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『大東京写真案内』にみる新宿区エリア。 [気になるエトセトラ]

内藤清成白馬.JPG
 1932年(昭和7)に東京35区制がスタートすると、当時のメディアでは新たに東京市へ加えられた20区の紹介が盛んだった。前回の記事Click!では、新たに誕生した20区紹介のプライオリティや観光・散策に出かける際の「名所」などをご紹介したけれど、きょうは1933年(昭和8)に博文館から出版された『大東京写真案内』を中心に、35区のどのような街並みや「名所」が紹介されているのかを見ていこう。
 もっとも、35区すべてについてご紹介するわけにはいかないので、ここは落合地域のある現在の新宿区エリア、すなわち「淀橋区」「牛込区」「四谷区」の3区について、どこが取り上げられ、なにがアピールされているのかを見ていきたい。同3区は、戦後の1947年(昭和22)5月に合併して、東京22区(8月には23区)がスタートするのだけれど、本来はかなり風土や気質、文化などが異なる地域同士だった。
 3区の合併にあたり、「早稲田区」(明治期からのネームの知名度からか)、「戸山区」(1000年以上前の平安期からの和田氏Click!による事蹟からか)、「武蔵野区」(一般に広くつかわれた郊外名称Click!からか)などいくつかの区名プランが出ているが、牛込区とともに当初から東京15区のひとつであり、もっとも繁華で市街地化が進んでいた四谷区の江戸期宿場町の事蹟にちなんだ、内藤家下屋敷に由来する「内藤新宿(ないとうしんしゅく)」Click!が注目されたのは自然なのだろう。
 この宿場町名から、松平系大名の「内藤」を取り去って「新宿(しんじゅく)」と濁った発音にしたのも、新しい地域名としてのオリジナル感があって秀逸なネーミングだと思う。もともと性質や歴史的な経緯が異なる3区を統合したのだから、どこの地域をもイメージさせない架空の名称が必要だったのだろう。それほど、この3区は歴史的な経緯や風土・文化も異なっていたように思える。
 では、江戸期の宿場町から拓け千代田城の外濠に隣接する、旧・乃手Click!の四谷区から見ていこう。四谷区は、千代田城の四谷見附Click!と甲州街道の内藤新宿を中心に栄えた街で、区内には神宮外苑や新宿御苑Click!(内藤家下屋敷)を抱える江戸市中のころから有名なエリアだった。したがって、『大東京写真案内』で紹介される「名所」も、江戸期の事蹟にちなんだ場所が多い。同書では「四谷見附附近」「お岩稲荷」「新宿御苑」、そして江戸期に移植された神宮外苑に生える「なんじゃもんじゃの木」「神宮プール」「神宮競技場」「神宮球場」など10ヶ所が取り上げられている。
 400年ほど前、尾張徳川家Click!が同地に移植した“なんじゃもんじゃ(ヒトツバタゴ)”が、なぜことさら取り上げられているのかは不明だが、「四谷見附附近」の写真に添えられたキャプションから引用してみよう。
  
 四谷見附附近
 往年四谷門のあつたのがこの辺り、今はその桝形の跡をとり除いて、石畳だけが僅かに遺つてゐる。麹町をよぎる甲州街道は、この見付(ママ)を過ぎて四谷区を東西に横断、内藤新宿の追分で青梅街道と分れる。見付から新宿に至る一帯は震災後飛躍的発展をとげた商業区域、交通の頻繁な点から云へば、正に都下随一であらう。
  
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慶應病院.jpg
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 この文章は、東京都庁が淀橋に移転してきて以降、そのまま「新宿区」にも当てはまる表現だろう。このほか、四谷区では慶應大学の大規模な「慶應病院」と、映画館街の代表として「帝都座」が紹介されている。慶應病院については、「流石金に絲めをつけず建設された私立病院の雄、外観設備共に完璧」と皮肉まじりのキャプションが添えられ、同病院の空中写真が掲載されている。
 次に牛込区の「名所」も、江戸期以前からの歴史をベースにした場所が並んでいる。四谷区と同様に、千代田城の外濠に面した街だからだろう。「市ケ谷見付と牛込見付」(ママ)をはじめ、「築土八幡」「関孝和の墓」「市ケ谷八幡」などの5ヶ所。明治期由来のものは市ヶ谷の「陸軍士官学校」で、大正末から拓けた場所として「神楽坂」が紹介されている。同様に、キャプションから引用してみよう。
  
 市ケ谷見付と牛込見付(ママ)
 市ケ谷見付――外濠一つ挟んで、向側が麹町区こちらが電車線路に沿つたいさゝか古風な市ケ谷の片側商店街、近くに市ケ谷八幡や士官学校がある。この見付から飯田橋寄りにあるのが牛込見付、山の手第二の盛り場神楽坂を控へて、ラツシユアワーの混雑はめまぐるしいが、こゝの外濠の貸ボートは、都心に珍らしい快適な娯楽機関である。
  
 1933年(昭和8)現在、「山の手第二の盛り場」が神楽坂であり、「第一の盛り場」が新宿駅東口(駅前通りClick!=新宿通り)だった時代だ。いまだ渋谷も池袋も、駅前から住宅街が拡がり「盛り場」としてまったく認識されていない。また、数ある江戸期に由来する墓所の中から、なぜ算学者の関孝和だけが選ばれて掲載されているのかが不明だ。
牛込見附.jpg
市ヶ谷見附.jpg
陸軍士官学校.jpg
大東京写真案内1933.jpg 建築ジャーナル201704.jpg
 つづいて淀橋区、つまり現在の新宿区の中枢部にあたるエリア紹介では、今度は江戸期以前に由来する「名所」がただのひとつも紹介されていない。ピックアップしようと思えば、東西の大久保地域や百人町、尾張徳川家の戸山ヶ原Click!、神田上水の淀橋Click!に玉川上水、高田八幡(穴八幡Click!)に成子天神Click!皆中稲荷Click!角筈十二社Click!西向天神Click!鎧社Click!……と史跡や物語にはこと欠かないはずなのだが、なぜか明治以降の街並みや施設しか掲載されていないのだ。
 ちなみに、紹介されている写真は「淀橋浄水場」Click!をはじめ、「早稲田大学」Click!(大隈講堂Click!)と同大学の「演劇博物館」Click!「新宿駅」Click!「新宿駅前通り」Click!、そして「カフェー街」となっている。つまり、昭和初期の段階から淀橋区=新宿駅とその周辺は繁華街や歓楽街、公共施設(各種インフラ)などのイメージであり、多種多様な歴史や文化の面がすっかり置き去りにされる……という現象が起きていたのがわかる。同書の、新宿駅周辺に関するキャプションから引用してみよう。
  
 新宿駅前通り
 都心から放出する中産階級の人々の関門であり、享楽地であるのがこの一帯。震災後山の手銀座の名称を神楽坂から奪ひ、一日の歩行者三十萬、自動車が四萬台。三越、二幸をはじめ大小の商店が軒を並べ、その裏街はカフエとキネマと小料理やが、雑然と立並ぶ帝都有数の享楽街。
 カフエー街
 近年新宿カフエー街の発展はすばらしいもので、新宿の裏手及び東海横丁等断然圧倒的に他の地区の追随を許さない。
  ▲
 この傾向は1980年代までつづき、新宿区=ビジネス街+歓楽街のイメージから、容易に抜け出すことができなかった。また、新宿区の行政自体もそれで満足し、ことさら歴史や文化について丹念に掘り起こしたり、記念物や文化的リソースをていねいに保存する積極的な努力をしてこなかったように見える。
 その流れのターニングポイントとなったのが、1989年(昭和64)に設立された新宿歴史博物館Click!あたりだろうか。これは、翌1990年(平成2)に東京都庁が新宿駅西口へ移転することが見えていたため、「都庁のある地域が歓楽街のイメージのままじゃ、ちょっとマズイじゃん」という行政の意識が、少なからず働いたせいなのかもしれない。以降、相変わらずビジネス街や繁華街の印象は残しつつも、21世紀に入るとかなり異なる地域の側面がクローズアップされてきた。
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新宿駅前通り.jpg
早稲田大学大隈講堂.jpg
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 1933年(昭和8)の当時と、今日の文化面におけるさまざまな掘り起こしなどの成果を含め、おそらく四谷地域や牛込地域、そして淀橋地域ともども新宿区として取り上げられる「名所」は、その思想的な背景や行政の視点とともに激変していることだろう。もはや、「山の手銀座」などとは誰も呼ばなくなり、銀座とはまったく異なる新しい時代のアイデンティティが形成できるほど、23区内でも独自の風土や街並みを形成している。

◆写真上:内藤清成が家康から、白馬で駆けまわった範囲を下屋敷地として与えるといわれた伝説が残る内藤町。多武峯内藤社には、いまも白馬像が安置されている。
◆写真中上:四谷区の風景で、からへ四ッ谷駅前の四谷見附橋、信濃町駅前の慶應病院、内藤家下屋敷の新宿御苑、キネマの帝都座、神宮球場、国立競技場(工事中)になった神宮競技場、そして神宮外苑の聖徳記念絵画館。
◆写真中下:牛込区の風景で、からへ現在でもボートが浮かぶ牛込見附、左手が釣り堀になる市ヶ谷見附、市ヶ谷台にあった陸軍士官学校。下左は、1933年(昭和8)出版の『大東京写真案内』(博文館)で、表紙が日本橋なのがうれしい。下右が、東京都の時代遅れな都市計画について書かせていただいた『建築ジャーナル』2017年4月号。
◆写真下:淀橋区の風景で、からへ淀橋浄水場の濾過池と沈殿池、3代目・新宿駅、新宿通りとなった新宿駅前通り、早稲田大学の大隈講堂と演劇博物館。

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飛行機もカメラマンも不明な学習院空撮写真。 [気になるエトセトラ]

目白小学校.JPG
 こちらでは低空飛行で撮影された学習院の写真として、1933年(昭和8)出版の『高田町史』(高田町教育会)に掲載されたグラウンド写真Click!と、同年撮影で学習院に保存されている下落合406番地の学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)の写真をご紹介している。昭和寮の写真には1933年(昭和8)撮影のタイムスタンプがあり、学習院グラウンドの写真は同年に出版された『高田町史』のグラビア所収なので、わたしは2枚とも1933年(昭和8)に同一の飛行機から撮影された写真類だと判断していた。
 ところがグラウンドを撮影した写真、つまり『高田町史』掲載のほうは、前年の1932年(昭和7)であることが判明した。しかも、同年4月29日と撮影日までがはっきり特定できる。そして、おかしなことに写真を撮影した人物が何者なのか、学習院のグラウンド上空を旋回した飛行機がどこの所属のものなのか、現在にいたるまでまったく不明なのだ。物語は、当時の高田町長だった海老澤了之介Click!のもとに、差出人不明の郵便が突然とどけられたところからはじまる。封筒の中には、学習院のグラウンドを借りて記念行事を行なう、高田町の各小学校の生徒たちが整列している空撮写真が入っていた。
 当時の高田町は、市街地からの急速な人口流入で町内の小学校がまったく足りず、「二部教授」制を採用して授業を行っていた。二部教授とは、子どもたちを収容する教室が足りないため朝から昼までの授業と、午後から夕方までの授業に分けた時間割りを実施することだ。下落合の場合、いまだ空き地が多く残っていたため臨時の分校舎を建設し、できるだけ二部教授を回避することができたが、市街地化が早かった目白駅東側の高田町では、分校舎の土地を確保することがむずかしかったのだ。
 ちなみに、高田町の明治末に記録された戸数は1,000戸弱で人口が約3,500人だったものが、1921年(大正10)には戸数7,200戸で人口が約27,000人、昭和初期には戸数約10,000戸で人口が約43,000人と激増している。小学校は、高田第四小学校(現・南池袋小学校)を建設したところで学校敷地がなくなり、高田町は第五小学校建設のために目白通りの北側にあった学習院馬場Click!の買収へと乗りだしている。同馬場の敷地へ、高田町は高田第五小学校(現・目白小学校)と高田町役場、消防ポンプ所、火の見櫓、そして高田警察署を設置する計画だった。
 土手に囲まれた学習院馬場Click!は、面積が約4,000~5,000坪ほどあり、当時は三矢宮松が長官をつとめていた宮内省林野局の所有だった。刀剣好きの方なら、三矢宮松という名前に見おぼえがあるだろう。若いころから耳が遠く、大きな補聴器を首から下げ大声で会話をしなければならなかった、戦前の有名な刀剣鑑定家だ。高田町助役だった海老澤了之介は、三矢宮松との交渉から1928年(昭和3)11月9日、学習院馬場を坪40円で買収することに成功した。ところが、川村女学院Click!の敷地払い下げ交渉は難航している。
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 そのときの様子を、1954年(昭和29)に出版された海老澤了之介『追憶』(私家版)の一節から引用してみよう。
  
 高田町と云へば、学習院の所在地であり、その直接の行政官庁の要求でしかも役場庁舎敷地学校校舎敷地と言ふ様な目的に使用するのであつたから、馬場は学習院の南方の下の方に仮に移してでも、我々の希望にそつて下さる事になつた。たしか払下価格は一坪四拾円だと記憶して居る。(中略) この頃矢張り川村女学院も女学校敷地として払下げ出願書を出したが、いかに当時台湾総督の余勢をもつてしても、如何んともするなく、出願は空しく却下されたので、我々はこの時少しは愉快感を感じた事であつた。
  
 このあと、川村竹次は高田町に泣きついて協力を要請し、個人名義の私立学校には払い下げられないという宮内省を説得して、財団法人化することで解決を図っている。結局、払下げは成功するのだが、坪単価は60円と高田町ほど値引きはしてくれなかった。
 こうして、1929年(昭和4)9月に高田第五小学校は落成した。これにより、少しずつ生徒たちを第五小学校へ移籍させ、不足する教師たちの工夫や努力などで、二部教授制が解消できたのは3年後の1932年(昭和7)になってからのことだ。高田町では、二部教授の解消が教育の領域での大きな課題だったせいか、それが解決できたことで大がかりな祝賀会までが開催されている。
 1932年(昭和7)4月29日に学習院のグラウンドを借りて、高田町内の小学校に通う生徒や教職員たち全員を集めて、「二部教授撤廃大祝賀会」が催された。そして、このときグラウンドの上空にたまたま飛来した飛行機には、カメラマンあるいはカメラを持った“誰か”が同乗していたのだ。同書から、つづけて引用してみよう。
高田町役場跡.JPG
海老澤了之介「追憶」1954.jpg 高田町史1933.jpg
  
 この時は町内第一から第五に至る全校の生徒教職員、並に学校後援団体が全員を挙げて参加し、トラック内には、生徒全員、トラックの外には父兄関係者数千集合、時しも団体体操を行つて居たが、丁度その時、空を飛行機が飛んで低空旋回を行ひ、機上から旗さへ打振つて呉れたので、一同歓声をあげて之に呼応し、互に祝福したことであつた。翌々日ともなると、ここにかゝげた様な大きな空中から撮影した写真を町長の僕宛に送つてくれた。しかも発送人は書いてなかつた。当時は新聞飛行機も無し、広告飛行機も無し、飛行隊一本の時代であつたから、軍部飛行機であつた事は疑ひないが、低空旋回までして撮影してくれたのに、その送り人の名を示さないところ、日本武人のおくゆかしさが伺はれて嬉しかつた。今だ(未だ:ママ)にその人の名が知られない事が残念に思はれる。
  
 海老澤了之介は、「新聞飛行機も無し、広告飛行機も無し、飛行隊一本の時代」と書いているけれど、もちろんそんなことはありえない。
 1925年(大正14)3月6日に下落合の目白商業(現・目白学園)に墜落した、ビラを撒いていた「広告飛行機」のエピソードClick!はこちらでもご紹介しているが、新聞社もまた航空機をチャーターして紙面用の空中写真を早くから撮影している。たとえば、1923年(大正12)6月14日に東京朝日新聞社のチャーター機が、カメラマンを載せて早稲田大学の戸塚球場に飛来Click!し、東京六大学野球の様子を撮影しているのをご紹介済みだ。だから、1932年(昭和7)ともなれば、さまざまな目的の小型機が上空を飛行していたはずであり、祝賀会のときたまたま飛来した飛行機が所沢から飛んできた陸軍航空隊のものとは、まったく限定できないだろう。
 新聞社が取材用に、専用の社機を保有するのはもう少しあとの時代になるが、取材案件ごとに航空機をチャーターすることは、大正の早い時期からすでに行われていた。したがって、機上から“社旗”をふって撮影してくれたのは、どこかの新聞社の記者ないしはカメラマンだったのかもしれないし、カメラが好きな広告宣伝マンかもしれないし、あるいは海老澤が書くように軍人だったのかもしれない。
 ただし、学習院OBが多い陸軍の飛行機だとすると、「発送人」名を書かずに秘匿したのが確かにうなずける。なぜなら、任務以外のプライベート写真を撮ってフィルムを浪費したことがバレれば、非常にまずいからだ。でも、これは大判フィルムが非常に高価だった時代に、仕事以外の被写体を撮影してしまった記者やカメラマンについても、まったく同じことがいえるとは思うが……。
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 海老澤了之介が高田町の助役から町長にかけての時代、武蔵野鉄道Click!を池袋から護国寺まで延長させる計画が進行している。高田町には、「武蔵野鉄道護国寺線作成委員会」が結成され、同鉄道や沿線の街に対して積極的な働きかけが行われた。なぜ根津山が長期間、宅地開発も行われずそのままの状態に置かれていたのか、武蔵野鉄道の延長と終点駅に近い操車場の設置を考慮すると、なにか別の物語が見えてくるかもしれない。
 だが、隣りの西巣鴨町が武蔵野鉄道にはまったく消極的で、高田馬場駅から早稲田までの地下鉄「西武線」Click!と同様、延長計画は画餅に帰してしまった。高田町では、やる気のない西巣鴨町に対して立腹していた様子なのだけれど、それはまた、別の物語……。

◆写真上:先年に新装なった、現在の目白小学校(旧・高田第五尋常小学校)。
◆写真中上は、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」にみる学習院馬場。は、1932年(昭和7)4月29日に不明の航空機から撮影された学習院グラウンドの「二部教授撤廃大祝賀会」。は、現在の学習院グラウンドと高田町役場跡界隈。
◆写真中下は、火の見櫓の残滓が残る高田町役場跡裏の現状。下左は、1954年(昭和29)に出版された海老澤了之介『追憶』。下右は、1933年(昭和8)出版の『高田町史』(高田町教育会)で撮影者不明な学習院グラウンドの空中写真も収録されている。
◆写真下は、1933年(昭和8)撮影の左から高田町役場、消防ポンプ所と火の見櫓、高田警察署。は、前年の豊島区の成立とともに撮影された高田町役場解散記念写真で印が町長だった海老澤了之介。は、左から右へ高田町町役場(現・警視庁目白合同庁舎)や消防ポンプ所(現・豊島消防署目白出張所)、高田警察署(現・目白警察署)の跡。

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東京35区時代のプライオリティと名所。 [気になるエトセトラ]

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 1932年(昭和7)10月1日に、従来の東京15区が35区に再編成されたとき、新たに編入された区部を紹介する書籍や冊子が、いっせいに出版されている。その中でも代表的なのが、1932年(昭和7)に東京朝日新聞社が発行した『新東京大観』上・下巻Click!と、翌1933年に博文館が出版した『大東京写真案内』だろうか。
 1878年(明治11)にスタートした東京15区は、巨大な城下町だった大江戸Click!の旧・市街地をエリアごとに区制へ置き換えたものだった。この区分けは、のちの東京35区についても同様のことがいえるのだが、ひとつの街としてのエリアを規定する上では、その文化や歴史、言語(江戸東京方言Click!)、風俗、習慣、気質、アイデンティティなどのちがいも含め、よく練られた構成だったと思う。大江戸の街は、江戸後期から世界でも最大クラスの大都市だったので、ひとつの街としての統一感はきわめて希薄だ。
 街ごとに、上掲の“ちがい”が顕著であり、しゃべり言葉を聞いただけで、だいたいどこの地域か当てられるほどの差異が存在していた。いつだったか、「どちらの出身?」と訊かれて「東京です」と答えるのは、「日本です」と答えるのと同じぐらい曖昧で漠然とした回答だ……と書いたことがある。東京15区は、その“ちがい”をうまくすくいとって、歴史的な経緯などをベースに旧・大江戸の市街地を15分割したものだろう。
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 上掲の東京15区の中でグリーンに塗った8区が、いわゆる町人たちや幕府の小旗本、御家人たちが多く居住していた城下町(略して下町)であり、その他の7区が町人よりも比較的身分が高い武家たちが主体だった武家屋敷街(俗に旧・山手=乃手)と呼ばれるエリアだ。おもに明治末ごろから、この旧・山手は15区の外周域(郊外)へと徐々に拡大していき、西側の山手線内外に形成された屋敷街を、旧・山手と区別する意味で新・山手と呼ぶことがある。だが、現在では区制も意識も大きく変わり、新旧をいっしょにして概念的に山手(やまのて=乃手)と呼ばれることが多い。
 わたしの本籍地は15区の中の日本橋区になるのだが、現在では歴史や文化が異なる京橋区といっしょにされて「中央区」と呼ばれている。江戸期から栄えているのは日本橋側だが、明治になって発達したのが銀座を抱える京橋区だ。日本橋と京橋では祭神の氏子町も異なり、日本橋側はおもに江戸東京総鎮守の神田明神Click!だが、京橋側はおもに徳川家の産土神である山王権現(日枝権現)社Click!の氏子が多い。つまり、東京15区時代の日本橋区と京橋区のほうが区分けとしては自然なのだ。わたしの故郷が、銀座や築地を含む中央区だという意識は、アイデンティティ面も含めて皆無だ。銀座や築地は、隣接する神田や柳橋、本所と同様に“お隣り”であって地元ではない。
 上記15区の中でブルーに塗った区が、のちの戦後に新宿区を形成するエリアなのだが、四谷区は千代田城外濠の見附Click!に接した四谷や市谷を中心とする江戸期からの繁華な乃手の街で、牛込区はさらに外側の神田上水を抱える江戸期から農村色の濃いエリアだった。さらにいえば、四谷区は甲州街道の宿場町から発展しており、牛込区は中世の牛込氏の街から発達したより歴史の古い地域ということになる。これに淀橋区も加え、一緒くたにして戦後に「新宿区」となるわけだけれど、地域性をひとくくりにするにはだいぶ無理があるのがおわかりいただけるだろうか。
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 さて、この東京15区に加えて1932年(昭和7)に加わったのが、次の新しい20区ということになる。この区分けのしかたも、地域性が考慮されていて自然に感じる。
東京35区.jpg
 表に付加している数字は、当時の出版物で紹介されることが多かった追加20区の優先順位だ。ちなみに、東京朝日新聞社の『新東京大観』(1932年)と博文館の『大東京写真案内』(1933年)も、この順番で紹介されている。いずれも、トップで紹介されているのは豊島区で、いちばん最後が杉並区となっている。
 これが、東京35区について記述する際の、当時の人々が抱いていたプライオリティだったのだろう。やはり、なんらかの歴史的な経緯や事蹟、芝居などに登場する機会の多い地域や名所、住宅街の形成や人口などが考慮されているとみられ、今日の“都心”でありギネスブックにも掲載されている世界最大のターミナル新宿駅を抱える淀橋区が、ビリから3番目で18位というのが面白い。市街地の15区を加えれば、33位の下位に位置づけられている。渋谷区も、淀橋区と肩を並べてビリから4番目の17位だ。80年以上もたつと街は大きく変貌し、まったく別の顔を持ちはじめるのがよくわかる。
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 『新東京大観』には、新たに編入された20区の観光ポイントを紹介する、「大東京新名所」と題するエッセイが掲載されている。以下、リストにして引用してみよう。
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 それぞれの名所で、現在でも通用するもっともな区もあるけれど、中には「なんでだい?」と首をかしげるところも多い。知名度の高い豊島区が強いのは、やはり子育てには霊験あらたかな雑司ヶ谷の鬼子母神Click!を抱えているからだろう。かわいそうなのは荒川区と品川区で、なぜ江戸期の処刑場だった小塚原Click!(こづかっぱら)と鈴ヶ森Click!が、区内を代表するお奨め観光スポットになるのだろうか。江戸川区の星降りの松はいいとして、板橋区の縁切り榎もあんまりだろう。もっと、ポジティブで気持ちのいい場所を紹介すればいいのに……と、わたしでなくても思うのではないだろうか。
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 「明日は、首斬りの土壇場があった小塚原へいくの、とっても楽しみだわ」とか、「鈴ヶ森の磔(はりつけ)跡を見るの、いまからウキウキして今夜は眠れそうもないね」とか、今日の心霊スポットめぐりではあるまいし、通常はありえないだろう。「ねえ、あなた、せっかく35区の大東京時代になったのですもの、今度の日曜日に板橋の縁切り榎までハイキングしませんこと?」と妻にいわれたら、「あれ、オレもいま、そう思ってたところさ。ほんと、気が合うねえ!」などと答える夫は、まずいそうもない。

◆写真上:東京メトロ・早稲田駅から東へ300mほどの、宗参寺にある牛込氏累代の墓。
◆写真中上は、1932年(昭和7)撮影の淀橋区にあった角筈十二社池Click!は、1933年(昭和8)撮影の同じく淀橋区の新宿駅近くにあった新宿カフェー街。
◆写真中下は、1933年(昭和8)に撮影された牛込区の神楽坂Click!は、1932年(昭和7)撮影の四谷区にある神宮球場で東京六大学野球Click!の開会式のようだ。
◆写真下は、1932年(昭和7)に空撮された豊島区の雑司ヶ谷鬼子母神。は、1933年(昭和8)撮影のコンクリート新駅舎が完成した中野区の中央線・中野駅。

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下落合は観世流で高田町は宝生流。 [気になるエトセトラ]

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 以前、下落合515番地(現・下落合3丁目)には二世・観世喜之邸があり、観世流の能楽堂が設置されていたことをご紹介Click!している。1930年(昭和5)に牛込区矢来町60番地に建設される観世九皐会能楽堂(のち矢来能楽堂)の前身、すなわちシテ方観世流と呼ばれる現在の「矢来観世」が主催する能楽堂が、当初は下落合の自邸内に設置されていた。そのせいで、謡(うたい)を習う下落合の住民たちの多くは観世流Click!だったと思われる。
 ところが、隣り街の高田町(現・目白)では、観世流ではなく加賀の宝生流の謡が流行っている。たまたま宝生流に通じていた金沢出身の人物が、高田町にいたことが要因らしい。また、池袋駅Click!近くにあった、成蹊小学校の教師の中にも宝生流の謡をやる人物がいたらしく、10名ほどのメンバーで「東遊会」という宝生流の会を起ち上げている。その会に所属していたのが、のちに高田町の町長となる海老澤了之介Click!だった。当時の様子を、1954年(昭和29)に出版された海老澤了之介『追憶』(私家版)から引用してみよう。
  
 私はと言ふと、醸造試験所に編輯の事務を取つて居た頃に、同僚の佐藤事務官、大竹技手と言ふ人達が、金沢出身の石井さんと言ふ所員に、宝生流謡曲を習つて居たので、私も負けずと、鶴亀から習ひ初めて居た。加賀藩はむかしから加賀宝生といつて、誰も彼も宝生流である。ひとり藩士ばかりでなく、金沢人は、大抵宝生をうたつた。/此の昔の一番本には、ゴマ節に細い註が付いて居ない。石井さんは朱筆を取つて、上げ下げからウキ、言葉のダシなどを付けて呉れる。/当時は此の事を何とも思はなかつたが、今考へると、昔の稽古を受けた人は、確かなものだつたのだなと思はれる。/かうして居る内に、雑司ヶ谷にも同好の士が移住して来たので、その人達と一緒に教へを請ふ様になつた。/後に、山形の人で、成蹊小学校の渋谷先生と言ふ人に付いたのであるが、私もこのあたりから謡に本腰を入れ初め、此の先生に習つた弟子達が十人程で「東遊会」の名の下に謡の会を作つたのは大正十年の事であつた。
  
 最初は、(城)下町の「線道をつける」Click!のと同様に、ちょっとした教養を兼ねた趣味のつもりだったようだが、上達するにつれ海老澤了之介は本職の先生について、本格的に宝生流の能楽を学びはじめた。また、ある程度の技量を習得した彼は、高田町の地元で謡の会を主宰して教えている。最初に教えはじめたのは、「高田町青年団」に所属する15名の若い男女だった。
 わたしの親父(観世流)もそうだったが、一度謡(うたい)をはじめるとやめられなくなる魅力があるようだ。おそらく、カラオケボックスや浴室などのライブ空間で歌を唄うと気持ちがよくなり、長時間つづけると一種のトランス状態になるのと同様に、なんらかの快楽的で習慣的な脳内物質が分泌されるのではないだろうか。大正期には、腹の底から声を出して歌うことなどめったになかったと思われるので、あり余る精力やストレスの発散にも効用があったのだろう。ついには海老澤了之介の哲子夫人までが習いたいといい出し、宝生流謡曲はマイブームならぬ高田町のタウンブームとなっていったらしい。
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 謡(うたい)を経験した方ならご存じだろうが、各流派の会に入門して段階的に上達していかないと、謡うことを許されない曲というのがある。技量が上がってくると、所属する会も上級者向けのものとなって師匠も変わり、より高度な曲へ挑戦することになる。最終的には、家元に近い師匠から習うようになり免状をもらうことになる。
 海老澤了之介は、宝生流の謡「十一番」ものの免状を1922年(大正11)に習得しているが、つづけて1927年(昭和2)には小皷幸流の家元から頭取・置皷・脇能の許状も受けている。つづけて、同書から引用してみよう。
  
 その後、勧進帳のお許しが昭和四年五月で、清経、芦刈、鶴亀、田村、土蜘蛛、熊坂、国栖、岩船等の能の免許は、昭和五年から七八年にかけてであつた。/私が初めて演じた能は、清経で、昭和五年二月である。(中略) 昭和五年の二月二十三日、芝紅葉館に松平頼寿伯、毛利元雄子、戸田康保子、近藤滋彌男外竹内金平氏、桜井小太郎氏、長尾真吉氏、布目鄰太郎氏、それに宝生のシテ方、囃子方一同を招待して盛宴を張つたことがある。清経の初能を演了した祝ひ心の為である。松平伯外一同からは又お祝として銀の大きな三つ組の松竹梅模様の盃をいただいた。思へば楽しかりし時代である。/その後にも上野の音楽学校に、松平、戸田、近藤のお歴々と共に、敷舞台を寄附して、その舞台開きに松平さんの翁に続き私が鶴亀をつとめた(後略)
  
 下落合に接する高田町の戸田邸Click!(現・徳川邸Click!)に住んでいた、戸田康保Click!の名前が見えているが、戸田家でも宝生流の謡を習っていたのかもしれない。
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 さて、当時の山手女性は上記のとおり、謡を習う人もいたようだが時代が下がるにつれ、ピアノやヴァイオリンなどの西洋楽器へと流れていく。だが、明治から大正の前半ぐらいまでは、乃手の女性も(城)下町に習って三味に長唄や常磐津の教養稽古に通うことが多かったようだ。高田町でも、四家町Click!雑司ヶ谷Click!は早くから拓けていたので、常磐津のお師匠(しょ)さんが住んでいた。もちろん、ここは乃手などで通い稽古だけでなく出稽古の需要がかなり多かったようだ。
 同書より、哲子夫人の娘時代について引用してみよう。
  
 明治三十年頃でも、尚ほ大衆娯楽はないから、都下近郊一円は、昔ながらの常磐津、長唄、浄瑠璃などのお稽古とか、そのおさらひの会といふものが娯楽と、教養を兼ねたものとして、伝統的に残されてゐたに過ぎない。しかしこれは、今で言ふお茶やお花の様に、特に教育の普及して居なかつた当時の若衆又は娘達の間では、少なからず高尚な意味を持つて取扱はれて居た。其の頃、雑司ヶ谷、高田あたりの土地には、常磐津文字兵衛の高弟で、常磐津栄次と言ふお婆さんの師匠が居た。この師匠は、芸熱心と、お稽古の厳格さで知られて居たから、お弟子の中から相当優れた芸達者な人も出て来て、おさらひの会などは、仲々派手に催された。/時には人通りの多い、四家町の一隅に舞台掛けをして、当時の村人の、唯一の楽しみにふさはしいそして賑やかな人出があつたものである。/この様であるから、亡妻も十才位から稽古にやらされ、夕方学校から帰つてやれやれと、子供同志(ママ)で遊んで居ると、家人から「お稽古に行きなさい」と言はれて、しぶしぶ出かけるのが常であつたと言ふ話を度々物語つて居たが、当時の是等の事情が良く伺はれて面白いと思ふ。
  
 その後、夫人は転居してきた琴の師匠について常磐津をやめてしまうが、三味の音色が恋しくなったのか、のちに今度は長唄を出稽古で習いはじめている。
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 この長唄のお師匠(しょ)さんは、下町から雑司ヶ谷小学校の近くに転居してきた杵屋小梅という女性だったらしい。長唄は、常磐津よりも新しいジャンルなので、哲子夫人も改めてその魅力に惹かれたものだろう。うちの親父の稽古ごとにも長唄は入っていたが、同時に三味を習っていたのも哲子夫人と同じだ。これらは、江戸東京の一般教養であり、三味をつまびきながら唄のひとつも口ずさめなければ“野暮”とされるのが、戦前までの特に旧・市街地の江戸東京人では常識だった。かくいうわたしも、野暮天のひとりだ。

◆写真上:フリー画像からいただいた舞台写真だが、演目は「吉野静」だろうか。
◆写真中上は、本郷にある宝生流能楽堂。は、矢来町にある観世流の矢来能楽堂。は、空襲で焼ける4年前の1941年(昭和16)に撮影された矢来能楽堂。
◆写真中下は、能の浮世絵で高名な月岡耕漁の『鶴亀』。は、1934年(昭和9)に演じられた宝生流の能舞台「鶴亀」の記念写真。シテは海老澤了之介(中)で、亀が宝生秀雄()と鶴が前田忠茂()。は、日本画家の野村文挙による『船弁慶』。
◆写真下は、月岡耕漁による浮世絵『隅田川』。は、早稲田大学演劇博物館に収蔵されている室町期とみられる能面で「小面」()と「小尉」()。

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薔薇の夜を旅する中井英夫。 [気になる下落合]

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 目白学園の斜向かいにあたる下落合4丁目2123番地の池添邸は、1950年代に入ると庭の西側に“離れ家”のような別棟を建設している。もともと1,000坪前後はありそうな敷地には、母家の東南北側に広大な庭が拡がっていたが、東側の400坪ほどの土地を母家の敷地から切り離し、借家を建てて人に貸そうとしたものだろうか。この借家には、1958年(昭和33)に荻窪から転居してきた中井英夫Click!が住むことになり、『虚無への供物』Click!はここで執筆されることになった。
 下落合4丁目のこの界隈は、山手空襲Click!の被害をほとんど受けておらず、戦前からの家々が戦後まで建ち並んでいたエリアだ。この池添邸の離れ家は、1947年(昭和22)と翌1948年(昭和23)の空中写真には見あたらず、1957年(昭和32)の写真で初めて確認できるので、おそらく建てられたのは1950年(昭和25)すぎごろではないかとみられる。400坪の敷地をもつ離れ家には、南北に大きな樹木を抱えた広い庭園が拡がり、中井英夫は各種のバラなどを栽培する「植物園」を造成することになる。
 「植物園」といっても別に公開していたわけではなく、池添邸の長い大谷石の塀がつづく東寄りの一画に開いた小さめの門に、そのようなプレートを掲げていたのだろう。「中井」の表札があったかどうかは不明だが、当時の東西に長くつづいていたであろう大谷石塀の一部は、いまでも池添邸の前で見ることができる。1960年(昭和35)に住宅協会が作成した「東京都全住宅案内帳」には、中井英夫の名前ではなく「植物園」というネームが採取されている。当時の様子を、中井英夫『薔薇の獄-もしくは鳥の匂いのする少年』に書かれたイメージから引用してみよう。
  
 高い石塀がどこまでも続き、いっそうあてのない迷路に導かれた気持でいるうち、小さな潜り戸の傍で少年は「ここだよ」というようにふり返った。その少しのたゆたいには、もし表門まで行くのならこの塀添いに廻ってどうぞというような態度が見えたので、惟之はためらわず後について戸を潜った。そこはいきなりの薔薇園で、遠く母屋らしい建物の見えるところまで、みごとな花群れが香い立つばかりに続いていた。(中略) しかも庭は薔薇園ばかりではなかった。栗の大樹のある広場には、その花の匂いが鬱陶しいほどに籠って、朝ごとに白い毛虫めいて土の上に散り敷く。グラジオラスの畑もあって、数十本の緑の剣が風にゆらぎ、周りには春から咲き継いでいるらしいパンジーが、半ば枯れながらまだ花をつけている。ポンポンダリヤは黄に輝き、サルビヤが早々と朱をのぞかせ、咢あじさいはうっすらと紅を滲ませているそのひとつひとつを見廻ることも園丁に課せられた仕事であった。
  
 中井英夫が住んでいた当時、1966年(昭和41)になると離れ家の中井邸をサンドイッチにするように、北側に1棟と南側に2棟の家が建てられている。この3棟の住宅は、同年に行なわれていた池添邸母家の建て替えによる一家の仮住まい家屋とみられ、新邸工事が終わるとともに3棟とも取り壊されている。中井英夫の「植物園」は、母家のリニューアル工事にともなう仮住まい家屋の建設で、かなりの縮小を余儀なくされただろう。
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 中井英夫は、代々植物学者の家に生まれたため、植物には昔から親しんでいた。ただし、バラのような華やかな花は自宅の庭にはほとんど植えられておらず、唯一の例外は深紅色のクリムゾン・ランブラー(庚申バラ)が咲いているのみだったらしい。中井少年は、本郷の動坂近くにある園芸場へ通いながら、バラの美しさに魅了されていった。
 『虚無への供物』を執筆するにあたり、下落合4丁目2123番地の400坪もある庭で、初めて自らの手で各種のバラの栽培に挑戦したと書いている。1981年(昭和56)に書かれた、中井英夫『薔薇の自叙伝』から引用してみよう。
  
 そのころ住んでいたのは新宿区ながら八百坪の庭があり、その半分を自由にしていいという大家の好意で、さまざまな栽培実験が出来たのはありがたかったが、中の一本を心ひそかに“ロフランド・オウ・ネアン”と名づけて大事にしていたのに、肥料のやりすぎか葉ばかり繁ってブラインドとなり、おまけにその長編が講談社から出版された昭和三十九年の秋、私の留守に台風でみごとに折れて枯れてしまった。その運命が暗示するように、長編の方もその後三年ほどは黙殺されたままだった。/だが昭和四十二年、杉並区永福町に引越す直前、ふいにある女性が身近かに現われてから風向きが変わり、薔薇との関わりもまた深くなった。そのころの私は小説の注文もないまま、とある大手の出版社の百科事典の編集を手伝い、傍ら一斉に開校したコンピューター学校の夜学に通ったりしていたのだが、その年の二月二十九日、出版社の受付へ巨きな薔薇の花束が届けられた。
  
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 この女性が、彼の作品のいくつかに顔を見せる「白人女」の「ヴェラ」だった。彼女は、バラの栽培にも詳しく、当時開園したばかりの二子玉川園「五島ローズセンター」へ、中井英夫とともに訪れているようだ。
 小学生だったわたしも、1960年代半ばのほぼ同じころ二子玉川園には何度も出かけているが、五島ローズセンターの記憶はない。もっとも、当時は盛んに開催された「恐竜展」や「怪獣展」などの特別展や遊園地がめあてだったので、クタクタに疲弊した親たちは五島ローズセンターまで足をのばす気にはなれなかったのだろう。1971年(昭和46)に書かれた中井英夫『薔薇の夜を旅するとき』には、五島ローズセンターが解体されて東急自動車学校になる直前、ヴェラとともに同園を訪れる情景が描かれている。
 狂おしいまでにバラ好きだった、中井英夫の妄想は止まらない。ついには、TANTUS AMOR RADICORUM(なべての愛を根に!)というワードとともに、自分の身体を土中に埋めてバラの養分(供物)にするという幻想にまでとり憑かれることになる。上掲の五島ローズセンターが登場する、『薔薇の夜を旅するとき』(1971年)から引用してみよう。
  
 外側から薔薇を眺めるなどという大それた興味を、男はもう抱いてはいなかった。暗黒の腐土の中に生きながら埋められ、薔薇の音の恣な愛撫と刑罰とをこもごもに味わうならばともかく、僭越にも養い親のようなふるまいをみせることが許されようか。地上の薔薇愛好家と称する人びとがするように、庭土に植えたその樹に薬剤を撒いたり油虫をつぶしたり、あるいは日当りと水はけに気を配ったりというたぐいの奉仕をする身分ではとうていない。(中略) 将来、それらのいっさいは、精巧を極めたアンドロイドが、銀いろの鋼鉄の腕を光らせながら無表情に行えばよいことで、人間はみな時を定めて薔薇の飼料となるべく栄養を与えられ、やがて成長ののち全裸に剥かれて土中に降ろされることだけが、男の願望であり成人の儀式でもあった。地下深くに息をつめて、巨大な薔薇の根の尖端がしなやかに巻きついてくるのを待つほどの倖せがあろうか。
  
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 大正時代から、下落合にはバラ園があちこちに存在していた。すぐに思い浮かぶのが、西坂の徳川邸Click!バラ園Click!や翠ヶ丘のギル邸Click!(のち津軽邸Click!)の庭、箱根土地Click!による不動園Click!東側のバラ庭Click!などだ。学生の中井英夫がそれを知っていたら、もう少し早く下落合に住みついていたかもしれない。

◆写真上:フランス産の「ブルームーン」と思われるバラの花。
◆写真中上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる池添邸。は、1957年(昭和32)の写真で母家の東側に離れ家が確認できる。中井英夫は翌1958年(昭和33)、この離れ家へ転居してくることになる。は、1960年(昭和35)に住宅協会から発行された「東京都全住宅案内帳」で、下落合4丁目2123番地に「植物園」のネームが採取されている。
◆写真中下:中井英夫が住んでいた時期に撮影された、1963年(昭和38)の空中写真()と1966年(昭和41)の同写真()。1966年(昭和41)の写真では池添邸の母家がリニューアル工事中で、中井邸の周囲には仮住まいとみられる家屋が3棟増えているのがわかる。は、1975年(昭和50)の空中写真で元・中井邸がいまだ建っているのがわかる。
◆写真下は、中井邸跡の現状。中左は、1981年(昭和56)にバラの短篇ばかりを集めた中井英夫『薔薇への供物』(龍門出版)。中右は、1950年代の撮影とみられる中井英夫。は、1963年(昭和38)の空中写真にみる二子玉川園「五島ローズセンター」。


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目白駅で「7色パンティ」抱え途方に暮れる。 [気になる下落合]

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 わたしはまったく知らなかったのだが、1950年代の後半に若い女の子の間で「7色パンティ」、あるいは「ウィークリーパンティ」というのが大流行したらしい。高校生から20代の女性まで、競い合うように「7色パンティ」を買い求め、1週間を毎日ちがうカラーの下着をはいて楽しんでいたようだ。
 現代では信じられない感覚だけれど、女子高校生などは親たちから叱られたり、周囲から不良に見られるのを怖れたり、また自分で買いにいくのがとても恥ずかしいため、年上の知り合いや気のおけない親戚に頼んで、代わりに買ってもらうことも多かったらしい。わたしにはまったく理解できない“趣味”だけれど、それほどまでして手に入れたくなるほど、毎日ちがうカラーの下着を身につけられる当時の「7色パンティ」は、彼女たちにとって魅力的だったようだ。
 下落合1丁目527番地に住んだ作家の中野武志Click!は、故郷の信州松本にいる高校を卒業したばかりの親戚の娘から、銀座で売っている「7色パンティ」を購入して送ってくれという手紙をもらった。中村武志の妻、すなわち「おばさまにお願いしますと、叱られると思いますので、このことはぜひおじさまにお願いしたいのです」……というような内容だった。当時の価格で1枚が500円、7色そろったセットになると3,500円もしたらしい。手紙には、郵便為替までが入っていた。
 当時の500円というと、ラーメン1杯が40~50円の時代なので、いまの感覚でいうなら1枚が4,000~5,000円もしたことになる。だから、「7色パンティ」のセットは実に3~4万円前後もする、下着にしてはとても高価な買い物だった。中村武志は、せっかく自分のことを信じて頼ってきた18歳の娘のために、「女房には内証で送ってやろう」とさっそく銀座の女性下着専門店へ買いに出かけた。そのときの様子を、1989年(昭和64)に論創社から出版された中村武志『目白三平随筆』から引用してみよう。
  
 国鉄本社を退けると銀座へまわり、体裁は悪かったが、思いきって女性下着専門店の「ギタシ」へ寄って、七色パンティを買い求めた。/帰宅すると、女房の目につかぬように、パンティの箱を机の下に押しこんでおいた。国鉄で荷造りをして送るつもりであったが、迂闊なことに、翌朝は、かんじんの箱を忘れて出勤してしまった。/私は、なんとなく、一日落ちつかなかった。部屋の掃除の際に、パンティの箱が、女房の目にとまらないことを切に希い続けていた。/五時になるのを待ちかねて、私は急いで帰宅した。/「お帰りなさいませ」/と女房がいった。別に変わった様子はなかった。私はほっと安堵の吐息を洩らした。
  
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 だが、ふすまを開けて書斎に入ると部屋の中にヒモがわたされ、「7色パンティ」が洗濯バサミで吊るされてヒラヒラしていたのだ。7色のそれには、それぞれ花と曜日が刺繍で縫いこまれていたというから、かなり華やかな眺めだったろう。曜日とカラーと刺繍は、およそ次のようだったらしい。
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 さっそく、連れ合いから「これはいったいどなたに差しあげるんですの」と詰問されるが、故郷の松本にいる親戚の女の子の名前を白状できない筆者は、「ある人に頼まれて買って来た」としか答えることができない。もちろん、そのまますんなり信用されるはずもなく、「品物が品物ですからね。そう簡単にあなたのいうことは信用できませんわ」といわれてケンカになった。
 しまいには、家にいることが不愉快になった中村武志は、家を出て「最近できた恋人」のところで外泊するぞと、なかば脅しのつもりで宣言するが、あわてて止められるかと思ったのに「どうぞお出かけになって下さい。ご遠慮なく……」といわれ、あとへは引けなくなってしまった。しかも、連れ合いから「お出かけなら、これをお持ちになるんでしょう」と、「7色パンティ」まで持って出るハメになる。彼は花がらの刺繍が表にでるよう、1枚1枚ゆっくりていねいにたたんで箱にもどすが、いくところがないので途方に暮れていた。結局、中村夫人は止めてはくれず、彼は目白通りへと押しだされた。
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 同書の「思い出のパンティ事件」から、再び引用してみよう。
  
 大通りへ出てから私は、まだ夕食を食べていないことに気がついた。国電目白駅へ出る途中の、小さな中華料理店に寄って、ゆっくりとラーメンを食べた。それから、目白駅のホームへ出て、ベンチに腰をおろし、一服しながら、さて今夜どこへ泊まるべきか、と思案した。/二本目の煙草を吸っているうちに私は、目白駅と新宿駅の間で、電車の窓から、『一泊百円・白いシーツときれいなお風呂』というネオンサイン(ママ)の看板を始終目にしていることを思いだした。今夜はそこで一泊しようと決心して、折からはいって来た電車に乗ると、窓に顔を押しあてて、ネオン・サインに注意しだした。/電車が新大久保駅に到着すると、ホームの向こう側に、そのネオン・サインが赤々と輝いていた。
  
 下落合1丁目527番地の中村邸近くにある、目白通りに面した「小さな中華料理店」は、彼がいつもいきつけの「丸長」だったのだろう。新大久保の「ハザマ旅館」は、とうにつぶれてしまったのか現在では見あたらない。
 おそらく、昔の“連れこみ旅館”(死語)だったらしい「ハザマ旅館」では、紹介者がないとお泊めできないと一度は断られるが、国鉄職員の乗車証を見せると信用されて部屋へ案内された。わずか2畳の、いかにも“アベック”(死語)用の狭い部屋で、中村武志は「7色パンティ」を抱きながら一夜を明かした。
 『目白三平随筆集』は、読者の笑いを誘うためか排泄物やトイレ、セックスなどあまりにも下ネタが多すぎて、わたしの感覚ではちょっとついていけない。「美人」を多用するのも、この世代の特徴的な文章なのだが、この随筆が「面白い」と感じられる時代だったものだろうか。残念ながら、わたしには古くさい感覚であまり笑えなかった。ちなみに、いまでは「パンティ」といういい方もあまり聞かないが、「パンツ」「ショーツ」のほうが通りがいいだろうか。そういえば、この時代には「スキャンティー」(死語)などという下着名もあったっけ。
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 同書には、下落合や目白界隈に住んでいた作家や学者を中心に結成された、「目白会」の様子についても書かれている。中村武志をはじめ、十返肇Click!舟橋聖一Click!、高橋義孝、中曽根康弘、池島信平、原文兵衛、田中角栄Click!……などなどがメンバーで、定期的に下落合1丁目435番地の舟橋邸Click!などで会合を開いていたらしい。おそらく、わたしはここでは取りあげないと思うので、興味のある方は同書を参照されたい。

◆写真上:中村武志の「7色パンティ」とはちがう、現代のカラフルショーツ。
◆写真中上は、タバコ好きだったらしい中村武志のプロフィール。は、1989年(昭和64)に論創社から出版された中村武志『目白三平随筆』。
◆写真中下は、目白駅ホームから眺めた目白橋の橋脚。左手にある階段は、近日中に解体されエレベーターになるらしい。は、1964年(昭和39)の目白駅ホーム。
◆写真下は、1970年代に撮影された夜の目白駅前の様子。は、新大久保駅ホームから西を向いて眺めた大久保通りの現状。


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目白中学校の篠崎雄斎と龍膽寺雄。 [気になる下落合]

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 下落合437番地にあった目白中学校Click!には、篠崎雄斎という経理担当がいた。彼は下落合から1926年(大正15)に上練馬村2305番地へと移転Click!した目白中学校Click!へ勤めるかたわら、シャボテンとダリアの研究でその分野では高名な人物だった。1923年(大正12)には、東京で「仙人掌(シャボテン)同好会」を設立し、自宅近くの代々木倶楽部で毎月陳列会を開催しており、おそらく世話役をつとめていたと思われる。
 篠崎雄斎は、関東大震災Click!前の1922年(大正11)に目白中学校が発行した校友誌「桂蔭」第8号の職員名簿(生徒監)にも、また1924年(大正13)の「桂蔭」第10号の職員名簿にも、美術教師の清水七太郎Click!や英語教師の金田一京助Click!などと並んで名前が掲載されている。関東大震災をはさみ、おそらく篠崎雄斎は目白中学校の開校時から経理を担当し、下落合の校舎へ通ってきていたのだろう。彼の住所は、仙人掌(シャボテン)の陳列会が開かれた代々木会館の近く、代々幡町幡ヶ谷10番地だった。
 また、篠崎雄斎は世田谷町の代田橋で「紅雨園」というシャボテン園を経営し、そこで栽培した多種多様なシャボテンを新宿の園芸店へと卸している。つまり、平日は目白中学校に勤務して経理業務を処理するかたわら、休日には副業に精をだす二足のワラジをはいていたわけだ。彼は1934年(昭和9)ごろに目白中学校を退職し、以降はシャボテンとダリアの栽培および研究に没頭していくことになる。年齢から考えると、目白中学校を辞めたのは定年退職だったかもしれない。
 「桂蔭」に掲載されている、目白中学校に勤務した複数の教職員記念写真を観察すると、いつも左端にいる背広姿で髪を七三に分け、鼻の下に髭をたくわえ端をピンと跳ね上げた、やや古風な風貌の男が篠崎雄斎ではないかと思うのだが、さだかでない。龍膽寺雄Click!が篠崎雄斎を知るのは、下落合の「目白会館」(目白館?)から高円寺へと転居して間もなくのことだった。彼が、篠崎雄斎と出会ったときの様子を、1979年(昭和54)に昭和書院から出版された『人生遊戯派』Click!から引用してみよう。
  
 はじめのうちは、こういう街の中のシャボテン商で、眼についたものから買い集めて、温室の中に収容していたが、そのうち新宿の園芸商の売店にシャボテンを並べているのが、世田谷代田橋の、紅雨園というシャボテン栽培場で、その園主の篠崎雄斎という、この世界で有名な人であることがわかり、そこを訪ねて、さしあたり今後一年間、毎月百円ずつ予算をとってシャボテンを買うから、栽培上の指導や、その他色々便宜をはかってくれるように、と申し入れて、それから、そこへ正子と車を乗りつけては、積めるだけシャボテンを買って来るようになった。/(中略) 篠崎雄斎はその頃、目白中学の経理係りをして、毎夜アルバイトのようにして通って、そこに勤めていたのだが、私がシャボテンを買いはじめると経理係りをやめて、シャボテン栽培専門にかかることになった。篠原雄斎はシャボテンのほかに、ダリアのほうでも、当時日本では有数の人で、三百坪ぐらいの畑に一面にダリアを植え、その隅のほうの数棟の大きな温室に、ギッシリとシャボテンを栽培していた。薩摩の方の人で、その頃六十歳ぐらいだったが、一種風格のある人物で、古色蒼然というような感じがして、どこか浮き世離れしていた。
  
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 龍膽寺雄は、丸善で手に入れたシャボテンの本を読んでからそのとりこになり、高円寺の家の庭先へ温室を建ててシャボテンを集め栽培しはじめた。当時、シャボテンを販売していたのは銀座の専門店である丸ハ商店をはじめ、新宿中村屋Click!の近くにも園芸商がシャボテンを扱っており、また日本橋三越Click!の5~6階にあった屋上庭園のようなところでも、シャボテンの鉢を販売していたらしい。
 龍膽寺雄は、1934年(昭和9)に『M・子への遺言』を書いたあと文藝春秋=菊池寛Click!が牛耳る文壇に背を向け、喧騒の東京を離れてシャボテンとゆっくり暮らせる郊外の住居を物色しはじめている。最初は、小田急線の成城学園Click!を希望していたようだが良い物件がないため、もう少し範囲を拡げて横浜から三浦半島にかけてまで探したようだ。鎌倉Click!が気に入ったらしいが、森や谷(やつ)が多くて陽当たりのいい温室に適した広い庭つきの住宅が少なく、購入を思いとどまったらしい。もし、このときモダニズム文学の龍膽寺が鎌倉へ移り住んでいたら、ひょっとすると川端康成は鎌倉には転居してこなかったかもしれず、鎌倉の文学史は大きくさま変わりをしていたかもしれない。
 彼は再び小田急線沿線に注目すると、中央林間駅の近くに希望どおりの家を見つけている。『人生遊戯派』の「『M・子への遺書』前後」から、つづけて引用してみよう。
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 『M・子への遺書』の発表後、私は文壇に背を向けるつもりになり、騒然とした東京を離れて、ひとり静かな世界を求めて、シャボテンと暮らすことを考えて、現住他の神奈川県大和村中央林間に土地を買い、新居を建てて、移り住むことにした。/新居をどこに構えるか、については、その前に各地を歩き廻って、気に入った土地を物色した。最初成城学園に眼をつけて、さきに述べた斎藤延翁の邸の近くに恰好な土地を見付けたが、あいにく高圧線の鉄塔が近くに建っているので、やめて、横浜から横須賀へ向かう三浦半島沿いの東京湾沿岸をつがし廻り、谷津海岸にひじょうにいい場所を見付けたが、丘陵と丘陵との間にある畑地の所有者がはっきりしない。
  
 こうして、彼は1929年(昭和4)から小田急電鉄が「林間都市計画」の一環として分譲販売していた、「スポーツ都市」の中央林間へ家を建てて引っ越した。小田急の計画では、東京のさまざまな施設を次々と中央林間へ移設し、最終的には首都を東京から林間都市へ遷都させる構想だったという。松竹蒲田撮影所Click!も、当初は大船ではなく中央林間への移設が予定されていた。
 龍膽寺雄も、そのような小田急電鉄の壮大な計画を、どこかで知って移り住んだのかもしれない。あちこちにカラマツの密生した林があり、夏になると南風が相模湾の潮の香りをうっすらと運んでくる、シャボテンの栽培にはもってこいの土地がらだったが、冬は北の大山や丹沢Click!から相模平野へ吹きおろす“丹沢おろし”に震えあがった。彼は1992年(平成4)に死去するまで、この地で作品を書きつづけることになる。
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 篠崎雄斎と龍膽寺雄が、いつごろまで懇意にしていたのかは不明だが、その後、龍膽寺は次々とシャボテンに関する著作を発表しているので、“師”である篠崎から教わった栽培技術や知見、ノウハウは少なくなかったにちがいない。文学の“師弟”関係や派閥、その馴れ合いや腐敗にウンザリしていた龍膽寺は、まったく関係のない分野の“師弟”関係が新鮮に感じたものだろうか。このあたり、帝展の腐敗に激怒してソッポClick!を向き、踊りや芝居にのめりこんだ金山平三Click!の経緯に、どこか似ているような気がする。

◆写真上:「春雷」か「師子王丸」とみられるシャボテンの花。
◆写真中上:1922年(大正11)3月現在の目白中学校職員名簿()と1924年(大正13)3月現在の同名簿()で、教師に混じり「篠崎雄斎」の名前が見える。
◆写真中下は、1922年(大正11)の教職員記念写真で経理業務担当の篠崎雄斎が写っているはずだ。は、高円寺時代と思われる龍膽寺雄・正子夫妻。
◆写真下上左は、1960年(昭和35)に出版された『シャボテン』(至誠堂新光社)。上右は、1972年(昭和47)出版の『流行の多肉植物』(主婦の友社)。は、1941年(昭和16)に陸軍が撮影した空中写真で龍膽寺邸のあった中央林間2丁目あたり。


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南畝の『高田雲雀』にみる通称「中井村」。 [気になる下落合]

中井駅寺斉橋.JPG
 江戸期までさかのぼる時代、現在の住所「中井」とされるエリアは「中井村と呼ばれていた」という大正期以降の資料を見かけるが、それはなにを根拠にしているのだろうか? 「中井村」と呼ばれていたから、中井駅になったのだとされるのだが、地元の方に訊いても、「さあ……」「わからない」という答えばかりが返ってくる。
 そこで、江戸時代に作成された落合地域とその周辺を記録した資料を、片っぱしから当たっていたのだが、ようやくひとつ見つけだすことができた。正確な執筆年は不明だが、1788年(天明8)に増補版が執筆・編集されている大田南畝Click!の『高田雲雀』だ。ちょうど老中・田沼意次が失脚し、松平定信が登場して幕政の改革に着手しはじめるころ、第11代将軍・徳川家斉の時代にくだんの『高田雲雀』は執筆されている。幕府の御家人だった大田南畝は、いまだ30代の若さだった。
 『高田雲雀』は、南畝自身が写したとみられている国立国会図書館に収蔵されているものと、木又牛尾が1849年(嘉永2)に写し早稲田大学図書館に収蔵されている写本とが有名だが、この記事では国立国会図書館の原本に近い記述を引用していくことにする。このサイトでもご紹介している落合地域を中心に、順番にひろって見ていこう。
  
 一、砂利場町 根川原通と云小道有、上古の海道之由、いまは甚の小道也、末は七曲りより落合へ出る(中略) 一、金乗院 砂利場村、此寺の脇より、藤の森さくや姫へ出る道あり、末は七曲り落合へ出る(覃按、水戸黄門光圀卿ノ額アリ、金乗院ニアリ)/一、咲屋姫の社 祭神この花さく屋姫、俗にさくら姫の宮と云、前の坂をせいげん坂と云、浅間坂の誤りなるべし(中略) 一、藤森いなり 此辺下落合也、鼠山の末也/一、宿坂 金乗院の前の坂を云、昔此所に宿坂の関有よし、往古の鎌倉海道のよし、八兵衛といふ百姓は此時の関守の子孫なり、かの家に其時の刀其外古物多し、帳面も有となり
  
 この記述でも明らかなように、大田南畝は下高田村の一帯が地元ではないため、自身で歩いて調べたり地元の人間に取材して伝聞を記録していることがわかる。当時、南畝は牛込中御徒町(現・牛込神楽坂駅近く)に住んでいたはずであり、その周辺域を散策・取材しながら紀行文をまとめていったのだろう。
 面白いのは、目白崖線の下を通る雑司ヶ谷道Click!(鎌倉街道)が、現在の学習院下あたりから下落合にかけて「七曲り」と表現されていることだ。確かに、南へ張りだす目白崖線の凹凸斜面に沿って街道が敷設されているため、雑司ヶ谷道(新井薬師道)はクネクネとカーブしており、「七曲り」と呼んでもおかしくない形状をしている。
 また、現在は学習院キャンパス内から目白駅西側の豊坂沿いに移転し「豊坂稲荷(八兵衛稲荷)」Click!と呼ばれる社が、『高田雲雀』の時代は稲荷ではなく木花咲耶姫(咲屋姫)社、つまり富士浅間社だったことがわかる。だからこそ、『高田雲雀』が書かれる100年ほど前、徳川光圀(水戸光圀Click!)が「木花咲耶姫」の扁額を同社へ揮毫しているのだろう。そして、鎌倉街道の関守の子孫である八兵衛さんが、のちに稲荷を勧請してどうやら富士浅間社へ合祀したことから、いつの間にか江戸期の農村で重視されていた豊穣の神(稲荷)を尊重し、八兵衛稲荷と呼ばれるようになった経緯が透けて見える。
 木花咲耶姫社(のち八兵衛稲荷社)は、いまだ大山Click!(大ノ山/大原山)の山麓、つまり現在の学習院キャンパス内にあり、八兵衛が住んでいたのは宿坂を下ったあたり、「根岸の里」Click!と呼ばれた武家屋敷や農家が集中していた一画だろう。
高田雲雀(早稲田大学).jpg 大田南畝.jpg
高田雲雀本文.jpg
雑司ヶ谷道.JPG
 つづけて、落合地域に関連するところを、かなり省略しながら引用してみよう。
  
 南西ニ移り、/一、七曲り 西坂、椎名町、(覃按、水戸黄門常山文集、詩云落合遥指坂七曲、宝仙◇◇◇塔九輪)/落合 上下あり、下落合ニたじま橋同びくに橋此辺すべて下落合也/一、落合のはし 上宿也、少々町有(中略) 一、長久山妙泉寺 玉沢末、落合の焼場は此寺の持也 (◇は判読不明字)
  
 ここに登場している「七曲り」は、崖下を通る雑司ヶ谷道のことではなく、鎌倉時代に拓かれた切り通しである七曲坂Click!のことだ。そして、西坂Click!とともに「椎名町」の名称が登場していることに留意したい。椎名町Click!は、下落合村と長崎村にまたがる清戸道Click!沿いに形成された町名であり、現在の北に離れた西武池袋線・椎名町駅エリアのことではない。また、神田上水に架かる田島橋Click!と、北川Click!(妙正寺川)に架かる泰雲寺Click!の比丘尼橋が採取されている。
 徳川幕府の行政区画である下落合村と上落合村の様子が紹介されるが、ここにも「中井村」の記述はない。「上宿」あるいは「少々町有」とされているのは、現在の七曲坂の下あたりから西坂あたりにかけ、下落合ではもっとも古くから集落が形成(出土した板碑から鎌倉期にはすでに形成)されていた、「本村(もとむら)」一帯と規定することができる。同書の後半では、「落合宿」という呼称で登場する集落も、本村を指しているのだろう。また、上落合村の火葬場が、早稲田通りから夏目坂に入って200mちょっとのところにある、妙泉寺が経営していた事蹟も興味深い。
 少し余談だが、明治期になって山県有朋邸が建設される、本来の目白不動Click!が建立されていた椿山Click!(現・椿山荘Click!)のほかに、観音寺や神田上水の先として記述されている第六天社Click!、下落合村の六天坂Click!の同社が建立されている山もまた「椿山」と呼ばれていたのが面白い。この第六天社も、先の法泉寺の管理下に置かれていたようだ。つづけて、『高田雲雀』から引用してみよう。
  
 落合宿はずれ/一、落合御殿山 往古中山勘解由殿やしき跡也、上落合の部也、今は公儀より御留山となる、此山より鳴子淀橋柏木等一円にみへ絶景也/一、中井村 落合上下の間を云/一、瑠璃山薬王院 下落合村/一、落合村に尼寺と云有、此故に前なる橋をびくに橋と云(中略) 一、落合ばしの辺の螢名物也、野千螢と云、狐火程ありといふ心歟、四月の始より数多出る
  
 大田南畝が記録した時代、下落合の御留山Click!(旧・御殿山)は上落合村が管理していたのがわかる。「あまるべ」Click!の里と呼ばれた、農産物の収穫量の多い裕福な上落合村が、山の管理維持費などを捻出していたものだろう。
豊坂稲荷(八兵衛稲荷).JPG
七曲坂.JPG
薬王院.JPG
 さて、ここで「中井村」がようやく登場している。上落合村と下落合村の間にある一帯を「云」うと書かれている。もちろん、大田南畝が当初から知っていたわけではなく、地元の人間に取材して書きとめたのだろう。だが、「中井村」は徳川幕府の行政区画として存在しているわけでなく、上落合村と下落合村にはさまれたエリアの、当時の村人による通称(俗称)であることは明らかだ。
 すなわち、下落合村と上戸塚村(現・高田馬場)との間を流れる、神田上水北岸に展開した古い集落を、村内の通称で「本村(もとむら)」と呼んだのと同じ感覚だろうか。「中井村」は、下落合村西部の北川(現・妙正寺川)が流れる北岸、上・下落合村にはさまれた低地を指していたとみられる。村境のある間(中)の、湧水(井)が豊富な土地(田地)の集落という意味でつけられた可能性が高い。つまり、現在の中井駅は少なくとも江戸中期に村内で「中井村」と呼ばれた集落の近くに位置しているものだろうか?
 「中井村」は、のちに町村の字名(あざな)として継承される例の多い、特定の地区を表現する地元の呼称のひとつだったのだろう。しかし、明治期に入り参謀本部が作成した地図や、郵便の発達とともに村内の小字が「住所」化される際、下落合東部の「本村」は採用されたが、西部の「中井村」は採用されなかった。なぜなら、幕末までにそのような呼称がとうに廃れていたか、「中井村」より普及して小字化された「南耕地」または「北川向」という呼称が一般的になっていたのだろう。
 だが、いったんは消滅した崖線下にふられたとみられる通称「中井村」だが、大正の中期になっておかしなことが起きる。下落合でもっとも標高(37.5m)が高い、字名では「大上」と呼ばれすでに住所化もされていた地区が、いつの間にか「中井」という字名にすり替わっているのだ。江戸期からの経緯にしたがえば、「中井村」は上・下落合村の村境となる北川(妙正寺川)の沿岸でなければならず、また「井」を含む表記からも、江戸東京地方では相対的な地形から低地に付与される地名だ。だが、それがいきなり場ちがいな尾根上のピークに字名として復活している。この不自然さは、大正前期の「不動谷」Click!が西へ300m以上も移動していることも含め、なにやら地域行政(村役場)の恣意的な東京府や、国(陸軍参謀本部など)への働きかけを想起させるのだ。
 大正中期における、この不可解な字名「中井」(本来は「大上」)の登場が、江戸中期の通称「中井村」の川沿いにあったとみられるエリア名(江戸後期から「南耕地」または「北川向」と呼称)と、1965年(昭和40)以来の現住所としての「中井」との間で、スッキリしないギクシャクした“混乱”を生じているようにも思える。目白崖線に住む方々にしてみれば、「なんでここが中井なんだい?」「ここは下落合で中井なんて地名じゃないよ」……と、いつまでたっても馴染めないゆえんだろう。
 あえて西武線の駅名を借りるなら、現在の下落合駅があるところは本村(もとむら)エリアの直近なので「下落合本村駅」、いまの中井駅のある位置は江戸中期以前に通称「中井村」と呼ばれたらしい区画に近いとみられるので「下落合中井村駅」とすれば、少しは地名の時代的な経緯を含めスッキリするだろうか?
中井村地形図1880.jpg
大上1918.jpg 大上1923.jpg
大田南畝刀剣.jpg
 だが、幕府の行政区画でもなく、江戸中期以降は消滅してしまった通称(?)を、1960年代になって範囲を思いっきり拡げ、復活させる必然性や意味あいが、わたしにはまったく理解できない。そしてもうひとつ、「中井村」の由来が目につきやすい大田南畝『高田雲雀』の記述のみを根拠としているのであれば、代々地元の人々に受け継がれてきたゲニウスロキ的な側面を踏まえるとすると、あまりにも薄弱といわざるをえないだろう。

◆写真上:江戸中期まで通称「中井村」と呼ばれていたという伝承が、大田南畝によって記録された中井駅周辺。だが、江戸後期から明治期にかけては「南耕地」(下落合村側呼称)または「北川向」(上落合側呼称)が、両村では一般的な通称だったろう。
◆写真中上上左は、早稲田大学に保存されている1849年(嘉永2)の『高田雲雀』写本。上右は、石崎融思・筆の軸画「大田南畝肖像」。は、早大収蔵の『高田雲雀』写本の本文。は、目白崖線の斜面に沿って蛇行を繰り返す鎌倉街道(雑司ヶ谷道)。
◆写真中下は、学習院の建設で金久保沢に遷移された豊坂稲荷(八兵衛稲荷)だが、元神は木花咲耶姫(咲屋姫)で富士浅間社だったことがわかる。は、鎌倉期の切り通し工法の跡をよく残す七曲坂。は、大雪の瑠璃山薬王院。
◆写真下は、1880年(明治13)に作成された参謀本部のフランス式1/20,000地形図にみる落合地域。中左は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる目白崖線でもっとも標高が高い字名「大上」。中右は、1923年(大正12)の同地形図にみる「大上」から忽然と書き換えられた場ちがいな字名「中井」。は、大田家に伝わる南畝が用いたかもしれない指料で体配から寸延び短刀あるいは脇指と思われる。江戸期の御家人としてはごく一般的な拵(こしらえ)で、持ち主はできるだけ軽量化しようと試みているのか、平造り刀身の平地(ひらじ)に護摩箸(不動明王)ではなく棒樋が入るのがめずらしい。手入れがされておらず水錆が目立つが、刃文は中直(なかすぐ)でのたれ気味とかなり平凡だ。


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