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神近市子の隣り細川隆元邸の襲撃。 [気になる下落合]

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 1936年(昭和11)2月26日、いわゆる二二六事件Click!が起きたとき、上落合1丁目476番地に住んでいた朝日新聞の政治部長・細川隆元邸が襲撃されている。おそらく早朝に襲われたとみられるが、どこの連中がどのような方法で襲撃してきたかは記録にないので不明だ。だが同日の朝、東京朝日新聞社を襲撃した中橋基明中尉の支隊が、上落合にやってきて細川邸に銃弾を撃ちこんだか、家内を打(ぶ)ち壊していった可能性がある。
 細川隆元の自宅は、下落合4丁目1925番地(現・中落合1丁目)の一画、現在の中井駅前から踏み切りをわたって北上する道の突き当たり、みずほ銀行中井支店が建っている斜面でも確認できるが、上落合の自宅と下落合の自宅の時間的な前後関係がはっきりしない。上落合の自邸が襲われたため、下落合の新居へと引っ越したものだろうか。
 細川隆元の自宅が、上落合1丁目476番地にあるのを蹶起部隊が知っていたのは、同じく上落合1丁目512番地に実家があった竹嶌継夫中尉Click!からの情報ではなかったろうか。両家の間は70mほどしか離れておらず、道路をはさんで5~6軒ほどの距離にすぎなかった。この襲撃について重要な証言しているのは、その当時、細川邸の隣りに住んでいた神近市子Click!だ。彼女は家族とともに上落合を3ヶ所転居しているが、1937年(昭和12)に高田馬場駅近くの妾宅に通うDVでアル中になった夫・鈴木厚と離婚して、「新宿ハウス」へ引っ越すまで住んでいた上落合最後の家が、細川隆元邸の隣りだった。
 1930年(昭和5)から住んでいた、同じく東京朝日新聞社の記者・鈴木文四郎Click!邸に隣接し、「古代ハス」の大賀一郎Click!邸の向かいにあった上落合469番地の自宅は、周囲の住民たちから「アカの家」と呼ばれていた。だが、神近市子が共産主義者であったことは一度もなく、また目立った運動もしていない。当時の日本は、政府を批判したり戦争に反対する人々、あるいはエスペランティストや男女平等を唱える人物など、資本主義体制の母体であり基盤を支える思想の民主主義や自由主義でさえ、「アカ」呼ばわりされて蔑まれていた狂乱の時代だった。
 ちょうど、独裁的な「共産主義」国家が政府を批判する人間に、思想の別なく情緒的かつ感情的な「反革命」「反動」のレッテルを貼って粛清していた、ちょうどその裏焼きにすぎない。上落合1丁目476番地に転居してから、はたして神近市子の家はなんと呼ばれていたのだろうか。彼女が大正期に、八王子刑務所で2年間にわたり服役していたのは思想犯ではなく、大杉栄の首筋を短刀で刺した傷害罪によるものだ。
 余談だけれど、神近市子が神田神保町から駿河台へと抜ける沿道にあった、刀剣店で購入した刺刀Click!(さすが=短刀)の銘が気になっている。彼女は当初、自裁するために購入したのであり、大杉栄を傷つけるためではなかった。つまり、確実に自死できるよう業物(わざもの=斬れ味のよい作品)を求めているとみられ、銘が入っていた可能性が高い。この刺刀は、日蔭茶屋で大杉栄を刺したあと、葉山の海で沖に向かって投げ棄てられているが、警察は自供のみでなく、ちゃんと証拠品として海底を探しただろうか。
 細川隆元邸が襲撃された二二六事件Click!のときの様子を、1972年(昭和47)に講談社から出版された『神近市子自伝-わが愛わが闘い』から引用してみよう。
  
 二・二六事件のとき、私は上落合に住んでいたが、隣の朝日新聞記者の細川隆元氏が襲われたのに、私のところは素通りだった。超国家主義の嵐が日本じゅうを吹き荒れ、言論統制が敷かれたが、探検記や科学読みものの翻訳者にすぎなかった私は、ついに目の敵にされることはなかった。とはいっても、むろん私は時局に従う気はなかった。愛国婦人会や国防婦人会が活躍をはじめ、かつて婦人の地位向上を叫んだ人たちが進んで戦争に協力したが、私は見向きもしなかった。すべてから逃避することが、私の唯一の生きる道であった。私はまったく孤立した。/息子が慶応大学の文学部を志望したとき、私は反対した。この大戦争の渦中に文学で生計を立てるなどとは痴(おこ)の沙汰であったからだ。ただひとりの息子が、私の父や兄のように医業を志してくれたならと願った。しかし息子は文学部をえらんだ。/思うにまかせぬ三人の子どもを受けもった私を、/「あなたの傑作は、三人の子どもたちですよ」/と、中村屋の相馬愛蔵氏がよくからかったものだ。
  
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 神近市子は、1929年(昭和4)ごろに麻布霞町から上落合506番地へと引っ越してきた。ちょうど、鶏鳴坂のとっつきに近い住宅で、辻潤・キヨ夫妻邸Click!川路柳虹邸Click!壺井繁治Click!壺井栄Click!邸、吉川英治邸Click!などの近くだ。翌1930年(昭和5)には、吉武東里邸Click!の道路を隔てた北側に位置する、先の鈴木文四郎邸に隣接した上落合469番地に転居した。ここで数年暮らしたのち、1935年(昭和10)ごろから上落合(1丁目)476番地に住み、夫と離婚して「新宿ハウス」へ移るまで上落合で暮らしている。この最後の家は、西側に隣接する野々村金五郎Click!が建てた借家群ではないかとみられる。
 さて、ようやく神近市子の落合地域における軌跡を描いてはみたけれど、彼女のどこから手をつけはじめていいのかわからない。それほど活動範囲が広くて深く、また彼女の作品をはじめ関連する人脈や思想も広大なのだ。長崎の活水女学校に通いながら『少女世界』へ投稿していた文学少女時代から、恋人だったアナーキストの裏切りにキレてつい刺してしまった服役時代、戦後の衆議院議員になってから売春防止法の策定まで、あまりに活動の範囲やテーマが広すぎて、紡がれた物語が深すぎるのだ。
 このサイトで取り上げたさまざまな領域の人物たち、そして落合地域に住んでいた人々との交流も多岐にわたり、津田梅子の津田塾時代から平塚らいてうClick!の「青鞜」時代、長谷川時雨Click!「女人藝術」Click!時代、女学校の講師時代、東京日日新聞の記者時代、アナーキズムにシンパサイズした時代、作家・翻訳家時代、離婚後に子どもたちが次々と父親から逃げだしてきた子育て時代、「婦人文藝」の編集長時代、戦後の民主婦人協会時代、衆議院議員時代、そして再び作家時代と、この経歴を見るだけでも落合地域に去来した作家や画家、思想家、政治家たちの顔が次々と想い浮かぶのだ。
 陸軍軍医学校長の森鴎外Click!は神近市子をよほど気に入ったのか、彼女が出す雑誌のタイトルから考案して寄稿まで約束しており、活きのいい女性にはデレデレだったらしい早稲田の大隈重信Click!までが彼女の人生には登場する。泣き寝入りをせず、男へ物理的な「反撃」を試みた神近市子は女性たちからは一目おかれるようになるが、親しかった与謝野晶子Click!は事件後、手のひらを返したように挨拶をする彼女を無視しつづけた。
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 たとえば、津田塾時代に住んでいた麹町の竹久夢二Click!・環夫妻の2階建てアトリエの1Fから転居してすぐのころ、神近市子は秋田雨雀Click!ワシリー・エロシェンコClick!と親しくなっている。エロシェンコは特に彼女が気に入ったのか、困りごとや相談事ができると寄宿している新宿中村屋Click!相馬愛蔵Click!黒光Click!夫妻ではなく、頻繁に彼女のもとを訪れるようになった。
 神近市子が初めてエスペラント語を知ったときの様子を、同書より引用してみよう。
  
 集まったのは四、五人だったが、その中に盲目のロシア詩人エロシェンコと秋田雨雀氏がいた。ワシリー・エロシェンコは、不自由な目のあたりにふさふさとした紅毛を垂らし、悪い発音の英語でしきりにR女史に議論を吹っかけていたが、私には何のことかわからなかった。その日はコーヒーと洋菓子くらいをご馳走になって帰ったが、一週間すると秋田氏とワシリーが私のところにやってきた。私は、自分が使ってもいいといわれている応接間に二人を通した。「またRさんのところの会合ですか」/ときくと、ワシリーがうなずいた。/「いったい何のための集まりですか? 私にはあなたの議論が少しもわかりませんでした」/熱っぽく何かを説明しようとするワシリーに代わって、秋田氏が答えられた。/「彼女はエスペラントという国際語を、世界に広めようという運動をしているのです。それといっしょに、宗教も一つにしなければいけないという運動にもはいっています。この間のワシリーとの議論はおもにその問題でした」
  
 エロシェンコが、日本での第1回エスペラント大会に合わせて来日したのは1906(明治39)だから、神近市子が彼に初めて出会ったのは5年後の1911年(明治44)、彼女が23歳のときということになる。下落合で中村彝Click!『エロシェンコ氏の像』Click!、鶴田吾郎が『盲目のエロシェンコ』Click!を制作するのは、さらに9年後のことだ。
 このときをきっかけに、秋田雨雀をはじめ相馬御風、若山牧水Click!らのいわゆる早稲田派の文士グループと親しくなるが、ほどなく堺利彦Click!辻潤Click!、山川均、宮島資夫、安成貞雄たち社会主義者やアナーキストたちとも知り合うことになる。
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 ちょっと面白いのは、上落合503番地の妹夫婦の家で居候をしていた辻潤のもとに、エロシェンコがときどき訪れていることだ。同時に、辻潤の恋人だった宮崎モデル紹介所Click!小島キヨClick!も頻繁に訪れていただろう。ともに中村彝のモデルをつとめたふたりが、上落合で顔を合わせていたかと思うとちょっと面白い。


◆写真上:神近市子が家族とともに住んでいた、上落合1丁目476番地の自宅跡。
◆写真中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる神近市子邸および細川隆元邸とその周辺。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる上落合1丁目476番地。まさに、神近市子が住んでいた時代の家々が写っている。
◆写真中下上左は、東京日日新聞の記者時代に撮影されたと思われる20代後半の神近市子。上右は、上落合で撮影されたとみられる神近市子と家族たち。は、初めて上落合に住んだ上落合506番地(左手)あたりの現状。は、最初の転居先である大賀一郎邸の向かいにあたる上落合469番地(右手)あたりの現状。
◆写真下上左は、1972年(昭和47)出版の『神近市子自伝-わが愛わが闘い』(講談社)。上右は、現在でも入手可能な1997年(平成9)出版の『神近市子自伝』(日本図書センター)。は、ここではおなじみの左から富本一枝Click!佐多稲子Click!、神近市子、村岡花子Click!下左は、のちに辻潤夫人となる中村彝『椅子によれる女』のモデル・小島キヨ。下右は、同じく中村彝『エロシェンコ氏の像』のモデルとなったエロシェンコ。