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大賀一郎が開催した不忍池「観蓮会」。 [気になる下落合]

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 「古代ハス(大賀ハス)」の種子を発見した大賀一郎Click!が、柏木の蜀光山 (現・北新宿1丁目)に住む内村鑑三Click!主宰の「聖書研究会」Click!へ参加したのは、一高生になったばかりの1902年(明治35)ごろからだった。南原繁Click!が、内村の聖書研究会で「白雨会」を結成する、およそ7年ほど前のことだ。大賀は岡山ですごした幼年時代、すでに岡山教会で洗礼を受けている。
 一高へ入るために東京へくると、さっそく同級生の安倍能成Click!たちと柏木の内村鑑三を訪ねているが、「教会を脱退しろ」といわれ本郷教会を去っている。当時は本郷に下宿していた大賀一郎は、下駄ばきで柏木の聖書研究会まで歩いて通うことになった。当時の聖書研究会には、小山内薫Click!有島武郎Click!志賀直哉Click!、天野貞祐などが頻繁に顔を見せている。
 そのときの様子を、1961年(昭和36)に発行された「月刊キリスト」4月号(日本基督教協議会)所収の、インタビュー「わが信仰の生涯」から引用してみよう。
  
 (内村鑑三は)岡山で知ったんです。『聖書研究』の出ない前、『東京独立雑誌』というのがありまして。(略) 店頭に出ておりましたからね。五銭でした、雑誌が。月三回で。当時本郷から新宿までげたをはいて歩いていくんですから、三時間かかりますね。内村先生もあとになってはだいぶひらけて、丸の内に出ていらっしたが、その時分は貧乏でしたからね。幸徳秋水や境枯川(利彦)なんか『万朝報』でやった時分ですからね。(略) 南原くんは七十二、三です。わたしは八十ですからね。あの人は七年ぐらいあとですね。(略) (内村鑑三の)家が狭いですから。このくらいのへや<六畳>ですから、二十人定員でしたよ。あのころいったのは志賀直哉、高木八尺、それから黒木――黒木大将の息子、そんなのがいましたね。(略) 野武士時代です。塚本くんや、藤井<武>、田島、三谷<隆正>、鶴見<佑輔>、ああいう連中は新渡戸先生の弟子だったんです。新渡戸先生は自分は教養を教える、宗教は内村がやるというので、自分の弟子を内村先生にゆずったんです。そのときにそういった連中がごっそりいったんですね。そして、柏会ができて変わったんです。野武士のあとはずっと一高、東大の連中がごっそり二、三十人きて、上品になったんです。(カッコ内引用者註)
  
 聖書研究会は、会費(献金)がわずか月1銭しかとらず、柏木919番地の内村鑑三は極貧にあえいでいた。しかも、学生たちの学費を援助するため、著作の校正作業には1回50銭でアルバイトとして雇ったため、貧乏生活に拍車がかかったらしい。
 現代の学生と教授の関係とは異なり、明治後期の学生たちは講義を終えると、自身の尊敬する“先生”の自宅を訪ねるのがふつうだった。ちょうど大賀一郎が一高・帝大時代をすごしていたころ、訪問先でブームになっていたのが内村鑑三と夏目漱石Click!だった。安倍能成Click!は、内村家と夏目家の双方に顔を出していたようだ。
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蓮糸織物.jpg
 大賀一郎がハスの研究に取り憑かれたのは、25歳ぐらいのときだったといわれている。もともと水草には興味があったらしいが、特にハスに注目して研究をつづけ古代ハス(大賀ハス)を咲かせることに成功している。さらに、當麻寺(当麻寺:たいまでら)に伝わる「當麻寺蓮糸曼陀羅」からハス糸に興味をおぼえ、曼陀羅から糸へ、糸から繊維へと研究の対象は拡大していった。府中に住んでいた晩年には、大賀ハスを育てて研究をつづけるかたわら、布目文の研究にも取り組んでいる。布目文とは、もちろん府中国分寺の屋根に用いられた、朝鮮様式の「布目瓦」のことだ。
 ちょっと余談だが、大賀一郎は府中の国分寺跡を散策しながら、数多くの布目瓦の破片を採取しているが、わたしもまったく同じことをしたことがある。小学生のわたしが、布目瓦の破片を求めて散策したのは、府中ではなくナラ・斑鳩の里にある法隆寺の若草伽藍跡だ。現在の法隆寺が再建される以前、創建法隆寺(本来の法隆寺)が建っていたとされる若草伽藍跡では、親父が同寺の事務所で交渉したものだろう、僧が若草伽藍跡の門鍵を開けてくれて中を自由に散策することができた。
 巨大な礎石がポツンと残る若草伽藍跡は、広く芝に覆われていたが、ところどころに黒い土面が露出していて、そこには布目瓦の破片が数多く露出していた。それをいくつか拾い集めて僧に見せると、「掘れば無数に出てくるから、記念に持ち帰っていいよ」といってくれた。その破片は、いまでもわが家のどこかにあるのかもしれないが、ここしばらく見ていない。布目瓦の布目を観察・研究することで、その繊維がどのようなものなのか、あるいはなんの糸が使われているのかを想定することができる。大賀一郎は、最晩年を国分寺に葺かれた布目瓦と、朝鮮様式の繊維の研究に費やしている。
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 さて、大賀一郎は1935年(昭和10)から戦争中を除き死去するまで、上野の不忍池Click!でハスの花を愛でる「観蓮会」を開催している。きっかけは、ハスの花が開花するとき「ポンと音がする」という迷信を否定するために、マイク片手に開花の瞬間をねらって録音するプロジェクトを起ち上げたときらしい。この試みには、同じ植物学者である牧野富太郎の実証主義的な姿勢から、少なからぬ影響を受けているようだ。牧野は、大賀よりも20歳年上だった。以下、1957年(昭和32)に発行された「採集と飼育」6月号(日本科学協会)所収の、大賀一郎『牧野富太郎先生の思い出』から引用してみよう。
  
 今から二十三年前の昭和十年に、初めてハスの会を上野不忍で催した時などには、(牧野富太郎は)第一に馳せ参じて、明け行く空に、ハスの無音無声の開花に注視、聞き耳を立てて下さった。あの時には三宅驥一、鳥居竜蔵、入沢達吉、岡不崩、石川欣一、河野通勢などの諸先生と豪華な勢揃いをした事であったが、その翌年(牧野富太郎)先生と私と二人不忍池畔で早朝マイクの前に立って再検討の耳を傾けたのは、今になってよい思い出である。ハスの事については先生がよく『理学界』誌にお書きになったのが我が国の最初の文献で、植物の事では何にでも先鞭をおつけになった先生は、ハスの事でもまた先覚者であられた。
  
 第1回「観蓮会」には、このサイトにもときどき登場する鳥居龍蔵Click!をはじめ、河野通勢Click!岡不崩Click!の名前が見えている。医師の入沢達吉は一度、歯科医の医療行為を妨害する島峰徹Click!エピソードClick!で取り上げただろうか。
 目白通り北の長崎の洋画家・河野通勢と下落合の日本画家・岡不崩だが、このふたりの作品にハスを描いた画面があるとすれば、上野不忍池で行われた大賀一郎の「観蓮会」で写生された「大賀ハス」の可能性が高い。河野通勢の作品にハスの記憶はないが、岡不崩の軸画あたりにはありそうな気がする。ご存じの方がいれば、ご教示いただきたい。
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 ところで、「大賀ハス」の根は食べられるのだろうか? 食い意地の張ったわたしとしては、気になるところだ。食用のハスと同様に、大きな穴が空いた根をしているのだろうか。縄文人が食用に栽培していたかどうかは不明だが、3000年前の丸木舟といっしょに出土しているところをみると、食べていた可能性がありそうだ。蓮根は「穴がおいしいのです」といったのは内田百閒Click!だが、どのような味がするのかとても気になる。


◆写真上:上野精養軒の屋上から眺めた、ハスが繁る夏の不忍池。
◆写真中上上左は、帝大時代の23歳ごろの大賀一郎。上右は、柏木で聖書研究会を主宰した内村鑑三。は、ハス糸を使った織物でこしらえたマフラー。
◆写真中下は、上落合467番地の大賀一郎邸跡の現状。は、法隆寺の若草伽藍跡(創建法隆寺跡)から出土した布目瓦の密タイプ(左)と粗タイプ(右)。は、大賀一郎が晩年に布目瓦を探してよく散策した府中の国分寺跡。
◆写真下は、晩年の大賀一郎。は、東大泉にある牧野富太郎の庭(牧野記念庭園)。は、現存する牧野富太郎の書斎(研究室)。


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龍膽寺雄が暮らした「目白会館」を探せ。 [気になる下落合]

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 1928年(昭和3)6月から1930年(昭和5)6月ごろまで住み、『アパアトの女たちと僕と』(改造社/1930年)を書いた龍膽寺雄Click!(龍胆寺雄/りゅうたんじゆう)だが、彼が暮らしたとされる下落合の「目白会館」が、どうやら第三文化村の下落合1470番地に建っていた「目白会館・文化アパート」Click!ではなさそうなことが判明している。
 では、龍膽寺雄が書く「目白会館」とは、いったいどこのアパートのことを指しているのだろうか? 彼が東京でもっとも古い民営アパートと書く、下落合地域でもおそらく大正期に建てられたとみられる建物を探してみるのがきょうのテーマだ。そのアパートには共有部分の応接室や食堂、キッチン、各種ゲーム室、浴室に加え、6畳+4畳半の2間構成の部屋も含めて20室もの貸し部屋が並び、屋上庭園まで設置された少し大きめな建物を想定しなければならない。
 しかも、龍膽寺雄は「コンクリートの二階建てだった」とも記している。建物の構造が、ほんとうに鉄筋コンクリート造りだったものか、それとも関東大震災Click!の教訓からラス貼りモルタル仕上げの外壁が、建築には素人だった彼の目からは鉄筋コンクリート造りに見えたものか、このあたりは曖昧さが残るところだ。あるいは、セメント混じりのモルタル木造建築自体を、彼はコンクリート建築と呼んでいた可能性も残る。
 龍膽寺雄が「目白会館」の生活について、1979年(昭和54)に昭和書院から出版された『人生遊戯派』に綴っているが、前回とは別の箇所から引用してみよう。
  
 私が淀橋柏木の家から、斎藤老人に追い出されることになると、今井が色々奔走して、目白落合の文化村近くに、目白会館というアパートを見つけてくれた。その頃同潤会のような公営のアパートはあったが民間のアパートとしては、この目白会館がたしか最初だった。コンクリート建ての、二階の屋上に、屋上庭園のようなものがあり、大きな洋風の共同の応接間や、一階には食堂のほか、浴室、玉突き場、麻雀荘などの設備があった。もっとも、その応接間は、満員でハミ出した洋画家が、アトリエを兼ねて借りてしまっていたので、塞がっていた。この洋画家というのは、目白の川村女学院で絵の先生をしていた佐藤文雄でのちに、改造社から出した私の処女出版『アパアトの女たちと僕と』の装釘をしてくれた。『アパアトの女たちと僕と』は、ここでのアパートの生活からヒントを得て書いた作品で、もちろんフィクションだが、谷崎潤一郎から激賞を受けた。
  
 ここで留意したいのは、「目白落合の文化村近く」と表現している点だろうか。第三文化村に建っていた目白会館は、目白文化村の「近く」ではなく目白文化村の「中」だ。ただし、目白通りの南側に拡がる下落合の住宅街、すなわち山手線際の近衛町Click!から目白文化村Click!アビラ村Click!までを、外部から見てすべて下落合の「文化村」と拡大表現する書籍や資料もめずらしくないので、龍膽寺雄がどのような概念でこの文章を書いているのかは不明だ。
 仮りに目白通りの南側全体、つまり目白崖線の丘つづきを下落合の「文化村」という大雑把な捉え方をしていたとすれば、その「近く」に住んだということは、目白通りの北側の可能性もある。しかも、龍膽寺雄が書く「目白会館」の住所は下落合でなければならない。そう考えてくると、目白通りの北側に張り出した下落合のエリアが頭に浮かぶ。下落合540番地の大久保作次郎アトリエClick!や、下落合523番地の目白聖公会Click!のある長大な三角形のエリアだ。
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 さっそく、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」を確認すると、「目白会館」ではなく「会」を抜いた「目白館」という、いかにもアパートらしい大きめな建物を見つけることができた。「目白館」は大久保作次郎アトリエClick!の東隣り、下落合538番地に建っていた。地図を順ぐりにたどっていくと、1925年(大正14)の1/10,000地形図の修正図には、すでに大久保アトリエと並んで採取されている。それ以前は、大久保アトリエのみしか採取されていない。つまり、「目白館」は1923年(大正12)9月に起きた関東大震災の直後、1924年(大正13)ごろに建設されたと想定することができる。
 さて、空中写真を確認してみると、周囲の住宅街に拡がる瓦屋根の家々に比べ、「目白館」が白く輝いて見えている。建物は「コ」の字型をしており、白く光って見えるのは屋根が耐震設計を重視した最新の軽いスレート葺きだからだろう。敷地の面積は第三文化村の目白会館と同等以上、やや広めのように感じる。
 そして、ここが重要だと思われるのだが、中庭とみられる“コ”の字型の凹んだ南側半分に、露天のデッキらしい張り出しがありそうなことだ。まるで、ロッジかバンガローのようなデッキが、屋根の近くに北向きで張り出していそうだ。この界隈は、めずらしく空襲から島状に焼け残っているエリアなので、戦後すぐの1947年(昭和22)に撮影された空中写真を見ると、それらしいかたちを確認することができる。ひょっとすると、これが2階から上がれる「屋上庭園のようなもの」だったのではないか。目白館が解体される少し前、1975年(昭和50)の空中写真を見ると、この南側の張り出しが白くはっきり写っている。もっとも、木造の露天デッキでは傷むのが早いので、戦後ほどなくコンクリート製に変えられているのかもしれない。
 目白館を1937年(昭和12)に作成された「火保図」で見ると、面白いことがわかる。接道から目白館の敷地全体がよく見えなかったものか、建物のかたちが誤って採取されている。前年の空中写真でもはっきり撮られているように、建物は南北に細長く大きな“コ”の字型をしているのだが、「火保図」では東側の接道からつづく一戸建てつづきの建物として描かれている。「火保図」に誤採取は多いが、ここまでの大きなミスはめずらしい。ちなみに、目白館の構造は(ス)に太枠の線で描かれており、「スレート葺き屋根で防火対策が施された木造建築」ということになっている。モルタルで白く塗られたぶ厚い外壁を、龍膽寺が「コンクリート建て」と誤認した可能性は十分にありえるだろう。
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 この目白館が、龍膽寺雄が書く「目白会館」の誤記憶であったとすれば、佐藤文雄が通う川村女学園Click!まで560mほど、龍膽寺が1週間に一度訪ねる関口町207番地の佐藤春夫邸Click!へは2.5kmほどと、散歩がてらブラブラ歩いていける距離だ。下落合538番地(現・下落合3丁目)の目白館跡の敷地には、現在も集合住宅である「セントヒルズ目白」が建っている。
 さて、龍膽寺が書く「目白会館」(目白館?)の内部の様子を、『人生遊戯派』の「私をとりまく愛情」からもう少し引用してみよう。
  
 引っ越して行った目白会館の、四畳半と八畳と二た間続きの部屋の、八畳のほうの白壁に、初山滋の童画の額縁を掛けようと思って、何気なく、長押の上へ手をやったら、小さな紙片れの折ったのが、その奥に挟んであった。ひろげて見ると、こういうことが書いてあった。/「この部屋には百万円かくしてあります。」/先住者のいたずらだ。/新しいこの部屋の主人公は、しかし間もなく流行作家になって、この部屋で、百万円とはいかないまでも、かなり原稿料を稼ぐのだから、紙きれに書いてあったことは、まんざら嘘じゃない。
  
 この文章から、目白館の室内はどうやら畳敷きで、おそらく白い漆喰塗りの壁上には長押(なげし)があったのがわかる。つまり、コンクリート建築ではなく木造建築を思わせる意匠だ。しかも、先の記事でも書いているが、「先住者」がいたということは1928年(昭和3)6月の龍膽寺が借りる以前からアパートが建っていたことを意味しており、1928年(昭和3)当時は竣工したばかりだったとみられる第三文化村の「目白会館」とは、東京初の民間アパートという由来も含めて記述が合わないことになる。
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 龍膽寺雄は、「目白会館」(目白館?)に1930年(昭和5)6月ごろまで住んだあと、1932年(昭和7)以降の住所表記で杉並区高円寺4丁目43番地と変わる借家へと転居している。彼はそこで、文藝春秋の菊池寛Click!による派閥と、のち川端康成Click!の「鎌倉幕府」が牛耳る文壇に嫌気がさし、ひとり背を向けて孤独な文学の道を歩んでいくことになった。


◆写真上:下落合538番地に建っていた、アパートとみられる「目白館」跡(左手)。
◆写真中上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる目白館。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる同館。は、1944年(昭和19)12月13日の第1次山手空襲の4ヶ月前にB29偵察機から撮影された目白館。
◆写真中下は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された同館。は、龍膽寺がよく訪れた関口町207番地の佐藤春夫邸で、あちこちウロウロしているのが佐藤春夫自身。
◆写真下は、1937年(昭和12)作成の「火保図」にみる目白館で建物の形状を誤記載している。は、1975年(昭和50)に撮影された目白館。突き出た木造と思われるデッキが、コンクリートの屋根状に改変されているのが見てとれる。は、1930年(昭和5)に下落合から転居した高円寺4丁目43番地の自宅とみられる部屋でくつろぐ龍膽寺雄。


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神近市子の隣り細川隆元邸の襲撃。 [気になる下落合]

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 1936年(昭和11)2月26日、いわゆる二二六事件Click!が起きたとき、上落合1丁目476番地に住んでいた朝日新聞の政治部長・細川隆元邸が襲撃されている。おそらく早朝に襲われたとみられるが、どこの連中がどのような方法で襲撃してきたかは記録にないので不明だ。だが同日の朝、東京朝日新聞社を襲撃した中橋基明中尉の支隊が、上落合にやってきて細川邸に銃弾を撃ちこんだか、家内を打(ぶ)ち壊していった可能性がある。
 細川隆元の自宅は、下落合4丁目1925番地(現・中落合1丁目)の一画、現在の中井駅前から踏み切りをわたって北上する道の突き当たり、みずほ銀行中井支店が建っている斜面でも確認できるが、上落合の自宅と下落合の自宅の時間的な前後関係がはっきりしない。上落合の自邸が襲われたため、下落合の新居へと引っ越したものだろうか。
 細川隆元の自宅が、上落合1丁目476番地にあるのを蹶起部隊が知っていたのは、同じく上落合1丁目512番地に実家があった竹嶌継夫中尉Click!からの情報ではなかったろうか。両家の間は70mほどしか離れておらず、道路をはさんで5~6軒ほどの距離にすぎなかった。この襲撃について重要な証言しているのは、その当時、細川邸の隣りに住んでいた神近市子Click!だ。彼女は家族とともに上落合を3ヶ所転居しているが、1937年(昭和12)に高田馬場駅近くの妾宅に通うDVでアル中になった夫・鈴木厚と離婚して、「新宿ハウス」へ引っ越すまで住んでいた上落合最後の家が、細川隆元邸の隣りだった。
 1930年(昭和5)から住んでいた、同じく東京朝日新聞社の記者・鈴木文四郎Click!邸に隣接し、「古代ハス」の大賀一郎Click!邸の向かいにあった上落合469番地の自宅は、周囲の住民たちから「アカの家」と呼ばれていた。だが、神近市子が共産主義者であったことは一度もなく、また目立った運動もしていない。当時の日本は、政府を批判したり戦争に反対する人々、あるいはエスペランティストや男女平等を唱える人物など、資本主義体制の母体であり基盤を支える思想の民主主義や自由主義でさえ、「アカ」呼ばわりされて蔑まれていた狂乱の時代だった。
 ちょうど、独裁的な「共産主義」国家が政府を批判する人間に、思想の別なく情緒的かつ感情的な「反革命」「反動」のレッテルを貼って粛清していた、ちょうどその裏焼きにすぎない。上落合1丁目476番地に転居してから、はたして神近市子の家はなんと呼ばれていたのだろうか。彼女が大正期に、八王子刑務所で2年間にわたり服役していたのは思想犯ではなく、大杉栄の首筋を短刀で刺した傷害罪によるものだ。
 余談だけれど、神近市子が神田神保町から駿河台へと抜ける沿道にあった、刀剣店で購入した刺刀Click!(さすが=短刀)の銘が気になっている。彼女は当初、自裁するために購入したのであり、大杉栄を傷つけるためではなかった。つまり、確実に自死できるよう業物(わざもの=斬れ味のよい作品)を求めているとみられ、銘が入っていた可能性が高い。この刺刀は、日蔭茶屋で大杉栄を刺したあと、葉山の海で沖に向かって投げ棄てられているが、警察は自供のみでなく、ちゃんと証拠品として海底を探しただろうか。
 細川隆元邸が襲撃された二二六事件Click!のときの様子を、1972年(昭和47)に講談社から出版された『神近市子自伝-わが愛わが闘い』から引用してみよう。
  
 二・二六事件のとき、私は上落合に住んでいたが、隣の朝日新聞記者の細川隆元氏が襲われたのに、私のところは素通りだった。超国家主義の嵐が日本じゅうを吹き荒れ、言論統制が敷かれたが、探検記や科学読みものの翻訳者にすぎなかった私は、ついに目の敵にされることはなかった。とはいっても、むろん私は時局に従う気はなかった。愛国婦人会や国防婦人会が活躍をはじめ、かつて婦人の地位向上を叫んだ人たちが進んで戦争に協力したが、私は見向きもしなかった。すべてから逃避することが、私の唯一の生きる道であった。私はまったく孤立した。/息子が慶応大学の文学部を志望したとき、私は反対した。この大戦争の渦中に文学で生計を立てるなどとは痴(おこ)の沙汰であったからだ。ただひとりの息子が、私の父や兄のように医業を志してくれたならと願った。しかし息子は文学部をえらんだ。/思うにまかせぬ三人の子どもを受けもった私を、/「あなたの傑作は、三人の子どもたちですよ」/と、中村屋の相馬愛蔵氏がよくからかったものだ。
  
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 神近市子は、1929年(昭和4)ごろに麻布霞町から上落合506番地へと引っ越してきた。ちょうど、鶏鳴坂のとっつきに近い住宅で、辻潤・キヨ夫妻邸Click!川路柳虹邸Click!壺井繁治Click!壺井栄Click!邸、吉川英治邸Click!などの近くだ。翌1930年(昭和5)には、吉武東里邸Click!の道路を隔てた北側に位置する、先の鈴木文四郎邸に隣接した上落合469番地に転居した。ここで数年暮らしたのち、1935年(昭和10)ごろから上落合(1丁目)476番地に住み、夫と離婚して「新宿ハウス」へ移るまで上落合で暮らしている。この最後の家は、西側に隣接する野々村金五郎Click!が建てた借家群ではないかとみられる。
 さて、ようやく神近市子の落合地域における軌跡を描いてはみたけれど、彼女のどこから手をつけはじめていいのかわからない。それほど活動範囲が広くて深く、また彼女の作品をはじめ関連する人脈や思想も広大なのだ。長崎の活水女学校に通いながら『少女世界』へ投稿していた文学少女時代から、恋人だったアナーキストの裏切りにキレてつい刺してしまった服役時代、戦後の衆議院議員になってから売春防止法の策定まで、あまりに活動の範囲やテーマが広すぎて、紡がれた物語が深すぎるのだ。
 このサイトで取り上げたさまざまな領域の人物たち、そして落合地域に住んでいた人々との交流も多岐にわたり、津田梅子の津田塾時代から平塚らいてうClick!の「青鞜」時代、長谷川時雨Click!「女人藝術」Click!時代、女学校の講師時代、東京日日新聞の記者時代、アナーキズムにシンパサイズした時代、作家・翻訳家時代、離婚後に子どもたちが次々と父親から逃げだしてきた子育て時代、「婦人文藝」の編集長時代、戦後の民主婦人協会時代、衆議院議員時代、そして再び作家時代と、この経歴を見るだけでも落合地域に去来した作家や画家、思想家、政治家たちの顔が次々と想い浮かぶのだ。
 陸軍軍医学校長の森鴎外Click!は神近市子をよほど気に入ったのか、彼女が出す雑誌のタイトルから考案して寄稿まで約束しており、活きのいい女性にはデレデレだったらしい早稲田の大隈重信Click!までが彼女の人生には登場する。泣き寝入りをせず、男へ物理的な「反撃」を試みた神近市子は女性たちからは一目おかれるようになるが、親しかった与謝野晶子Click!は事件後、手のひらを返したように挨拶をする彼女を無視しつづけた。
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 たとえば、津田塾時代に住んでいた麹町の竹久夢二Click!・環夫妻の2階建てアトリエの1Fから転居してすぐのころ、神近市子は秋田雨雀Click!ワシリー・エロシェンコClick!と親しくなっている。エロシェンコは特に彼女が気に入ったのか、困りごとや相談事ができると寄宿している新宿中村屋Click!相馬愛蔵Click!黒光Click!夫妻ではなく、頻繁に彼女のもとを訪れるようになった。
 神近市子が初めてエスペラント語を知ったときの様子を、同書より引用してみよう。
  
 集まったのは四、五人だったが、その中に盲目のロシア詩人エロシェンコと秋田雨雀氏がいた。ワシリー・エロシェンコは、不自由な目のあたりにふさふさとした紅毛を垂らし、悪い発音の英語でしきりにR女史に議論を吹っかけていたが、私には何のことかわからなかった。その日はコーヒーと洋菓子くらいをご馳走になって帰ったが、一週間すると秋田氏とワシリーが私のところにやってきた。私は、自分が使ってもいいといわれている応接間に二人を通した。「またRさんのところの会合ですか」/ときくと、ワシリーがうなずいた。/「いったい何のための集まりですか? 私にはあなたの議論が少しもわかりませんでした」/熱っぽく何かを説明しようとするワシリーに代わって、秋田氏が答えられた。/「彼女はエスペラントという国際語を、世界に広めようという運動をしているのです。それといっしょに、宗教も一つにしなければいけないという運動にもはいっています。この間のワシリーとの議論はおもにその問題でした」
  
 エロシェンコが、日本での第1回エスペラント大会に合わせて来日したのは1906(明治39)だから、神近市子が彼に初めて出会ったのは5年後の1911年(明治44)、彼女が23歳のときということになる。下落合で中村彝Click!『エロシェンコ氏の像』Click!、鶴田吾郎が『盲目のエロシェンコ』Click!を制作するのは、さらに9年後のことだ。
 このときをきっかけに、秋田雨雀をはじめ相馬御風、若山牧水Click!らのいわゆる早稲田派の文士グループと親しくなるが、ほどなく堺利彦Click!辻潤Click!、山川均、宮島資夫、安成貞雄たち社会主義者やアナーキストたちとも知り合うことになる。
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 ちょっと面白いのは、上落合503番地の妹夫婦の家で居候をしていた辻潤のもとに、エロシェンコがときどき訪れていることだ。同時に、辻潤の恋人だった宮崎モデル紹介所Click!小島キヨClick!も頻繁に訪れていただろう。ともに中村彝のモデルをつとめたふたりが、上落合で顔を合わせていたかと思うとちょっと面白い。


◆写真上:神近市子が家族とともに住んでいた、上落合1丁目476番地の自宅跡。
◆写真中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる神近市子邸および細川隆元邸とその周辺。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる上落合1丁目476番地。まさに、神近市子が住んでいた時代の家々が写っている。
◆写真中下上左は、東京日日新聞の記者時代に撮影されたと思われる20代後半の神近市子。上右は、上落合で撮影されたとみられる神近市子と家族たち。は、初めて上落合に住んだ上落合506番地(左手)あたりの現状。は、最初の転居先である大賀一郎邸の向かいにあたる上落合469番地(右手)あたりの現状。
◆写真下上左は、1972年(昭和47)出版の『神近市子自伝-わが愛わが闘い』(講談社)。上右は、現在でも入手可能な1997年(平成9)出版の『神近市子自伝』(日本図書センター)。は、ここではおなじみの左から富本一枝Click!佐多稲子Click!、神近市子、村岡花子Click!下左は、のちに辻潤夫人となる中村彝『椅子によれる女』のモデル・小島キヨ。下右は、同じく中村彝『エロシェンコ氏の像』のモデルとなったエロシェンコ。


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船山馨の下落合尾根づたい散歩コース。 [気になる下落合]

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 わたしはどちらかといえば、気に入った地域には長く住みつづけるほうだろうか。下落合を初めて訪れたのは1974年(昭和49)の春だから、かれこれ落合地域とは43年のかかわりになる。学生のとき南長崎に借りていたアパート時代を含めると、落合地域とはかれこれ38年のつきあいだ。故郷の旧・日本橋区内に住みたくても、買い物や交通などは便利だし、食べたい料理や欲しいモノはすぐ手に入るだろうが、1964年(昭和39)の東京オリンピック以来、高速道路がうるさくて緑や公園が少なく、小林信彦Click!のいう“町殺し”Click!のせいか殺伐としていて、防災面でも不安だらけなのでイヤだ。
 下落合4丁目2108番地(のち2107番地/現・中井2丁目)に住んだ小説家の船山馨Click!は、わたしとは逆の感覚を持っていたらしい。下落合へやってくるまでは、同じところへ3年とつづけて住んでいたことがなかった。住むところを変えると、自分の人生や気持ちまでがリセットされたように思え、新鮮な感覚で生活のリスタートが切れたようだ。この感覚、大江戸Click!の街に生まれて88歳で死去するまで、93回も引っ越しを繰り返した中島鉄蔵(葛飾北斎Click!)にも通じるものだろうか。
 1965年(昭和40)6月9日発行の「落合新聞」Click!に寄稿した、船山馨のエッセイ『移りかわり』から引用してみよう。
  
 目白学園の近くに住むようになってから、はやいもので、もう二十年になる。/もっとも、このあたりの住人には土地ッ子が多いから、二十年くらいでは長いうちに入らないが、私としては、ひとつところにこんなに腰を落ちつけてしまったのは、生れて初めてである。それまでの私は転々と居を変えて、一ケ所に三年と住んだ記憶がない。借家住いのせいもあったろうが、一種の放浪癖もあった。/住む家や土地が変ると、当分のあいだにもせよ、生活感情にいくらか水々しさ(ママ)が甦る。身のまわりにできかけた殻が破れて、新鮮な光と空気が身うちをひたすような移転の実感は、なかなか捨てがたいものである。(中略) むかし変化を求めて動きまわっていた私が、いまは下落合の片隅に定着し、時間がその私のまわりに、あるかなきかの移り変りを運んできては、流れ去ってゆくようになった。
  
 その後、彼は1981年(昭和56)に死去するまで36年間も下落合に住みつづけている。
 船山馨は、目白学園も近い下落合の西部に住んでいたが、毎日の散歩は自宅を出ると「上の道」Click!(坂上通り)を左に折れて西へと歩いている。船山邸のすぐ南側、同じく下落合4丁目2108番地に1935年(昭和10)まで住んでいた吉屋信子Click!は、飼いイヌを連れて上の道に出ると東へ右折し、目白文化村Click!方面を散歩Click!することが多かったが、船山馨は逆に西側の上高田方面へと抜ける散歩が好きだったようだ。
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 四ノ坂と五ノ坂にはさまれた、南へと入る路地から上の道を左折して100mほど歩くと、道の左手には数多くのバラが咲く「植物園」があっただろう。4月から5月にかけ、船山馨も足をとめて多種多様なバラの花に見入ったかもしれない。ここでバラを栽培し、「植物園」のプレートを掲げていたのは、下落合4丁目2123番地に住んでいた船山と同業の中井英夫Click!だ。この船山のエッセイが書かれたころ、中井英夫は下落合も舞台に登場する『虚無への供物』Click!を書き終えたばかりのころだった。引きつづき、「移りかわり」から引用してみよう。
  
 私の散歩コースで言うと、目白学園の正門前は、もとは空き地であった。そこに縄文期の遺跡が発掘されて、しばらくすると、そこに古代の住居が復原された。私は散歩の往き還りにそこに佇み、古代の人々のいとなみや、その人生について空想するのが愉しみであったが、保存の施設が不備なため、間もなく子供や心ない人たちの悪戯で荒されはじめいつとはなしに跡形もなくなってしまった。いまはなんの変哲もない住宅の群れがその上を覆ってしまっている。今でも通るたびごとに惜しいことだと思わずにはいられない。
  
 目白学園の現在とは異なる旧・正門の前、つまり現在はキャンパス南側の接道沿いの空き地に復元された縄文期の竪穴式住居レプリカは、当然わたしは見たことがないけれど、のちにキャンパス内へ復元された同住居は何度か訪れたことがある。ただし、21世紀の今日的な史観(視点)からすると、おそらく復元された縄文期の竪穴式住居は、かなり“原始的”でお粗末すぎる姿だろう。
 竪穴式住居のような建屋が、突然近くの空き地か原っぱにできたら、もちろん近所の子どもたちが放っておくわけがない。さっそく「秘密基地」にされ、屋根の上にのぼって周囲を睥睨する見張り所にされたり、さまざまなモノが運びこまれて雨が降っても遊べる「集会場」にされたことだろう。船山は「跡形もなくなってしまった」と書いているが、おそらく目白学園のキャンパス内に移築されて保存され、やがて傷みがひどくなると2代目の竪穴式住居が造られたとみられる。わたしが同学園キャンパスで見たのは、初期のものとは形状がちがうので2代目の復元住居だろう。
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 春になると、船山馨は目白学園キャンパスのあちこちに咲く、サクラ並木を眺めるのが好きだったようだ。昔ほどではないにせよ、いまでもキャンパスの外周域にはサクラが多い。船山は、いまだ茅葺きだった中井御霊社Click!を左手に見て、キャンパス南側の接道を西へ歩くとバッケ坂Click!を下っている。そして、妙正寺川に架かる御霊橋からバッケが原Click!へわたると、そこに設置されていた消防庁のグラウンドで草野球を見物している。
  
 目白学園の正門の桜は、春ごとに私の愉しみのひとつである。幾株もないのだが、毎年アーチ型に空を覆って、見事な花をつける。高台だから、坂の下に遥かな街並が煙って見え、それが枝もたわるばかりの花の姿と調和して、心が静かにひらけてゆく思いがする。近年はつぎつぎに校舎が増築されて、そのせいかだいぶ幹が切り落されたようだが、まだ風致が損なわれるほどではない。正門を拡げるような場合にも、あの桜樹だけは、いまのままに遺しておいてほしいものだと思う。/樹下をくぐって、学園の塀に沿って坂を降りると、消防庁の野球のグランドだが、ここがばっけケ原という原っぱだったころは、夕方などよく犬を運動に連れていった。その犬は雑種であったが、十三年いて死んだ。いまは、時どき草野球を見物する。
  
 船山馨が歩いた時代は消防庁のグラウンドだったが、現在は中野区の上高田運動場となっている。そこでしばらく草野球の試合を見学したあと、再びバッケ坂を上って上の道を通り自宅へと帰るのが、日々の散歩の習慣だったのだろう。
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 船山馨が道すがら眺めたかもしれない中井英夫のバラ園だが、龍膽寺雄Click!がのめりこんだのはサボテンだった。銀座や新宿で求めたサボテンを、彼はせっせと自宅に運んではかわいがっている。その栽培の面白さを教えたのは、目白中学校Click!で経理係をしていた篠崎雄斎だった。当時の目白中学校Click!は、下落合437番地から上練馬村2305番地(現・高松1丁目)に移転Click!していた時代だ。でも、それはまた、別の物語……。

◆写真上:下落合の丘上から、上高田のバッケが原へと下る急傾斜のバッケ坂。
◆写真中上は、1960年(昭和35)作成の「東京都全住宅案内帳」(住宅協会)にみる船山馨邸と中井英夫邸。は、目白学園のサクラ並木。は、旧・正門前にあった住居跡から目白キャンバス内へ移築されたとみられる復元された竪穴式住居。
◆写真中下は、発掘調査中の落合遺跡と目白学園の位置関係で中井御霊社がある上が南。は、船山馨が自宅を出てからバッケが原へと向かう散歩コース。
◆写真下は、いまだ茅葺きだった中井御霊社の拝殿。は、船山馨のエッセイ『移りかわり』が掲載された「落合新聞」1965年(昭和40)6月9日号。


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文化住宅を超える落合の次世代型住宅。(4) [気になる下落合]

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 1929年(昭和4)に出版された『朝日住宅図案集』Click!は、東京朝日新聞社が実施した郊外中小住宅の設計コンペティション(同年2~4月)の入賞図案を85点収録したものだ。当初の稿でも書いたように、中には図面のままで実際には建設されずに終わった“作品”も含まれているかもしれない。賞金総額が2,300円だった同コンペには、約500作品の応募があり、選ばれた85作品の図案展覧会まで開かれている。
 この中で、上位入賞した16案を、当時開発中だった成城学園の街へ実際に建設し、同年10~11月に見学会を開催して、来訪した希望者に分譲販売している。翌1930年(昭和5)には、成城学園へ建てた上位16案の住宅を撮影し、『朝日住宅写真集』(東京朝日新聞社)として出版している。このような大規模な設計コンペティションや、実際に作品を新興住宅地に建設して分譲販売が可能になったのは、東京市民の郊外住宅に対する関心が急速に高まっていたせいだろう。
 そのベースには、関東大震災Click!により住環境に対する見直しが急務になったことと、都市部の生活環境における結核の蔓延Click!などが要因となっていることは、すでに何度か触れたとおりだ。そしてもうひとつ、生活改善運動Click!の一環として定義された大正期の「文化住宅」Click!が、いつの間にか実質的な本意を外れて流行を追いかけるだけの、ただの“オシャレ”な生活スタイルと捉えられるようになったり、ステータスや生活水準を誇示するための手段のひとつとなってしまったことにもよるのだろう。
 このような形骸化の流れを止揚し、大正期の「文化住宅」からさらに住環境を進化・前進させるために、東京朝日新聞の設計コンペは企画されたものだと思われる。そこには、家族を中心とする部屋割りの考え方(応接室の廃止または居間や書斎との兼用)や、より効率化や機能性を追求する間取りとデザイン、家族個々人のプライベートな空間を重視する設計思想などが透けて見える。同設計コンペの様子を、2012年(平成24)に世田谷美術館で開催された、「都市から郊外へ―1930年代の東京―」展図録から引用してみよう。
  
 具体例をみていくと、朝日住宅は入賞順位にしたがって号数がふられているため、二号型(HO-16)は第二位入賞の設計案ということになる。ちなみに、競技規定には想定家族構成と建築工費によって二種類の部門が設定されており、甲種は夫婦に子ども二、三人、女中一人で工費五千円以内、乙種は夫婦に子供一、二人、女中一人で工費三千円以内である。敷地面積は一律五〇坪内外。二号型は甲種の方で、図案集に掲載された設計趣旨を見ると「洋風というよりは和風の家をある程度まで洋式化した」とあり、ハーフティンバー・スタイルを応用した、日本趣味豊かな設計である。(中略) 写真集巻末に付された購入者からの寄稿を読むと、住宅について多少の不便や部分的な改善の余地を指摘しているものの、総体的には満足している様子がうかがえる。そして皆一様に、環境の良さを挙げている。「移転以来子供の血色が目立って好くなって来た事と、子供の遊び方が自然に親しむようになった事」を喜ぶ感想や、日あたりの良さを強調して「正に『太陽の街』である」と称える声からは、郊外での生活を謳歌する、サラリーマン家庭の姿が浮かび上がってくる。
  
 設計条件の甲種と乙種に触れられているが、これまでご紹介してきた3邸のうち下落合の2邸が甲種応募、上落合の1邸が乙種応募となっている。
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 さて、『朝日住宅図案集』の巻末には、当時の家を建てる際の注意事項が触れられている。「新に家を建てる方々に」と題された建築家・中村傳治による一文では、自宅建設に関する方法として次の3つのケースが取り上げられている。
 ①建てる方が自身で設計をやる事
 ②面倒だといはれる方には全然白紙で建築士に依頼する
 ③多数の出来合品の中から選定する法

 今日的な状況から、住宅の建て方(購入のしかた)を考えるとが多く、は稀になっているのではないだろうか。は、今日でいえば建売り住宅を選んで購入することであり、もっとも経済的かもしれない。は、自身で家の構造やデザイン、間取り、材料などをある程度想定してこしらえ、住宅建築会社に所属する建築家と打ち合わせを重ねながら、段階的に図面を起こしていくやり方だろう。もっとも、構造的に無理な点や建築力学的に脆弱な箇所は、プロの設計士が指摘してくれるので完全な自作とはいえないが、オリジナルの設計は随所に残すことができる。
 3つの方法で、もっとも高価で時間のかかるのはだろうか。自身の気に入った建築家に依頼し、自身を含む家族の生活環境や趣味、暮らしの習慣、主張などを深く理解してもらいつつ、どのような家に住むのが快適かを、建築家の側から何案かプレゼンテーションしてもらう方法だ。そのためには、建築家と最低でも6ヶ月は親しくすごすことで、自身の家庭や家族を理解してもらう必要があるとしている。「技師と家庭とが隔意なき親類づきあひ」をし、家庭の諸事情を建築家が十分に理解したうえで、初めて設計図面を起こすことになる。
 同書では、上記3つの自宅建設方法のうちを推奨している。ただし、自分で設計するとはいえ、近くの工務店に図面を持ちこんですぐに大工が建てはじめる……という手法ではなく、プロの建築家なり設計士に検証してもらうのが前提だ。
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 同書の、中村傳治「新に家を建てる方々に」から引用してみよう。
  
 他の建築と違ひ住宅許りは建てる方が自から設計するのに限る。最も己を知る者は己である。家庭の内容、家風、趣味、是等は住宅建築の最要素である。此要素を知悉しないでは「己れの住宅」は出来る筈がない。自分で設計するに限るといふのはこゝである。然し設計には相当の予備知識が必要である。私は親戚や友人からよく住宅の設計を頼まれる。其場合いつも私の信頼する住宅に関する書籍一二を推薦して、どうか奥様と一処によく之を勉強して頂きたいといふ。其予後知識を得た上で御自分でプランをやつて御覧なさいといふ。出来たものを見ると可なり滑稽なものもあるが、少くも其家庭独特の主張が強く太く画かれてゐる。構造の事など御構なしでやられるのであるから、技術家から見たら問題にならない様な点は勿論あるが、少くとも其家庭の趣味主張は是れ以上他人には窺はれない作品が出来る。私は之を原石として之に磨きを掛ける。建坪の倹約や、不合理な柱の位置やらを訂正し、何とか其主張を破壊せず、経済的にもなる様にと漕ぎつける。是で初めて建てる方もどうやら満足する様である。
  
 のケースは、建築家ないしは住宅会社所属の設計士に、図面をブラシュアップしてもらう必要があるものの、なにもない白紙状態からの設計ではないので、よりは廉価な設計コストで済むだろう。
 また、仕事が多忙でなかなかまとまった時間の取れない人には、むしろ経済的なを推奨している。その場合は、家族で多くの住宅(や図面資料)を事前に見て歩き、できるだけ全員が気に入るような家(設計図)を選ぶことだと書いている。そうすれば、①②に比べてムダのない効率的な住宅選びができ、また経済的にも安価に家を手に入れることができるとしている。
 なお、①②の注意点として、ようやく設計図ができあがったあと、工務店や住宅会社へ見積りをとってみたら、「高価で建てられない」ことが判明して建築をあきらめるケースを挙げている。中村傳治自身も、設計依頼者が「こんなにかかるとは思わなかった」といって、建設を断念する事例をいくつか見ているのだろう。今日では、まず家を建てる際に総予算をある程度想定してから、住宅会社へ相見積もりをとるのがあたりまえとなっているが、当時はそのような習慣が希薄だったものだろうか。このような事態を回避するためには、「故に此場合は其技師兼請負業者の人格の如何が唯一の基本になつて来る」として、誠実な業者を選定するよう注意を喚起している。
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 でも、生涯に何度も取り引きをする業者でない以上、素人がそれを見きわめるのはかなり難しかっただろう。郊外住宅ブームを当てこんだ、悪質な詐欺まがいの会社も暗躍していたのかもしれない。予算を明確に2種類へと限定した、東京朝日新聞社による住宅設計コンペは、次世代の新しい「日本住宅」の姿を模索するのと同時に、ブームにのって不当な価格で住宅を建てている業者を、排除する意味合いも含まれていたのかもしれない。

◆写真上:『朝日住宅図案集』に収録された、設計コンペの1号型住宅。1号型から16号型は、実際に成城学園駅の西側に建設され販売されている。
◆写真中上は2号型住宅と3号型住宅、および同住宅の子供室。は、1948年(昭和23)に撮影された成城学園駅近くの「朝日住宅地」。で囲んだ住宅が、1930年(昭和5)に建設された1号型~16号型までの朝日住宅。
◆写真中下上左は、1930年(昭和5)に成城学園へ実際に建てた住宅を撮影した『朝日住宅写真集』。上右は、2012年(平成24)に世田谷美術館で開催された「都市から郊外へ―1930年代の東京―」展図録。は、朝日住宅と同じころに建てられたとみられる現存する下落合の邸。は、4号型住宅。
◆写真下:5号型住宅()と、同邸の子供室()。は、昭和初期に建てられたとみられる下落合の邸のひとつだが、すでに解体されて現存しない。


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立ち小便をチェックされる中村武志。 [気になる下落合]

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 白戸三平の『忍者武芸帖』や『カムイ伝』は知っていても、中村武志の「目白三平」シリーズを知っている人は少ないだろう。わたしも古書店や「落合新聞」で彼の文章を読むまでは、まったく知らなかった。「目白三平」シリーズは、下落合1丁目527番地(現・下落合3丁目)に住んだ中村武志が書いた、国鉄に勤務する公務員(サラリーマン)を主人公とする一連の小説だ。「目白三平」は架空の人物だが、国鉄に勤めるサラリーマンという設定が中村武志のリアルな生活とまったく同じなので、読者は作品を私小説的に解釈したのだろう、彼のペンネームのように捉えられてしまったらしい。
 また、1955年(昭和30)に制作された映画『サラリーマン目白三平』(東映)などと、1960年(昭和35)の映画『サラリーマン目白三平・亭主のため息の巻』(東宝)などが次々と上映されて、よけいに中村武志=目白三平のように思われてしまったようだ。“サラリーマン小説”というと、戦後は源氏鶏太が有名だけれど、戦前は1926年(大正15)に目白文化村Click!を舞台にしたとみられる、『文化村の喜劇』Click!を残した佐々木邦Click!が挙げられるだろうか。もっとも、わたしは源氏鶏太の作品をほとんど読んだことがない。
 中村武志が住んでいた下落合1丁目527番地は、目白通りの北側に張り出した下落合エリアの一画であり、目白聖公会Click!の東隣りにあたる敷地だ。北側の道路から、南へ入る路地の突き当たり右手が中村邸だった。彼がいつごろから下落合に住んでいたのかは不明だが、1963年(昭和38)に住宅協会が発行した「東京都全住宅案内帳」には、同地番に「中村」宅を見つけることができる。少なくとも国鉄へ勤務しはじめた、1926年(大正15)以前の学生時代から東京にいたと思われ、昭和初期には内田百閒Click!に師事したことでも知られている。ちなみに百閒の死後は、彼が著作権管理者を務めていた。
 1963年(昭和38)1月27日発行の「落合新聞」Click!に、中村武志の随筆『架空の人物』が掲載されている。近くの店へ、自宅から電話で商品を注文し「中村ですが…」と名乗っても、なかなかどこの「中村」だか理解されない場面が登場する。店の主人が、店員に「中村」邸の場所を確認している場面だ。以下、『架空の人物』から引用してみよう。
  
 (前略)ご主人が大声でそこにいる店の人にたずねているのが、受話器を通して聞えて来た。/「K病院の近くの中村さんなら目白三平さんですよ。よく知ってます」店の人の返事もかすかに聞えた。/「なんだ、そうか。目白三平さんなのか。それならそうとはじめから目白さんだと名乗ってくれればよかったんだ」/ご主人はそう呟いてから、「はい、分りました。目白三平さんですね。すぐお届けいたします」と言った。/“いや、ご主人よ。私は目白三平ではありませんよ。目白三平は、私のささやかな文章の中に登場する架空の人物ですからね。架空の人物が、かりそめにも、お宅から物を買うわけにはいきませんからね”と呟いた。
  
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 どうやら、中村武志名で書いた小説に登場する主人公の名前が、いつの間にかペンネームのように浸透してしまっていたらしい。下落合の最寄り駅のひとつが山手線・目白駅Click!だし、目白の町名に目白通りと周囲に「目白」が多いので、よけいに憶えやすかったのだろうか。中村武志自身も、毎日通勤で利用している国鉄の最寄りの駅名から、主人公の名前を考案しているのだろう。
 中村武志は、夜の帰宅途中で立ち小便をするのが好きだったらしい。ちょっと困った趣味だが、それを近所の人に目撃されている。以下、つづけて引用してみよう。
  
 家の近くの両側が板塀になっている暗い横町で、私は時々立小便をする。なんとも恥かしい次第だが、その晩も例によってそれをしていたら、後を通った二人連れの一人が、/「あすこで立小便をしているのが目白三平だよ」/と、相手にささやいているのが耳にはいった。/“これはいかん。今後はもううかつに立小便もできないぞ”と、私は自戒した。
  
 「架空の人物」が立ち小便をしているのだから、「私が、つまり中村武志がしているのを目撃されたわけじゃないんだからな……」と、あっさり開き直ればいいと思うのだが、そこまでは自身と小説の主人公とを割り切れなかったようだ。
 近くの中華そば屋へ入っても、「目白三平」がつきまとうことになる。注文したメニューにまで、あれこれ周囲が“批評”するのを耳にしている。ちなみに、書かれている「支那ソバ屋」とは、このエッセイと同年に作成された「東京都全住宅案内帳」(住宅協会)に採取されている、目白聖公会から3軒西隣りにある「中華ソバ丸長」のことだろう。ラーメン店「丸長」は、現在も当時と変わらずに営業をつづけている。
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 (前略)私は近所の支那ソバ屋で、四十円のラーメンを食べていた。隣りのテーブルには、三人連れの青年がいた。そこへは五目ソバが運ばれて来た。彼らは、私のほうをちらっと見てから、ひそひそ話しだした。聞くとも、聞いていると、/「目白三平は、ただのラーメンじゃないか。五目ソバくらい食べてもよさそうだね」/「いや、彼はとてもケチなんだそうだ。いつでも四十円のラーメンにきまっているんだ」/「そうか。そいつは知らなかったね。そんな男なのかね。長い間しがないサラリーマンをやっていると、段々ケチになって、少しくらい金がはいっても、なかなか使えないのだろうね」と、それぞれ三人が言った。/私は急いでラーメンを食べ終ると、慌ててそこを出た。そして、/“三人の青年諸君よ。諸君の言う通り、私はケチな男ですが、ラーメンとは無関係ですよ。とにかく、私はただのラーメンが好きなんですからね。チャシューやいろいろなものが載っているのは、もともと嫌いなんです。/立小便まで自由にさせて貰いたいなどとは申しませんが、せめてラーメンくらいはゆっくり食べさせて下さいよ。私は誰にも目をつけられずに、ひっそりと暮らしたいのです。それに、私は目白三平じゃないのです。国鉄職員の中村君と、架空の人物とを混同しないでください。(後略)”
  
 そもそも小説の主人公を考案する際、自分とまったく同じ日本国有鉄道の職員にしてしまったのが、後年までずっと悩まされることになった、大まちがいのもとだろう。せめて国鉄ではなく、民間の西武や小田急、京王ぐらいにしておけば、少しは読者の受けとめ方も変わっていたかもしれない。
 公務員と文筆業の二足のわらじをはく中村武志に、周囲の人々がみんな好意的な眼差しを向けていた……とは、いま以上に考えにくい時代だ。いつの時代でも、公務員に対する風当たりは強いが、サラリーマンとは表現しつつも運輸省から給料をもらっていた中村武志と、映画化もされた「目白三平」シリーズで得る副収入とを考え合わせると、周囲の人々があえて本名ではなく「目白三平」と呼んで半ば揶揄していたのではないか……と、ややうがった見方もしたくなる。自宅のまわりで、近所の人たちからやたら注目されているような気配にも、そのような厳しい眼差しを感じてしまうのだ。
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 最近、わたしは「落合さん」と呼ばれてビックリすることがある。「落合道人」Click!(おちあいどうじん)はサイト名であって、わたしの名前ではない。メールでも「落合様」などと書かれたものがとどくと、いちいち「ちがうんです」と訂正している。中村武志が近くの駅名をとって小説の主人公を「目白」としたように、「落合」は落合地域のことであり「道人」は散歩をする人間という意味だ。「“おちあいみちと”さんはケチだから、コーヒー1杯で2時間はねばりやがんだぜ」……などと、近所の人たちからいわれないよう気をつけたい。いわんや、立ち小便などもってのほかだ。

◆写真上:中村武志邸が建っていた、下落合1丁目527番地界隈の現状。目白聖公会の北東側には新たな住宅が密に建てられ、中村邸へと入る路地自体が消滅している。
◆写真中上は、1937年(昭和12)の「火保図」にみる下落合1丁目527番地界隈。この一帯は空襲からも焼け残り、戦後もそのままの家並みが残っていた。1963年(昭和38)の「東京都全住宅案内帳」()と、同年の空中写真()にみる中村武志邸。
◆写真中下上左は、1957年(昭和32)に出版された中村武志『目白三平の共稼ぎ』(新潮社)。上右は、1970年(昭和45)出版の同『目白三平 実益パリ案内』(千趣会)。同書の表紙には中村武志の名前がなく、「目白三平」が著者名のようになっている。は、1960年(昭和35)制作の映画『サラリーマン目白三平・女房の顔の巻』(東宝)。
◆写真下:「落合新聞」1963年(昭和38)1月27日号に掲載の中村武志『架空の人物』。


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アパート「目白会館」はふたつあった? [気になる下落合]

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 これまで、第三文化村Click!の下落合1470番地に建っていた「目白会館・文化アパート」Click!については、1931年(昭和6)に同アパートへ引っ越してきた作家・矢田津世子Click!や、下落合623番地にあった自宅Click!の基礎がシロアリにやられて土台の再構築のため一時的に仮住まいをしていた洋画家・曾宮一念Click!とその家族たち、独立美術協会の洋画家・本多京Click!、落合地域を転々としていた作家・武田麟太郎Click!などとともにご紹介してきた。
 そして、もうひとり龍膽寺雄(龍胆寺雄/りゅうたんじゆう)が「目白会館」に住んでいたことを、先日のコメント欄でmoicafeさんClick!よりご教示いただいた。さっそく教えていただいた、1979年(昭和54)に昭和書院から出版されている龍膽寺雄『人生遊戯派』を参照してみた。同書の中で、「目白会館」という名称は随所に登場するが、同アパートの様子が詳しく記されているのは「私をとりまく愛情」と「高円寺時代」の2編だ。龍膽寺雄が下落合に住んだのは、「高円寺時代」によれば1928年(昭和3)6月から1930年(昭和5)6月ごろまでの2年間ということになる。
 すなわち、1928年(昭和3)ごろといえば、第三文化村の「目白会館・文化アパート」は竣工して間もないできたてのころだと思われ、龍膽寺雄は新築のアパートに引っ越していなければおかしなことになる。ところが、龍膽寺が借りた部屋には先住者の遺物があって、彼が入居したのはそのあとなのは文章からも明らかだ。また、彼は「目白会館」のことを民営アパートとしては、東京で「確か最初のもの」と書いている。1928年(昭和3)ごろに建設されたとみられる、第三文化村の「目白会館・文化アパート」が東京初の民営アパートだったとは考えられない。民営(個人経営)のアパートは、大正期から東京府内ですでに建設されていたはずだからだ。換言すれば、そこそこ“歴史”が感じられるアパートに龍膽寺は入居した……と解釈することもできる。
 第三文化村に建っていた目白会館・文化アパートと、龍膽寺雄が書く「目白会館」の様子が一致しないのだ。以下、『人生遊戯派』から引用してみよう。
  
 目白会館は、東京で民営のアパートとしては、確か最初のもので、かれこれ二十室はあるコンクリートの二階建てだった。共通の応接間が二階の中央にあり、その隣りの、六畳と四畳半位の控えの間つきの二間を、私は借りた。/階下に広い食堂があり、別に、共同浴室や玉突き室、麻雀室が付属し、二階の屋上は庭園風になっていた。部屋が満員になったので、二階の中央の共通の応接室を、そのまま洋間として、その頃目白の川村女学院で絵の先生をしていた洋画家の佐藤文雄が、そこに住みついてしまっていた。私の処女出版の、改造社版『アパアトの女たちと僕と』に、美しい装釘をしてくれた。/この目白会館の管理人がも下妻の旧藩主の血筋にあたる井上某だったのは、名乗りあってそのことを知って驚いた。一万石の殿様の裔だから、子爵のワケだったが、窮乏し零落して、下館藩主の石川のように、華族の礼遇を停止されていた。先代のほうの、柳原家から妻を迎えて、一緒に目白会館の粗末な管理人室に所帯を持って住んでいたが、こちらは、柳原二位局の家系だから、天皇家の側近のはずで、有名な柳原白蓮なども、近い血筋のワケだった。いかにもそういう家柄のお姫さまといった、気品のある、弱々しい感じの美しい女性だった。
  
 もし、龍膽寺雄の記憶に誤りや錯誤がないとすれば、これは第三文化村西端の下落合1470番地に建っていた、のちに矢田津世子や武田麟太郎、本多京たちが住み、また曾宮一念が仮住まいすることになる目白会館・文化アパートのことではなさそうだ。どこか、同じ下落合エリアの近くにあった別の「目白会館」のことだろう。
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 まず、第三文化村の目白会館は、1938年(昭和13)作成の「火災保険図」(火保図)によれば、屋根はスレート葺きで外壁が防火仕様(おそらくモルタル塗り)の木造2階建てのアパートで、鉄筋コンクリート建築ではない。また、空中写真にとらえられた目白会館を観察すると、やや鋭角に尖がった三角屋根の造りをしており、その傾斜面には2階の各部屋の窓が突きだした屋根窓(ドーマー)が並び、どう見ても屋上庭園は存在していない。さらに、貸部屋が20室(ワンルームではなく6畳+4畳半の2室構成の部屋もあった)のほか、共有部分の応接室やホール、食堂、キッチン、各種ゲーム室、浴室などを入れて想定すると、第三文化村に建っていた目白会館よりも少し大きめな建物を連想してしまう。下落合1470番地の目白会館と、龍膽寺雄が住んでいた「目白会館」には、少なからぬ齟齬をおぼえてしまうのだ。
 つづけて、『人生遊戯派』の「私をとりまく愛情」から引用してみよう。
  
 目白会館で最初に書いた作品が、『アパアトの女たちと僕と』だった。これらはもちろんフィクションだが、慶応(ママ)の医学部の学生が主人公で、その学生々活は、経験した通りのことを書いた。友人の藤井真琴などがモデルになった。(中略) 目白会館は、下落合にあったので、そこから目白通りを抜けて山手線の上を通り、学習院や目白女子大の前を通って目白台の坂を降りると、そこに佐藤春夫の家があるので、一週間に一遍は、佐藤春夫の家を訪ねた。/佐藤春夫は『放浪時代』のような作品を十篇書いたら、君は文豪だョ、と褒めてくれたが、『アパアトの女たちと僕と』のほうは、谷崎潤一郎ほどは買ってくれなかった。
  
 これを読むと、どう見ても「目白会館」は下落合の町内に建っていなければならず、目白通りを東へと歩き「目白台の坂」へ、すなわち広大な旧・山県有朋邸(元・藤田邸→現・椿山荘Click!)前から新たに造成されて乗合自動車(バス)Click!の走る通りとなっていた、幅の広い新・目白坂へと抜ける様子が描かれている。佐藤春夫Click!の家は、下落合側から向かって新・目白坂を左へ折れた突き当たり、小石川区関口町207番地(現・文京区関口3丁目)に建っていたのは、こちらでも何度かご紹介Click!済みだ。
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 龍膽寺雄が、「目白会館」に住んでいたときに執筆した『アパアトの女たちと僕と』は、残念ながら「目白会館」と思われるアパートの描写がなく、新宿三越のビルがすぐ近くに見とおせる、新宿通りの裏手に建っていたアパートが舞台となっている。
 さて、コンクリート造りで屋上庭園のある2階建てのアパートで、2階の中央部分にある応接間には洋画家の佐藤文雄が住みつき、目白通りもほど近い龍膽寺雄が住んでいた「目白会館」は、はたして下落合のどこにあったのだろうか? もう少し同書の、今度は「高円寺時代」から引用してみよう。
  
 目白会館では、共通の応接間は、止宿人が多過ぎてはみ出た絵描きの佐藤文雄が住みついて占領したので、なくなってしまったが、その他、玉突き場や麻雀荘があり、食堂も浴室もいっしょなので、よく気が合って、西瓜が盛んに出廻る頃には、西瓜を喰う会とか、八月の十五夜には、月見の会というようなものを、屋上庭園で催したりして、色々楽しい行事があって、管理人夫妻も、アパートの使用人たちといっしょにそれに加わった。
  
 ただし、龍膽寺雄の記憶が複数のアパートメントの思い出と錯綜しており、またコンクリート造りと見えていた意匠が、実はラス貼りモルタル塗りの外壁だったりすると、屋上庭園の記憶を除けば下落合1470番地に建っていた目白会館・文化アパートへ、限りなく近づくことになる。
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 だが、こちらでも以前にご紹介した、目白駅近くの女性が集う文化アパートの写真Click!にも見られるとおり、当時は「目白」を冠した同様の文化アパートが、各大学も近い下落合界隈にはいくつか存在していたと思われる。だから、コンクリート造り(セメント混じりのラス貼りモルタル造りのこと?)で2階建ての、おそらく大正後半に建てられた東京初の民間アパート「目白会館」が存在していても、なんら不自然ではないのだが……。

◆写真上:下落合1470番地に建っていた、目白会館・文化アパート跡の現状。
◆写真中上は、日米開戦直前の1941年(昭和16)の斜めフカンから取られた空中写真にみる目白会館。三角の屋根に、いくつかの屋根窓(ドーマー)が確認できる。は、第1次山手空襲直前の1945年(昭和20)4月2日にB29偵察機から撮影された同館。は、第2次山手空襲直前の同年5月17日に撮影された同館。目白会館あたりを境に、いまだ第三文化村の家々が焼け残っているのが確認できる。
◆写真中下は、1935年(昭和10)作成の「淀橋区詳細図」に採取された目白会館。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる目白会館。同図の凡例によれば、「スレート葺き屋根で防火対策済みの木造住宅」ということになる。は、昭和初期に撮影された龍膽寺雄と正子(魔子)夫人。
◆写真下上左は、1930年(昭和5)に下落合で書かれた龍膽寺雄『アパアトの女たちと僕と』(改造社)で、装丁は「目白会館」の応接間で暮らしていた洋画家・佐藤文雄。上右は、1979年(昭和54)出版の龍膽寺雄『人生遊戯派』(昭和書院)。は、昭和初期に神田区へ建設された民間アパート「西神田アパート」。鉄筋コンクリート建築のように見えるが、防火仕様のラス貼りモルタル塗装仕上げによる木造2階建てアパート。は、管理人受付から奥へと廊下がつづく玄関ホール。


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生涯を賭けた大賀ハスの種1粒。 [気になる下落合]

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 1951年(昭和26)の3月31日、そろそろあたりが黄昏の雰囲気を漂わせはじめた午後5時ごろ、千葉市の東京大学検見川厚生農場内にあった「落合遺跡」で、当時、中学3年生の西野真理子という生徒が、手のひらに1粒の種子らしいものを載せて大賀一郎Click!のもとへ見せにきた。これが、3000年前の縄文時代にまでさかのぼる、「古代ハス(大賀ハス)」発見の瞬間だった。
 「落合遺跡」の発掘には、近くの花園中学校の生徒たちや建設会社、千葉新聞社、千葉県社会教育課、そして遺跡を抱える東京大学農学部などが協力し、大がかりな調査がスタートしていた。すでに「落合遺跡」からは、縄文期の丸木舟などの遺物が出土していたが、今回の発掘調査は縄文時代の埋蔵文化財を掘り出すのが目的ではなかった。地中に埋もれた、植物の種子を発見しようという試みだった。
 発掘に許された期間は、同年の3月3日から3月31日までのわずか1ヶ月にすぎなかった。だが、関連機関や地域の全面協力にもかかわらず、発掘調査は非常に難航した。「落合遺跡」は、縄文期の丸木舟が出土するような低地にあり、しかも花見川が近く湧水が豊富な地下水脈の上にある遺跡なのだろう、雨が降るとすぐに水がたまって「池」になってしまうからだ。発掘は、常に地下水をポンプで汲み上げながら行われた。そして、「池」の底から掘り出した濡れた土を、少しずつふるいにかけながら種子を探す、気が遠くなるような作業だった。
 3月も終わりになり、「もうやめようや」という声があちこちから聞こえはじめた発掘の最終日、3月31日の日没ぎりぎりになって、西野真理子が「先生、こんなものが見つかりました」と差し出したのが、大賀一郎が必死に探し求めていた古代ハスの種子だったのだ。1粒のハスの種子を探すのに、2,000人の人々が協力し、総予算が当時のおカネでのべ50万円(現代の価値に換算すると1,500万円ほど)もかかっていた。大賀一郎は、自身の財産をほとんど使い果たして、文字どおり破産寸前だった。
 さっそく、協力してくれた当時の東大総長・南原繁Click!に報告すると、「なんぼかかった?」「知らぬ。相当、何万円だ」「いやあ、これ一つ何万円か」という会話が交わされている。下落合702番地に住んでいた南原繁は、帝大における大賀一郎の後輩であると同時に、柏木(現・北新宿1丁目)に住む内村鑑三Click!が主宰した「聖書研究会」Click!の後輩でもあった。大賀一郎の同級生には、下落合1655番地に住んだ安倍能成Click!がいる。戦前、上落合467番地に住んでいた大賀一郎は、近くの下落合に住む旧友たちと交流があったのだろう。
 「落合遺跡」の発掘調査は、ハスの種子が1粒見つかったことにより2週間延長され、つごう3粒の種子が地下6mの土中から発見されている。当初は、地層の様子や土中の温度から約2000年前の種子とされ、「大賀ハス」と名づけられた。ところが、ハスの種子と同じ場所から出土している丸木舟の破片を、米国シカゴ大学原子力研究所へ送って検査したところ、放射性同位元素C14の半減期から換算して3052年前ないしは3277年前の遺物だということが判明した。つまり、同じ地層位置から出土した種子は、約3000年前のものだということが推定された。
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 1965年(昭和40)に、花園中学校で開催された「千葉市花園中学校における『大賀ハス』発掘記念碑完成記念講演」から、発掘直後の様子を引用してみよう。
  
 この三粒が出たときに、私は、ほんとうにはらはらと泣きました。ほんとうに金も使い、労役を使い、もうこれ以上、人間というのは手が出ないんです。(中略) そのときに、一粒出たんです。ああ、この一つ。もしもこれが世に出たらば、こいつは、世界じゅうを震動させる。ほんとうに私は神様に感謝しました。ああ、いま神様は、私に恵みをさずけてくれた。この一つの実に私の全身、全霊を捧げた。そのとき、私は、七十四でございました。ああ、この実一つ。ほんとうに私はこれに一生を捧げたんだ。しかし、この実が出たために、この千葉県検見川は、全世界にその名を知られるだろう。見てみろ。検見川は、全世界に有名になる。この一つのために、と思いました。/それから、ある人が言いました。「これ、死んでるか、生きてるかね」「生きているさ。花は赤いんだよ」「わかりますか」「わかるさ。それがわからぬで、どうする」と言ったんですが、果たして、芽が出ました。花は赤く咲きました。二年たって。今度は、咲くというと、大へんなんです。写真を写しまして、アメリカにいって『ライフ』という雑誌にのりました。全世界にこれが広がりました。
  
 大賀一郎は、内村鑑三の「聖書研究会」へ参加していたことからもうかがわれるように、歌子夫人ともども生涯を敬虔なクリスチャンとしてすごしている。歌子夫人との結婚もまた、内村鑑三が紹介してくれたことによる。発掘から1年後、翌1952年(昭和28)7月18日には3000年前の種子から赤い花が咲き、そのニュースは世界じゅうに配信された。
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 大賀一郎が、上落合467番地の屋敷から府中へ転居したのは戦災がきっかけだった。上落合の家は大きく、庭には広い池もいくつかあったので多種多様なハスを栽培できた。ところが、3000年前の大賀ハスを発見するのに私財のほとんどをなげうったため、府中の家はかなり手狭になっていた。ハスに関するさまざまな実証実験を試みるには、広い池がいくつも必要になる。そこで、近隣の家々の庭へ池を掘らせてもらい、そこに各地のハスを栽培している。1957年(昭和32)に発行された「朝の思想」9月号収録の、大賀一郎『垣根を越えたハスの新池』から引用してみよう。
  
 戦災前、東京の上落合にいたときには、もう少し屋敷も広くあったので、少しは大きな池もつくっていたし、ハスの鉢も五十個ばかりおき、そこでいろいろな実験研究をしていたが、戦災後、この府中にきてからは、庭が小さくなってしまって、しぜん、あまりわがままもいえない自分になったが、私はせめていまあるくらいの池がもう二、三ほしいと思っていた。/ところが、いよいよせっぱつまったときがきた。それは、石川県金沢の持明院にあって、大正十三年二月以来、天然記念物となっている有名な妙蓮の研究をはじめるために、どうしても、もう二、三の池がほしくなったからであるが、どうすることもできないので、いくたびかためらったすえ、ある日曜日の午後、思いきって垣根をへだてたお隣りの富田さんに、重い足をはこんだのである。
  
 上落合の大賀邸が炎上したのは、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲だったろう。空襲に罹災する直前、大賀一郎・歌子夫妻は上落合を離れて疎開している。
 府中での池の「拡張」は、隣家の「富田さん」ばかりでなく、大賀邸の向かいにあたる「向野さん」でも池を掘ってくれることになり、ハスへの陽当たりを考えて屋敷林の伐採までしてくれることになったらしい。
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 現在、3000年前の大賀ハスは全国各地で栽培されているが、近くでは上野の不忍池や府中の郷土の森公園、立川の昭和記念公園、町田の薬師池公園、少し離れて鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮源平池、千葉の千葉公園、埼玉の行田古代蓮の里などが有名だ。上落合は1931年(昭和6)以来、大賀一郎が長く住んだ土地がらなので、どこかの池に大賀ハスが欲しいような気がする。水底がコンクリートで固められていない、ハスの栽培に適した池が、はたして上落合のどこかにあっただろうか?

◆写真上:千葉市の千葉公園に咲く、3000年前の大賀ハス(古代ハス)。
◆写真中上は、大賀ハスが栽培されている鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の源平池。下左は、1999年(平成11)に日本図書センターから出版された大賀一郎『ハスと共に六十年』。下右は、千葉市の大賀ハスにちなんだゆるキャラ「ちはなちゃん」。
◆写真中下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる大賀一郎邸。は、B29偵察機による空襲直前の1945年(昭和20)4月2日に撮影された大賀邸。
◆写真下は善福寺公園のハスとコイで、は上野不忍池の蓮池。大賀ハスが栽培されているのは不忍池のほうで、毎年夏になると「観蓮会」が開かれている。


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街角や風景を描く佐多稲子の表現力。 [気になるエトセトラ]

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 佐多稲子Click!の文章を読んでいると、その街の様子の描き方や地形描写、風情や自然の写し方に舌を巻くことが何度もある。同じく、地形や街の描写で印象に残る作家に大岡昇平Click!がいるけれど、大岡が少しマニアックに古い地勢や地質・地層まで掘り下げて描くため(ときに新生代までさかのぼることがある)、現状の日常に拡がる風情と土地の様子、そしてなによりも書かれる物語自体から若干の乖離感が生まれるのに対し、佐多の文章は非常に的確かつ「ちょうどいい」表現なのだ。それでいて、地域の描き方に不足を感じさせない、類まれな描写力をもった作家だと思う。
 旧・神田上水(1966年より神田川)をはさみ、下落合とは対岸にあたる戸塚町(現・高田馬場)側に拡がる、北向きの河岸段丘斜面を描いた文章を、1955年(昭和30)に筑摩書房から出版された『現代日本文学全集』第39巻所収の、佐多稲子『私の東京地図』から引用してみよう。ちなみに、文中で「吉之助」と書かれているのは、治安維持法違反で服役していた豊多摩刑務所Click!から出獄したばかりの、夫の窪川鶴次郎Click!のことだ。
  
 吉之助が刑務所から出て来ると間もなく私たちは、小学校上の崖ぎはの家から、小滝橋よりに移転してゐた。やつぱり大通りの北側で通りからちよつと入つた路地の奥であつた。この辺りは、小滝橋から戸塚二丁目のロータリー近くまで、神田川の流れる落合の窪地へ向つて横に長く丘をなしてゐる地形なので、そのまん中を一本広い道路が通つてしまふと、両側とも奥ゆきのない住宅地であつたが、暫くここに住んでゐるうちに、この土地の古い姿が、その後に建つた小さい借家の間に自づと見えてくるのであつた。その幹の周囲は二人で抱へる程もある大欅が屋敷の二方を取り巻いてゐるのは、この辺りの旧家であつた。同じ苗字の酒屋が大欅の邸からすぐの近さで大通りにあつたのも、他の酒屋とはちがつてどつしりとした家造りであつた。そのとなりの煙草屋もやつぱり同じ苗字で家作も持つてゐるし、その向ひの八百屋も同じ身内だといふふうである。
  
 佐多稲子が、「小学校上の崖ぎはの家」と書いているのが、戸塚第三小学校の坂上にあたる戸塚4丁目593番地(上戸塚593番地)にあった借家Click!のことだ。その次に、住所が不明だが「大通りの北側」、つまり同じ早稲田通りの北側である戸塚4丁目(現・高田馬場4丁目)に引きつづき住んでいることになる。
 この文章を読んだとたん、おそらく現・高田馬場4丁目の同地域に古くからお住まいの方なら、すぐに当時の情景が鮮やかによみがえってくるだろう。写真やイラストでしか知らないわたしでさえ、現在の街並みや地勢と重ね合わせてリアルに想像することができる。大ケヤキのある屋敷は、このあたり一帯の地主である戸塚4丁目589番地の中村兼次郎邸であり、酒屋と煙草屋は戸塚4丁目767番地の「升本酒店(中村商店)」と「中村煙草店」だ。向かいの青物屋は、中村家の親戚とみられる戸塚4丁目591番地の「森田屋青果店」のことだ。
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 ムダな描写や、不要な記述がひとつも存在しない、情景描写のお手本のような文章表現だろう。前後のストーリーに重ね合わせると、ジグソーパズルのピースようにピタリとこの位置にあてはまる。ふと、1930年代の戸塚地域を描いた濱田煕Click!の挿画で、佐多稲子の『私の東京地図』を読んでみたい……という妄想がふくらむ。おそらく、永井荷風Click!木村荘八Click!のコンビネーションのような、出版史に残る本ができあがるのではないだろうか。
 いや、戸塚地域に限らず『私の東京地図』で描かれる街々(彼女が若いころに住んでいた下町Click!方面が多いのだが)も、生きいきとした街並みや人々の様子が記録されている。おそらく、とてつもない努力を重ねて、彼女はこのような作文技術を獲得しているのだろう。わたしも、足もとにも及ばないながら見習いたい表現技術だ。
 このころの佐多稲子は、毎日「転向」という言葉と向き合っていた。思想犯として豊多摩刑務所にいた夫が出獄できたのは、「転向」して思想を棄てたからではないかという疑念を抱えながら、面と向かって夫には訊けずに日々をすごしている。上落合に住む中野重治Click!の妹・中野鈴子Click!と小滝橋を歩きながら、「転向」について考えつづける。再び、『私の東京地図』から引用してみよう。
  
 私はあるとき、吉之助(鶴次郎)と同じに検挙されて前後して出獄してきた友達の妹と二人で小滝橋のきはを歩いてゐた。/彼女は兄のことを人に指摘されたのが辛い、と言つて、悲しい顔にうつむいて、口ごもりがちに言つた。/「兄は転向したのでせうか。だけど、刑務所を出るのにそれがみんな必要といふのなら、牧瀬(窪川)さんも、やつぱり転向をなさつたのですわね。」と、吉之助のことを言つた。/「転向?」/私は視線のおき場に迷ふやうにそれを聞いた。小林に供へた花を分けて差入れた私たちの気持は失はれてゐるわけではない。が、出獄してきた人にそれをただすことを私たちは忘れてゐる、といふよりは、疑ひを持たないでゐたのである。夫婦の間では、それは主観で語られる。また近しい周囲でもその主観を認め合つた。が、しかし、政府の宣伝に使はれたこの言葉は、お互ひ同士の胸に、しみとなつて広がつてゆき、逡巡させた。(カッコ内引用者註)
  
 「小林に供へられた花」とは、小林多喜二Click!の葬儀で供えられた花を分割して花束にし、豊多摩刑務所に「小林セキ」の名義で差し入れた、1933年(昭和8)2月下旬の出来事をさす。壺井栄Click!が、服役中の壺井繁治Click!へとどけたのも、佐多稲子らと相談して同時に行われていたことがわかる。
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 早く出獄して密かに非合法活動を継続したい人間も、合法的な抵抗をつづけるために“ウソも方便”で今後は政治活動をしないという文章に署名した人間も、またほんとうに従来の思想を棄てて釈放された人間も、ひとからげに「思想を棄てた転向者」として特高Click!は巷間へ宣伝しつづけていた。これにより、思想の中身を問わず政府へ反対の意思表示をつづける人々の間に疑心暗鬼を生じさせ、分裂・分断をはかるのがねらいだった。そして、1935年(昭和10)をすぎるころから、まるで「転向者」の本心を探る“踏み絵”のように、文章をなりわいとする人々は「従軍作家」として、前線へ次々と送られていった。
 この時期、佐多稲子は宮本百合子Click!とともに、同じく治安維持法違反で特高に逮捕・起訴されており、小さな子どもがいるので保釈されてはいたが、公判を抱えて裁判所へ通う身だった。同時に、夫の窪川鶴次郎が「仕事部屋」を借りて家を空けがちになり、浮気をしている様子がうかがわれた。佐多稲子が生涯において、もっとも精神的に不安定な時期だったのだろう。裁判所へ出かけると、支援のためにきてくれたのは柳瀬正夢Click!の「にこやかな顔」ひとりのみで、かんじんの夫は連れ添うどころか、公判の間際にあたふたと駆けこんでくるようなありさまだった。
 日米戦争がはじまった1941年(昭和16)12月8日以降、佐多稲子は上落合の友人たちが遊びにくれば深夜まで話しこんだ。
  
 「今に、米を喰はずに、ゴムを喰へ、と言ふだらう。」/「伊勢神宮に戦勝祈願をするやうな軍人だから、この戦争が起せたんだね。」/「今に、やられるから。」/「声が高くない?」/「群長などが、立聞きをするさうだからね。」/隣組はきびしくなつて、それに強制貯金などで私の組の長屋はいつも物議を起した。長屋の人々から投げられる目は、私の神経にこたへた。さういふ前後に、大通りにあつた時計会社は、どんどん増築して、この辺にたつた一つのコンクリートの大工場になつた。五銭コーヒーの店も通りに何軒も出来て、少年労働者や、若い娘たちの休息の場所になつた。戸塚キネマも改修して戸塚東宝に変つた。
  
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 「大通りにあつた時計工場」は、現在でもかたちを変えて営業をつづける高田馬場4丁目のシチズンプラザのことだ。「ゴム」どころか、配給される食糧も日々乏しくなり、「神頼み」ではじめた戦争で、完膚なきまでに叩きのめされる大日本帝国の破滅・滅亡は、すぐそこまで迫っていた。その直前、佐多稲子のいる戸塚一帯は二度にわたる山手空襲Click!で壊滅するのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:戸塚4丁目767番地にあった、中村商店(升本酒店)と中村煙草店の現状。
◆写真中上は、濱田煕の記憶画による中村商店(升本酒店)と中村煙草店。以下、イラストは1995年(平成7)発行の『戸塚第三小学校周辺の歴史』より。は、戸塚4丁目591番地にあった森田青果店。は、森田青果店跡の現状。
◆写真中下は、戸塚4丁目856番地にあったシチズン時計工場(戦時中は大日本時計株式会社と改称)。は、現在もシチズンプラザとして営業をつづける同所。は、戸塚3丁目154番地にあった戸塚東宝(旧・戸塚キネマClick!)。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる戸塚4丁目界隈。は、戦後の1948年(昭和23)の焼け跡写真にみる同書。シチズン時計工場はコンクリートで焼け残り、早稲田通りの南側の一画が空襲被害をまぬがれているのが見てとれる。は、戸塚4丁目589番地にあった中村兼次郎邸跡の現状。


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ソビエト政権への反乱を禁じる特高。 [気になるエトセトラ]

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 『詩戦行』を通じて、劇作家であり小説家でもある飯田豊二とかかわりができた秋山清Click!は、1930年(昭和5)の秋ごろから演劇の世界へと踏みこんでいる。飯田豊二が、アプトン・シンクレア原作の『ボストン』を築地小劇場で上演していたころだ。このころの秋山清は、東京朝日新聞社のエレベーターボーイを突然クビになり、飯田豊二の紹介で出版社に勤め出していた。
 『ボストン』を上演した解放劇場で、秋山は演劇業務の雑事全般を処理する庶務係のような仕事をしていた。演劇にはまったく興味のなかった彼が、それでも解放劇場に加わったのは少しでも仕事を増やして、生活を安定させるためだったのだろう。1930年(昭和5)の暮れには蓄えも尽き、母親とふたり暮らしの彼はほとんど進退がきわまった。そのとき、仕事をくれたのが飯田豊二だったのだ。
 解放劇場の『ボストン』は、1931年(昭和6)2月に上演されたが、秋山は飯田への義理立てからか、劇場の仕事や雑事を積極的に手伝っている。このとき、彼は渡米する直前だった晩年の竹久夢二Click!と知り合って交流し、のちに著すことになる評論「夢二」シリーズの素地を形成している。秋山清と竹久夢二では、どこか住む世界がまったくちがうように感じるのだが、彼は明治末の大逆事件を出発点とし漂泊する抒情画家のどこかに、アナーキズムの匂いを嗅ぎとったものだろうか。
 築地小劇場での『ボストン』の成功をうけ、解放劇場は革命後ソ連のクロンシュタットで起きた水兵たちの“反乱”をテーマに、次の上演企画を立てはじめた。解放劇場は、牛込区の区役所前にあった元・寄席の建物を借りて活動している。新たな演目の「クロンスタット」は、飯田豊二によって脚本の前半部がすでにできており、本読み稽古がスタートしていた。ところが、かんじんの飯田が次作の稽古と上演準備中に、突然、解放劇場を辞めてしまった。この飯田の辞任について、秋山は「身を引いた」としか書いていないが、おそらく表現路線をめぐる劇団の内部対立ではなかっただろうか。庶務係としての秋山には、どうしようもない経緯だったのだろう。
 支柱を失った解放劇場は動揺したが、次の柱になるのは必然的に劇団の経営、会計、庶務などをこなしていた秋山になりそうだった。演劇に興味はなく、脚本など書いたこともない彼が、周囲から頼りにされるようになっていた。いや、おそらく周囲から盛んにヨイショされたので、秋山自身も徐々にやる気になったのだろう。彼は、飯田豊二が途中で放棄した脚本「クロンスタット」の後半を、A.ベルクマン『クロンスタットの叛逆』などを参照しながら四苦八苦して書きあげ、タイトルを『クロンスタットの敗北』とつけた。
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 ロシア革命下におけるクロンシュタットの“反乱”は、政治の独裁や市民への統制、表現規制を強めるボルシェビキに対し、“民主化”などを求めて20,000人近い水兵たちが蜂起した事件だが、劇団内から「敗北」と名づけることに異論が出たようだ。だが、秋山は敗北を認めるリアリズムこそ、現状における重要な課題なのだといって譲らず、劇団員たちは秋山にも辞められては困ると考えたのか、最終的に上演タイトルは『クロンスタットの敗北』と決定した。
 前回上演の『ボストン』でも、特高Click!の検閲係に脚本をさんざん削除され、次々に台詞の変更を要求された経緯を見ているので、秋山清は脚本『クロンスタットの敗北』を早めに牛込神楽坂警察署の特高課へ提出したようだ。彼は、ほとんど削除や変更要求なしに同脚本が検閲を通り、上演許可の通達がすぐに下りると思っていた。ところが、待てど暮らせど上演許可が下りない。予定の舞台は、1931年(昭和6)6月の予定であり、4月になっても特高の検閲係からはなんの連絡もなかった。
 ようやく特高から呼び出しがあり、牛込神楽坂警察署に大急ぎで駆けつけると、秋山にとっては意外なことに「上演禁止」がいいわたされた。彼の前に投げだされた脚本の表紙には、大きな「禁止」の赤いスタンプが押されている。禁止の理由を聞いて、秋山は愕然とした。ソビエト革命政府に反抗し蜂起した、クロンシュタットの兵士たち自体がケシカランといわれたのだ。以下、1986年(昭和61)に筑摩書房から出版された、秋山清『昼夜なく―アナキスト詩人の青春―』より引用してみよう。
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 そして係りはいく分にやにやした調子で私に質問してきた。
 「上演できると思ったのか」
 「日本政府の嫌いな革命ロシアの政府に反抗するのだから、文句はあるまいと思ったんだ」というと、彼はゆっくりと首を振りながらいった。
 「そうではないんだ。赤い政府であろうと、そうでない政府であろうと、国家や政府に反抗することは許せるものではない。だからこの脚本は、科白などを消したり、書きかえたくらいで、どうなるというものではないんだ」
 私は脳天を木槌で真向から叩きつけられたような気分がして、居たたまれぬほどに恥ずかしかった。まことに検閲の言う通りだ。国家となればAもBも同じものだ。国民民衆を支配することにおいては、その権力は一つのものだ。ロシアもアメリカも中国も日本も、イギリスも、それぞれに国体は異なって見えても、国家対民衆の関係は変るものではないということを、この時私ははっきりと腑に落ちた。
  
 戦前・戦中の特高警察というと、社会主義や共産主義、サンディカリズム、無政府主義、あるいは北一輝Click!陸軍皇道派Click!の原理主義的社会主義、そして太平洋戦争が近づくころには民主主義や自由主義、国家神道(戦後用語)以外の教義、皇国史観Click!以外の史学などの思想や表現、学問、宗教を取り締まったのだと記述されることが多い。
 確かに、多くの特高はそのような意識(対峙的な思想・信条)を持って職務を遂行していたのだろう。だが、牛込神楽坂警察署の特高検閲係のように、提示された思想自体が問題なのではなく、国家や政府に反抗・叛逆するという行為自体や表現が、すべて問題なのだとする人間もいたということだ。
 「そんなこと、官僚や警察官ならあたりまえじゃないか」と思う方がいるとすれば、その「あたりまえ」意識こそが課題なのだと思う。このような人間は、幕末の明治維新下で江戸幕府内にいても、革命ロシア政権の治安機関にいても、フランス革命の王党派内にいても、またナチス政権下の警察機構に勤務していても、まったく同様の仕事を平然と遂行し、機械的で没主体的(=無思想的)な“弾圧ロボット”と化すだろうからだ。
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 日本では、当の特高警察を抱えた内務省警視庁が、1945年(昭和20)の敗戦直前に大日本帝国を支える警察から、占領軍(G2-CICClick!)へ仕える米軍の「警察」へと脱皮するために、臆面もなく180度の“転進”をしている。以下、同年に発行された『警視庁事務年鑑』から引用してみよう。
  
 急迫せる事態に対処するため、政府においては、警察力の拡充強化を決定、わが警視庁も、首都の特殊性から、本庁に警備本部を設置し、防空課、情報課及び特高各課を廃止し、組織の整備を行なうとともに、連合軍の都内進駐に伴い新たに渉外課を設け、各署に通訳及び通弁巡査を配置する等、戦時態勢から平時態勢への機構改革を断行、万全の態勢を整えた。
  
 これが、つい昨日まで「鬼畜米英」「アメリカ人をぶち殺せ!」Click!と叫んでいた組織(人間)が書く文章だろうか? まるで敗戦など他人事で、ただ時代に合わせて「平時態勢」(!)の組織改革をしただけ……とでもいいたげな表現だ。そこでは、特高警察などまるで「なかったこと」「不要だった部局」であるかのように廃止され、いつの間にか米軍への“営業部”までこしらえ上げている。特高警察によって虐殺された、1,000名を超える人々への責任は、いったいどこへいってしまったのだろうか?
 事実、秋山清が書く「革命ロシアの政府」はその後、スターリニズム下でこのような「思考しない」官僚テクノクラート・治安機関の人間を大量かつ組織的に排出したことで、約70年間にわたり苦しめられることになった。そして、いまも同様の苦しみに喘いでいる国々がある。ある思想を備えた人間同士なら、事実にもとづく議論や検討を通じて合意点を探ったり説得することは可能だが、相手が非人間的な、没主体的な弾圧・管理“マシン”であれば、そのような行為は絶望的でまったく無意味だからだ。

◆写真上:下落合4丁目1379番地の、第一文化村Click!内にあった秋山清邸跡。
◆写真中上は、1930年(昭和5)に撮影された牛込区箪笥町15~17番地にあった牛込区役所。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる牛込区役所界隈。
◆写真中下上左は、1986年(昭和61)出版の秋山清『昼夜なく―アナキスト詩人の青春―』(筑摩書房)。上右は、本記事と同じころ20代の秋山清。は、1921年(大正10)に撮影された反政府集会を開くクロンシュタットの水兵たち。
◆写真下は、牛込橋(牛込見附跡)西詰めの神楽河岸にあった牛込神楽坂警察署。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる牛込神楽坂警察署界隈。


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