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生涯を賭けた大賀ハスの種1粒。 [気になる下落合]

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 1951年(昭和26)の3月31日、そろそろあたりが黄昏の雰囲気を漂わせはじめた午後5時ごろ、千葉市の東京大学検見川厚生農場内にあった「落合遺跡」で、当時、中学3年生の西野真理子という生徒が、手のひらに1粒の種子らしいものを載せて大賀一郎Click!のもとへ見せにきた。これが、3000年前の縄文時代にまでさかのぼる、「古代ハス(大賀ハス)」発見の瞬間だった。
 「落合遺跡」の発掘には、近くの花園中学校の生徒たちや建設会社、千葉新聞社、千葉県社会教育課、そして遺跡を抱える東京大学農学部などが協力し、大がかりな調査がスタートしていた。すでに「落合遺跡」からは、縄文期の丸木舟などの遺物が出土していたが、今回の発掘調査は縄文時代の埋蔵文化財を掘り出すのが目的ではなかった。地中に埋もれた、植物の種子を発見しようという試みだった。
 発掘に許された期間は、同年の3月3日から3月31日までのわずか1ヶ月にすぎなかった。だが、関連機関や地域の全面協力にもかかわらず、発掘調査は非常に難航した。「落合遺跡」は、縄文期の丸木舟が出土するような低地にあり、しかも花見川が近く湧水が豊富な地下水脈の上にある遺跡なのだろう、雨が降るとすぐに水がたまって「池」になってしまうからだ。発掘は、常に地下水をポンプで汲み上げながら行われた。そして、「池」の底から掘り出した濡れた土を、少しずつふるいにかけながら種子を探す、気が遠くなるような作業だった。
 3月も終わりになり、「もうやめようや」という声があちこちから聞こえはじめた発掘の最終日、3月31日の日没ぎりぎりになって、西野真理子が「先生、こんなものが見つかりました」と差し出したのが、大賀一郎が必死に探し求めていた古代ハスの種子だったのだ。1粒のハスの種子を探すのに、2,000人の人々が協力し、総予算が当時のおカネでのべ50万円(現代の価値に換算すると1,500万円ほど)もかかっていた。大賀一郎は、自身の財産をほとんど使い果たして、文字どおり破産寸前だった。
 さっそく、協力してくれた当時の東大総長・南原繁Click!に報告すると、「なんぼかかった?」「知らぬ。相当、何万円だ」「いやあ、これ一つ何万円か」という会話が交わされている。下落合702番地に住んでいた南原繁は、帝大における大賀一郎の後輩であると同時に、柏木(現・北新宿1丁目)に住む内村鑑三Click!が主宰した「聖書研究会」Click!の後輩でもあった。大賀一郎の同級生には、下落合1655番地に住んだ安倍能成Click!がいる。戦前、上落合467番地に住んでいた大賀一郎は、近くの下落合に住む旧友たちと交流があったのだろう。
 「落合遺跡」の発掘調査は、ハスの種子が1粒見つかったことにより2週間延長され、つごう3粒の種子が地下6mの土中から発見されている。当初は、地層の様子や土中の温度から約2000年前の種子とされ、「大賀ハス」と名づけられた。ところが、ハスの種子と同じ場所から出土している丸木舟の破片を、米国シカゴ大学原子力研究所へ送って検査したところ、放射性同位元素C14の半減期から換算して3052年前ないしは3277年前の遺物だということが判明した。つまり、同じ地層位置から出土した種子は、約3000年前のものだということが推定された。
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大賀一郎「ハスと共に六十年1999.jpg 古代ハスゆるキャラちはなちゃん.jpg
 1965年(昭和40)に、花園中学校で開催された「千葉市花園中学校における『大賀ハス』発掘記念碑完成記念講演」から、発掘直後の様子を引用してみよう。
  
 この三粒が出たときに、私は、ほんとうにはらはらと泣きました。ほんとうに金も使い、労役を使い、もうこれ以上、人間というのは手が出ないんです。(中略) そのときに、一粒出たんです。ああ、この一つ。もしもこれが世に出たらば、こいつは、世界じゅうを震動させる。ほんとうに私は神様に感謝しました。ああ、いま神様は、私に恵みをさずけてくれた。この一つの実に私の全身、全霊を捧げた。そのとき、私は、七十四でございました。ああ、この実一つ。ほんとうに私はこれに一生を捧げたんだ。しかし、この実が出たために、この千葉県検見川は、全世界にその名を知られるだろう。見てみろ。検見川は、全世界に有名になる。この一つのために、と思いました。/それから、ある人が言いました。「これ、死んでるか、生きてるかね」「生きているさ。花は赤いんだよ」「わかりますか」「わかるさ。それがわからぬで、どうする」と言ったんですが、果たして、芽が出ました。花は赤く咲きました。二年たって。今度は、咲くというと、大へんなんです。写真を写しまして、アメリカにいって『ライフ』という雑誌にのりました。全世界にこれが広がりました。
  
 大賀一郎は、内村鑑三の「聖書研究会」へ参加していたことからもうかがわれるように、歌子夫人ともども生涯を敬虔なクリスチャンとしてすごしている。歌子夫人との結婚もまた、内村鑑三が紹介してくれたことによる。発掘から1年後、翌1952年(昭和28)7月18日には3000年前の種子から赤い花が咲き、そのニュースは世界じゅうに配信された。
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大賀一郎邸19450402.jpg
 大賀一郎が、上落合467番地の屋敷から府中へ転居したのは戦災がきっかけだった。上落合の家は大きく、庭には広い池もいくつかあったので多種多様なハスを栽培できた。ところが、3000年前の大賀ハスを発見するのに私財のほとんどをなげうったため、府中の家はかなり手狭になっていた。ハスに関するさまざまな実証実験を試みるには、広い池がいくつも必要になる。そこで、近隣の家々の庭へ池を掘らせてもらい、そこに各地のハスを栽培している。1957年(昭和32)に発行された「朝の思想」9月号収録の、大賀一郎『垣根を越えたハスの新池』から引用してみよう。
  
 戦災前、東京の上落合にいたときには、もう少し屋敷も広くあったので、少しは大きな池もつくっていたし、ハスの鉢も五十個ばかりおき、そこでいろいろな実験研究をしていたが、戦災後、この府中にきてからは、庭が小さくなってしまって、しぜん、あまりわがままもいえない自分になったが、私はせめていまあるくらいの池がもう二、三ほしいと思っていた。/ところが、いよいよせっぱつまったときがきた。それは、石川県金沢の持明院にあって、大正十三年二月以来、天然記念物となっている有名な妙蓮の研究をはじめるために、どうしても、もう二、三の池がほしくなったからであるが、どうすることもできないので、いくたびかためらったすえ、ある日曜日の午後、思いきって垣根をへだてたお隣りの富田さんに、重い足をはこんだのである。
  
 上落合の大賀邸が炎上したのは、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲だったろう。空襲に罹災する直前、大賀一郎・歌子夫妻は上落合を離れて疎開している。
 府中での池の「拡張」は、隣家の「富田さん」ばかりでなく、大賀邸の向かいにあたる「向野さん」でも池を掘ってくれることになり、ハスへの陽当たりを考えて屋敷林の伐採までしてくれることになったらしい。
善福寺公園蓮池.JPG
上野不忍池蓮池.JPG
 現在、3000年前の大賀ハスは全国各地で栽培されているが、近くでは上野の不忍池や府中の郷土の森公園、立川の昭和記念公園、町田の薬師池公園、少し離れて鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮源平池、千葉の千葉公園、埼玉の行田古代蓮の里などが有名だ。上落合は1931年(昭和6)以来、大賀一郎が長く住んだ土地がらなので、どこかの池に大賀ハスが欲しいような気がする。水底がコンクリートで固められていない、ハスの栽培に適した池が、はたして上落合のどこかにあっただろうか?

◆写真上:千葉市の千葉公園に咲く、3000年前の大賀ハス(古代ハス)。
◆写真中上は、大賀ハスが栽培されている鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の源平池。下左は、1999年(平成11)に日本図書センターから出版された大賀一郎『ハスと共に六十年』。下右は、千葉市の大賀ハスにちなんだゆるキャラ「ちはなちゃん」。
◆写真中下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる大賀一郎邸。は、B29偵察機による空襲直前の1945年(昭和20)4月2日に撮影された大賀邸。
◆写真下は善福寺公園のハスとコイで、は上野不忍池の蓮池。大賀ハスが栽培されているのは不忍池のほうで、毎年夏になると「観蓮会」が開かれている。


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