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目白中学校の篠崎雄斎と龍膽寺雄。 [気になる下落合]

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 下落合437番地にあった目白中学校Click!には、篠崎雄斎という経理担当がいた。彼は下落合から1926年(大正15)に上練馬村2305番地へと移転Click!した目白中学校Click!へ勤めるかたわら、シャボテンとダリアの研究でその分野では高名な人物だった。1923年(大正12)には、東京で「仙人掌(シャボテン)同好会」を設立し、自宅近くの代々木倶楽部で毎月陳列会を開催しており、おそらく世話役をつとめていたと思われる。
 篠崎雄斎は、関東大震災Click!前の1922年(大正11)に目白中学校が発行した校友誌「桂蔭」第8号の職員名簿(生徒監)にも、また1924年(大正13)の「桂蔭」第10号の職員名簿にも、美術教師の清水七太郎Click!や英語教師の金田一京助Click!などと並んで名前が掲載されている。関東大震災をはさみ、おそらく篠崎雄斎は目白中学校の開校時から経理を担当し、下落合の校舎へ通ってきていたのだろう。彼の住所は、仙人掌(シャボテン)の陳列会が開かれた代々木会館の近く、代々幡町幡ヶ谷10番地だった。
 また、篠崎雄斎は世田谷町の代田橋で「紅雨園」というシャボテン園を経営し、そこで栽培した多種多様なシャボテンを新宿の園芸店へと卸している。つまり、平日は目白中学校に勤務して経理業務を処理するかたわら、休日には副業に精をだす二足のワラジをはいていたわけだ。彼は1934年(昭和9)ごろに目白中学校を退職し、以降はシャボテンとダリアの栽培および研究に没頭していくことになる。年齢から考えると、目白中学校を辞めたのは定年退職だったかもしれない。
 「桂蔭」に掲載されている、目白中学校に勤務した複数の教職員記念写真を観察すると、いつも左端にいる背広姿で髪を七三に分け、鼻の下に髭をたくわえ端をピンと跳ね上げた、やや古風な風貌の男が篠崎雄斎ではないかと思うのだが、さだかでない。龍膽寺雄Click!が篠崎雄斎を知るのは、下落合の「目白会館」(目白館?)から高円寺へと転居して間もなくのことだった。彼が、篠崎雄斎と出会ったときの様子を、1979年(昭和54)に昭和書院から出版された『人生遊戯派』Click!から引用してみよう。
  
 はじめのうちは、こういう街の中のシャボテン商で、眼についたものから買い集めて、温室の中に収容していたが、そのうち新宿の園芸商の売店にシャボテンを並べているのが、世田谷代田橋の、紅雨園というシャボテン栽培場で、その園主の篠崎雄斎という、この世界で有名な人であることがわかり、そこを訪ねて、さしあたり今後一年間、毎月百円ずつ予算をとってシャボテンを買うから、栽培上の指導や、その他色々便宜をはかってくれるように、と申し入れて、それから、そこへ正子と車を乗りつけては、積めるだけシャボテンを買って来るようになった。/(中略) 篠崎雄斎はその頃、目白中学の経理係りをして、毎夜アルバイトのようにして通って、そこに勤めていたのだが、私がシャボテンを買いはじめると経理係りをやめて、シャボテン栽培専門にかかることになった。篠原雄斎はシャボテンのほかに、ダリアのほうでも、当時日本では有数の人で、三百坪ぐらいの畑に一面にダリアを植え、その隅のほうの数棟の大きな温室に、ギッシリとシャボテンを栽培していた。薩摩の方の人で、その頃六十歳ぐらいだったが、一種風格のある人物で、古色蒼然というような感じがして、どこか浮き世離れしていた。
  
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 龍膽寺雄は、丸善で手に入れたシャボテンの本を読んでからそのとりこになり、高円寺の家の庭先へ温室を建ててシャボテンを集め栽培しはじめた。当時、シャボテンを販売していたのは銀座の専門店である丸ハ商店をはじめ、新宿中村屋Click!の近くにも園芸商がシャボテンを扱っており、また日本橋三越Click!の5~6階にあった屋上庭園のようなところでも、シャボテンの鉢を販売していたらしい。
 龍膽寺雄は、1934年(昭和9)に『M・子への遺言』を書いたあと文藝春秋=菊池寛Click!が牛耳る文壇に背を向け、喧騒の東京を離れてシャボテンとゆっくり暮らせる郊外の住居を物色しはじめている。最初は、小田急線の成城学園Click!を希望していたようだが良い物件がないため、もう少し範囲を拡げて横浜から三浦半島にかけてまで探したようだ。鎌倉Click!が気に入ったらしいが、森や谷(やつ)が多くて陽当たりのいい温室に適した広い庭つきの住宅が少なく、購入を思いとどまったらしい。もし、このときモダニズム文学の龍膽寺が鎌倉へ移り住んでいたら、ひょっとすると川端康成は鎌倉には転居してこなかったかもしれず、鎌倉の文学史は大きくさま変わりをしていたかもしれない。
 彼は再び小田急線沿線に注目すると、中央林間駅の近くに希望どおりの家を見つけている。『人生遊戯派』の「『M・子への遺書』前後」から、つづけて引用してみよう。
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 『M・子への遺書』の発表後、私は文壇に背を向けるつもりになり、騒然とした東京を離れて、ひとり静かな世界を求めて、シャボテンと暮らすことを考えて、現住他の神奈川県大和村中央林間に土地を買い、新居を建てて、移り住むことにした。/新居をどこに構えるか、については、その前に各地を歩き廻って、気に入った土地を物色した。最初成城学園に眼をつけて、さきに述べた斎藤延翁の邸の近くに恰好な土地を見付けたが、あいにく高圧線の鉄塔が近くに建っているので、やめて、横浜から横須賀へ向かう三浦半島沿いの東京湾沿岸をつがし廻り、谷津海岸にひじょうにいい場所を見付けたが、丘陵と丘陵との間にある畑地の所有者がはっきりしない。
  
 こうして、彼は1929年(昭和4)から小田急電鉄が「林間都市計画」の一環として分譲販売していた、「スポーツ都市」の中央林間へ家を建てて引っ越した。小田急の計画では、東京のさまざまな施設を次々と中央林間へ移設し、最終的には首都を東京から林間都市へ遷都させる構想だったという。松竹蒲田撮影所Click!も、当初は大船ではなく中央林間への移設が予定されていた。
 龍膽寺雄も、そのような小田急電鉄の壮大な計画を、どこかで知って移り住んだのかもしれない。あちこちにカラマツの密生した林があり、夏になると南風が相模湾の潮の香りをうっすらと運んでくる、シャボテンの栽培にはもってこいの土地がらだったが、冬は北の大山や丹沢Click!から相模平野へ吹きおろす“丹沢おろし”に震えあがった。彼は1992年(平成4)に死去するまで、この地で作品を書きつづけることになる。
至誠堂新光社「シャボテン」1960.jpg 主婦の友社「流行の多肉植物」1972.jpg
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 篠崎雄斎と龍膽寺雄が、いつごろまで懇意にしていたのかは不明だが、その後、龍膽寺は次々とシャボテンに関する著作を発表しているので、“師”である篠崎から教わった栽培技術や知見、ノウハウは少なくなかったにちがいない。文学の“師弟”関係や派閥、その馴れ合いや腐敗にウンザリしていた龍膽寺は、まったく関係のない分野の“師弟”関係が新鮮に感じたものだろうか。このあたり、帝展の腐敗に激怒してソッポClick!を向き、踊りや芝居にのめりこんだ金山平三Click!の経緯に、どこか似ているような気がする。

◆写真上:「春雷」か「師子王丸」とみられるシャボテンの花。
◆写真中上:1922年(大正11)3月現在の目白中学校職員名簿()と1924年(大正13)3月現在の同名簿()で、教師に混じり「篠崎雄斎」の名前が見える。
◆写真中下は、1922年(大正11)の教職員記念写真で経理業務担当の篠崎雄斎が写っているはずだ。は、高円寺時代と思われる龍膽寺雄・正子夫妻。
◆写真下上左は、1960年(昭和35)に出版された『シャボテン』(至誠堂新光社)。上右は、1972年(昭和47)出版の『流行の多肉植物』(主婦の友社)。は、1941年(昭和16)に陸軍が撮影した空中写真で龍膽寺邸のあった中央林間2丁目あたり。


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