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焼け残り沿線住宅に撒かれた米軍ビラ。 [気になるエトセトラ]

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 戦争も末期になって、連日、B29の機影が日本の上空へ頻繁に現れるようになると、膨大な量の「伝単」と呼ばれた米軍宣伝ビラ(Propaganda leaflets)が空から撒かれるようになった。その多くは、国民の戦意を喪失させるような「平和」志向のものであったり、太平洋の各地で行われた日米戦の戦闘詳報であったり、ときには次の爆撃都市を予告する内容であったりした。
 宣伝ビラは、南洋の島嶼部から飛び石伝いに日本本土へと迫る米軍の攻略作戦の状況を、ほとんど事実にもとづいて報道した内容も多かった。したがって、ラジオからの「大本営発表」が信用できなくなった人々は、B29が撒いていったビラを誰にも見つからないようにこっそり拾い、実際の戦況を知ろうとむさぼるように読んでいる。
 日本では徹底した報道管制が敷かれ、勇ましい精神論やほとんど虚偽の報道しか流されなくなっていたため、正確な戦況の情報に飢えていた。ただし、もし「伝単」を拾ったことが当局に知れると、警察や憲兵隊に検束されてひどいめに遭うことになる。だから、誰にも知られずに拾うことは困難だったが、それでも情報に飢えていた人々は米軍が撒いたビラを見つけると、こっそりポケットにねじこんで自宅に持ち帰っている。
 上落合から短期の上高田暮らしをへて、鷺宮2丁目786番地(現・白鷺1丁目)に自邸を建設して転居した壺井繁治Click!壺井栄Click!夫妻は、配給制による食糧不足から近くの土地を借りて、サツマイモClick!を栽培していた。近所の農家から苗木800本を購入し、雑草と石ころだらけの荒れた土地を耕しながら、少しでも飢えをしのごうと開墾を繰り返していた。きつい農作業は、ペンしか持たない詩人にはかなり辛かっただろう。いつ空襲に遭うかわからないので、足にはゲートルを巻き鉄兜(戦闘用のヘルメット)を背負っての農作業だった。その作業中に、壺井繁治は米軍機が撒いた「伝単」をひろっている。
 当時、西武電鉄Click!(現・西武新宿線)沿線にあったほとんどの駅は、駅前や主要道路沿いのみに住宅街が拓けた新興住宅地であり、いまだ一面に田畑が拡がるような風景だった。戦争も末期を迎えるころ、壺井繁治は西武線車内で蔵原惟人Click!と偶然に再会し、蔵原が網走刑務所から小管刑務所へと送られ、病気が重篤になったのでようやく保釈されて、上石神井の自宅で静養しているのを知った。身体が回復してきたのか、蔵原は仕事の翻訳原稿をどこかへとどけにいく途中だったようだ。
 戦争も末期になると、特高Click!の刑事たちが反戦運動や平和運動をしていた人物たちで、刑務所には収監されていない「転向」組も含めた社会主義者や共産主義者、民主主義者、自由主義者、アナーキストなどの家庭を訪ねることが多くなった。それは検挙するためでも弾圧・監視するためでもなく、戦争の敗色が濃くなった現状を踏まえ、今後はどのような政治や社会が到来するのか、「ぜひ意見を聞きたい」という訪問だった。さんざん弾圧し、検挙者の虐殺を繰り返した特高警察が、いまさら彼らの「意見」に耳を傾けるのも滑稽きわまりないが、日本軍の連戦連敗に心細くなり、上層部(内務省)が大日本帝国という国家や組織の存立そのものに、本格的な危機感をおぼえていたのだろう。
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 壺井夫妻のところへも特高刑事がやってきて、高圧的な態度が鳴りをひそめた“低姿勢”で「意見具申」を求めている。また、戦後の「戦犯」追及Click!への恐怖感もあってか、弾圧していた人々へおもねる姿勢もあったのだろう。壺井繁治は、「別に意見などありませんよ。第一、戦争については、これまで大部分のひとがとやかく意見を吐くことを禁じられていたんですからねえ、今更意見を求められても、多くのひととおなじように、いうことなしですよ」と、皮肉っぽく特高の来訪を突っぱねている。
 さて、B29からの宣伝ビラが多くなったのは、そのような状況のさなかだった。宣伝ビラは、東京西部ではどうやら焼け残った住宅地の多い、西武線や中央線、小田急線など郊外電車の沿線にバラ撒かれているようだ。下落合では聞かないが、隣りの上高田では「伝単」をひろったというお話を聞いたことがある。壺井夫妻は、鷺ノ宮駅の南側にある鷺宮八幡社近くに自宅があり、サツマイモを作付けした畑地もその沿線に位置していたので、おそらく西武線沿いの焼けていない住宅街を眼下に見下ろしながら、B29は宣伝ビラを撒いていったのだろう。そのときの様子を、1966年(昭和41)に光和堂から出版された、壺井繁治『激流の魚』から引用してみよう。
  
 ある日、炎天の下で、畝の上にはびこっている雑草を抜いたり、長く伸びた芋の蔓を引っくりかえしたりしていた。そこへB29が一機侵入してきて芋畑の真上あたりで物凄い爆発音をあげた。わたしはてっきり爆弾が投下されたのだと思い、畑の隣りの竹藪の中へ逃げこみ、地面に身を伏せた。けれども地上になにも炸裂する様子がないので、少々不思議に思い、やがて飛行機が上空を通りすぎ、北東の方角へだんだん遠ざかってゆくのを見計らって、藪の中から出てくると、何万枚とも知れぬほどの紙片が、はじめはまるで白い粉みたいに空からゆっくりと落下してきて、わたしの芋畑にもあちらこちらと散った。
  
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 誰も見ていないのを確認して壺井繁治が「伝単」拾うと、それは米国のトルーマン大統領の写真が掲載された、降伏勧告の宣伝ビラだった。彼は急いでポケットにねじこんでから、改めて周囲を見まわすと、近くの農家から出てきていた農夫たちが、やはりビラを拾ってこっそり隠すのが見えた。
 B29の機体が見えなくなったころ、近くの高射砲陣地から砲弾が数発、思い出したかのように発射されている。しばらくすると、自転車(もはや自動車ですらない)に乗った兵隊たちが2~3人畑へやってきて、散らばっていたビラをあたふたと大急ぎで回収しはじめた。帰りの西武線で、壺井繁治は小さな子どもを背負った老婆に出会っているが、老婆もどこかでビラを拾ったのか、「まるでチンドン屋から貰った広告ビラみたいに、背中の子供にそれを持たせて歩いている」のを目撃している。もはや大本営発表のウソ報道を見かぎり、ほとんどの国民が信用していないのを象徴するような光景だった。
 このとき、壺井繁治が拾った「伝単」は、No.2088と記載されている「日本国民諸氏 アメリカ合衆國大統領ハリー・エスツルーマンより一書を呈す」だった。それは、戦争継続は犠牲者を増やすばかりで無意味であるという内容の、以下のような文面だった。
  
 ナチス独逸は壊滅せり 日本国民諸氏も我米国陸海空軍の絶大なる攻撃力を認識せしならむ 貴国為政者並に軍部が戦争を継続する限り我が攻撃は愈々その破壊及び行動を拡大強化し日本の作戦を支持する軍需生産輸送その他人的資源に至る迄徹底的に壊滅せずんば熄まず 戦争の持久は日本国民の艱苦を徒らに増大するのみ 而も国民の得る処は絶無なり 我が攻撃は日本軍部が無条件降伏に屈し武器を棄てる迄は断じて中止せず 軍部の無条件降伏の一般国民に及ぼす影響如何 一言にて尽くせばそは戦争の終焉を意味す 日本を現在の如き破滅の淵に誘引せる軍部の権力を消滅せしめ前線に悪戦苦闘中なる陸海将兵の愛する家族農村或は職場への迅速なる復帰を可能ならしめ且又儚なき戦勝を夢見て現在の艱難苦痛を永続するを止むるを意味す 蓋し無条件降伏は日本国民の抹殺乃至奴隷化を意味するものに非る事は断言して憚らず
  
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 このとき、米国へ実質亡命していた八島太郎(岩松惇)Click!は、「伝単」へのイラスト制作や文面の考案に協力している。それは、1943年(昭和18)に『あたらしい太陽』Click!の創作とともに、軍国主義・日本の戦争を早く終わらせようという、国内で反戦活動していたころからの強い意思もあったのだろうが、もうひとつ米国政府に叛意がなく、日本のスパイだと疑われるのを回避する目的も同時にあったのだろう。米国内における日本人あるいは日系人への敵視は、戦争が終結するまで変わらなかった。

◆写真上:1945年(昭和20)7月17日に、神戸上空で被弾し第4エンジンが停止したB29。
◆写真中上は、1949年(昭和24)の空中写真にみる鷺宮2丁目786番地にあった壺井繁治・壺井栄夫妻の自宅界隈。は、自宅の北側にある鷺宮八幡社。は、米軍の「伝単」(宣伝ビラ)を撒く準備をするB29の搭乗員。
◆写真中下は、広島への原爆投下を予告した「空襲予告ビラ」。も、各都市に撒かれた爆撃を予告する宣伝ビラ類。東京大空襲Click!の直前にも「予告ビラ」は撒かれたが、軍当局がほとんど回収して秘匿したため避難した市民はほとんどいなかった。は、大阪を空襲するB29。画面の上部には、大阪城の内濠と天守が見えている。
◆写真下は、各都市への空襲予告ビラ。は、拾われやすいよう10円札を模した「伝単」で裏面に宣伝文が書かれている。は、壺井繁治が畑で拾った「降伏ビラ」。


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