰れソレントへ」などのイタリア民謡、アルゼンチンタンゴ、日本の歌曲などをレパートリーにするしかなかった。陸軍からの軍歌吹きこみの依頼を断りつづけ、「ドイツやイタリアで戦う兵士たちのことを思えば、礼装で歌わなければ失礼になる」と、コスチュームの豪華なドレスも脱ごうとはしなかった。
 憲兵隊や特高からは終始目をつけられ、特に憲兵隊からの呼び出しによる嫌がらせは繰り返された。淡谷が書いた「始末書」の高さが、数十センチといわれるゆえんだ。特にステージドレスに関する憲兵隊からの嫌がらせは執拗で、淡谷もついにキレて憲兵隊で激高しようだ。吉武輝子が収録した彼女の言葉を、『ブルースの女王淡谷のり子』(文藝春秋/1989年)から正確に引用すれば、「こんなつまらないことを、兵隊さんがいつまでもグダグダ言ってたんじゃ、戦争に負けてしまいますよ」といってしまった。日米が開戦してから、どれほど日本の戦局が不利になろうが、「戦争に負ける」という言葉は禁句になっていた。うちの親父も学生時代、「どう考えても、(アメリカに)勝てるわけがね~や」と不用意に発言Click!したのを誰かに密告され、現に警察へ引っぱられている。
 淡谷のり子は、即座に憲兵から「非国民!」と恫喝され、憲兵隊の留置所へそのまま入れられそうになった。それに対して、彼女も大声で怒鳴り返している。同書から、そのまま引用してみよう。「なにが非国民ですか。わたしはお上からビタ一文いただかずに、兵隊さんを慰問してまわっていますよ。わたしのように無料奉仕をしている歌手が他にいますか。お調べになってください。なんでそのわたしが、非国民呼ばわりされなくてはいけないんですか」。このとき、担当憲兵もあっけにとられたのか、始末書をとるのも忘れて帰された……と書かれている。
 だが、憲兵隊の取り調べや対応がそれほど甘いとは思えず、おそらく取り調べに当たった憲兵は、慰問では決して軍歌を歌わず内地のステージ姿のまま歌う、「淡谷のり子を派遣してくれ」という前線からの要望が多いことを知っていて、拘束したくても実質できなかったか、あるいは淡谷のり子の戦前からの“隠れファン”だったのではないだろうか。
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 また、憲兵隊からアイシャドウやつけまつげが時局がら不謹慎だと、再三にわたって呼び出されている。これに対して淡谷は、「わたしの顔を見てください。こんなブスが素顔でステージに立って、どうなるというのですか」と応酬し、そのたびに始末書をとられている。舞台上のメイクがもとで、彼女は50枚近くの始末書を憲兵隊に残した。
 淡谷のり子によれば、前線の慰問は陸軍よりも海軍のほうがスマートだったという。兵士たちのリクエストも多く、禁止されていたJAZZやブルース、シャンソンも海軍では暗黙のうちにフリーだった。上海に駐留していた海軍が催したコンサートでは、禁止されていた「巴里祭」や「暗い日曜日」、「別れのブルース」などが次々とリクエストされ、彼女もうっぷんを晴らすかのように1ステージで約50曲も歌いつづけている。当局による禁止曲がリクエストされるたびに、監視官だった海軍将校は席を外し、部屋の外で淡谷のり子の歌にジッと聴き入っていたという。
 陸軍の前線で歌ったとき、見るからに強面(こわもて)の軍刀を下げた陸軍将校が監視官として貼りついていたので、淡谷は当たり障りのない歌曲の「宵待草」や「浜辺の歌」などを歌ってみたが、兵士たちはただ黙って聴き入るだけで拍手はこなかった。おそらく、彼女のヒット曲が次々と聞けると思った兵士たちは、ニラみをきかす監視官のもとで緊張して萎縮し、半ばガッカリしていたのだろう。ところが、「オオ・ソレミヨ」を歌い終わったとたんに、舞台の背後からいっせいに拍手がきた。そこには、英米軍の捕虜たちが30人ほど並んでいた。
 その拍手を機会に、淡谷のり子は陸軍兵士に背を向けると、捕虜たちに向かって歌いだした。アルゼンチン・タンゴや「帰れソレントへ」など数曲歌ったあと、捕虜たちから大きな拍手や喝采をあびた。そのとたん、軍刀の鯉口を切り柄に手をかけた監視官が、舞台上の彼女に「皇軍の兵士に尻を向けて歌うとは何事だ」と迫ってきた。そのときの、淡谷のり子の平然とした言葉が記録されている。「わたしは芸人です。拍手をしてくれた方の方を向くのがあたりまえですよ。だいたい兵隊さんが歌を聴きたいというから、無料で歌っているのに、なんですか、拍手ひとつしないなんて。失礼にもほどがあります」。
 戦地慰問に動員されながら、謝礼をもらわない代わりに決して軍歌や時局歌を歌わない淡谷のり子は、おそらく陸軍の前線じゅうに知れわたっていたのだろう。いまさら軍歌など聴きたくない前線では、彼女が慰問に近くまできていることを知ると、わざわざクルマをまわして、ほんの少しでも兵士たちの前で好きな曲を歌ってくれないかと、大学出らしい将校たちが迎えにくることもあったようだ。
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 叔父の淡谷悠蔵が、平和運動に関わったとして治安維持法違反で特高に逮捕されると、淡谷のり子はさっそく花束とバナナの差し入れに警察署を訪れている。特高が規則で花束はダメだというと、刑事の胸に花束を押しつけ「理由が言えないような規則は、すぐお止めなさい」と怒って帰ってしまった。「昨夜遅く、淡谷のり子が来て、君に花束とバナナを差し入れてくれと言うんだ。監房には規則で花は入れられないと断わったら、そんなくだらない規則はなくしなさいと、叱られてしまってね。気の強い人だね。それでバナナは差し入れて、花は見せるだけにすることにして、やっと帰ってもらったよ」と、律儀な東北人だったらしい特高刑事は、花束を淡谷悠蔵へ見せている。
 さて、このエピソードから72年後の2017年(平成29)6月、膨大な犠牲を払って結果的に獲得できた日本の「戦後民主主義」が、いともたやすく窒息・死滅させられようとしている。このまま状況が進めば、1925年(大正14)5月の「大正デモクラシー」が死滅した時点へと逆もどりだ。警察の恣意的な解釈で、いくらでも国民を(予防)逮捕・拘禁できる監視・恫喝体制、そして国民の主張や異論をいともたやすく威圧し封じこめる手段を手に入れた国家権力は、まさに北朝鮮や中国と同質のものだ。

写真上:モデルになるため、淡谷のり子が下落合から通った長崎の路地。カーブの向こうに、長崎町1832番地(現・目白5丁目)の田口省吾アトリエが建っていた。
◆写真中上は、戦前に撮影された淡谷のり子。下左は、1937年(昭和12)に大ヒットした淡谷のり子『別れのブース』。下右は、翌1938年(昭和13)出版の同楽譜。
◆写真中下は、1945年(昭和20)5月17日にB29偵察機が撮影した下落合と目白・長崎界隈。4月13日夜半の第1次山手空襲Click!が、鉄道駅と幹線道路沿いをねらった様子がよくわかる。は、上記の偵察写真にも写る御留山の谷戸の現状。
◆写真下:下落合や上落合の時代、淡谷のり子は周辺を家族と散策しただろうか。


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襲撃後に下落合へ転居した細川隆元。 [気になる下落合]

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 1936年(昭和11)の二二六事件Click!の際、上落合1丁目476番地の神近市子Click!の隣家に住む、東京朝日新聞社で政治部長(事件当時は次長か?)だった細川隆元邸が何者かに襲撃された証言をご紹介した。蹶起将校のひとりだった竹嶌継夫中尉Click!の実家が、上落合1丁目512番地と細川隆元邸のごく近くにあったため、同日の午前中に東京朝日新聞社を襲撃している中橋基明中尉に情報を提供したものだろうか。新聞社を襲撃した部隊のうち、一部の支隊が上落合の細川邸を襲っている可能性が高そうだ。
 どのような襲撃だったのかは、細川自身が証言しているのを読んだことがないし、当時の記録も見かけないので詳細は不明だが、おそらく細川隆元は襲撃後ほどなく、上落合から下落合へと転居していると思われる。中井駅の改札を出て踏み切りをわたり、道を北へ進むと中ノ道Click!(中井通り)とのT字路に突き当たる。転居後の邸はその真正面、すなわち現在はみずほ銀行中井支店やセブンイレブンのある斜面に細川隆元が住んでいた……という伝承を、わたしは地元の方からうかがっていた。一ノ坂Click!「矢田坂」Click!にはさまれた、下落合4丁目1925番地(現・中落合1丁目)あたりだ。
 改正道路(山手通り=環6)の道路工事Click!の進捗とともに、一ノ坂と振り子坂Click!の間を抜けていた山道のような細い「矢田坂」は全的に消滅し、現状ではちょうど同区画は三角形に切り取られたような敷地になっている。この場所で葬儀が行われているのを、当時は目白文化村Click!の第一文化村に住んでいた東京外国語学校の学生であり、のちに毎日新聞社の記者になる名取義一Click!が目撃している。
 ちなみに、名取義一は1935年(昭和10)4月に18歳で東京外国語学校へ入学し、翌年の同校1年生のときに二二六事件を経験している。そのときの様子を、名取義一『東京・目白文化村』(私家版)から少し長いが引用してみよう。
  
 大雪の昭和十一年二月二十六日、東京外語の一年生で、第三学期の試験・第二日目――父は風邪で休み――なので、学校へと玄関を出た。/すると、ちょうど妹が、通学の千代田高女近くから戻ってきた。/して「大変よ。何かあったらしいの。学校へはゆけないので……」とえらく興奮して話しかけてきた。/「何事だろう」と考えながら、といってラジオ・ニュースは……まだだし、と家を出て平常の如く西武線・中井駅から省線・水道橋駅へ。ここから神田の古本街を通り「如水会館」の所に来ると、黄色い冬外套で、剣付銃の兵士が通行人をいちいち検問しているではないか。/なるほど、大事件が起きたのだナ、と。/「誰だ、どこに行く」と訊かれ「外語生です。今日は試験なので……」と応えると、「よし。行け」とあっさり通してくれた。近くでは外語の外人講師が追い返されていた。/教室に入ると、皆がガヤガヤ、状況がさっぱり判断できなかった。それより、私は窓外で、つまり共立女子学園の方に向け、機関銃坐ができていて、兵士らが伏せているのに、思わず緊張した。一体、敵は……。内戦か……。/試験が始まったが、心忙しく、そのうち試験は取止めということになり、以後は連絡を待てとのことになった。
  
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 名取義一は東京外国語学校の神田キャンパスへ、運行していた電車(西武線→山手線→中央線)でたどり着き期末試験を受けている。一方、妹は麹町区四番町の千代田高等女学校へは、途中で東京市電が一部区間を運行停止にしていたものだろうか、登校できなかったのがわかる。
 名取義一を水道橋で誰何(すいか)したのは、蹶起部隊の兵士ではなく当日の午前中から街中に展開していた警備兵のひとりとみられ、同日午後から警備兵が東京の街角へいっせいに展開した……という通説が、わたしの祖母や親父の証言Click!とともに、ここでも覆っているのが判然としている。また、鉄道は大雪にもかかわらず通常どおり運行Click!されており、積雪のせいで遅れが出ていた可能性はあるものの、事件の影響で電車も運行を停止していたという、一部の二二六事件について書かれた本の記述は事実に反する。
 同年4月、東京外国語学校へ二二六事件のリーダー的な存在で元・一等主計(大尉相当)だった磯部浅一夫人の弟が入学し、学内にはいろいろなウワサが流れている。彼が栗田茂(のちの作家・五味川純平)と同級生だったことも、それらのウワサが後世まで記憶されることになった要因なのではないかとみられるが、事実を確認しようがないのでここでは省略する。
 さて、名取義一が細川隆元邸の葬儀を目撃するのは同校3年生のとき、すなわち1938年(昭和13)の暮れだった。つづけて、同書より引用してみよう。
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 外語生のとき、毎日が乱読また乱読で、このため些か疲れると、夕方必ず近所に散歩に出かけた。/ある日のこと、西武線・中井駅の北側にある高台にゆくと――その下は、いま富士銀行中井支店になっている――“花輪”がずらりと並んでいる木造平屋建てがあった。/その“花輪”を一々見ると、まず“近衛文麿”それに名を忘れたが大臣からのが……。この主人公は一体何物(ママ)なのか、幸い人もいないので、周辺をウロついてみた。/で表札には「細川隆元」とあった。アッ、朝日の有名な記者で、先日、若くして政治部次長から部長になったばかりではないか、それがここに住んでいたとは。/これは同夫人が病死したためであった。(中略) =昭和十三年十二月十六日=/氏は、二・二六事件の折は、社電で起され、ともかく迎えの車で自宅から上落合-大久保へと急いだという。そこで緒方竹虎主筆が、その百人町から同乗し、ともに朝日本社に入った由。/同社が決起部隊(ママ)に襲われたことは、天下周知のことで省略する。それより同(昭和)六十二年には、同社はまたまた右翼かのテロに襲われている。(カッコ内引用者註)
  
 富士銀行中井支店は、現在のみずほ銀行中井支店のことだが、この証言により細川隆元邸が中ノ道(中井通り)沿いの下落合4丁目1925番地(現・中落合1丁目)界隈にあったのは、1938年(昭和13)12月現在、つまり1936年(昭和11)の二二六事件から2年後であることがわかる。
 これにより、神近市子が隣家として証言している上落合1丁目476番地の細川隆元邸、すなわち二二六事件のときに襲撃を受けたのは、下落合へ転居する以前の邸だったことが判明した。換言すれば、細川隆元は上落合の自宅が襲撃を受けたあと、身の危険を感じて早々に下落合4丁目1925番地界隈へ引っ越した……という経緯が推定できる。
 また、名取義一は本人から直接聞いたものだろう、細川隆元は2月26日の早朝に異変をキャッチした本社からの電話で起こされ、迎えのクルマで緒方竹虎とともに数寄屋橋の本社へ急行しており、自宅が襲撃を受けた際には不在だった可能性が高そうだ。襲撃者に応対したのは、家に残っていた夫人たち家族だったかもしれず、そのせいで細川隆元自身の二二六事件に関する印象的なエピソードとして、後日、自宅襲撃について語られる機会があまりなかったのかもしれない。
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 「同六十二年には、同社はまたまた右翼かのテロ」とあるのは、1987年(昭和62)5月に朝日新聞阪神支局が襲撃された「赤報隊事件」Click!(広域重要指定116号事件)のことで、このテロにより同紙の記者2名が死傷している。1961年(昭和36)の「風流夢譚」事件を想起するまでもなく、現代の中国やロシアのメディアがそうであるように、さまざまな報道・言論機関へのテロによる言論封殺・抑圧は、その後にやってくる自由な意見表示や思想表明を圧殺する“暗黒時代”の予兆として、改めて銘記しておきたい現象のひとつだ。

◆写真上:細川隆元邸があったとみられる、下落合4丁目1925番地界隈の現状。改正道路(山手通り)の工事で消滅した、「矢田坂」の坂下にあたるエリアだ。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真に見る下落合4丁目1925番地界隈だが、細川邸は上落合にありいまだ転居してきていない。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる同地番エリアで、いずれかの住宅が細川邸だろう。
◆写真中下は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された「矢田坂」の下部。は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された同所で改正道路工事が進捗している。
◆写真下は、1934年(昭和9)に撮影された数寄屋橋の東京朝日新聞本社。下左は、1992年(平成4)に発行された名取義一『東京・目白文化村』。下右は、戦後の細川隆元。

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まぼろしの雑司ヶ谷「異人館」。 [気になるエトセトラ]

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 山手線の目白駅Click!を越えた向こう側に、気になる西洋館がふたつある。目白町と雑司ヶ谷町(現・南池袋含む)は、山手空襲Click!から一部の焼け残った住宅街が戦後までつづいていたので、明治末から昭和初期までに建てられた住宅が、そのままの姿で建っていた。ときどき、それらの街角を舞台にした絵画や小説の作品に出あったり、印象的な建築が記録されたりしている。
 目白町の西洋館(または文化住宅)を舞台にした作品で、すぐに思い浮かぶのが中井英夫Click!『虚無への供物』Click!だ。空襲にも焼け残った住宅街に建つ「氷沼邸」は、周囲の様子や駅までの距離、あるいは平面図さえ同作に登場するので、どのあたりに建っていた住宅なのか、特定することができる。1987年(昭和62)に三一書房から出版された、『中井英夫作品集・第10巻/死』所収の『虚無への供物』から、「氷沼家」の描写を少し長いが引用してみよう。
  
 国電の目白駅を出て、駅前の大通りを千歳橋(ママ)の方角に向うと、右側には学習院の塀堤が長く続いているばかりだが、左は川村女学院から目白署と並び、その裏手一帯は、遠く池袋駅を頂点に、逆三角形の広い斜面を形づくっている。この斜面だけは運よく戦災にも会(ママ)わなかったので、戦前の古い住宅がひしめくように建てこみ、その間を狭い路地が前後気ままに入り組んで、古い東京の面影を忍ばせるが、土地慣れぬ者には、まるで迷路へまぎれこんだような錯覚を抱かせるに違いない。行き止まりかと思う道が、急に狭い降り坂となって、ふいに大通りへぬけたり、三叉に別れた道が、意味もなくすぐにまた一本になったりして、それを丈高い煉瓦塀が隠し、繁り合った樹木が覆うという具合だが、豊島区目白町二丁目千六百**番地の氷沼邸は、丁度その自然の迷路の中心に当る部分に建てられていた。/宝石商だった祖父の光太郎が、昭和四年、初孫の蒼司が生れたのを喜んで、半ば隠居所を兼ねて建てた家だが、これという趣味も奇癖も持たなかったせいか、久生の期待したような尖塔も櫓楼もある筈はなく、間取りなどもごくありふれた平凡な建物だった。
  
 中井英夫は、弦巻川へと下る北向きの斜面を「運よく戦災にも会わなかった」と書いているが、1947年(昭和22)の空中写真を参照すると、かなりの範囲が焼け野原となっている。彼が1958年(昭和33)に、下落合4丁目2123番地へ転居してくるころには、すでに焼け跡のバラックが消えて住宅街が復旧していたので、そのあたりを散歩すると古い家屋が目について、一帯が空襲でも焼けなかったように見えたのかもしれない。
 「豊島区目白町二丁目千六百**」と書かれているので、500坪もの庭を持つ大邸宅の「氷沼邸」が、山手線沿いの路地が迷路のように入り組む、細長く焼け残った住宅街の中に想定されていることが知れる。下落合からこのあたりまで散歩に出た中井は、川村学園のあたりから目白通りを北側へ左折し、複雑で狭い迷路のような路地を歩いて、「氷沼邸」に設定する西洋館の目星をつけたのだろう。現在でも、路地こそ拡幅され舗装されてはいるが、複雑な三叉路やおかしな道のかたちはそのまま残っている。
 目白町2丁目1600番台の地番は、川村女学院(現・川村学園)や高田第五尋常小学校(現・目白小学校)の裏手を東西に、また山手線沿いを南北に長く連なる太い「L」字型のエリアに限定されるが、同学園や小学校の北側一帯は空襲でほぼ焼け野原だったので、戦前からつづく1600番台の住宅街というと、入り組んだ路地の存在とともに、山手線沿いの南北に細長い一画のほうに想定されたとみられる。
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 『虚無への供物』の「氷沼家」は、モデルとなる西洋館はあったかもしれないが、あくまでも虚構のうえで存在する“幻の邸宅”だけれど、実在したにもかかわらず今日では人々の口の端にのぼることさえなくなり、“幻”と化してしまった巨大な西洋館があった。同じ高田町エリアの雑司ヶ谷に建っていた松平貞一邸だ。明治末にはすでに建設されていた同邸は、周囲の住民から「異人館」あるいは「異人屋敷」と呼ばれていたが、別に外国人が住んでいたわけではない。(敗戦後の一時期、GHQに接収されていた可能性はあるが……) 「松平」という姓からうかがえるように、おそらく徳川家の姻戚のひとりが建てた明治仕様の西洋館だったのだろう。
 豊島区の郷土資料をたどっても、弦巻川北岸の丘上にそびえてかなり目立つ、巨大で特徴的な西洋館だったにもかかわらず、意外にもほとんど記録が残されていない。1933年(昭和8)に出版された『高田町史』(高田町教育会)にも、特に「松平家」は地元の“有名人”としての記載がない。つまり、ほんとうに幻の雑司ヶ谷「異人館」なのだ。
 「異人館」の所在地は、雑司ヶ谷(4丁目)572番地(現・南池袋4丁目)であり、今日の南池袋第二公園の東側あたりの一画だ。木造であったにもかかわらず空襲からも焼け残り、戦後には周辺の住民たちからメルクマールとして記憶された大屋敷だった。都電荒川線の鬼子母神電停を降り、線路沿いのほぼ直線の道を北へたどると、暗渠化された弦巻川の跡をすぎてから登り坂となる。その坂上に、あたりを睥睨するように明治期の大きな西洋館(松平邸)が見えていた。
 一度こちらでも引用しているが、1986年(昭和61)に発行された「広報としま」7月号所収の、永井保Click!「わたしの豊島紀行<22>」から引用してみよう。
  
 目白台から落合にかけての台地斜面には、名だたる坂が多く、景色もいいが、旧鎌倉街道が横切る、だらだら坂の多い雑司ヶ谷風景も好きである。いまは取り壊されてしまったが、鬼子母神電停から北へ、線路ぞいの坂の上にあった異人館(実際の名は知らない)などは好画題になった。
  
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 永井保は、「異人館」あるいは「異人屋敷」と呼ばれた明治末の西洋館が、1986年(昭和51)7月の時点で「取り壊され」たと書いている。空中写真で確認すると、1984年(昭和59)にはいまだ建っているのが確認できるので、おそらく1985年(昭和60)前後に解体されているのだろう。
 永井保は「異人館」のイラストを残しており、下見板張りの外壁で屋根には尖った細いドーマーが並ぶ、いかにも明治期の建築らしい西洋館だったようだ。たとえるなら、1912年(明治45・大正元)に建設された、大磯Click!駅前の大きな旧・木下別邸のような意匠をしていたのだろう。イラストの表現を見ると、旧・木下別邸のように外壁が明るい色で塗られているようには見えず、なにか濃い色に塗られていたように見える。おそらく、外壁の腐食を防ぐためコールタールが塗られ、建設から間もない時期はともかく、戦後はこげ茶色をした外壁だったのではないだろうか。
 また、1992年(平成4)に弘隆社から出版された後藤富郎『雑司が谷と私』にも、「異人館」あるいは「異人屋敷」と呼ばれた、雑司ヶ谷の同地番に建っていた大きな西洋館が記録されている。なお、「昨年遂に取りこわ」されたと書かれているが、同文は1985~86年ごろに書かれたものではないか。
  
 宝城寺裏の丘の上に明治末から異人屋敷(異人館)と呼ばれた異様な建物があったが、昨年遂に取りこわし、その姿を消した。弦巻川は宝城寺下四つ辻のところの土橋で、流れは杜深い大久保彦左衛門邸内に注がれて入った。彦左衛門は殊にこの勝景を愛で池の汀に茶室を設け、しばしば清会を催したという。
  
 「異人館」が松平邸だったというのは、地元でも知られていなかったようで、住民の詳細について記した資料は見あたらない。きっと、「異人館」には昔から表札が出ていなかったか、あるいは住民がときどき変わって〇〇邸とは呼びづらかったのかもしれないが、少なくとも1938年(昭和13)の「火保図」には、松平貞一邸と採取されている。
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 さて、この「松平」がどこの松平さんなのか同邸の周囲を見まわすと、ひとつの大きなヒントを見つけることができる。「異人館」から、西へわずか140mにある王子電車(現・都電荒川線)をはさんだ雑司ヶ谷大鳥社だ。同社は、金山稲荷Click!の対岸である目白台Click!にあった出雲藩松平出羽守の下屋敷(のち百人組同心大縄地)に由来する祭神であり、江戸期には嫡子の病平癒を願って祭神を出雲大社から勧請している。詳細は省くが、この出雲藩松平出羽守の末裔のひとりが、明治末に大鳥社の見える丘上の地へ、大屋敷を建設しやしなかっただろうか? 目白台からもほど近い雑司ヶ谷の「異人館」は、かつて“異人”など一度も住んだことのない、出雲の松平家にちなむ邸宅だったのではなかろうか。どなたか、ご存じの方があればご教示いただきたい。

◆写真上:南池袋第二公園の東側にあたる、丘上の雑司ヶ谷「異人館」跡の現状(正面)。
◆写真中上は、目白町2丁目16XX番地界隈に残る和館。中左は、1964年(昭和39)に講談社から「塔晶夫」名で出版された中井英夫『虚無への供物』。中右は、氷沼邸が想定された1947年(昭和22)撮影の空襲をまぬがれた16XX番地界隈。は、1986年(昭和61)に永井保が1951年(昭和26)ごろの風景を前提に描いた雑司ヶ谷「異人館」。
◆写真中下は、1938年(昭和13)の「火保図」に採取された「異人館」こと松平貞一邸。は、雑司ヶ谷「異人館」の近隣に残る古い和館。は、上から順に1947年(昭和22)・1975年(昭和50)・1984年(昭和59)の空中写真にみる松平邸。
◆写真下は、1912年(明治45・大正元)に建てられた大磯駅前の旧・木下別邸。は、1857年(安政4)に制作された尾張屋清七版切絵図「雑司ヶ谷音羽絵図」にみる出雲藩松平出羽守下屋敷。は、雑司ヶ谷「異人館」の近くにある雑司ヶ谷大鳥社。

コメント欄に、@mina_zou_coinpaさんより貴重な情報をいただいた。「異人館」はご友人の邸であり、松平邸の2軒西隣り(現・南池袋第二公園)に建っていたというものだ。そして、「異人館」の解体は1979年(昭和54)のことだったという。詳細は下記のコメントをご参照いただきたい。
 (ありがとうございました。>@mina_zou_coinpaさん)
もうひとつのテーマ、近くにあった松平邸は、下屋敷内に大鳥社を勧請した出雲藩松平出羽守の末裔の方だったかどうか、ご存じの方がおられればご教示いただければ幸いだ。
下の写真は、1975年(昭和50)に撮影された印の雑司ヶ谷「異人館」(上)と、その跡地である南池袋第二公園(中)、そして敗戦時には丘上にそそり立つように見えた王子電車(都電荒川線)沿いの坂道(下)。

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ドクトルマンボウの下落合昆虫記?? [気になる下落合]

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 小学生のころ夏休みの自由研究というと、よく昆虫採集をしたものだ。その様子は、以前にも記事Click!に書いたことがあるが、近くに森や山がある地域の方は、子どものころの虫捕りは誰でも経験しているのではないだろうか。(女子Click!は別かな?) 大人になるとともに、虫とは縁遠くなりめったに捕まえることがなくなるけれど、子どもが生まれたりすると再び補虫網を手にしては、近くの森や山へと出かけることになる。
 わたしにとって、いちばん印象的な虫捕りの場所は大磯Click!の渓流だった。水辺に下りて待ち受けていると、1時間でオニヤンマが数匹は捕まえられた。ギンヤンマは捕まえたくても、かなり高いところを飛行しているので、子どもたちの背丈や技量ではむずかしい。夕暮れどきに、松林の上に拡がる空を琥珀色の羽で染める、ギンヤンマの大群をうらめしげに見上げていた。特に、胸と腹の間に空色が入るギンヤンマの♂を、手に入れたくてしかたがなかったのを憶えている。
 神奈川県の海辺、渚も近い下が砂地の原っぱには、大きなトノサマバッタやショウリョウバッタが群れていたし、近所の林にはあらゆるセミの声が聞こえていた。チョウや甲虫類も多く、そういう意味では虫捕りにはめぐまれた環境だった。逆にいえば、うちの娘のように虫ギライな人間には最悪の環境に見えるだろう。だが、ときおり親が連れ歩いてくれる東京の(城)下町Click!界隈では、虫の影などほとんど見かけなかった。たまに空き地で、渡りをするウスバキトンボの姿を見るぐらいだった。だが、山手にはまだ緑が多く残っていたので、いろいろな虫が棲息していただろう。
 下落合での虫捕り場というと、やはり御留山Click!などの森や林、池などがあるエリアだろう。おそらく、1960年代後半から80年代前半あたりにかけては、空気や河川などの汚濁がピークを迎え、虫の姿もあまり見かけなくなったのではないだろうか。だが今世紀に入ってから、樹木が伐られ緑は相変わらず減少しつづけているものの、虫の姿や声は目立って多くなってきた。
 わたしの家のまわりだけでも、オニヤンマをはじめ多彩なトンボの姿を見かけるし、ベランダにはカブトムシ(♀)が飛びこんできたりする。いったい長い間どこに隠れていたものか、30年前を考えるとまるで夢のようだ。鳴き声からすると、関東に棲息するセミは全種類いるようだし、夕暮れに神田川沿いを散歩するとギンヤンマの姿さえ見かけるようになった。でも、戦前に比べたら、いまだ非常に数が少ないのだろう。
 1963年(昭和38)の「落合新聞」8月11日号に、北杜夫が『雑木林の虫』というエッセイを寄せている。当時の北杜夫は、まだまだ自然が残る世田谷区松原4丁目に住んでいたが、それでも次々と森や林、小川、池などが失われ宅地化されるのを嘆いている。また、当時の世田谷区は田畑が多く、そこで使用されるようになった農薬や除草剤の影響で、戦後は虫の数が激減しているのではなかろうか。ひとたび樹木が伐採され自然が失われてしまうと、その貴重さにあとから気づくのはどこの地域でも同じだった。同号から、北杜夫の文章を引用してみよう。
  
 いま私は世田谷松原に住んでいるが、この附近にも昔は――といってもほんの数年くらい前まで――ネズ山と呼ばれる楢と欅の林があった。私の子供のころは鬱そうとし、涯が知れないようにも思われた。数年前までは、それでも林の形を残していたが、つい先ごろ行ってみると、完全に住宅地となってしまっている。/むかし、私の家の本家が、このネズ山の近所に住んでいた。そこへ遊びにゆくと、同年配くらいの従兄が沢山いたし、ネズ山に虫とりに行くのがまた愉しみであった。
  
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 彼は昆虫採集をはじめると、多くの子どもたちが夢中になるカブトムシやクワガタムシ、トンボ、セミなどはねらわず、しぶいクロカナブンの採集に熱中したらしい。昭和初期の松原では、樹木の幹に黒砂糖を煮て酒を混ぜたシロップを塗っておくと、ありとあらゆる甲虫類が集まってきたようだ。北杜夫は、カブトムシやクワガタムシは友だちに上げてしまいカナブン、特にクロカナブンの採集に明け暮れた。
 わたしの感覚からすると、このカナブンの“趣味”は理解できない。わたしが子ども時代をすごした海辺や付近の里山では、クロカナブンにしろアオカナブンにしろ、ありとあらゆるカナブン類が棲息していたので、むしろカブトムシやクワガタムシのほうが捕まえにくくて貴重だった。
 少年時代の北杜夫(斎藤宋吉)が住んでいたのは、南青山の「青山脳病院」(火災後の分院)近くの自宅だったろうが、下落合ともなんらかのつながりがあったのだろうか? 「落合新聞」を主宰する竹田助雄Click!とは、旧知の間がらのようだが、北杜夫は1927年(昭和2)の生まれであり、1921年(大正10)生まれの竹田助雄とは6歳も年が離れているので、子どものころからの知り合いだったとは考えにくい。
 ただし、北杜夫の自伝的小説である『楡家の人びと』には「目白」が、下北沢から行方不明になった「桃子」がらみの情景として登場している。1964年(昭和39)に新潮社から出版された、北杜夫『楡家の人びと』より引用してみよう。
  
 そして歴史は繰り返された。下田の婆やはそっと運転手の片桐を抱きこんだ。聖子のときと同様、米や野菜をときたま目白の貧相なアパートにとどけてくれた。箱根の山荘は九月十日ころ徹吉が帰京して家を閉じる。彼は汽車で帰る。そのあとに残った炭や米などを――箱根に置いておくとすっかり湿ってしまうので――片桐が車に積んで持って帰ることになっていた。だが片桐は目白にまわり、余り物のすべてを桃子のところへ置いていった。下田の婆やも幾回かアパートを尋ねてきてくれた。
  
 この「目白」が山手線の駅名であり、「アパート」のイメージが下落合だったとすると、戦前から斎藤家と下落合にはなんらかのつながりがあったのかもしれない。だが、1931年(昭和6)8月に下落合へ転居してくる竹田助雄との関係は、以前から佐藤愛子らも参加していた文学サークル「文芸首都」の関連ではないだろうか。佐藤愛子もまた、同人つながりで1967年(昭和42)2月2日の「落合新聞」にエッセイを寄せている。

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 また、1982年(昭和57)出版の竹田助雄『御禁止山-私の落合町山川記-』(創樹社)には、執筆を依頼するために松原の北杜夫邸を訪ねた、次のような記述がある。
  
 「こんな稚ない新聞でわるいんだけど、頼む」/その新聞(落合新聞)を見ながら彼は、/「何かしら書いているんだね」とにっこりし、「みんな、どうしてる」と訊ねた。/「みんなも何かしら書いている」と答えた。SもAも同人誌を主宰し、Kは近代文学によいものを書いた、などと話した。原稿は四枚書いて欲しいと頼んだ。/「どういうことを書いたら、いいかな」/私は“落合秘境”のことを話した。もう、何人もの人に打明けたと同じことを、北杜夫にも気恥かしそうに話した。(カッコ内引用者註)
  
 1933年(昭和8)に保高徳蔵がはじめた、文芸誌「文芸首都」での北杜夫や佐藤愛子とのつながりが、戦後も途切れずにそのままつづいていたのだろう。
 さて、北杜夫は子どものころに虫を熱心に観察・分類することは、大人になる前の観察眼を養う成長過程であり、大人になってからあらゆるものを観察し分類する思考へと結びつく“原体験”だと書いている。「落合新聞」の同エッセイより、再び引用してみよう。
  
 少年時代のこうしたほしいままの虫への熱中は、多くの場合跡方(ママ)もなくさめていってしまうものだ。それはそれでよいことだろう。ただ、彼らは彼なりに、なんらかのものを――たとえ追憶の一片なりとも――掴んでゆく。/もう少し進んで、たとえば樹液にくる蝶と花にくる蝶を区別するようになる。蛾の中で、どんなものが樹液にくるか知るようになってくる。これは自然観察の第一歩である。なにも虫に限ったことではない。何者かを観察し分類するという業の、それは虫の姿を借りた芽生えなのである。
  
 わたしは昆虫採集をするとき、それほど虫たちを細かく観察し分類していた憶えはない。夏休みの宿題で、標本にする虫の名前を調べるときは、確かに図鑑や資料類には当たるけれど、ことさら意識して頭の中に“分類系統”図を描いた記憶がないのだ。どこにいけば、どのような虫が棲息していて捕まえられるかは研究したけれど、それは虫を捕まえるという行為自体が楽しいからであり、スリリングな感覚を味わえるからにほかならない。
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チャドクガ.JPG
 それが大人のいまになって、「何者かを観察し分類するという業」のベースになっているかといわれると、ほとんど役に立っていないのではないだろうか。むしろ、虫たちがたくさんいる濃密な環境の中ですごした子ども時代は、観察や分類といった理性的なプロセスの形成などではなく、情緒的かつ感性的な精神面を養い成長させるのに不可欠な、かけがえのない時間だったように感じるのだ。

◆写真上:下落合の坂道で、このような環境と水辺がないと虫は棲息しにくい。
◆写真中上:ともにヤンマを代表するトンボで、オニヤンマ()とギンヤンマ()。オニヤンマは、子どもが通った落合第四小学校Click!の教室へ飛びこんできたこともある。ともに、「新・理科教材データベース」Click!より。は、ベランダへよく飛びこんでくるミンミンゼミ。網戸へたかるようになると、そろそろ寿命が尽きるころだ。
◆写真中下は、人をあまり警戒しないシオカラトンボ♀(ムギワラトンボ)。下落合には、人懐っこいミヤマアカネも多い。中左は、1961年(昭和36)出版の北杜夫『ドクトルマンボウ昆虫記』(中央公論社)。中右は、1964年(昭和39)出版の北杜夫『楡家の人びと』(新潮社)。は、1924年(大正13)に焼失した南青山の「青山脳病院」全景。
◆写真下は、1963年(昭和38)8月11日の「落合新聞」より。は、周辺に虫が多いとマイナス面もある。緑が濃い森の中で遊び、まんまとチャドクガの毒針毛にやられた左腕。2週間ほど消えなかったが、聖母病院Click!の皮膚科に診せたら“悪い病気”だと思われたのか、女医さんが気味悪がってあまり近づかなかった。ww

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松下春雄の「下落合風景」だろうか? [気になる下落合]

松下春雄「風景」1927.jpg
 松下春雄Click!の作品には、どこの風景を描いたのかわからない画面が何点か存在している。それらの作品タイトルは、単に『風景』とつけられて場所の特定がなされていない。なにか特徴的な建物や地形が描かれていれば、比較的に場所の特定は容易だし、当時の松下春雄Click!はこんなところまで写生しに歩いていたのか……と、その活動エリアも透けて見えてくるのだけれど、いくら眺めても思い当たる場所が見つからない作品がある。1927年(昭和2)に制作され、『風景』と名づけられた冒頭の画面もそのひとつだ。
 1926年(大正15)から1927年(昭和2)にかけての当時、松下春雄Click!が住んでいたのは下落合1445番地に建っていた鎌田方Click!の下宿だ。いまだ独身の時代で、淑子夫人Click!とは結婚していない。この時期、盛んに描いていたのは佐伯祐三Click!と同様に「下落合風景」Click!であり、中でも目白文化村Click!と西坂の徳川義恕邸Click!は何度かモチーフに選んで繰り返し制作している。また、ときに椎名町駅から武蔵野鉄道Click!に乗って出かけたのだろう、豊島園Click!の風景作品も何点か見ることができる。
 豊島園の作品として確認できるのは、まず1926年(大正15)制作の『愉しき初夏の一隅』が挙げられる。同園にある洋式庭園の中心に設けられた音楽堂を背景に、子どもたちが遊具で遊ぶ情景を描いたものだ。また、翌1927年(昭和2)になると、ストレートに『豊島園』とタイトルされた2点の風景作品が残されている。さまざまな花々が咲き乱れる中を、ふたりの女の子が歩いている光景だ。ふたりの少女は、特にモデルがいるわけではなくイメージなのだろう、徳川邸のバラ園を描いた作品(『徳川別邸内』Click!)や、目白文化村の第一文化村水道タンクを描いた作品(『五月野茨を摘む』Click!)にも、同じようなコスチュームで登場している。いずれの作品も、水彩で描かれたものだ。
 このころの松下作品は、いまだ水彩がメインであり油彩作品はまれに見られる画面だった。そして、冒頭の1927年(昭和2)に制作された『風景』は、当時ではめずらしい油彩の画面だ。この時期に見られる表現の流れからとらえると、この画面は下落合か豊島園のどちらかにありそうな風景を描いたもの……と考えたくなる。だが、そのどちらにも思い当たる描画ポイントがないのだ。
 画面を観察すると、まず左手前の妙な建物が目につく。コンクリートらしい質感で建てられた、2階建てらしいモダンな建築なのだが、大小の煙突が2本、平坦な屋根を突き破って空へ伸びている。どことなく病院か工場を思わせる風情だが、きわめて特徴的でめずらしい建築だ。松下春雄は、かなり高い位置から見下ろすように家々を描いており、画面に描かれた家は西洋館が多いように見える。遠景にとらえられた、おそらく下見板張りとみられる緑色の壁面をした洋館や、赤い屋根にベージュの外壁をした西洋館は、まるで目白福音教会Click!の敷地内に建てられた、2棟の宣教師館Click!のようなデザインだ。また、中央に描かれたモダンなデザインの住宅は、第二文化村から下る振り子坂の途中に建っていた「モダンハウス」Click!のようなデザインをしている。
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 画面の地形は、手前の崖線から急激に落ちこんでいるが、右手前方に向かって再び盛り上がっているように見える。つまり、見下ろしている家々は、南に向かって浅い谷間のように窪んだ地勢に建っているようだ。光線は左寄りの背後から射しており、家々の屋根の向きを考慮すると左手が南東、または南の方角になりそうだ。陽射しは比較的強く、太陽が傾いた夕方のようには見えない。どこか下落合にありそうな風景に見えるけれど、1927年(昭和2)現在でこのような家々や地形は、山手線が走る線路際の東端から中井御霊社Click!のあるバッケClick!の西端まで、思い当たる場所が見あたらない。
 そもそも下落合の西部には、いまだ住宅の数がきわめて少ない昭和最初期の作品だ。だから、比較的家々が数多く建ち並ぶ下落合の東部から中部にかけてを疑ったのだが、この画面が描かれてから9年後、1936年(昭和11)に撮影された空中写真を仔細に観察しても、似たような地形の箇所は発見できるが、このような配置で家々が建ち並ぶエリアは存在していない。また、コンクリート建築と思われる屋根から、煙突が2本突き出ていた家の伝承も、わたしは聞いたことがない。これほど特徴的な建物なら、どこかのエピソードに登場してもよさそうなのだ。
 さらに、わたしは豊島園周辺の風景を疑った。この時期、松下春雄は豊島園を頻繁に訪れているようであり、同園の南側には旧・米沢藩(上杉家)の人々が集まって結成した「城南住宅組合」が、1924年(大正13)2月から豊島城跡(のち豊島園)の南側へ「城南田園住宅」Click!の造成をはじめていたからだ。だが、その住宅街をいくら見まわしても、屋根から煙突が2本突き出た家や、描かれたような西洋館群の家並みを確認することができないし地形も一致しない。しかも、大正末の郊外住宅地だった城南田園住宅だが、西洋館よりもどっしりとした日本家屋が目につく街並みだった。
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 もうひとつ、松下春雄には不思議な作品が残されている。周囲を木々に囲まれた中に、突如として辰野金吾Click!が設計したような、おそらくレンガ造りの巨大な西洋館がポツンと描かれている作品だ。1926年(大正15)制作の『風景』と題された水彩作品だが、このような情景も下落合には存在しない。最初は、第一文化村の東側に建っていたレンガ造りの大きな箱根土地本社のビルを疑ったが、同社に尖塔は存在していないし周囲の情景が明らかに異なっている。手前に1本の煙突のみが描かれているが、煙突を必要とする建物自体が存在しないのも妙な光景だ。このような建築は、当時の豊島園の園内とその周辺にも存在していない。
 念のため、松下春雄が旅先でスケッチした風景ではないかと考え、長女にあたる山本和男様・彩子様Click!夫妻の手もとに保存された昭和初期の4冊のアルバム類を参照しても、これらの画面に見あう風景は発見できなかった。アルバムには、やはり独身時代よりも淑子夫人Click!と結婚してから撮影したもののほうが多く、旅先の写真も出身地の名古屋をはじめ、我孫子や伊勢・志摩と限られたものしか残されていない。
 松下春雄は、モチーフに選んだ情景をほぼそのまま画面に写す画家だと思われ(イメージとして添加されるふたりの少女は別にして)、たとえば松本竣介Click!のように街角を切り取って自在にコラージュし、またはデフォルメしつつ“構成”しなおして表現する画家ではないはずだ。でも、ときにそのような試みをしていなかった……とはいいきれない。特に大正末から昭和初期にかけ、水彩から油彩へと向かう表現の過渡期であったことを前提に、また冒頭の『風景』(1927年)がめずらしく油彩表現であることを考えあわせると、可能性がゼロとはいえないのではないだろうか。あるいは、わたしの知らない松下春雄の出身地、つまり名古屋の風景を写したものだろうか?
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 もし1927年(昭和2)制作の『風景』が当時の下落合の実景だとすれば、きわめて短期間しか存在しなかった街並みではないか?……という可能性も、わずかながら残っている。同年にはじまった金融恐慌は、翌年から世界的なレベルでの大恐慌へと向かい、下落合に建っていたオシャレな家々もその影響を受けたのか、街並みが少なからず変化していく時代でもあるからだ。

写真上:1927年(昭和2)に制作された、キャンバスに油彩の松下春雄『風景』。
◆写真中上は、1926年(大正15)に豊島園で描かれた松下春雄『愉しき初夏の一隅』。は、昭和初期に作られた豊島園の音楽堂から洋風庭園あたりの人着絵はがき。は、昭和初期に斜めフカンから撮影された豊島園と城南田園住宅。
◆写真中下は、1927年(昭和2)に描かれた松下春雄『豊島園』。は、1926年(大正15)ごろに制作された描画場所が不明な『風景』。
◆写真下は、1922年(大正11)7月に撮影された本郷洋画研究所時代の松下春雄。は、1928年(昭和3)4月15~19日に愛知県商品陳列所で開催された第5回サンサシオン展の記念写真。前列左から遠山清・松下春雄・不詳で、後列左から鬼頭鍋三郎Click!・不詳・加藤松三郎。は、1929年(昭和4)ごろに制作された鬼頭鍋三郎『風景』。まだ葛ヶ谷(西落合)Click!へアトリエを建てていない時期だが、下落合1385番地に住んでいた松下夫妻の新居には顔を見せていたと思われ、「下落合風景」Click!の可能性がある1作。


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