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文化住宅を超える落合の次世代型住宅。(1) [気になる下落合]

和田邸外観イメージ図.jpg
 以前、大正期の目白文化村Click!近衛町Click!に建てられた大正期の文化住宅Click!とは明らかにコンセプトが異なる、遠藤新設計創作所Click!が1933年(昭和8)に設計し翌年竣工した、久七坂筋Click!に現存する小林邸Click!をご紹介していた。文化住宅のブームから10年もたつと、最新の日本住宅はムダなスペースを削減したり、装飾的かつレガシー的な意匠や非効率的な造りを省き、快適な生活を送れる家族中心の考え方が浸透して、少しずつ変化を見せている。
 1929年(昭和4)に東京朝日新聞社から出版された『朝日住宅図案集』には、最新の住生活コンセプトにもとづく当時の住宅が、85事例も紹介されている。同社が懸賞募集し、「昭和新時代」の住宅図案を収録したものだ。その中には、落合地域へ実際に建てられたとみられる住宅が3棟(下落合×2棟、上落合×1棟)が紹介されている。東京郊外の田園生活を前提とした文化住宅から、急速に市街地化が進む東京の外周域に開発された住宅街の1棟、すなわちそれほど広い敷地を必要とせず(せいぜい50~70坪ぐらい)、大きなコストをかけなくても建設できる、サラリーマン向けの一般的な住宅建築を模索するような内容となっている。
 ただし、同図案集は条件を与えられて設計するコンペティションなので、実際に図面通りに建設されているかどうかは確定できない。中には、設計図のままで実際には建設されなかった邸も含まれている可能性があるが、ここでは実際に建てられたという前提で当該の住所に邸を探し、稿を進めてみたい。
 新たな住宅の姿を模索する、同書の「序」より引用してみよう。
  
 北緯五十度前後の北に位する欧米大都市の住宅をそのまゝ、南洋的の夏を持つ日本に直訳して失敗するのは当然である。和服と畳と下駄等々が俄かに全滅しない限り、純洋館の生活は絶望であり、都市の凡ての近代化した今日、純日本住宅の生活も不便が多い。結局現代の生活様式が混沌としてゐるから、建築様式もまた定まらないのである。蓋し建築様式なるものは、その国の伝統とその時代の生活様式から生れ出るものだからである。(中略) 入選図案の大部分は外観が洋式であり、内部に和洋の趣味と便利とを蔵してゐる。これを大正大震災前後に流行した所謂文化住宅に比すると、全く面目を一新し、現代生活の表現として渾然たる調和を示し、昭和の一形式を創造したものといへることは主催者の満足するところである。
  
 用いられる素材が変わり、時代ごとに流行するデザインは変わっても、基本的に今日の住宅へと直結する設計コンセプトが同書の図案には多く含まれている。いわば現代住宅を形成する、88年前のプラットフォーム図案集とでもいうべきものだ。では、下落合585番地に建設されたかもしれない和田邸から見ていこう。
 和田邸は、実はこちらでも一度すでに登場している。傷痍兵士を対象とした、1941年(昭和16)に国防婦人会下落合東部分会Click!の主催による「いちご狩り」が行われたのが、特設テントの張られた和田邸の庭先だった。今回の図案集に掲載された和田邸の外観を見ると、当該の「いちご狩り」の背景に写る洋風住宅の一部は、和田邸ではなく隣家の建物の可能性のあることが判明した。和田邸は、外壁にハーフティンバー様式を採用しており、外壁が一面色つきスタッコ仕上げらしい写真の住宅とは異なるのが明らかだ。
和田邸側面図.jpg
和田邸平面図.jpg
 和田邸というともうひとつ、下落合の物語に欠かせない人物の実家でもある。当時の世帯主である同志会Click!副会長をつとめた和田義睦の長女・和田トミは、高良武久Click!と結婚して同じく下落合に住みつづけた高良トミClick!のことだ。そして、二男の和田新一は早稲田大学建築科を出た建築士で、『朝日住宅図案集』に掲載された新たな和田邸の設計者でもある。和田義睦について、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
  
 同志会副会長理学士 和田義睦  下落合五八五
 洗練された人格、深い知識経験を以て、老齢ではあるが、矍鑠として壮者に伍し、郷党自治の為に貢献す、世の毀誉褒貶を超越した一種の尊厳さを持つて居る、氏は高知県士族和田義雄氏の二男にして、文久元年十二月二十三日を以て同県土佐郡久萬村に出生、明治十八年東京帝国大学理工学科を卒業し、次いで大学院に研究す、(中略) 先是明治十五年大学在学中学生の風紀漸く紊れんとするや、氏は率先正帽の制定を唱し、其の自尊心に訴へて素行を匡正した、今日の所謂角帽は氏の発案にして業界に於て和田帽と通称せらるゝ所以である、(中略) 家庭邦子夫人は横浜英和女学校の出身にて、此の間二男新一氏は早大建築家卒、二女節子は東京女医専在学中、長女富子は医学博士高良武久氏に嫁す、先是日本女子大を経て米国に留学、大正十一年コロンビア大学を卒業し哲学博士の学位を獲得す、帰朝後九州帝大医科大学精神科に心理学を究むること三ケ年、方今精神病科の大家として知られてゐる。
  
 設計された和田邸とみられる住宅は、外観は完全に西洋館だが内部は和洋折衷の造りで、木造2階建ての瀟洒なたたずまいをしている。基礎はコンクリートで、1階の外壁はラス張りしたあと色付きのスタッコ仕上げ(カラーは不明)、2階はクリーム色のスタッコ仕上げを採用している。屋根の色も不明だが、全体を日本瓦で葺き一部を亜鉛引き鉄板を用いて上からペンキを塗っている。柱はおもに米松を使っているが、化粧柱は檜、造作は米栂で、階段は檜と加工しやすいラワン材を採用している。また、和室は畳敷きで、洋室は化粧板ワックス拭仕上げと呼ばれるものだった。
子供室イラスト.jpg
和田邸側面透過図.jpg
 同邸の特長を、同図案集に紹介された文章から引用してみよう。
  
 応接室兼書斎/約六畳敷の大さ(ママ)に約半坪のアルコープを設けサンルームに通ふ様にしたれば半坪の活用さるゝ所極めて大にして室そのものより言ふも余猶を持つ様に見ゆる也 食堂兼居間/一家の団欒は夕食の時に最も多く味はるゝもの也、而して一般家庭に於て今の最も有効に用ひらるゝ時間も夕食後なるべし、故に食堂を居間に兼ねしめたり、又この部屋は外気に接する壁を有せざる故に冬は暖く夏涼し サンルーム/日中主人の留守をなす主婦と子供との遊場仕事場として主婦室ともなり幼児室ともなるを以て極めて有効にして且衛生的也 弐階客室/一般の家には時に泊りの客の有る事多し、この為に八畳を取り又親しき客人の為にベランダあるは極めてよき事也 中等学校に行く児の為にベツドアルコープを持つ子供室を作りたれば将来の生長にも差支なかるべし 盗難よけの為に表廻りの室にはシヤツターを付したれば裏廻りの窓を鉄網入硝子とすれば盗難には絶対に安全也
  
 面白いのは、食堂兼居間がどこの外壁にも接しておらず、住宅の中央に配置されている点だ。建物の中心に食堂兼居間があるのは、家族が各部屋から集まりやすくした結果のように思われるが、冬は外壁に接していないので暖かかっただろう。
 暖房費の節約にもなったかもしれないが、外気の抜ける窓がないため夏は暑さがこもりそうだ。夏場は、隣接するサンポーチを開け放って南風を入れるか、夕食後は空け放しのサンポーチへと出て涼をとっていたのかもしれない。サンポーチの前庭には、夏場のことを考えたのか小さな噴水とみられる設備が、平面図に記載されている。
 設計図を見ると、応接室兼書斎、食堂兼居間、夫婦室兼寝室、サンルーム兼主婦室兼幼児室、客室兼寝室というように、1部屋を効率的かつフレキシブルに利用する工夫が顕著なのは、今日の住宅につながるものだ。設計当初から、専用の子ども部屋が設けられたり、1階の表側の窓には防犯用シャッターが、裏側の窓には割って侵入されないよう金網入りのガラスが装備されるなど、今日のセキュリティ重視の住宅と変わらないコンセプトが取り入れられている。
和田義睦.jpg 朝日住宅図案集.jpg
和田邸跡.JPG
久七坂近代建築.JPG
 今日の住宅と異なる点は、台所の隣りに大正期からの女中部屋が相変わらずそのままなのと、太陽光を直接浴びられるサンルームやサンベランダなどのスペースが、1階と2階の双方に用意されている点だろう。大正末から昭和初期にかけ、結核の罹患者数Click!はピークを迎えており、陽当たりのいいところで新鮮な外気を吸うことが、なによりも結核予防になると、いまだに信じられていた時代だった。

◆写真上:昭和初期に設計された、和田邸とみられる外観イメージイラスト。
◆写真中上は、同邸の側面図。は、同邸の1・2階平面図。
◆写真中下は、子ども部屋とみられる室内イラスト。は、同邸の透過側面図。
◆写真下上左は、『落合町誌』に掲載された和田義睦。上右は、1929年(昭和4)出版の『朝日住宅図集』(東京朝日新聞社)。は、和田邸が建っていた下落合585番地(左手)の現状。は、和田邸とほぼ同じころに建てられたとみられる現存する下落合の邸宅。


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