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龍膽寺雄が暮らした「目白会館」を探せ。 [気になる下落合]

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 1928年(昭和3)6月から1930年(昭和5)6月ごろまで住み、『アパアトの女たちと僕と』(改造社/1930年)を書いた龍膽寺雄Click!(龍胆寺雄/りゅうたんじゆう)だが、彼が暮らしたとされる下落合の「目白会館」が、どうやら第三文化村の下落合1470番地に建っていた「目白会館・文化アパート」Click!ではなさそうなことが判明している。
 では、龍膽寺雄が書く「目白会館」とは、いったいどこのアパートのことを指しているのだろうか? 彼が東京でもっとも古い民営アパートと書く、下落合地域でもおそらく大正期に建てられたとみられる建物を探してみるのがきょうのテーマだ。そのアパートには共有部分の応接室や食堂、キッチン、各種ゲーム室、浴室に加え、6畳+4畳半の2間構成の部屋も含めて20室もの貸し部屋が並び、屋上庭園まで設置された少し大きめな建物を想定しなければならない。
 しかも、龍膽寺雄は「コンクリートの二階建てだった」とも記している。建物の構造が、ほんとうに鉄筋コンクリート造りだったものか、それとも関東大震災Click!の教訓からラス貼りモルタル仕上げの外壁が、建築には素人だった彼の目からは鉄筋コンクリート造りに見えたものか、このあたりは曖昧さが残るところだ。あるいは、セメント混じりのモルタル木造建築自体を、彼はコンクリート建築と呼んでいた可能性も残る。
 龍膽寺雄が「目白会館」の生活について、1979年(昭和54)に昭和書院から出版された『人生遊戯派』に綴っているが、前回とは別の箇所から引用してみよう。
  
 私が淀橋柏木の家から、斎藤老人に追い出されることになると、今井が色々奔走して、目白落合の文化村近くに、目白会館というアパートを見つけてくれた。その頃同潤会のような公営のアパートはあったが民間のアパートとしては、この目白会館がたしか最初だった。コンクリート建ての、二階の屋上に、屋上庭園のようなものがあり、大きな洋風の共同の応接間や、一階には食堂のほか、浴室、玉突き場、麻雀荘などの設備があった。もっとも、その応接間は、満員でハミ出した洋画家が、アトリエを兼ねて借りてしまっていたので、塞がっていた。この洋画家というのは、目白の川村女学院で絵の先生をしていた佐藤文雄でのちに、改造社から出した私の処女出版『アパアトの女たちと僕と』の装釘をしてくれた。『アパアトの女たちと僕と』は、ここでのアパートの生活からヒントを得て書いた作品で、もちろんフィクションだが、谷崎潤一郎から激賞を受けた。
  
 ここで留意したいのは、「目白落合の文化村近く」と表現している点だろうか。第三文化村に建っていた目白会館は、目白文化村の「近く」ではなく目白文化村の「中」だ。ただし、目白通りの南側に拡がる下落合の住宅街、すなわち山手線際の近衛町Click!から目白文化村Click!アビラ村Click!までを、外部から見てすべて下落合の「文化村」と拡大表現する書籍や資料もめずらしくないので、龍膽寺雄がどのような概念でこの文章を書いているのかは不明だ。
 仮りに目白通りの南側全体、つまり目白崖線の丘つづきを下落合の「文化村」という大雑把な捉え方をしていたとすれば、その「近く」に住んだということは、目白通りの北側の可能性もある。しかも、龍膽寺雄が書く「目白会館」の住所は下落合でなければならない。そう考えてくると、目白通りの北側に張り出した下落合のエリアが頭に浮かぶ。下落合540番地の大久保作次郎アトリエClick!や、下落合523番地の目白聖公会Click!のある長大な三角形のエリアだ。
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 さっそく、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」を確認すると、「目白会館」ではなく「会」を抜いた「目白館」という、いかにもアパートらしい大きめな建物を見つけることができた。「目白館」は大久保作次郎アトリエClick!の東隣り、下落合538番地に建っていた。地図を順ぐりにたどっていくと、1925年(大正14)の1/10,000地形図の修正図には、すでに大久保アトリエと並んで採取されている。それ以前は、大久保アトリエのみしか採取されていない。つまり、「目白館」は1923年(大正12)9月に起きた関東大震災の直後、1924年(大正13)ごろに建設されたと想定することができる。
 さて、空中写真を確認してみると、周囲の住宅街に拡がる瓦屋根の家々に比べ、「目白館」が白く輝いて見えている。建物は「コ」の字型をしており、白く光って見えるのは屋根が耐震設計を重視した最新の軽いスレート葺きだからだろう。敷地の面積は第三文化村の目白会館と同等以上、やや広めのように感じる。
 そして、ここが重要だと思われるのだが、中庭とみられる“コ”の字型の凹んだ南側半分に、露天のデッキらしい張り出しがありそうなことだ。まるで、ロッジかバンガローのようなデッキが、屋根の近くに北向きで張り出していそうだ。この界隈は、めずらしく空襲から島状に焼け残っているエリアなので、戦後すぐの1947年(昭和22)に撮影された空中写真を見ると、それらしいかたちを確認することができる。ひょっとすると、これが2階から上がれる「屋上庭園のようなもの」だったのではないか。目白館が解体される少し前、1975年(昭和50)の空中写真を見ると、この南側の張り出しが白くはっきり写っている。もっとも、木造の露天デッキでは傷むのが早いので、戦後ほどなくコンクリート製に変えられているのかもしれない。
 目白館を1937年(昭和12)に作成された「火保図」で見ると、面白いことがわかる。接道から目白館の敷地全体がよく見えなかったものか、建物のかたちが誤って採取されている。前年の空中写真でもはっきり撮られているように、建物は南北に細長く大きな“コ”の字型をしているのだが、「火保図」では東側の接道からつづく一戸建てつづきの建物として描かれている。「火保図」に誤採取は多いが、ここまでの大きなミスはめずらしい。ちなみに、目白館の構造は(ス)に太枠の線で描かれており、「スレート葺き屋根で防火対策が施された木造建築」ということになっている。モルタルで白く塗られたぶ厚い外壁を、龍膽寺が「コンクリート建て」と誤認した可能性は十分にありえるだろう。
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 この目白館が、龍膽寺雄が書く「目白会館」の誤記憶であったとすれば、佐藤文雄が通う川村女学園Click!まで560mほど、龍膽寺が1週間に一度訪ねる関口町207番地の佐藤春夫邸Click!へは2.5kmほどと、散歩がてらブラブラ歩いていける距離だ。下落合538番地(現・下落合3丁目)の目白館跡の敷地には、現在も集合住宅である「セントヒルズ目白」が建っている。
 さて、龍膽寺が書く「目白会館」(目白館?)の内部の様子を、『人生遊戯派』の「私をとりまく愛情」からもう少し引用してみよう。
  
 引っ越して行った目白会館の、四畳半と八畳と二た間続きの部屋の、八畳のほうの白壁に、初山滋の童画の額縁を掛けようと思って、何気なく、長押の上へ手をやったら、小さな紙片れの折ったのが、その奥に挟んであった。ひろげて見ると、こういうことが書いてあった。/「この部屋には百万円かくしてあります。」/先住者のいたずらだ。/新しいこの部屋の主人公は、しかし間もなく流行作家になって、この部屋で、百万円とはいかないまでも、かなり原稿料を稼ぐのだから、紙きれに書いてあったことは、まんざら嘘じゃない。
  
 この文章から、目白館の室内はどうやら畳敷きで、おそらく白い漆喰塗りの壁上には長押(なげし)があったのがわかる。つまり、コンクリート建築ではなく木造建築を思わせる意匠だ。しかも、先の記事でも書いているが、「先住者」がいたということは1928年(昭和3)6月の龍膽寺が借りる以前からアパートが建っていたことを意味しており、1928年(昭和3)当時は竣工したばかりだったとみられる第三文化村の「目白会館」とは、東京初の民間アパートという由来も含めて記述が合わないことになる。
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 龍膽寺雄は、「目白会館」(目白館?)に1930年(昭和5)6月ごろまで住んだあと、1932年(昭和7)以降の住所表記で杉並区高円寺4丁目43番地と変わる借家へと転居している。彼はそこで、文藝春秋の菊池寛Click!による派閥と、のち川端康成Click!の「鎌倉幕府」が牛耳る文壇に嫌気がさし、ひとり背を向けて孤独な文学の道を歩んでいくことになった。


◆写真上:下落合538番地に建っていた、アパートとみられる「目白館」跡(左手)。
◆写真中上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる目白館。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる同館。は、1944年(昭和19)12月13日の第1次山手空襲の4ヶ月前にB29偵察機から撮影された目白館。
◆写真中下は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された同館。は、龍膽寺がよく訪れた関口町207番地の佐藤春夫邸で、あちこちウロウロしているのが佐藤春夫自身。
◆写真下は、1937年(昭和12)作成の「火保図」にみる目白館で建物の形状を誤記載している。は、1975年(昭和50)に撮影された目白館。突き出た木造と思われるデッキが、コンクリートの屋根状に改変されているのが見てとれる。は、1930年(昭和5)に下落合から転居した高円寺4丁目43番地の自宅とみられる部屋でくつろぐ龍膽寺雄。