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落合地域で20回の狩りをした徳川吉宗。 [気になる下落合]

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 千代田城の8代将軍・徳川吉宗が、落合地域で鷹狩りをしたのは1717年(享保2)に鷹狩り場(御留山/御留場)の「六筋」を設置して以来、中野村への道すがらも含めると合計20回にもおよんでいる。「六筋」とは、千代田城Click!を起点に五里四方へ狩り場のコースを規定したもので、6つの筋ごとに鷹場役所や、筋沿いの村々では鷹場組合が結成されている。
 その「六筋」とは、1717年(享保2)現在で葛西筋・岩淵筋・戸田筋・中野筋・品川筋(のち目黒筋)・六郷筋(のち品川筋)という構成だった。この筋ごとに設置された鷹場役所や、村々が合同で組織した鷹場組合により、吉宗の時代以降は「将軍家の鷹狩り」Click!という行事が遂行されることになる。落合地域は、村民の立ち入りや狩猟、樹木の伐採などがいっさい禁止された、鷹狩り場の中心となる下落合村の御留山Click!を抱えていたが、上記の筋でいうと「中野筋」にあたる狩り場コースだ。
 落合地域の周辺には、将軍家の狩り場だった長崎村の鼠山Click!や下高田村の鶉山Click!、池袋村の丸池Click!周辺、雑司ヶ谷村の一帯が存在している。これまで、長崎村の鼠山でイノシシやシカの巻狩りをしたあと、清戸道Click!を1本はさんだ南側に隣接し、将軍の御立ち台(展望台)もある下落合村の御留山Click!で鷹狩りをする……というようなイメージで「将軍家の鷹狩り」をとらえていたのだが、『徳川実記』に詳細が記録された狩りの様子から、それが大きな誤りであることがわかった。長崎村の鼠山で狩りをしたあと、わずか500~600mの近さとはいえ下落合の御留山で鷹狩りをすること、あるいはその逆のコースをたどって狩りをすることなど、基本的にありえないのだ。
 なぜなら、長崎村の鼠山と下落合村の御留山は鷹狩り場の「筋」ちがいだからだ。下落合の御留山は「中野筋」だが、長崎村の鼠山や池袋村の周辺、雑司ヶ谷村の一帯は「戸田筋」であって、狩り場のコースがまったく別だ。したがって、「将軍家の鷹狩り」を仕切る鷹場役所や村々の鷹場組合も別であり、少なくとも徳川吉宗の時代には、たとえば「戸田筋」で狩りをしたあと、その「戸田筋」をあずかる役人やスタッフが、別の役所や組合が仕切る「中野筋」のエリアへ、そのまま勝手に入りこんで狩りをすることなど原則としてありえない。ただし、徳川吉宗は柔軟な思考ができる人物だったらしく、この「筋」ちがいな突然の“ドッキリ”狩りを二度ほど実施している。
 さて、徳川吉宗が落合地域で鷹狩りをした、あるいは落合地域を含む「中野筋」の道すがらで狩りをしたのは、生涯に20回におよぶ。1728年(享保13)の狩りから1745年(延享2)の狩りまで、およそ17年間のことだ。この中で落合地域のみに絞って、おもに下落合村と上落合村、葛ヶ谷村(現・西落合)に限定して狩りを実施したのは、9回にのぼるとみられる。すなわち、順に挙げてみると1739年(元文4)3月13日(旧暦:以下同)、同年4月23日、1740年(元文5)2月3日、1742年(寛保2)4月3日、1743年(寛保3)3月15日、1744年(延享元)2月18日、同年3月15日、同年10月5日、1745年(延享2)3月27日の9回だ。
 1739年(元文4)から、ほぼ毎年のように落合地域のみの狩りを行っているが、これは御留山の鷹狩りがよほど気に入ったか、周辺に拡がる風情がことさら好きだったものか、名主の娘がどこかの村のお藤ちゃんClick!なみに特別にきれいだったものだろうか。w 特に1744年(延享元)には、⑥⑦⑧と年に3回も落合地域へ鷹狩りに出かけてきている。吉宗の落合通いは、死去する6年前までつづいた。
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 上記の狩りの中で、吉宗が「筋」ちがいな狩りをしたのは、1739年(元文4)4月23日のもので、おそらく鷹場役所の役人や鷹場組合の村民たちはあわてたのではないだろうか。この日、千代田城を出発した徳川吉宗の一行がめざしたのは雑司ヶ谷村、すなわち「戸田筋」で狩りをする予定だった。ところが、雑司ヶ谷に着いたあと、実際に狩りをしたかどうかは不明だが、急に吉宗は落合で狩りをしたいといい出したようだ。「戸田筋」の鷹場役人や組合の雑司ヶ谷村民は、吉宗がつつがなく雑司ヶ谷で狩りを楽しめるようさまざまな準備をしていたはずだ。だから、なんの準備も行われていない「中野筋」にある落合へいきたいといい出したとき、おそらく呆気にとられただろう。
 この突然の狩り場変更には、いろいろな理由が考えられる。ひとつは、雑司ヶ谷の天候がよくなくていい狩りができなかったという事情だ。当時、天候による狩り場の変更はほかにも例があり、それほどめずらしいことではなかった。ただし、「筋」のちがうエリアへの狩り場変更は、めったにないことだった。しかも、雑司ヶ谷が雨で狩りがしにくいなら、おそらく1,500~2,000mほどしか離れていない落合もたいていは雨だろう。あるいは、雑司ヶ谷には獲物が少なかった可能性もある。せっかく楽しみにしていたのに獲物が少ないので、「ちがうとこ行こうぜ」と吉宗がいいだしたのかもしれない。または、なにか縁起の悪いこと、不吉なことが突然起きてしまい、「気分転換しようや、場筋変更は苦しゅうない」となったものだろうか。これなら、わざわざ「筋」ちがいの落合へ変更したのも、うなずけるような気がする。それとも、「やっぱりお藤ちゃんの顔が見たい!」というような“特殊事情”があったものだろうか。w
 徳川吉宗が、「戸田筋」から「中野筋」へと“越境”して狩りを行った、1739年(元文4)4月23日のこの日、獲物はそろそろ北へと帰る渡り鳥のガンがメインだった。おそらく、神田上水や妙正寺川か、両河川沿いの湧水池に飛来していたものだろう。「中野筋」の鷹場役人や落合地域の村の名主たちは、知らせを聞いて大急ぎで駆けつけただろうか。「戸田筋」の役人や村民の責任だから、「そんなの関係ねえ」と知らん顔はできなかっただろう。それに、少しでも顔を見せて世話を焼けば、あとで報酬が期待できた。
 さて、9回におよぶ落合地域での狩りの主要な獲物は、『徳川実記』によればがキジ、がカモとキジ、ミミズク、ウサギ、がキジ、がキジとイノシシ、がキジとカモ、がキジとイノシシ、がガンとカモ、キジ、がキジと記録されている。吉宗が落合地域での狩りを気に入った理由として、ほかの狩り場に比べ獲物の種類が豊富なことも要因として挙げられるかもしれない。したがって、鷹狩りや巻狩りを催したあとの、村々への報酬も多かったのではないかと思われる。
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戸田志村追鳥狩御条目並絵図1722.jpg
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 もうひとつ、吉宗が「筋」ちがいの“越境”をしたものに、1731年(享保16)3月18日の狩りがある。この日は、午前中に「戸田筋」の鼠山で狩りをしていて、安藤対馬守下屋敷Click!で昼食をとっているが(上屋敷Click!の字名ができたのはこのころか)、午後からいきなり「中野筋」の中野村方面へと狩り場を変更している。この日も、おそらく落合地域を通過しているのだろうが、変更の理由は不明だ。なんの前触れもなく、いきなり将軍一行が鷹狩り姿で村々に現れたら、村民たちは「そんなスケジュール、聞いてねえし!」と驚愕しただろう。ざっくばらんな性格だったといわれる吉宗には、それが面白くて「苦しゅうない、無礼講じゃ」と、たまにサプライズ狩りをやるという悪戯心があったのかもしれない。ちなみに、この日の獲物はイノシシとウサギだった。
 将軍が狩りを行なう際、「鷹場筋」沿いの村々にはさまざまな労役義務が課せられることになる。当初は、それらの労役に対して幕府から報酬米が支給されていたが、江戸期も下るにしたがって村々から「米じゃ不便なので金銭を」という声が強まったのだろう、鷹場役所から現金で支払われることが多くなった。以前に記事でご紹介した将軍の狩りには、30両余の報酬が支払われているが、それらのいくばくかは環境整備の労役のために動員された人足たちや、村民は田畑の仕事を放棄するわけにはいかないので、代わりに田畑の管理を依頼する付近の農民への支払いなどにまわされた。
 また、将軍家の狩りは獲物を得るための純粋な“鷹狩り”目的のためだけでなく、別の目的で形式的に催されることもあったようだ。なにか幕府側の事情により、とある村の財政がことさらひっ迫したときや、将軍の狩りの都合で村へ少なからず損害を与え、その村へ“狩り”ならぬ“借り”ができたときなどが考えられるだろう。その村だけに、予算を超えた特別の法外なカネを支出すれば、たちまち周辺の村々へ情報が伝播し、えこひいきの不公平感や不満が醸成されてしまう。そこで、当該の村へ鷹狩りに出かけることで、地元へカネを落としてくるという方法だ。
 「戸田筋」にあたる池袋の丸池Click!方面へと向かう、将軍家が狩りをするときに通過した「狩り道(御成道)」の様子が江戸期の絵図に記録されている。道を真っすぐに進めば、よほど効率がいいにもかかわらず、わざと階段状にジクザグで行列が通るよう、おかしな道筋の形状が採取されている。これでは、狩りの行列が周辺の畔道や田畑の中に入って、農作物を荒らすことになってしまう。天領(幕府直轄地)の生産性を低下させるような狩りは、たとえ徳川将軍といえども決して許されなかった行為だ。
東京湾.JPG
葵紋入り陣笠.jpg
徳川十三代将軍御鷹野之図東洲勝月(明治).jpg
 だが、田畑に入って農作物を荒らし「損害」を与えたとすれば、狩りの報酬金以外に損害賠償金を村へ支払わなければならない。わざと田畑の畔を踏み荒らすような、ジグザグのおかしな道筋の規定は、将軍家のその村に対する特別な“配慮”を想起させるのだ。しかも、作物を収穫し終えたあと、あるいは作物の種まきをする以前の農閑期に、将軍の鷹狩り一行はわざと田畑の畔へ踏み入って、「荒らした」ことにしているのかもしれない。

◆写真上:落合地域での代表的な鷹狩り場だった、御留山のピークに建つ四阿。
◆写真中上は、1763年(宝暦13)に6エリアの狩り場筋を描いた「五里四方鷹場惣小絵図」。は、「戸田筋」南辺と「中野筋」北辺部分の拡大。図版はいずれも、2010年に練馬区石神井公園ふるさと文化館が発行した『御鷹場』図録より。
◆写真中下は、御留山/御留場付近の村民による鉄砲猟が止まなかったのだろう、1721年(享保6)に出された「御留場内鉄砲取締」の高札。以前の記事で、江戸期に刀や鑓を所持していたのは武士のみという錯覚Click!について書いたことがあるが、農民は鉄砲まで所有していた点に留意したい。は、将軍の鷹狩り時に使用された葵紋の纏印などを記録した1722年(享保7)の「戸田志村追鳥狩御条目並絵図」。は、下落合の御留山にある湧水の弁天池で眠るカルガモ。
◆写真下は、東京湾で羽を休めるカモの群れ。江戸湾に面した将軍の浜御殿では、カモ猟が盛んだった。は、葵紋の入った鷹狩り時に使用されたとみられる陣笠。は、明治に入ってから制作された東洲勝月『徳川十三代将軍御鷹野之図』(部分)。


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