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文化住宅を超える落合の次世代型住宅。(3) [気になる下落合]

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 昭和初期、落合地域に建設された住宅の3軒めは、建築家・輪湖文一郎が設計した上落合470番地の邸だ。上落合470番地という住所で、すぐに思い出すのが1923年(大正12)の関東大震災Click!大蔵省の庁舎Click!が焼けたとき、自宅の居間や食堂を“開放”して新たな帝国議会議事堂Click!設計チームの業務を継承した、建築家・吉武東里Click!の大きな自邸Click!だ。
 また、同じ上落合470番地には東京朝日新聞社の鈴木文四郎(鈴木文史郎)Click!が住んでおり、その東側には近所から“アカの家”と呼ばれた神近市子Click!の自宅(上落合469番地)があった。1929年(昭和4)に東京朝日新聞社から出版された『朝日住宅図案集』収録の朝日住宅67号型と名づけられた家の平面図と、1938年(昭和13)に作成された「火保図」収録の家々とを比較してみるが、同邸と思われる住宅を発見できない。設計図を見ると、北西寄りに門と玄関が設置されいるが、それに該当する家が3階建ての鈴木文四郎邸のみしか見あたらないのだ。ひょっとすると、同邸は東京朝日新聞社の設計コンペ用図面だけで、建設されていないのかもしれない。
 67号型と名づけられた住宅は2階建てだが、1938年(昭和13)現在で確認できる上落合470番地に該当する住宅は6棟。そのうち、北西側の道路に面して門と玄関が接しているのは鈴木邸のみで、ほかの5軒は南か北に門と玄関があり、最後の1軒は北西側に門があるものの、旗竿敷地で母家が10m以上も路地の奥にひっこんでる住宅なので、同書に掲載された図面やイラストと一致しない。北西側に門と玄関を設置するためには、北側から斜めにカーブして南へと下る道沿いに敷地がなければならず、同邸は「火保図」が作成される1938年(昭和13)までに解体されてしまった……ととらえることもできる。
 『朝日住宅図案集』Click!が出版された当時、経済は世界大恐慌のまっ最中であり、たとえば近衛町の小林盈一邸Click!を例にとれば、同邸の竣工から解体までわずか5年間しか存続していない。同様の経緯が、上落合の67号型住宅でもあったかもしれず、昭和に入ってすぐに竣工した同邸が、10年前後で解体されている可能性を否定できない。当時は、戸建て住宅を購入して住むという概念よりも、既存の住宅が建っていれば新旧の別なく解体して、自分好みの家を建てるという考え方のほうが主流だった。「火保図」の中で、同邸の敷地に見あう下落合470番地の位置は鈴木文四郎邸の南隣りであり、吉武東里Click!の自宅接道をはさんだ北隣り、つまり斜めにカーブして南へ下る道路に面して北西側に門や玄関を設置できる角地ということになるだろう。
 この邸の、道路を挟んだ北西隣りが上落合670番地の古川ロッパ邸Click!、その北側(上落合444番地界隈)には麹町へ帰るまで一時期住んでいたとみられる、大蔵省営繕課職員で建築家の大熊喜邦邸Click!、上落合470番地東側の同区画内である649番地には神近市子邸、その隣りの上落合467番地には「古代ハス」あるいは「大賀ハス」の栽培で有名な植物学者・大賀一郎邸、そして南には大熊喜邦とともに現在の国会議事堂を設計した吉武東里邸……というような住環境だ。
 『朝日住宅図案集』の邸は、ちょうど南へカーブする道路と東へ折れる路地の角地にあったとみられ、南側が吉武邸の北庭で開けていて住みやすそうな敷地だ。52.5坪の敷地に、建物面積23.916坪の2階建て住宅が設計された。この家の仕様にも、大震災の教訓があちこちに取り入れられている。土台はコンクリート打ちで、基礎や柱材には檜葉をはじめ、米松やラワン(洋室)、米栂(和室)などが用いられた和洋折衷の造りだ。ただし、和室は2階の居間兼寝室(約6畳)と女中室(3畳)の2部屋だけで、ほかの部屋はすべて洋室だった。柱や筋違の接合部には、耐震性を高める金具が多用されている。
 また、タイルが導入され玄関や台所、浴室、便所が腰まわりまで各色のタイルが貼られて、テラスとポーチにはレンガが敷かれている。窓枠とシャッターには米杉が用いられ、上から各色のペンキが塗られたが、鎧戸の外には亜鉛引き鉄板張りが施されている。外壁は、鉄網コンクリートの上にクリーム色のモルタル仕上げで耐震・耐火性を高め、室内は洋室・和室ともに白の漆喰仕上げだった。
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 同邸の特長を、『朝日住宅図案集』から引用してみよう。
  
 【構造上の特長】震災-プランに不必要なる凸凹を少くしてプラン全体を耐震的設計となしたり、基礎及建物腰廻りは鉄筋コンクリートとなし、土台及び柱との繋結を充分になし、柱及梁には筋違ひを厳重に使用せり、屋根は耐震上最も軽き材用としてスレートを使用せり/火災-外部壁は鉄網コンクリート色モルタル塗仕上げ準耐火構造とし、軒廻り木部は金属板にて包み、窓は金属板張りのシヤツターを付したり/盗難-窓廻りは堅固なるシヤツターを付し然らざるところは(台所等)鉄格子付又は(玄関等)厚板グラスを使用せり/【間取上の特長】二重生活の煩を可成少くする為めに椅子式を採用し、寝室及女中室のみを畳敷となしたり、浴室、便所は衛生上タイル張とし、便所汲取りは大正式を採用せり、台所は保健上よりしても重大なる使命あるを以つて充分意を用ひ、方位、面積、設備の上に最大の犠牲を払ひたり、子供室は学校通学程度の子供一人と仮定して設計せり/【材料上の特長】構造に必要なる程度に於て堅牢を旨とし、体裁は次となしたり、しかし外観は住宅として単純且つ軽快を旨とし、色彩上の配合を注意せり、木材は予算上米松材を主とし、日本間は米栂となしたり
  
 この中でわからないのは、「便所汲取りは大正式を採用」というところだ。当時、東京で水洗トイレが導入されていたのは、下水道が敷設された市街地だけで、郊外の郡部ではいまだ屋根上に臭突Click!が飛び出た、汲み取り式便所が一般的だった。「大正式」とは、室内のトイレは水洗式だが、流された排泄物が敷地内の別槽へとたまる汲み取り槽が設置された方式だろうか。この方式だと、水洗トイレの便利さを実現できると同時に、屋内に悪臭が漂う心配がなくなる。
 同邸は、当時の典型的な和洋折衷住宅だが、すでに明治期から大正期にかけての“和洋折衷”とは趣が大きく異なっている。目白文化村Click!近衛町Click!などに見られる住宅では、建物の門や玄関近くに位置する応接室や客間、あるいは居間や書斎(訪問客の目に触れそうな部屋)が外観を含めて洋風で、他の部屋(家族のプライベート空間)を日本間とし、プライベート部分の建物外観も和館の意匠をしている例が多い。つまり、明治期からつづく洋館部と和館部の関係が、より密接に接合した和洋折衷の意匠をしていたが、『朝日住宅図案集』に登場する昭和期の和洋折衷住宅は、すでに和洋が混然一体となっていて、住宅の外観さえも和館だか洋館だか明確に区別ができないような姿に変貌している。
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 それだけ人々の生活が、無理なく和洋のスタイルを織りまぜて、毎日を自然にすごせるようになったのだろう。現代の住宅も、基本的にこのような考え方の延長線上にあると思われるが、もはや住宅メーカーがデザインするいま風のモデルハウスを、日本家屋と対比して「西洋館」Click!などと呼ぶ方はほとんどいないだろう。それらは80年後の今日、すでになんら不自然さを感じない「日本住宅」となってしまい、昔ながらの白壁に黒瓦を載せている和館のほうが、むしろ街中では希少で目立つ存在となっている。
 当時の「和洋折衷」の考え方について、上落合470番地に住んでいた東京朝日新聞社の鈴木文四郎は、同書の「和洋折衷に就いて」で次のように書いている。
  
 ところで和洋折衷でありますが、現在の日本人―殊に都会に住む人々の―生活そのものが和洋折衷であるのですから、住宅もさうなるのは当然であります。学校や官庁、会社等では皆椅子を用ゐ、普通又誰でも勤務先きへは洋服で出かける。そして家へ帰へれば和服を着ずには居られない。これは皆日本人の生活なつて了つてゐます。この可否を論じたところで初(ママ)まらないのみならず、私はこれで結構だと思つてゐます。(中略)そこで私は四五年前に四十余坪ほどの小住宅を建てた時に、書斎と応接間と食堂とを西洋式にし、後の大小五つの室は日本式にしましたが、今でもこれで満足してゐます。人によつて趣味や習慣が違ひますから一概には無論いへませんが、一般の日本人のサラリーメン(ママ)階級には、和式六七分に洋式三四分位ひの折衷が適してゐるのではないでせうか。この書の図案にもそれが甚だ多いやうですが、これは現代日本人の実際的の要求であり、これを巧みに調和して行くとろ(ママ)に日本の新住宅の様式が発見されるのだらうと思ひます。
  
 現在では、帰宅後に和服に着替えることはまずないし、「和式六七分」どころか和室は「一二分」ほどではないだろうか。うちも、母親の寝室として設計した6畳間がひとつあるだけで、ほかの部屋はすべてフローリング張りの洋室にしている。
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 さて、鈴木文四郎邸の東側に住んでいた植物学者の大賀一郎だが、1951年(昭和26)に東京大学の検見川厚生農場(千葉市)で縄文時代の「落合遺跡」が発掘された際、発掘チームのメンバーが地中6mよりハスの実を発見して、のち開花させることに成功している。そして、このピンク色をした花は「古代ハス」あるいは「大賀ハス」と呼ばれるようになるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:西側に接した道路から眺めた、朝日住宅67号型の耐震・防火住宅。
◆写真中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる上落合470番地界隈。は、同邸1階・2階の平面図で上方向が北北東にあたる。
◆写真中下は、67号型邸が建っていたかもしれないあたりの現状。同邸は向かって右手(北側)にあり、左手(南側)は吉武東里邸の門があった位置。は、同邸の側面図。は、同邸の縦横断面図で南側には東南東向きのテラスが設置されていた。
◆写真下は、台所(左)と玄関(右)の詳細図。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同邸。「火保図」の邸とは異なる南北に伸びた屋根の形状をしているので、67号型邸が解体されたのは1936~38年(昭和11~13)の2年間のどこかだったと想定できそうだ。ただし以前にも書いたが、そもそも朝日住宅コンペ用の図面だけが存在し、実際には建設されなかった可能性もある。は、上落合470番地に残る大谷石の縁石と板塀。


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戦前からはじまった東邦生命の御留山開発。 [気になる下落合]

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 下落合にある御留山Click!(現・おとめ山公園)の相馬邸について、またまた誤りのある資料を見かけたので改めて整理しておきたい。同時に、1936年(昭和11)に相馬孟胤Click!が他界して、相馬家が1939年(昭和14)に中野地域へ転居したあと、その敷地を購入した東邦生命Click!が1940年(昭和15)ごろから推進した、御留山の丘上に展開した宅地開発についてもついでに考察してみたい。
 まず、下落合の御留山について書かれたさまざまな資料の中で、誤りの大もとになっていると思われる“原典”は、当の東邦生命の「八十年史編纂委員会」が編集し、花田衛が執筆した5代目・太田清蔵Click!の伝記だ。1979年(昭和54)に西日本新聞社開発局出版部から刊行された、花田衛『五代太田清蔵伝』の記述を引用してみよう。
  
 新宿区下落合にあった旧相馬邸は奥州中村の中村藩(相馬藩ともいう)江戸藩邸だったもので、四代太田清蔵が昭和十四年に買い取った。/敷地一万五千坪、建坪五百坪、部屋数五十という広大な屋敷で、乙女山と呼ばれる庭は丘と林と谷川を擁して広々としていた。/昭和二十年五月二十五日の東京空襲で灰燼に帰し、土地もほとんど売り払われた。残っているのは三百坪弱の土地と石造りの堅牢な倉庫二棟だけで、太田家の美術品や什器が収納されている。/大半は住宅街に変貌したが、庭の一部が新宿区立おとめ山公園になっていて、わずかに昔の面影をしのぶことができる。まん中に道路が通り、一方は池を中心にした植え込みの庭園、他方は小川を中にした楠や椎の豊かな森となっている。
  
 この文章の中には、3つの誤りが含まれている。まず、下落合の相馬邸Click!は1915年(大正4)に御留山の丘上に竣工しているのであって、江戸期からの藩邸ではない。下落合へ相馬家が転居してくる直前、赤坂氷川明神社の南隣りにあった相馬邸Click!が、江戸期からつづく中屋敷として利用されていた藩邸の建物だ。また、徳川将軍家の鷹狩り場Click!だった立入禁止のエリアは、「御留山」「御留場」であって「乙女山」ではない。
 次に、相馬邸の母家は1945年(昭和20)の空襲によって焼失したのではなく、4代目・太田清蔵が推進したとみられる宅地開発にともない、1941年(昭和16)に相馬家の黒門Click!(正門Click!)の移築とともに解体されている。空襲によって焼けたのは、解体された相馬邸母家の南西側に建っていた、太田清蔵親子が住む新築の大きな太田邸だ。このとき、すでに相馬邸の敷地にはクロス状に東西と南北の道路が拓かれ、宅地用の区画割りまでが行われている。その区画の南西角に、新たな太田邸は建設されていた。これらのことは、陸軍航空隊が1941年(昭和16)以降に撮影した空中写真、ならびに米国公文書館で情報公開されている米軍のB29偵察機が撮影した空中写真などで、明確に規定することができる。
 また、資料としては新宿区に保存されている、御留山開発の全貌を記録した「指定申請建築線図」の存在が挙げられる。1940年(昭和15)に淀橋区あてに申請された同図は、東邦生命による御留山分譲住宅地の詳細がわかる貴重な資料だ。
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 さて、4代目・太田清蔵が進めたとみられる御留山の宅地開発だが、その手はじめとなったのが1941年(昭和16)にスタートした黒門の移築と母家の解体だったろう。このとき、黒門の福岡・香椎中学校への解体・移築に2年もかかっているのは、日米開戦後の戦時体制における軍事優先の運輸規制が影響したからだ。黒門の解体は早かっただろうが、巨大な相馬邸の母家の解体には、より多くの作業リードタイムを必要としたかもしれない。解体で出た良質な部材を、4代目・太田清蔵は売却したのか、それとも宅地開発にともない自邸の新築に流用したかはさだかでないが、少なくとも1943年(昭和18)末ごろには旧・相馬邸敷地に新たな道路が貫通し、区画割りを終えた造成地には住宅が建設されはじめている。
 1944年(昭和19)12月13日に、米軍のB29偵察機から撮影された空中写真には、旧・相馬邸の敷地へすでに道路が東西と南北に走り、区画ごとに完成した家々が11棟ほど確認できる。東西道と南北道とが交わる敷地には角切りClick!が行なわれ、交差点の中央には緑地帯が設けられている。当初、4代目・太田清蔵は御留山に拓けた丘上の敷地を、いちばん広い息子用の太田新吉邸敷地を除き、17区画(死者が出た火災事件Click!後に移築されたかもしれない太素神社Click!の境内を除く)に地割りして販売しようとしていた。その区画割りの南西角、谷戸に面したもっとも広い敷地に、太田家は邸を新築し空襲により全焼するまで住んでいた。
 翌1945年(昭和20)4月2日、すなわち4月13日に行なわれる第1次山手空襲の11日前に、米軍の偵察機から撮影された空中写真を見ると、住宅の数がすでに 15棟ほどに増えていたのがわかる。また、何ヶ所かの樹木が伐採され、食糧不足を補うためか畑にされていた様子もうかがえる。この空中写真が、4代目・太田清蔵が推進した宅地開発事業をとらえた最後の姿だろう。4代目・太田清蔵は、1946年(昭和21)4月4日に死去しているので、戦後に改めて開発された御留山の住宅街については関与していない。
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 次に1945年(昭和20)5月17日、第1次山手空襲のほぼ1ヶ月後に撮影された米軍写真を参照すると、4月2日に撮影された住宅群のうち、北側の区画を中心に半数ほどが“消滅”している。おそらく直接の爆撃ではなく、北東の近衛町Click!側からの延焼で焼失しているとみられる。だが、南側の区画に建っていた家々は、屋根が見えているので無事だったようだ。しかし、写真が撮影されてからわずか8日後の5月25日夜半、第2次山手空襲による焼夷弾の直撃で、太田邸も含む南側の区画一帯も全焼している。焼け跡に呆然と立ちすくむ、太田新吉の様子を同書から引用してみよう。
  
 五月二十五日夜の空襲で新吉の家が焼けたと知った岡本は下落合の屋敷へ駈けつけた。焼け跡に新吉が立っていた。岡本の姿を見ると、新吉はステッキで残骸をつつきながら、ぽつりと「何にもない。全部焼けちゃったんだよ」と呟いた。さすがに落胆の色はかくせなかった。岡本は小さな鏡台を持って来ていた。子供の玩具のようなものだが、ひげ剃りに必要だろう、と思って進呈した。/太田弁次郎は田園調布に住んでいて戦火をまぬがれた。翌日は自宅から銀座の本社まで歩いて出社した。こんなに歩いたのは初めてで、以後もない。本社は水びたしだったが、それでも焼け残ったのは幸運だと思った。が、下落合の新吉の家に回ってみると、みごとに何一つないまでに全焼しているのに改めて驚いた。剃刀一つないのである。弁次郎はそこで兄に安全剃刀を一つ進呈した。
  
 「新吉」は、すでに社長に就任していた5代目・太田清蔵のことで、岡本は武蔵境へ疎開していた彼の秘書、太田弁次郎は新吉の実弟だ。
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 戦後の1947年(昭和22)に撮影された米軍の写真を見ると、御留山の敷地には再建されている住宅はあるものの、ほとんどがいまだ畑にされていた様子がわかる。自邸が全焼したあと、5代目・太田清蔵は二度と下落合にはもどらず、旧・相馬邸の谷戸や弁天池を含む広大な庭は、1969年(昭和44)におとめ山公園として整備されるまで、下落合の「秘境」(竹田助雄Click!)として存在しつづけた。

◆写真上:御留山の冬枯れた谷戸を、北側の尾根筋から見下ろしたところ。
◆写真中上:上から順に、新宿区に保存されている1940年(昭和15)10月1日に淀橋区へ申請された御留山の「指定申請建築線図」。() 相馬孟胤が死去した1936年(昭和11)撮影の相馬邸と御留山(中上)と、1944年(昭和19)12月13日にB29偵察機から撮影された御留山。(中下) 1941年(昭和16)にスタートしたとみられる宅地開発が終わり、各区画には家々が建設されている様子が見てとれる。第1次山手空襲直前の1945年(昭和20)4月2日に米軍が撮影した御留山。() 住宅の数が、いくらか増えているように見える。
◆写真中下は、第2次山手空襲直前の1945年(昭和20)5月17日にB29偵察機から撮影された御留山。は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された御留山。いまだ住宅の数は少なく、空いた敷地は畑に活用されている様子が見える。は、1915年(大正4)の竣工直後に撮影されたとみられる相馬邸南側の「居間」(右手)で、『相馬家邸宅写真帖』(相馬小高神社宮司・相馬胤道氏蔵)より。
◆写真下は、丘上から弁天池へと下る広大な芝庭の現状。は、谷戸の谷底にある湧水池あたりを北側の斜面から見下ろす。は、おとめ山公園の造成計画と進捗を伝える1967年(昭和42)10月26日発刊の「落合新聞」Click!


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文化住宅を超える落合の次世代型住宅。(2) [気になる下落合]

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 今回は久七坂筋Click!に建っていたかもしれない、とても大正期が終わったばかりの昭和の最初期に造られたとは思えない住宅を、『朝日住宅図案集』Click!(東京朝日新聞社/1929年)の収録作品からご紹介したい。まるで、現代のモデルハウスのような意匠をしており、内部の間取りも今日とほとんど変わらず現代的だ。
 この邸は、下落合810番地に住む、設計者は鈴木周男の近隣に建てられているとみられる。冒頭の外観イラストに描かれたように、玄関が北側に接して設置されており、地番からいって久七坂筋から西へと入る路地の一画に建設されたものだろうか。この路地は、突き当たりがバッケClick!(崖地)で、諏訪谷Click!つづきの谷間(現・聖母坂Click!)へと急激に落ちこんでいる地形だ。1938年(昭和13)に作成された「火保図」で、下落合810番地の敷地を確認すると、この地番の住宅に相当する家に「伊藤」邸がある。1947年(昭和22)の空中写真で確認すると、屋根の形状や住宅のかたちも一致しそうだ。
 久七坂筋の両側は、大正末から宅地造成が進み、昭和に入ると次々にモダンな住宅が建設されている。ちょうど、道の両側で宅地造成が進む様子を、佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!の1作として、1926年(大正15)9月20日に『散歩道』Click!へと写しとっている。また、下落合810番地の同邸は、ちょうど遠藤新建築創作所が設計した小林邸Click!の、道路をはさんだ斜向い(路地の西側)にあった邸だ。このあたりは空襲にも焼け残り、戦後までずっと近代建築の住宅が建ち並んでいたエリアだが、わたしは学生時代から何度も久七坂筋を歩いているにもかかわらず、伊藤邸の記憶がまったくない。1933年(昭和8)に設計された小林邸と同様、意匠がモダンすぎて戦後に建てられた住宅だと勘ちがいし、印象に残らなかったものかとも考えたが、年代を追って空中写真を確認すると1960年代にはすでに解体されて存在しなかったようだ。
 敷地面積は52.25坪と、現代の一戸建て住宅とさほど変わらない。外観は今日のモデルハウスといっても通用しそうで、基礎はコンクリート打ち、土台は赤松、柱などの木材は米栂と米松、杉が多用されている。室内はすべてが洋間であり畳の日本間が存在せず、床は松やエゾ松の板材が使われている。平面図を見ると、室名の横に部屋の広さを具体的に表す「〇畳」と小さく添えられているのが、当時の図面らしい。
 外壁は、メタルラス張りと漆喰モルタル塗りで、軒先や軒裏、窓枠などはカラーペンキが塗られているが、外壁ともにカラーリングは不明だ。関東大震災Click!を強く意識した、「防災・防犯住宅」として設計された同邸の屋根は、栗色の石綿スレートで葺かれている。では、伊藤邸とみられる住宅の特長を『朝日住宅図案集』から引用してみよう。
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 【耐震的特長】平面を大体に於て矩形となし土台、梁、桁等の配置を簡単にせしこと、柱を可成均等に配置したること/総て大皷壁となしたる故、壁内に大なる断面の貫、筋違等を使用し得ること、外部に腰長押(三寸、一寸五分)を通したこと、屋根を石綿スレート葺とせること/【防火的特長】外壁を漆喰モルタル仕上としたる事、軒裏をトタン張りペンキ塗とせしこと、隣家との距離を成可く大にせしこと、台所、浴室の天井及壁は漆喰塗とし、扉は木骨にトタン張とせしこと、小児室床下に耐火安全庫を設けたる事(中略) 【小児室】を南東角に配置し、別に学齢児童の勉強室を二階に設けたること/【台所】南側に置き洗濯場を隣接せしめ、物置をも含めたること/【客室】は洋風とし、来客には折畳式寝台を使用すること/その他階段を緩にし、猶上下共一坪以上の広間を取る等、無駄を減じ余裕を増し、各室の連絡をよくし、相当の秘密を保ち、家族本位の住宅とせり
  
 屋根瓦の重さから、倒壊する家屋が多かった関東大震災の教訓が活かされ、屋根の重量をできるだけ軽くするスレート葺きが採用されている。また、壁面には今日の建築ではあたりまえになった、「貫」や「筋違」が施されている。
 防火の備えで面白いのは、当時は廉価なアルミニウムが存在しないため、火元となりやすい台所や浴室(当時は薪や石炭で風呂を沸かしていた)の扉を、焼けにくいトタン張りにしていることだ。トタン材は、関東大震災ののち急速に普及し屋根や屋根裏、扉などに多用されはじめている。また、子ども部屋の床下に「耐火安全庫」が設置されているが、このスペースも四囲がトタン材で囲まれていたのだろう。
 今日の住宅事情では難しくなっているが、隣家との距離を十分に保って延焼を防ぐ配慮もなされている。市街地とは異なり、郊外では敷地が広めに確保できたため、周囲の家々からできるだけ離して住宅を建てることが可能だった。だから、火災が起きても周辺を巻きこんで延焼することが少なく、被害を極小化することができたのだ。
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 また、同邸は「防盗」の面にも力を入れているが、つづけて引用してみよう。
  
 【防盗】南側に二間雨戸を設け、便所、浴室、台所の窓にはボルトを鉄板を以て連絡して取付けたること、外開き窓戸締に新工夫を施したること/各扉共上下二箇所にて締をなす/下部締り/在来の外開戸用鉄物を用ひ、周囲の枠組を細密になし、硝子を破つても容易に締りを外し得ざる様になすこと/上部締り/各窓框に取付けたる鈎及窓の両側の柱間に水平に取り付けたる真鍮管によつて各扉を堅く連絡し、三箇所以上にて真鍮管を固定せば決して一箇所のみ外すことを得ざる様になすこと
  
 以前にご紹介した和田邸とは異なり、同邸ではガラスを割っても侵入できない、金網入りの窓ガラスは採用されていない。その代わり鍵の施錠を工夫したり、窓の下部に真鍮管を取りつけるなど、窓枠に細かな工作がされている。
 ちょうど『朝日住宅図案集』が出版されたころ、すなわち昭和の最初期には妻木松吉こと「説教強盗」Click!が、東京各地を荒らしまわっている真っ最中であり、実際に下落合の邸も何棟かが被害に遭っている。それらの事件の犯行手口から、台所や便所などの小窓も含め、侵入口となりやすい窓にはさまざまな工夫が施された。当時の住宅は、関東大震災の教訓による「耐震・耐火」に加え、強盗や泥棒Click!の侵入を撃退する「防犯」が最優先の課題だったのだろう。
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 伊藤邸(現・パラドール下落合のあたり)の北隣りには、同じく下落合810番地の高良武久Click!高良トミClick!夫妻の自宅があった。妙正寺川に沿った下落合(3丁目)680番地の高良興生院Click!内の自宅とは別に、久七坂筋にも夫妻は自邸を建設していた。高良邸は最近まで、ていねいにリフォームを重ねて使われていたようだが、つい先日解体された。

◆写真上:『朝日住宅図案集』に収録された、伊藤邸とみられる住宅外観イメージ図。
◆写真中上は、同邸の平面図(北が下)で畳の和室はすでになく板張りの洋室となっている。は、台所のパースと防犯を強く意識した窓の仕様。
◆写真中下は、まるで現代住宅のようなデザインをした同邸の側面図。は、耐震・耐火・防犯を強く意識した同邸の断面図。
◆写真下は、1938年(昭和13)の火保図にみる同邸だが実際より大きめに描かれているようだ。は、戦後の1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる同邸。は、伊藤邸の北側に建っていた元・高良邸だが解体済み。(GoogleEarthより)


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落合地域で20回の狩りをした徳川吉宗。 [気になる下落合]

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 千代田城の8代将軍・徳川吉宗が、落合地域で鷹狩りをしたのは1717年(享保2)に鷹狩り場(御留山/御留場)の「六筋」を設置して以来、中野村への道すがらも含めると合計20回にもおよんでいる。「六筋」とは、千代田城Click!を起点に五里四方へ狩り場のコースを規定したもので、6つの筋ごとに鷹場役所や、筋沿いの村々では鷹場組合が結成されている。
 その「六筋」とは、1717年(享保2)現在で葛西筋・岩淵筋・戸田筋・中野筋・品川筋(のち目黒筋)・六郷筋(のち品川筋)という構成だった。この筋ごとに設置された鷹場役所や、村々が合同で組織した鷹場組合により、吉宗の時代以降は「将軍家の鷹狩り」Click!という行事が遂行されることになる。落合地域は、村民の立ち入りや狩猟、樹木の伐採などがいっさい禁止された、鷹狩り場の中心となる下落合村の御留山Click!を抱えていたが、上記の筋でいうと「中野筋」にあたる狩り場コースだ。
 落合地域の周辺には、将軍家の狩り場だった長崎村の鼠山Click!や下高田村の鶉山Click!、池袋村の丸池Click!周辺、雑司ヶ谷村の一帯が存在している。これまで、長崎村の鼠山でイノシシやシカの巻狩りをしたあと、清戸道Click!を1本はさんだ南側に隣接し、将軍の御立ち台(展望台)もある下落合村の御留山Click!で鷹狩りをする……というようなイメージで「将軍家の鷹狩り」をとらえていたのだが、『徳川実記』に詳細が記録された狩りの様子から、それが大きな誤りであることがわかった。長崎村の鼠山で狩りをしたあと、わずか500~600mの近さとはいえ下落合の御留山で鷹狩りをすること、あるいはその逆のコースをたどって狩りをすることなど、基本的にありえないのだ。
 なぜなら、長崎村の鼠山と下落合村の御留山は鷹狩り場の「筋」ちがいだからだ。下落合の御留山は「中野筋」だが、長崎村の鼠山や池袋村の周辺、雑司ヶ谷村の一帯は「戸田筋」であって、狩り場のコースがまったく別だ。したがって、「将軍家の鷹狩り」を仕切る鷹場役所や村々の鷹場組合も別であり、少なくとも徳川吉宗の時代には、たとえば「戸田筋」で狩りをしたあと、その「戸田筋」をあずかる役人やスタッフが、別の役所や組合が仕切る「中野筋」のエリアへ、そのまま勝手に入りこんで狩りをすることなど原則としてありえない。ただし、徳川吉宗は柔軟な思考ができる人物だったらしく、この「筋」ちがいな突然の“ドッキリ”狩りを二度ほど実施している。
 さて、徳川吉宗が落合地域で鷹狩りをした、あるいは落合地域を含む「中野筋」の道すがらで狩りをしたのは、生涯に20回におよぶ。1728年(享保13)の狩りから1745年(延享2)の狩りまで、およそ17年間のことだ。この中で落合地域のみに絞って、おもに下落合村と上落合村、葛ヶ谷村(現・西落合)に限定して狩りを実施したのは、9回にのぼるとみられる。すなわち、順に挙げてみると1739年(元文4)3月13日(旧暦:以下同)、同年4月23日、1740年(元文5)2月3日、1742年(寛保2)4月3日、1743年(寛保3)3月15日、1744年(延享元)2月18日、同年3月15日、同年10月5日、1745年(延享2)3月27日の9回だ。
 1739年(元文4)から、ほぼ毎年のように落合地域のみの狩りを行っているが、これは御留山の鷹狩りがよほど気に入ったか、周辺に拡がる風情がことさら好きだったものか、名主の娘がどこかの村のお藤ちゃんClick!なみに特別にきれいだったものだろうか。w 特に1744年(延享元)には、⑥⑦⑧と年に3回も落合地域へ鷹狩りに出かけてきている。吉宗の落合通いは、死去する6年前までつづいた。
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 上記の狩りの中で、吉宗が「筋」ちがいな狩りをしたのは、1739年(元文4)4月23日のもので、おそらく鷹場役所の役人や鷹場組合の村民たちはあわてたのではないだろうか。この日、千代田城を出発した徳川吉宗の一行がめざしたのは雑司ヶ谷村、すなわち「戸田筋」で狩りをする予定だった。ところが、雑司ヶ谷に着いたあと、実際に狩りをしたかどうかは不明だが、急に吉宗は落合で狩りをしたいといい出したようだ。「戸田筋」の鷹場役人や組合の雑司ヶ谷村民は、吉宗がつつがなく雑司ヶ谷で狩りを楽しめるようさまざまな準備をしていたはずだ。だから、なんの準備も行われていない「中野筋」にある落合へいきたいといい出したとき、おそらく呆気にとられただろう。
 この突然の狩り場変更には、いろいろな理由が考えられる。ひとつは、雑司ヶ谷の天候がよくなくていい狩りができなかったという事情だ。当時、天候による狩り場の変更はほかにも例があり、それほどめずらしいことではなかった。ただし、「筋」のちがうエリアへの狩り場変更は、めったにないことだった。しかも、雑司ヶ谷が雨で狩りがしにくいなら、おそらく1,500~2,000mほどしか離れていない落合もたいていは雨だろう。あるいは、雑司ヶ谷には獲物が少なかった可能性もある。せっかく楽しみにしていたのに獲物が少ないので、「ちがうとこ行こうぜ」と吉宗がいいだしたのかもしれない。または、なにか縁起の悪いこと、不吉なことが突然起きてしまい、「気分転換しようや、場筋変更は苦しゅうない」となったものだろうか。これなら、わざわざ「筋」ちがいの落合へ変更したのも、うなずけるような気がする。それとも、「やっぱりお藤ちゃんの顔が見たい!」というような“特殊事情”があったものだろうか。w
 徳川吉宗が、「戸田筋」から「中野筋」へと“越境”して狩りを行った、1739年(元文4)4月23日のこの日、獲物はそろそろ北へと帰る渡り鳥のガンがメインだった。おそらく、神田上水や妙正寺川か、両河川沿いの湧水池に飛来していたものだろう。「中野筋」の鷹場役人や落合地域の村の名主たちは、知らせを聞いて大急ぎで駆けつけただろうか。「戸田筋」の役人や村民の責任だから、「そんなの関係ねえ」と知らん顔はできなかっただろう。それに、少しでも顔を見せて世話を焼けば、あとで報酬が期待できた。
 さて、9回におよぶ落合地域での狩りの主要な獲物は、『徳川実記』によればがキジ、がカモとキジ、ミミズク、ウサギ、がキジ、がキジとイノシシ、がキジとカモ、がキジとイノシシ、がガンとカモ、キジ、がキジと記録されている。吉宗が落合地域での狩りを気に入った理由として、ほかの狩り場に比べ獲物の種類が豊富なことも要因として挙げられるかもしれない。したがって、鷹狩りや巻狩りを催したあとの、村々への報酬も多かったのではないかと思われる。
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戸田志村追鳥狩御条目並絵図1722.jpg
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 もうひとつ、吉宗が「筋」ちがいの“越境”をしたものに、1731年(享保16)3月18日の狩りがある。この日は、午前中に「戸田筋」の鼠山で狩りをしていて、安藤対馬守下屋敷Click!で昼食をとっているが(上屋敷Click!の字名ができたのはこのころか)、午後からいきなり「中野筋」の中野村方面へと狩り場を変更している。この日も、おそらく落合地域を通過しているのだろうが、変更の理由は不明だ。なんの前触れもなく、いきなり将軍一行が鷹狩り姿で村々に現れたら、村民たちは「そんなスケジュール、聞いてねえし!」と驚愕しただろう。ざっくばらんな性格だったといわれる吉宗には、それが面白くて「苦しゅうない、無礼講じゃ」と、たまにサプライズ狩りをやるという悪戯心があったのかもしれない。ちなみに、この日の獲物はイノシシとウサギだった。
 将軍が狩りを行なう際、「鷹場筋」沿いの村々にはさまざまな労役義務が課せられることになる。当初は、それらの労役に対して幕府から報酬米が支給されていたが、江戸期も下るにしたがって村々から「米じゃ不便なので金銭を」という声が強まったのだろう、鷹場役所から現金で支払われることが多くなった。以前に記事でご紹介した将軍の狩りには、30両余の報酬が支払われているが、それらのいくばくかは環境整備の労役のために動員された人足たちや、村民は田畑の仕事を放棄するわけにはいかないので、代わりに田畑の管理を依頼する付近の農民への支払いなどにまわされた。
 また、将軍家の狩りは獲物を得るための純粋な“鷹狩り”目的のためだけでなく、別の目的で形式的に催されることもあったようだ。なにか幕府側の事情により、とある村の財政がことさらひっ迫したときや、将軍の狩りの都合で村へ少なからず損害を与え、その村へ“狩り”ならぬ“借り”ができたときなどが考えられるだろう。その村だけに、予算を超えた特別の法外なカネを支出すれば、たちまち周辺の村々へ情報が伝播し、えこひいきの不公平感や不満が醸成されてしまう。そこで、当該の村へ鷹狩りに出かけることで、地元へカネを落としてくるという方法だ。
 「戸田筋」にあたる池袋の丸池Click!方面へと向かう、将軍家が狩りをするときに通過した「狩り道(御成道)」の様子が江戸期の絵図に記録されている。道を真っすぐに進めば、よほど効率がいいにもかかわらず、わざと階段状にジクザグで行列が通るよう、おかしな道筋の形状が採取されている。これでは、狩りの行列が周辺の畔道や田畑の中に入って、農作物を荒らすことになってしまう。天領(幕府直轄地)の生産性を低下させるような狩りは、たとえ徳川将軍といえども決して許されなかった行為だ。
東京湾.JPG
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徳川十三代将軍御鷹野之図東洲勝月(明治).jpg
 だが、田畑に入って農作物を荒らし「損害」を与えたとすれば、狩りの報酬金以外に損害賠償金を村へ支払わなければならない。わざと田畑の畔を踏み荒らすような、ジグザグのおかしな道筋の規定は、将軍家のその村に対する特別な“配慮”を想起させるのだ。しかも、作物を収穫し終えたあと、あるいは作物の種まきをする以前の農閑期に、将軍の鷹狩り一行はわざと田畑の畔へ踏み入って、「荒らした」ことにしているのかもしれない。

◆写真上:落合地域での代表的な鷹狩り場だった、御留山のピークに建つ四阿。
◆写真中上は、1763年(宝暦13)に6エリアの狩り場筋を描いた「五里四方鷹場惣小絵図」。は、「戸田筋」南辺と「中野筋」北辺部分の拡大。図版はいずれも、2010年に練馬区石神井公園ふるさと文化館が発行した『御鷹場』図録より。
◆写真中下は、御留山/御留場付近の村民による鉄砲猟が止まなかったのだろう、1721年(享保6)に出された「御留場内鉄砲取締」の高札。以前の記事で、江戸期に刀や鑓を所持していたのは武士のみという錯覚Click!について書いたことがあるが、農民は鉄砲まで所有していた点に留意したい。は、将軍の鷹狩り時に使用された葵紋の纏印などを記録した1722年(享保7)の「戸田志村追鳥狩御条目並絵図」。は、下落合の御留山にある湧水の弁天池で眠るカルガモ。
◆写真下は、東京湾で羽を休めるカモの群れ。江戸湾に面した将軍の浜御殿では、カモ猟が盛んだった。は、葵紋の入った鷹狩り時に使用されたとみられる陣笠。は、明治に入ってから制作された東洲勝月『徳川十三代将軍御鷹野之図』(部分)。


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文化住宅を超える落合の次世代型住宅。(1) [気になる下落合]

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 以前、大正期の目白文化村Click!近衛町Click!に建てられた大正期の文化住宅Click!とは明らかにコンセプトが異なる、遠藤新設計創作所Click!が1933年(昭和8)に設計し翌年竣工した、久七坂筋Click!に現存する小林邸Click!をご紹介していた。文化住宅のブームから10年もたつと、最新の日本住宅はムダなスペースを削減したり、装飾的かつレガシー的な意匠や非効率的な造りを省き、快適な生活を送れる家族中心の考え方が浸透して、少しずつ変化を見せている。
 1929年(昭和4)に東京朝日新聞社から出版された『朝日住宅図案集』には、最新の住生活コンセプトにもとづく当時の住宅が、85事例も紹介されている。同社が懸賞募集し、「昭和新時代」の住宅図案を収録したものだ。その中には、落合地域へ実際に建てられたとみられる住宅が3棟(下落合×2棟、上落合×1棟)が紹介されている。東京郊外の田園生活を前提とした文化住宅から、急速に市街地化が進む東京の外周域に開発された住宅街の1棟、すなわちそれほど広い敷地を必要とせず(せいぜい50~70坪ぐらい)、大きなコストをかけなくても建設できる、サラリーマン向けの一般的な住宅建築を模索するような内容となっている。
 ただし、同図案集は条件を与えられて設計するコンペティションなので、実際に図面通りに建設されているかどうかは確定できない。中には、設計図のままで実際には建設されなかった邸も含まれている可能性があるが、ここでは実際に建てられたという前提で当該の住所に邸を探し、稿を進めてみたい。
 新たな住宅の姿を模索する、同書の「序」より引用してみよう。
  
 北緯五十度前後の北に位する欧米大都市の住宅をそのまゝ、南洋的の夏を持つ日本に直訳して失敗するのは当然である。和服と畳と下駄等々が俄かに全滅しない限り、純洋館の生活は絶望であり、都市の凡ての近代化した今日、純日本住宅の生活も不便が多い。結局現代の生活様式が混沌としてゐるから、建築様式もまた定まらないのである。蓋し建築様式なるものは、その国の伝統とその時代の生活様式から生れ出るものだからである。(中略) 入選図案の大部分は外観が洋式であり、内部に和洋の趣味と便利とを蔵してゐる。これを大正大震災前後に流行した所謂文化住宅に比すると、全く面目を一新し、現代生活の表現として渾然たる調和を示し、昭和の一形式を創造したものといへることは主催者の満足するところである。
  
 用いられる素材が変わり、時代ごとに流行するデザインは変わっても、基本的に今日の住宅へと直結する設計コンセプトが同書の図案には多く含まれている。いわば現代住宅を形成する、88年前のプラットフォーム図案集とでもいうべきものだ。では、下落合585番地に建設されたかもしれない和田邸から見ていこう。
 和田邸は、実はこちらでも一度すでに登場している。傷痍兵士を対象とした、1941年(昭和16)に国防婦人会下落合東部分会Click!の主催による「いちご狩り」が行われたのが、特設テントの張られた和田邸の庭先だった。今回の図案集に掲載された和田邸の外観を見ると、当該の「いちご狩り」の背景に写る洋風住宅の一部は、和田邸ではなく隣家の建物の可能性のあることが判明した。和田邸は、外壁にハーフティンバー様式を採用しており、外壁が一面色つきスタッコ仕上げらしい写真の住宅とは異なるのが明らかだ。
和田邸側面図.jpg
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 和田邸というともうひとつ、下落合の物語に欠かせない人物の実家でもある。当時の世帯主である同志会Click!副会長をつとめた和田義睦の長女・和田トミは、高良武久Click!と結婚して同じく下落合に住みつづけた高良トミClick!のことだ。そして、二男の和田新一は早稲田大学建築科を出た建築士で、『朝日住宅図案集』に掲載された新たな和田邸の設計者でもある。和田義睦について、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
  
 同志会副会長理学士 和田義睦  下落合五八五
 洗練された人格、深い知識経験を以て、老齢ではあるが、矍鑠として壮者に伍し、郷党自治の為に貢献す、世の毀誉褒貶を超越した一種の尊厳さを持つて居る、氏は高知県士族和田義雄氏の二男にして、文久元年十二月二十三日を以て同県土佐郡久萬村に出生、明治十八年東京帝国大学理工学科を卒業し、次いで大学院に研究す、(中略) 先是明治十五年大学在学中学生の風紀漸く紊れんとするや、氏は率先正帽の制定を唱し、其の自尊心に訴へて素行を匡正した、今日の所謂角帽は氏の発案にして業界に於て和田帽と通称せらるゝ所以である、(中略) 家庭邦子夫人は横浜英和女学校の出身にて、此の間二男新一氏は早大建築家卒、二女節子は東京女医専在学中、長女富子は医学博士高良武久氏に嫁す、先是日本女子大を経て米国に留学、大正十一年コロンビア大学を卒業し哲学博士の学位を獲得す、帰朝後九州帝大医科大学精神科に心理学を究むること三ケ年、方今精神病科の大家として知られてゐる。
  
 設計された和田邸とみられる住宅は、外観は完全に西洋館だが内部は和洋折衷の造りで、木造2階建ての瀟洒なたたずまいをしている。基礎はコンクリートで、1階の外壁はラス張りしたあと色付きのスタッコ仕上げ(カラーは不明)、2階はクリーム色のスタッコ仕上げを採用している。屋根の色も不明だが、全体を日本瓦で葺き一部を亜鉛引き鉄板を用いて上からペンキを塗っている。柱はおもに米松を使っているが、化粧柱は檜、造作は米栂で、階段は檜と加工しやすいラワン材を採用している。また、和室は畳敷きで、洋室は化粧板ワックス拭仕上げと呼ばれるものだった。
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 同邸の特長を、同図案集に紹介された文章から引用してみよう。
  
 応接室兼書斎/約六畳敷の大さ(ママ)に約半坪のアルコープを設けサンルームに通ふ様にしたれば半坪の活用さるゝ所極めて大にして室そのものより言ふも余猶を持つ様に見ゆる也 食堂兼居間/一家の団欒は夕食の時に最も多く味はるゝもの也、而して一般家庭に於て今の最も有効に用ひらるゝ時間も夕食後なるべし、故に食堂を居間に兼ねしめたり、又この部屋は外気に接する壁を有せざる故に冬は暖く夏涼し サンルーム/日中主人の留守をなす主婦と子供との遊場仕事場として主婦室ともなり幼児室ともなるを以て極めて有効にして且衛生的也 弐階客室/一般の家には時に泊りの客の有る事多し、この為に八畳を取り又親しき客人の為にベランダあるは極めてよき事也 中等学校に行く児の為にベツドアルコープを持つ子供室を作りたれば将来の生長にも差支なかるべし 盗難よけの為に表廻りの室にはシヤツターを付したれば裏廻りの窓を鉄網入硝子とすれば盗難には絶対に安全也
  
 面白いのは、食堂兼居間がどこの外壁にも接しておらず、住宅の中央に配置されている点だ。建物の中心に食堂兼居間があるのは、家族が各部屋から集まりやすくした結果のように思われるが、冬は外壁に接していないので暖かかっただろう。
 暖房費の節約にもなったかもしれないが、外気の抜ける窓がないため夏は暑さがこもりそうだ。夏場は、隣接するサンポーチを開け放って南風を入れるか、夕食後は空け放しのサンポーチへと出て涼をとっていたのかもしれない。サンポーチの前庭には、夏場のことを考えたのか小さな噴水とみられる設備が、平面図に記載されている。
 設計図を見ると、応接室兼書斎、食堂兼居間、夫婦室兼寝室、サンルーム兼主婦室兼幼児室、客室兼寝室というように、1部屋を効率的かつフレキシブルに利用する工夫が顕著なのは、今日の住宅につながるものだ。設計当初から、専用の子ども部屋が設けられたり、1階の表側の窓には防犯用シャッターが、裏側の窓には割って侵入されないよう金網入りのガラスが装備されるなど、今日のセキュリティ重視の住宅と変わらないコンセプトが取り入れられている。
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 今日の住宅と異なる点は、台所の隣りに大正期からの女中部屋が相変わらずそのままなのと、太陽光を直接浴びられるサンルームやサンベランダなどのスペースが、1階と2階の双方に用意されている点だろう。大正末から昭和初期にかけ、結核の罹患者数Click!はピークを迎えており、陽当たりのいいところで新鮮な外気を吸うことが、なによりも結核予防になると、いまだに信じられていた時代だった。

◆写真上:昭和初期に設計された、和田邸とみられる外観イメージイラスト。
◆写真中上は、同邸の側面図。は、同邸の1・2階平面図。
◆写真中下は、子ども部屋とみられる室内イラスト。は、同邸の透過側面図。
◆写真下上左は、『落合町誌』に掲載された和田義睦。上右は、1929年(昭和4)出版の『朝日住宅図集』(東京朝日新聞社)。は、和田邸が建っていた下落合585番地(左手)の現状。は、和田邸とほぼ同じころに建てられたとみられる現存する下落合の邸宅。


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両神山系にオオカミの遠吠えが響く。 [気になるエトセトラ]

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 ニホンオオカミについては、ここでも江戸郊外の各地に勧請された三峯社Click!とともに何度かご紹介Click!しているが、先日、もっとも目撃情報が多い秩父連山へ出かけてきた。両神山の山麓まで出かけたのだけれど、別にニホンオオカミに出会いたくなって雪が残る秩父連山へ出かけたのではなく、ただ温泉へのんびり浸かりたくなったのと、食いしん坊のわたしはももんじClick!=シカ料理が食べたくなったからだ。
 江戸郊外に勧請された三峯社(大神社)は、農作物を荒らす害獣除けの性格が強かったと思われるのだが、今日の東京も含めた関東地方における同社の役割りは、「家内安全」「火災除け・厄除け」といったところだろうか。下落合地域(中落合・中井含む)にも、中井御霊社の境内には三峯社が勧請され、八雲社とともに属社となって現存している。
 江戸期には、こちらで何度か取り上げてきた富士講Click!大山講Click!とともに、秩父の三峯社へ参拝するオオカミ(大神)信仰の三峯講が存在していた。富士講は、おもに関東から甲信地方(山梨・長野)にかけての独特な地域信仰だが、三峯講もまた富士講と重なるような信仰の拡がりを見せている。富士講には、山岳ガイドのような先達が存在していたが、三峯講には御師(おし)と呼ばれるガイドが道案内をつとめた。
 御師は修験者の一種であり、三峯社のオオカミ護符を里人に配りながら、三峯講を組織していったといわれている。富士講の先達は、どちらかといえば町や村に居住する富士登山の経験者、すなわち山岳のベテランガイド的な性格が強いが、御師は山から下りてきてオオカミ(大神)信仰を布教する宣教師、あるいは伝道者のような存在で、いつも町や村に定住しているわけではない。ちょうどチョモランマ(英名エベレスト)をめざす登山家たちのため、山麓にシェルパ村が存在するのと同様に、秩父には三峯山をめざす信者たちのために御師の集落が形成されている。
 以前、中村彝Click!のアトリエへ結核を治療しにやってきた、御嶽の修験者Click!のエピソードをご紹介しているが、修験者すなわち御師は深山で修行して霊力や神通力、つまり「験」(超能力)を身につけ、里へと下りてきては「験」力によって町や村の人々の“困りごと”を解消していくのが役割りだった。下落合にも三峯講(三峯社)が存在するということは、江戸期に御師が村へとやってきて布教したものだろう。オオカミはキツネよりも強いので、精神状態が不安定となった患者=「狐憑き」の症例でも、御師がよく呼ばれている。また、水源地である山の御師は、渇水時の雨乞いでも活躍したかもしれない。中には、「わたしは3ヶ月間、天にひたすら祈りつづけて、ついに雨を降らせることに成功したのだ」、「3ヶ月も祈ってりゃ、いつか降るだろ!」と山田に突っこまれそうな、いい加減な「超能力」者たちもいたのかもしれないが。w
 オオカミ(大神)信仰は、別にニホンオオカミそのものを信仰しているわけではない。稲荷のキツネが、異界に棲む神(多くは五穀豊穣の農業神ウカノミタマ)のつかいで人々の前に姿を現す動物、つまり眷属(けんぞく)として機能していたのと同様に、オオカミも山の異界に棲む神々の眷属として人々の前に姿を見せると信じられていた。だから、江戸期の人々にとってはキツネ以上にめずらしい、深山に登らなければめったにお目にかかれないニホンオオカミが眷属となる信仰に、よりありがたみを感じていたのかもしれない。
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秩父連山.JPG
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 さて、秩父連山では目撃事例や遠吠え情報が、ほぼ毎年のように聞こえてくるニホンオオカミの気配だが、さまざまな報道や情報、資料、痕跡などを総合すると、とても絶滅したとは思えない状況が浮かび上がってくる。おそらく、秩父には複数の個体が、いまだに棲息している可能性が高いのではないだろうか。また、九州は大分県の祖母山系の山岳地帯でも、目撃情報や遠吠え情報が聞かれる。だが、ここで困ったテーマが持ち上がっている。日本の本州から四国、九州の山々に棲息していたイヌ科の動物は、どうやら2種に分類されるようなのだ。その発端は、江戸末期に日本へとやってきたシーボルトの時代にまでさかのぼる。
 ドイツの医師で植物学者のシーボルトは、日本の動物や植物の標本をヨーロッパ各地へ送り紹介していたことでも知られるが、日本の山岳地帯に住むイヌ科の動物として、オオカミ(狼=ニホンオオカミ)とヤマイヌ(豺・犲=山犬)の2種類の個体を、オランダのライデン自然史博物館へ送り出している。だが、ライデン自然史博物館では2頭を同種のイヌ科動物と規定してしまい、2頭のうちシーボルトがヤマイヌとして送った標本をニホンオオカミとして剝製にし、同館へ展示した。これが、ニホンオオカミの世界標準の個体となってしまったところから、さまざまな混乱が生じているようだ。日本で保存されている、比較的大型のニホンオオカミとされる毛皮のDNAと、ライデン自然史博物館のニホンオオカミとされる標本のDNAが一致しないのだ。
 江戸期の文献には、「狼」と「豺・山犬」などを分けて記述している資料が多いが、同様にオオカミとヤマイヌを混同して書いていそうな文献も多い。「狼」とされる動物と「豺・山犬」とされる動物は、生息域が近似しているイヌ科の動物ではあるけれど、シーボルトが江戸期から規定していたように、実は別種の動物なのではないか?……と疑われはじめた。つまり日本の山岳地帯には、ちょうど北アメリカ大陸のオオカミとコヨーテの関係と同様に、2種類のイヌ科動物がいたのではないかということだ。そして、やや大型のほうがニホンオオカミであり、ライデン自然史博物館に展示されている小型の動物がヤマイヌではないかと想定されはじめた。
 シーボルトが2種に分類したイヌ科動物を、ライデン自然史博物館が同一のものと誤認し、ヤマイヌの標本をニホンオオカミだと規定して「タイプ標本」化してしまったところから、すべての混乱がはじまっているらしい。このあたりの状況を、2017年(平成29)に旬報社から出版された宗像充『ニホンオオカミは消えたか?』から引用してみよう。
秩父の案山子.JPG
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 二〇〇二年に七例目の毛皮が秩父の民家で発見されるまで、剥製と毛皮の標本は、ライデン自然史博物館、大英博物館、国立科学博物館、ベルリン博物館、東京大学、和歌山大学にしかなかった。/一番大きい和歌山大学の剥製は、頭胴長一〇〇センチ(組み直し前は胸から尻まで七〇センチ、体高五二.五センチ、尾長二五センチ)だった。しかし、ライデンにあるタイプ標本は体高四三.五センチ、頭胴長八九.三センチ、尾長三二.五センチ(『ファウナ・ヤポニカ』から)と小柄で、対応する頭骨も確認された中で最小だ。これがニホンオオカミ像を実際より小さく印象づける一因だったのだろう。同時にこの小柄な剥製を見ると、一般にイメージするタイリクオオカミとは違う種類の動物であるかのような印象を受ける。/ライデンの剥製はニホンオオカミの大きさの平均値を下げて、ニホンオオカミ像の混乱を増幅させた。さらに、ニホンオオカミとされているものの中にも、本当は複数の動物種が含まれているのではないかという、今日まで続く論争の大きな要因にもなっているのだ。
  
 ライデン自然史博物館にある剥製には、ニホンオオカミ(Canis hodophilax)とプレートに記載されているが、困ったことに剥製台座の裏側にはJamainu(山犬)と記録されているようだ。同博物館の学芸員が、どこかでシーボルトの標本2体が、実は別種のイヌ科動物であることに気づいたからだろうか。
 同書の著者が実際に目撃しているように、ニホンオオカミ(仮称「秩父野犬」Click!)とみられるイヌ科の動物は、確かに秩父の山中に棲息しているようだ。スチール写真ではなく、より情報量の多い動画としてとらえられる日がくることを願うばかりだ。
 秩父の山里にある村を歩いているとき、わたしは異様な光景を目にした。案山子(かかし)が横へ手をつなぐように、山に向かって立っていたのだ。案山子は鳥獣の侵入を防ぐために、田畑のあちこちへ等距離に立てられているのが普通だ。だが、秩父では山の斜面を遮るように、横へ連続して拡がるように立てられている。地元の方に訊くと、シカやイノシシ、サルなどが頻繁に村へ下りてきて、畑地の中をわがもの顔で歩いているらしい。
西荻窪三峯社.JPG
井草八幡三峯社.JPG
ニホンオオカミは消えたか?.jpg ニホンオオカミは生きている.jpg
 つまり裏返せば、ニホンオオカミの棲息に必要な動物が、秩父にはふんだんに存在するということだ。いや、この言い方はどこかで逆立ちしている。ニホンオオカミを絶滅近くにまで追いやったせいで、本来なら捕食されるべき動物の個体数が増えつづけ、山での食糧が足りなくなって里の畑地を荒らすようになってしまった……ということだろう。

◆写真上:江戸期の下落合村で勧請したとみられる、中井御霊社に建立された三峯社。
◆写真中上は、早春に霞がただよう秩父の山々。は、さまざまな動物が棲息する秩父の山林。は、両神山から北東へ3kmほどのところにある氷柱で有名な尾ノ内渓谷の吊り橋。山奥の夜間にもかかわらず、多くの人たちが訪れる。
◆写真中下は、山に向かって横一線に並べられた案山子。は、ニホンオオカミの目撃例が多い秩父連山の両神山と七滝沢あたり。(GoogleEarthより)
◆写真下は、西荻窪駅前にある三峯社。は、井草八幡境内にある三峯社。下左は、秩父を中心にニホンオオカミをめぐる最新動向がまとめられた2017年(平成29)出版の宗像充『ニホンオオカミは消えたか?』(旬報社)。下右は、九州における目撃情報がまとめられた2007年(平成9)出版の西田智『ニホンオオカミは生きている』(二見書房)。


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二度にわたる山手空襲の証言。 [気になる下落合]

北側上空19460223(広範).jpg
 これまで一度も見たことのない、めずらしい空中写真を見つけた。敗戦から6ヶ月後に、B29から撮影された画面だ。写真のタイムスタンプは、1946年(昭和21)2月23日となっている。板橋の上空あたりから、ほぼ真南を向き斜めフカンで撮影されてたもので、東京西部が広くとらえられており、主要な街々はほぼ全域が焼け野原だ。
 写真のちょうど中央が新宿駅Click!で、白く光っているのは淀橋浄水場Click!の濾過池と沈殿池だ。その向こう側(南側)に見えている森は、明治神宮と代々木練兵場Click!で、浄水場の左手(東側)に見えているのが新宿御苑Click!だ。新宿御苑の向こう側(南側)には、神宮外苑と絵画館Click!がポツンと確認できる。また、左手には千代田城Click!の外濠と内濠が見え、その向こう(南)には東京湾が拡がっている。上部の右側に見えているのは、東京都と神奈川県の境を流れる多摩川だ。
 手前(北側)の左手に見えている、道路が集まる街は池袋駅周辺だが、ほとんど爆撃しつくされてなにもない。駅の左手(東側)に見えている施設は巣鴨刑務所で、この時期は戦犯を収容する巣鴨プリズンと呼ばれていた。池袋駅から、巣鴨プリズンを囲むように、山手線がカーブしているのが見える。池袋駅から南へ、目白駅、高田馬場駅、新大久保駅とつづき、その周囲はほとんど焦土と化している。
 高田馬場駅の向こう側(南側)に拡がる戸山ヶ原Click!には、山手線東側のコンクリートドームに覆われた大久保射撃場Click!や、西側の陸軍科学研究所/陸軍技術本部Click!が確認できる。夕陽を反射して、右側(西側)で光っているのは、目白商業学校Click!の下で大きくカーブし、井上哲学堂Click!へと通う妙正寺川Click!の水面だ。戦争末期、B29の搭乗員や、P51やF6Fなど戦闘機のパイロットたちは、このような光景を目にしていたのだろう。東京の市街地と同様に、西郊部も徹底的に破壊されていたのがひと目でわかる写真だ。
 1945年(昭和20)3月10日Click!東京大空襲Click!から、そろそろ72年がたとうとしているが、きょうは同年4月と5月の二度にわたって行われた、山手空襲Click!について書いてみたい。まず、目白文化村Click!の第二文化村にいた安倍能成Click!の証言だ。安倍能成は、下落合4丁目1655番地(現・中落合4丁目)の敷地を、1924年(大正13)の初めに入手し夏までに自邸を建設している。1964年(昭和39)4月11日発行の「落合新聞」Click!より、安倍能成『私と下落合』から引用してみよう。
  
 目白といふけれども本当は下落合で、その頃は淀橋区に属し、四丁目の一六五五番地で、昭和二十年の爆撃で焼けてしまった頃は、昭和十五年の秋に、一高の校長として又東京に帰って居たので、その家に住みついて居た。その頃は死んだ長男がまだ生きて居り、妻と長男とを信州にやって、一人で二階に居たのと一緒に、燃える家に水をかけて防いだが、二階が落ちて来て危険が迫ったので、思ひ切って御霊神社の下に設けてあった長い防空壕に避難した。ドイツから大分書物を買って来たから、書庫を別に鉄筋コンクリートで建てたけれども、上空からの火は始(ママ)めてのことで考へなかった。翌朝だったか家に帰って、書庫の焼跡を見ると、燃えた本の灰が雪のやうに白く美しく、上の方にある書物の灰は崩れないで、活字がはっきり読めた。朝鮮から李朝や高麗や新羅の陶磁器をいくらか持って帰ったが、それは跡かたもなくなって、ただ水滴だとか小瓶などを、壺に入れて土にいけておいたのだけが残った。(中略) 私は一高校内にある柳田教授の官舎に御厄介になり、その家が焼けてから一高の同窓会館に移り、更に経堂の知人の家においてもらひ、終戦の年の十月末に長男が病死したので、妻、嫁、孫と一緒に代田一丁目の、寺島といふもとの岩波の店員の持家の一部においてもらひ…(後略)
  
北側上空19460223.jpg
新宿西部(現代).jpg
 この空襲は、同年4月13日の夜半に行われた第1次山手空襲で、せっかく書庫をコンクリートで建設したのに、空からの焼夷弾攻撃にはひとたまりもなかったことがうかがえる。目白文化村は、つづいて5月25日の空襲でも爆撃を受けている。また、安倍能成Click!は文化村の自宅で罹災したあと、空襲に追いかけられるように都内各地を転々としている様子がわかる。
 つづいて、目白文化村の南西側、中井駅から下落合の西端にかけての空襲被害を見てみよう。同じく、4月13日夜半の空襲による惨状だ。ただし、このあたりの被害状況は、わたしも取材で何度か経験しているけれど、戦時の極限状況と極度の混乱から4月13日夜半と5月25日夜半の空襲被害を混同しているケースが多いので、それをお含みおきのうえお読みいただきたい。1967年(昭和42)8月10日発行の「落合新聞」より、「座談会」から引用してみよう。下落合の丘上に自邸があったとみられる、高山福良という方の証言だ。
  
 私のところから五六軒東の方は焼けて、文化村が全部焼けて、それから、坂下がかなり焼けた。この辺は御霊神社の丘のあたりは一帯に焼け残った。ほんとに、焼け残った方が珍しいんだ。それで、四月十三日のあの晩にはね、これは後になって分ったことなんだけど、中井駅近くの妙正寺川に焼夷弾が九十何発、百発近くのものがずらっと川の中に落ちている。だから、あれがね、ちょっとのボタンの押し違いで、われわれの住宅街の上に落そうとしたもんだろうと後になって分った。だから、あれが落ちていたらわれわれのところは全部灰になっていたことだろう。(中略) 私の隣組はほんの僅かだけれど奥に引っ込んでいるんで、守っていると、表の様子が分らない。表が人通りがはげしいというんで、出て見るとね、文化村のほうがまっ赤に燃えている。それで目白学園とか、御霊神社の方にね、どんどん避難していくわけなんですよ。これは大変だというんで、家族を御霊さんの方に逃がして、男の子と私だけがうちに残っていたんだが、周辺がどう燃えているのか分ないんだな。で、水をかぶってね、表に出て見て、二の坂の方に行ったんだが、坂の半ばまでは降りられないですよ。下は燃えているし、火がパッパして。向うを見ると東中野の方まで焼野原になっているんだ。その中に、森があったり、残ってる家がちょっと見える。(カッコ内引用者註)
  
平塚空襲19450716.jpg
M69集束焼夷弾.jpg
250キロ爆弾尾翼.JPG
 同じ座談会で、上落合に住んでいた村上淳子という方の証言も掲載されている。上落合の被害は、4月13日よりも5月25日の空襲のほうが圧倒的に大きかった。つづけて、「落合新聞」の同号から引用してみよう。
  
 上落合は四月の時より五月二十五日ですか、その時の方がひどかったんです。四月のときは、わたくしうちにおりまして、みんな東中野の方へ逃げたんです。あちらが高台だというんで。どんどんどんどん逃げて行きましたからね。そしたら、あちらの方から燃えてきて、またこっちへ返(ママ)って来て見たら家があったという状態なんです。わたくしのうちは線路の端で強制疎開でしたが、わたくしはそのときうちにいたんです。/空襲の状態は、いまの花火どころじゃないですね。焼夷弾の落ちるのがきれいなんですよ。落ちてくるときから火がついていて、それが無数に、パッと火が散っていて、音がして。(中略) 通風筒のような、くるくるまわる、あれがはまっているんですよね。まるで打上花火みたいにきれいなんですよ。で、それが落ちて来ますと、アスファルトが全部燃えちゃうんですよ。ですから、歩けも何もできないんですよね。一面火の海です。(中略) それから、五月にうちのほうが焼けましたときは、わたくしは勤務で新宿駅に勤めていたんです。その頃は男の人は戦争に行ってらして、内地は女のほうが重要だったもんですから勤めに行ってましたら空襲で、わたくし達は駅の地下道にもぐっちゃったんです。/それで、夕べ焼けた、というんで外へ出て見ましたら、もう新宿の駅はありませんでした。うちへ帰るのに新宿駅から歩いて来ましたけれど、途中、家は一軒もありませんでした。(中略) 新宿から大久保のところを通って、小滝橋を通ってくるのに、焼野原なんです。落合のほうから来る方にね、上落合のほうは残ってますでしょうか、と尋ね尋ね来たんです。(カッコ内引用者註)
  
 アスファルトが燃えていたのは、上落合と東中野の間を横断する早稲田通りの情景だろう。東中野から落合方面を見た、松本竣介Click!スケッチClick!が想い浮かぶ。
明治神宮19450525.jpg
渋谷東・広尾.jpg
 米国の国防省から国立公文書館へわたっていた、空襲の記録写真が次々と公開されるにつれて、東京大空襲Click!のみならず二度にわたる山手空襲の様子も、各街ごとにリアルタイムで写真撮影がなされていたことが判明した。以前、1945年(昭和20)5月25日夜半に撮影された、被弾直前の新宿駅周辺の写真をご紹介Click!したことがある。それらの写真には、街や駅名などはほとんど記載されていないが、タイムスタンプで被爆している東京の街並みを推定することができる。夜間撮影の画面で非常にわかりにくいのだが、東京のどの街の空襲なのかが判明したら、改めてこちらでご紹介したいと思っている。

◆写真上:1946年(昭和21)2月23日に撮影された焼け野原の東京西部の状況で、東京湾には幕府の台場が点々と見えているが72年前の海岸線であり現状とはまったく異なる。
◆写真中上は、同写真を目白・落合地域(手前)を中心に拡大したもの。は、落合地域から南をGoogleEarthの斜めフカンで見た現代の様子。
◆写真中下は、1945年(昭和20)7月16日(日本時間17日)に撮影された海軍火薬工廠のあった平塚市街地を絨毯爆撃するB29の編隊。は、東京の上空から市街地へバラまかれたM69集束焼夷弾の構造。は、保存された250キロ爆弾の尾翼部。
◆写真下は、1945年(昭和20)5月25日夜半に空襲を受ける代々木や原宿の市街地と明治神宮。画面やや右寄りに山手線がタテに走り、ちょうど原宿駅上空で焼夷弾が炸裂して落ちていく。は、同じく5月25日夜半の空襲で燃えはじめた渋谷駅東口と広尾の市街地一帯。山手線が左下に見え、その線路を横ぎるカーブした鉄道は東急東横線。


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焼け残り沿線住宅に撒かれた米軍ビラ。 [気になるエトセトラ]

神戸空襲B29被弾19450717.jpg
 戦争も末期になって、連日、B29の機影が日本の上空へ頻繁に現れるようになると、膨大な量の「伝単」と呼ばれた米軍宣伝ビラ(Propaganda leaflets)が空から撒かれるようになった。その多くは、国民の戦意を喪失させるような「平和」志向のものであったり、太平洋の各地で行われた日米戦の戦闘詳報であったり、ときには次の爆撃都市を予告する内容であったりした。
 宣伝ビラは、南洋の島嶼部から飛び石伝いに日本本土へと迫る米軍の攻略作戦の状況を、ほとんど事実にもとづいて報道した内容も多かった。したがって、ラジオからの「大本営発表」が信用できなくなった人々は、B29が撒いていったビラを誰にも見つからないようにこっそり拾い、実際の戦況を知ろうとむさぼるように読んでいる。
 日本では徹底した報道管制が敷かれ、勇ましい精神論やほとんど虚偽の報道しか流されなくなっていたため、正確な戦況の情報に飢えていた。ただし、もし「伝単」を拾ったことが当局に知れると、警察や憲兵隊に検束されてひどいめに遭うことになる。だから、誰にも知られずに拾うことは困難だったが、それでも情報に飢えていた人々は米軍が撒いたビラを見つけると、こっそりポケットにねじこんで自宅に持ち帰っている。
 上落合から短期の上高田暮らしをへて、鷺宮2丁目786番地(現・白鷺1丁目)に自邸を建設して転居した壺井繁治Click!壺井栄Click!夫妻は、配給制による食糧不足から近くの土地を借りて、サツマイモClick!を栽培していた。近所の農家から苗木800本を購入し、雑草と石ころだらけの荒れた土地を耕しながら、少しでも飢えをしのごうと開墾を繰り返していた。きつい農作業は、ペンしか持たない詩人にはかなり辛かっただろう。いつ空襲に遭うかわからないので、足にはゲートルを巻き鉄兜(戦闘用のヘルメット)を背負っての農作業だった。その作業中に、壺井繁治は米軍機が撒いた「伝単」をひろっている。
 当時、西武電鉄Click!(現・西武新宿線)沿線にあったほとんどの駅は、駅前や主要道路沿いのみに住宅街が拓けた新興住宅地であり、いまだ一面に田畑が拡がるような風景だった。戦争も末期を迎えるころ、壺井繁治は西武線車内で蔵原惟人Click!と偶然に再会し、蔵原が網走刑務所から小管刑務所へと送られ、病気が重篤になったのでようやく保釈されて、上石神井の自宅で静養しているのを知った。身体が回復してきたのか、蔵原は仕事の翻訳原稿をどこかへとどけにいく途中だったようだ。
 戦争も末期になると、特高Click!の刑事たちが反戦運動や平和運動をしていた人物たちで、刑務所には収監されていない「転向」組も含めた社会主義者や共産主義者、民主主義者、自由主義者、アナーキストなどの家庭を訪ねることが多くなった。それは検挙するためでも弾圧・監視するためでもなく、戦争の敗色が濃くなった現状を踏まえ、今後はどのような政治や社会が到来するのか、「ぜひ意見を聞きたい」という訪問だった。さんざん弾圧し、検挙者の虐殺を繰り返した特高警察が、いまさら彼らの「意見」に耳を傾けるのも滑稽きわまりないが、日本軍の連戦連敗に心細くなり、上層部(内務省)が大日本帝国という国家や組織の存立そのものに、本格的な危機感をおぼえていたのだろう。
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宣伝ビラを撒くB29搭乗員.jpg
 壺井夫妻のところへも特高刑事がやってきて、高圧的な態度が鳴りをひそめた“低姿勢”で「意見具申」を求めている。また、戦後の「戦犯」追及Click!への恐怖感もあってか、弾圧していた人々へおもねる姿勢もあったのだろう。壺井繁治は、「別に意見などありませんよ。第一、戦争については、これまで大部分のひとがとやかく意見を吐くことを禁じられていたんですからねえ、今更意見を求められても、多くのひととおなじように、いうことなしですよ」と、皮肉っぽく特高の来訪を突っぱねている。
 さて、B29からの宣伝ビラが多くなったのは、そのような状況のさなかだった。宣伝ビラは、東京西部ではどうやら焼け残った住宅地の多い、西武線や中央線、小田急線など郊外電車の沿線にバラ撒かれているようだ。下落合では聞かないが、隣りの上高田では「伝単」をひろったというお話を聞いたことがある。壺井夫妻は、鷺ノ宮駅の南側にある鷺宮八幡社近くに自宅があり、サツマイモを作付けした畑地もその沿線に位置していたので、おそらく西武線沿いの焼けていない住宅街を眼下に見下ろしながら、B29は宣伝ビラを撒いていったのだろう。そのときの様子を、1966年(昭和41)に光和堂から出版された、壺井繁治『激流の魚』から引用してみよう。
  
 ある日、炎天の下で、畝の上にはびこっている雑草を抜いたり、長く伸びた芋の蔓を引っくりかえしたりしていた。そこへB29が一機侵入してきて芋畑の真上あたりで物凄い爆発音をあげた。わたしはてっきり爆弾が投下されたのだと思い、畑の隣りの竹藪の中へ逃げこみ、地面に身を伏せた。けれども地上になにも炸裂する様子がないので、少々不思議に思い、やがて飛行機が上空を通りすぎ、北東の方角へだんだん遠ざかってゆくのを見計らって、藪の中から出てくると、何万枚とも知れぬほどの紙片が、はじめはまるで白い粉みたいに空からゆっくりと落下してきて、わたしの芋畑にもあちらこちらと散った。
  
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 誰も見ていないのを確認して壺井繁治が「伝単」拾うと、それは米国のトルーマン大統領の写真が掲載された、降伏勧告の宣伝ビラだった。彼は急いでポケットにねじこんでから、改めて周囲を見まわすと、近くの農家から出てきていた農夫たちが、やはりビラを拾ってこっそり隠すのが見えた。
 B29の機体が見えなくなったころ、近くの高射砲陣地から砲弾が数発、思い出したかのように発射されている。しばらくすると、自転車(もはや自動車ですらない)に乗った兵隊たちが2~3人畑へやってきて、散らばっていたビラをあたふたと大急ぎで回収しはじめた。帰りの西武線で、壺井繁治は小さな子どもを背負った老婆に出会っているが、老婆もどこかでビラを拾ったのか、「まるでチンドン屋から貰った広告ビラみたいに、背中の子供にそれを持たせて歩いている」のを目撃している。もはや大本営発表のウソ報道を見かぎり、ほとんどの国民が信用していないのを象徴するような光景だった。
 このとき、壺井繁治が拾った「伝単」は、No.2088と記載されている「日本国民諸氏 アメリカ合衆國大統領ハリー・エスツルーマンより一書を呈す」だった。それは、戦争継続は犠牲者を増やすばかりで無意味であるという内容の、以下のような文面だった。
  
 ナチス独逸は壊滅せり 日本国民諸氏も我米国陸海空軍の絶大なる攻撃力を認識せしならむ 貴国為政者並に軍部が戦争を継続する限り我が攻撃は愈々その破壊及び行動を拡大強化し日本の作戦を支持する軍需生産輸送その他人的資源に至る迄徹底的に壊滅せずんば熄まず 戦争の持久は日本国民の艱苦を徒らに増大するのみ 而も国民の得る処は絶無なり 我が攻撃は日本軍部が無条件降伏に屈し武器を棄てる迄は断じて中止せず 軍部の無条件降伏の一般国民に及ぼす影響如何 一言にて尽くせばそは戦争の終焉を意味す 日本を現在の如き破滅の淵に誘引せる軍部の権力を消滅せしめ前線に悪戦苦闘中なる陸海将兵の愛する家族農村或は職場への迅速なる復帰を可能ならしめ且又儚なき戦勝を夢見て現在の艱難苦痛を永続するを止むるを意味す 蓋し無条件降伏は日本国民の抹殺乃至奴隷化を意味するものに非る事は断言して憚らず
  
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 このとき、米国へ実質亡命していた八島太郎(岩松惇)Click!は、「伝単」へのイラスト制作や文面の考案に協力している。それは、1943年(昭和18)に『あたらしい太陽』Click!の創作とともに、軍国主義・日本の戦争を早く終わらせようという、国内で反戦活動していたころからの強い意思もあったのだろうが、もうひとつ米国政府に叛意がなく、日本のスパイだと疑われるのを回避する目的も同時にあったのだろう。米国内における日本人あるいは日系人への敵視は、戦争が終結するまで変わらなかった。

◆写真上:1945年(昭和20)7月17日に、神戸上空で被弾し第4エンジンが停止したB29。
◆写真中上は、1949年(昭和24)の空中写真にみる鷺宮2丁目786番地にあった壺井繁治・壺井栄夫妻の自宅界隈。は、自宅の北側にある鷺宮八幡社。は、米軍の「伝単」(宣伝ビラ)を撒く準備をするB29の搭乗員。
◆写真中下は、広島への原爆投下を予告した「空襲予告ビラ」。も、各都市に撒かれた爆撃を予告する宣伝ビラ類。東京大空襲Click!の直前にも「予告ビラ」は撒かれたが、軍当局がほとんど回収して秘匿したため避難した市民はほとんどいなかった。は、大阪を空襲するB29。画面の上部には、大阪城の内濠と天守が見えている。
◆写真下は、各都市への空襲予告ビラ。は、拾われやすいよう10円札を模した「伝単」で裏面に宣伝文が書かれている。は、壺井繁治が畑で拾った「降伏ビラ」。


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上落合の妻たちを「支援」する店員。 [気になるエトセトラ]

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 下落合の南に拡がる地域、早稲田通りも近い戸塚4丁目593番地(旧・戸塚町上戸塚593番地)に住んだ窪川稲子(佐多稲子)Click!は、1949年(昭和24)に出版した『私の東京地図』の中で、自宅の界隈を細かく描写している。以前、近くの戸塚町3丁目866番地(上戸塚866番地)に住んでいた藤川栄子Click!や、上落合から目白町3丁目3570番地に転居した宮本百合子Click!との交流や暮らしぶりについて書いたが、『私の東京地図』ではより詳しい生活の様子や、上落合に住んでいた友人たちとの交流の詳細が語られている。
 そこでは、佐多稲子が上戸塚へと転居してくる以前、早稲田通り(戸塚大通り)が小滝橋Click!まで拡幅される前の様子が記録されていてめずらしい。高田馬場駅で下車して西へ歩き、上落合の友人たちを訪ねる道すがら、早稲田通りの様子を観察していたものだろう。小滝橋までの通りが拡幅されたのは、佐多稲子が上戸塚へと転居してくる数年前、1930年(昭和5)ごろのことだった。
 早稲田通りは、小字が「宮田」とふられている戸塚町(大字)上戸塚(字)宮田345~346番地あたりで、ほぼ直角に近いかたちで折れ曲がっていたのは、ずいぶんあとの時代までつづいている。現在もその名残りがハッキリと残っているが、高田馬場駅に近づくにつれ狭い道の両側には店舗が軒を接するように並んでいた。佐多稲子は、早稲田通りの拡幅工事が完了し、道路沿いに新しい商店が増えはじめたころに上戸塚へ引っ越してきている。当時の様子を、『私の東京地図』(新日本文学会版)から引用してみよう。
  
 早稲田の方からきて高田馬場の駅前で省線のガードをくぐり、小滝橋で新宿からきた道と合して中野へと通じてゐる戸塚の大通りは、私のそこへ越していつた昭和八年頃、まだアスフアルトに汚れさへないほど新しく、新しいだけにがつちりしてゐた。両側にはもう商店が建ちならんで丁度歳末の、売り出しの看板が店から店へつづいて歩道の上に張り出され、ざわざわとしたあわただしい商店街の空気をつくつてゐた。チンドン屋の鳴らす鉦もどこからか聞えてをり、両側の歩道の端しに立てた松飾りの笹が寒風に葉音を立ててゐる間を、円タクの自動車が右からも左からも走つてゐた。/まだこの道が、四五人も連れ立てばいつぱいになるほどの狭い一本道だつたのは、その三四年前のことだつた。上落合に集会があつてその帰りに高田馬場へよる時、小滝橋のあたりは、神田川すれすれに小さな木の橋があつて、川岸はくづれて橋と水がいつしよになつてゐた。そのあたりは古鉄やぼろや古新聞などを地べたに並べた屑市が暗い灯りで狭い道をてらしてゐた。早稲田の学生街の続きで、高田馬場近くになると、ちよつと折れた小路に紅雀といふ名の知られた喫茶店などもあるというふうだつたが、早稲田までこの狭い一本道は、本屋や洋品店などの店でつづいて、雨あがりなどは、道が低いのでぬかるんだが、夜などはこのへんまで学生でいつぱいになつてゐた。
  
 上戸塚の借家で、窪川稲子(佐多稲子)は隣人の妻と親しくなっている。時期は1933年(昭和8)だと思われ、夫の窪川鶴次郎Click!は治安維持法違反で豊多摩刑務所Click!に収監されていた。それを聞いても、隣りの主婦は特に驚かなかったようだ。夫が戸塚町信用組合(戸塚町戸塚74番地)に勤めている主婦は、「思想運動なさる方は、そりやァねえ、苦労なさいますよ。いえ、私んとこだつて、主人も学生時分にはね、まんざら赤くなかつたわけでもないんですよ。私も主人と結婚しますときはね、親が反対だつたもんですから、家を飛び出すやうなこともしましてね」と、妙な連帯感をしめされている。
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 佐多稲子は、特高Click!による弾圧で誰も引き受け手がいなくなってしまった、日本プロレタリア文化連盟(コップ)の婦人雑誌「働く女性」と、もう1冊の大衆雑誌を友人とともに自宅で密かに編集していた。編集に参加していた特高に検挙されていない男たちは、「理論的な対立」を理由にこれらの雑誌の編集から次々と手を引いて逃げていった。友人は「ね、一番困難なときになつて、それを支えてゆかうといふのがわれわれ女二人だなんて、どうお」といいながら、ふたりで「はつははは」と高笑いしている。
 高田馬場駅の方向へ歩いていく友人のうしろ姿を、佐多稲子は早稲田通りの酒屋の角まで見送っている。この「下宿屋の看板が幾つも立ててある酒屋」とは、佐多稲子の家から早稲田通りを駅方向へ300mほど歩いたところにある、戸塚町3丁目362番地の小島屋酒店のことだろう。小島屋酒店のすぐ東側には、戸塚消防団詰め所とともに火の見櫓が建っていた。現在のシチズンプラザの斜向かい、(株)和真ビルのある角地だ。彼女が見送る、「明るく深い紫色の羽織をきたその肩は、丸くよく肥えている」と書く友人とは、目白町の自宅へ帰る宮本百合子Click!だろう。
 1933年(昭和8)の暮れも押し詰まったある日、上落合の友人ふたりが「お正月の買物にゆかない?」と、佐多稲子の家を訪ねてきた。いずれも、夫が治安維持法違反で豊多摩刑務所に服役しているふたりだった。だが、佐多稲子の手もとには現金がほとんどない。それを告げると、ひとりが「大丈夫よ」と薄笑いし、もうひとりが背をまげてケタケタと笑ったらしい。正月の準備もまったくできず、夫への正月の差し入れもなくて途方に暮れていた佐多稲子は、子どもをねんねこでおぶって、ふたりについていくことにした。以下、同書から引用してみよう。
  
 新宿の雑閙は押しせまつた年の暮の、夕方かけた時刻で、歩道は歩きもならない。ガラスと果物の色彩と電燈の光りできらきらしてゐる高野フルツパーラーの前をやうやく抜けると、中村屋の広い間口にも人があふれてゐる。ルパシュカの店員の姿を人の頭越しに探すと、見知つた顔がちよつとの暇もなく客に接してゐる。そのとなりの食料品店は普段でも通行人の足もとまでじめじめさせるやうに、干物や貝の箱を店さきに張り出してゐる店なのに、歳末だから一層店先には商品が積み立てられてゐる。鮭、かまぼこ、伊達巻、数の子、それにきんとんから黒豆から、何でも無いものはない。/「いらつしやいまし。」/もう青年に達したひとりの店員は、東京っ子の下町育ちらしい気の利いた表情でわざと素知らぬ顔で私たちの前に立つ。
  
 当時、新宿中村屋Click!の東隣りにある「食料品店」とは、乾物屋の「近江屋」(淀橋町角筈1丁目12番地)だった。ふだんは乾物を中心に扱っていたが、正月にはお節料理の素材を店先に積んで売っていたらしく、この店で正月料理の材料はほとんどそろったらしい。
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佐多稲子1929.jpg 佐多稲子・壺井栄1960頃.jpg
 女性たちが店前に立つと、ひとりの青年店員が3人の顔を見ながら出てきて「ひとり芝居」をはじめている。彼は3人の女性と、さも注文の会話をしているような演技をし(彼女たちはなにも話さず商品を見つめているだけ)、次々と正月に必要な食料品を3人ぶん大きな袋へ詰めはじめた。青年店員は、彼女たちの前でひとりごとの「会話」をすると、商品が山積みになっている間を何度も往復しながら、袋はどんどんふくらんでいった。そして、重たい買い物袋を渡すと、さもおカネを受けとったかのような顔と仕草で、「ありがとう存じます」と大声でいって3人の前を離れ、すばやく次の客の前へ立って応対をはじめた。そのときの様子を、同書から少し長いが引用してみよう。
  
 (青年店員は)さも注文を聞いたふうにうなづいて、素早くそこに積んであつた大きな伊達巻を三本自分の手に取上げると今度は、まつ白な小田原かまぼこをやつぱり三本、雑煮用のすぢも、煮しめ用の竹輪も加へて、抱へきれなくなると、一応小走りに店の奥へそれをおきにゆき、今度は、折づめの金とんや煮豆を、そのあとでは、数の子やわかさぎや、そして頭つきの鮭さへ奥へ持つて行かれる。この間にも店の前に集つてゐる客の重なりは入れ代り立ち代りしても、その数は減りはしない。数人の店員は店の奥と先を往来してちよつと足を止めてゐるすきもない。だから私たちは、店の前の客の後ろに立つて、幾分そはそはしたおもひと、何かをかしさとのごつちやになつた気持でゐる。缶詰類の棚に囲まれた店の奥のレヂスターで金の出し入れをしながら、店さきを監視してゐる表情の番頭の視線も、外から見える。私はその目と自分のまなざしとがもしゆき合へば、対手の疑惑をきつと誘ひ出すにちがひない、と、それをおそれて、店の灯の外になるやうにしてゐる。/やがてひとつの包みになつて抱へ出されてきた荷物をみて、私ははつとなる。ひと梱ほどの大きさになつてゐるのだ。/「どうも、ありがたう存じます。」/よく透る高調子で言つて空手になると、次の客にもう顔をむけてゐる。
  
 その鮮やかでスキがなくすばしっこい店員の動きに、窪川稲子(佐多稲子)は呆気にとられていたが、店の前をそそくさと離れると新宿駅前までもどってきたところで、たまりかねて3人は笑いだした。3人は「だめよ」と笑いをこらえつつ、歩調を乱れさせながら山手線に乗っている。上落合の友人ふたりは、帰りがけに佐多稲子の自宅に寄って袋を開けてみると、豊多摩刑務所への差し入れ用としてバターや折り詰め、缶詰までがちゃんと入っているのに驚いている。
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 さて、このときの上落合の友人ふたりとは、誰だろうか? ちょうど1933年(昭和8)12月現在、夫が刑務所へ収監されている人物は、上落合1丁目503番地の壺井栄Click!と、上落合1丁目186番地の村山籌子Click!がいる。ただし、ちょうど同じころ村山知義Click!と窪川鶴次郎は、12月中に「転向」してようやく保釈され出獄するのだが、村山籌子も窪川稲子(佐多稲子)も正月を前に、いまだそれを知らなかったのかもしれない。

◆写真上:淀橋町角筈1丁目12番地にあった、乾物屋「近江屋」跡の現状。リニューアルした新宿中村屋の東隣りの敷地だが、現在はビル建設工事のまっ最中だ。
◆写真中上は、1929年(昭和4)作成の「戸塚町市街図」にみる拡幅前の早稲田通り。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる早稲田通り。は、戦後に喫茶店で撮影された佐多稲子(左)と宮本百合子(右)で、奥にポツンと中野重治の姿が見える。
◆写真中下は、1938年(昭和13)ごろの記憶をもとに描かれた濱田煕の「昔の町並み」で、1995年(平成7)発行の『戸塚第三小学校周辺の歴史』より。下左は、1929年(昭和4)に下落合2108番地の吉屋信子邸Click!で撮影された窪川稲子(手前)と吉屋信子(奥)。下右は、戦後の1960年代の撮影と思われる佐多稲子(右)と壷井栄(左)。
◆写真下は、1932年(昭和7)に撮影された新宿通り。ビルは新宿三越(右)とほてい屋(のち伊勢丹/左)で、乾物屋「近江屋」は新宿三越の手前にあった。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる新宿通り。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる新宿通りで、2005年(平成17)に新宿歴史博物館が発行した『新宿盛り場地図』より。


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学習院の丘の南斜面を考える。 [気になる神田川]

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 早稲田大学図書館に保存されている、寛政年間に書かれた金子直德『和佳場の小図絵』Click!の写本には、直德が選び絵師の県麿が再写して描いた鳥瞰図「雑司ヶ谷、目白、高田、落合、鼠山全図」が付属している。当時の牛込馬場下町あたり(現・喜久井町界隈)の上空から北を向いた鳥瞰図で、東は関口から目白台、雑司ヶ谷、下高田、下落合、池袋などまでの展望が描かれている。
 そこには、下落合の藤稲荷(東山稲荷)に連なる下高田村の学習院の丘のことが、「根岸大山」と記載されている。それが記憶に残っていたので、現在の目白駅東側から金乗院のある宿坂までの丘陵地帯を、「大山」と呼んでいたのだと思っていた。江戸時代の中期ごろから、相模(現・神奈川県)の大山山頂の阿夫利社参りが大流行しており、富士講Click!に先駆ける大山講が江戸の各地で形成されていたから、その流行で「大山」というようなネーミングがされているのかもしれない……と考えていた。
 だが、同じ早大に保存されている白兎園宗周(実は金子直德の別筆名)による『富士見茶家』を参照すると、それが「大ノ山」ないしは「大山」と呼ばれていたことがわかった。同じく寛政年間に書かれた『富士見茶家』には、『和佳場の小図絵』と同じような鳥瞰図が添えられている。この鳥瞰図は、『和佳場の小図絵』とはまったく正反対に、遺構が現存している学習院内の富士見茶屋(珍々亭)Click!の上空から、南を向いて描かれている。
 目前に展開している地域は、下高田をはじめ下落合、上落合、上戸塚、下戸塚、諏訪、そして戸山方面までが遠望できるのだが、手前の学習院の丘にふられている名称は「根岸大山」ではなく、小山と集落にそれぞれ「大ノ山」と「子ギシノサト(根岸の里)」というキャプションが添えられている。改めて『和佳場の小図絵』を参照すると、「大ノ山」と「根岸の里」についての解説があることに気づいた。「大ノ山」から、金子直德の原文を引用してみよう。
  
 大野山 又おほ山とも云。此なら山は、大阪落城の節、大野道見、同子修理、弟主馬と共に没し、主馬の従弟勘ヶ由は関東をうかゞひ諸国流転して、元和元年(1615年)の十二月下旬に此山に忍び居けるか。郎党七八騎にて廿七日に餅を搗(つ)けるとて、末葉今に餅つきは廿七日也。無程正月の規式あれとて、幕を打廻し家居と定、萱葭を以、年神の棚をかき、松の枝を折て門に立、そなへのみ供して御燈もあげざりしは野陣なれば也。刀鎗をかざり、具足鎧兜など忍びやかに錺(かざ)りて春を迎へけると。其例とて今に其家の者、燈をかかげず、門松を縁者同士盗合て立てるなど吉例とせり。其いさましき事、昔の豫讓にも似んよひけん。其後、彌十郎は十五歳の時、浅草海禅寺にて切腹仰付られけると也。当時名主甚兵衛・同吉兵衛など、その末裔なり、今に栄へぬ。(カッコ内引用者註)
  
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 読まれた方は、すぐにおかしな点に気づかれるだろう。豊臣家の遺臣であり、大阪冬の陣(1614年)あるいは夏の陣(1615年)から落ちのびたはずの大野氏が、いまだ戦後の落ち武者狩りの詮索・詮議が厳しい中、「諸国流転」して戦と同年である1615年(元和元)にわざわざ「敵」の本拠地である江戸へやってきて、しかも天領(幕府の直轄地)だった街道沿いの下高田地域に棲みつくことが可能かどうか?……ということだ。
 既存の村民からすれば、江戸の郊外方言とは言葉づかい(イントネーション)からしてまるっきり異なる、関西弁を話す騎馬姿だったらしい「落ち武者」たちに、なんの疑念も抱かなかったとは考えにくい想定だ。以前、江戸期には「豊臣の遺臣」で明治以降はなぜか「南朝の遺臣」へと“変化”した、雑司ヶ谷村の某家系について触れたけれど、『和佳場の小図絵』の現代語訳である『新編若葉の梢』Click!の編者・海老澤了之介Click!も書いているように、「ありえない」ことだろう。名主だった甚兵衛さんや吉兵衛さんが依頼した、大江戸で大流行した「系図屋」(家系図を創作する商売)のずさんな仕事ではないか。
 寛政年間には、「大山」または「大ノ山」と呼ばれていたということなので、本来は大山講の影響からそう呼ばれていたものが、いつのころからか地元の有力者である名主の大野家と結びついてそう呼ばれるようになったか、あるいは逆に寛政以前の江戸前期に、大野家が当該の丘陵地帯に住んでいて「大ノ山」と呼ばれていたものが、大野家がよそへ移るとともに、やがて「大山」と省略して呼ばれるようになったものか……、いずれかの経緯のような気がする。ちなみに、海老澤了之介は『新編若葉の梢』の中で、赤城下改代町にあった近江屋主人の物語を記録した『増訂一話一言』を流用し、「大山」または「大野山」が、以前は「大原山」と呼ばれていた事蹟を紹介している。それによれば「大原山」が、「大山」または「大ノ山」に転化したと解釈することもできる。
 さて、きょうの記事は「大ノ山」の由来がテーマではなかった。宗周(直德)の『富士見茶家』に添付された鳥瞰図には、今日の地形から見ておかしな表現がいくつか見えている。まず、現在の学習院が建つ丘の南斜面は凸凹もなく、かなりストンと山麓まで鋭角に落ちている。ところが、『富士見茶家』の鳥瞰図には、あちこちに小山(塚)のような突起が南斜面に描かれていることだ。そのうちのひとつ、富士見茶屋(珍々亭)の南東にある斜面の突起には「大ノ山」と書かれている。雑司ヶ谷道Click!に接するこの位置には、1927年(昭和2)の初夏に目白通りの北側から移転してきた学習院馬場Click!がある位置だ。
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宗周「富士見茶屋」(早大).jpg 安藤広重「雑司ヶや不二見茶や」.jpg
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 また、同図によれば茶屋の南側にあたる斜面にも、「見晴処」とキャプションがふられ丸い小山(塚)が描かれている。現在では、富士見茶屋跡の南側はすぐに急斜面であり、そのまま大きなマンションの目白ガーデンヒルズ(それ以前は運輸技術研究所船舶試験場の細長い建物)まで鋭角に落ちている地形だ。もっとも、この鳥瞰図に描かれた富士見茶屋の位置をどこにするかで、地形の読み方も変わってくるのかもしれない。鳥瞰図にも描かれ、安藤広重が描く『富士三十六景』の「雑司ヶや不二見茶や」Click!にも取り入れられた、葦簀張りの日除けがつく縁台が、溜坂の坂下と同じ地平にあるようなおかしな表現も見うけられる。もし鳥瞰図に添えられたキャプションの位置が誤りで、「見晴処」とふられた小山の上が富士見茶屋(珍々亭)だとすれば、また地形の見え方も変わってくる。
 だが、それにしても学習院が建つ丘の南斜面の表現が、あまりに今日とはちがいすぎるのだ。同斜面にあったいくつかの塚状のふくらみを、江戸後期から明治期にかけて田畑の拡張開墾の際、あるいは学習院が移転してきた明治末の敷地整備の際にすべて崩して、斜面全体の地形を大きく改造しているのではないだろうか。1880年(明治13)に陸軍が作成したもっとも早い時期の1/20,000地形図Click!には、等高線が粗いせいか南斜面の凸凹は確認できないが、1910年(明治43)作成の1/10,000地形図では、すでに今日とあまり変わらないバッケに近い急な斜面状になっているのがわかる。
 幕末から明治期にかけ、鎌倉時代に拓かれた雑司ヶ谷道、やがては大きく蛇行を繰り返す神田上水へと下る斜面を形成していた、通称「大山」(あるいは丘陵全体を総称して「根岸大山」と呼ばれていたのかもしれないが)の南斜面には、いくつかの塚状突起が存在していたのではないか。鳥瞰図によれば、「見晴処」や「大ノ山」を含め3~4基の塚状突起を見ることができる。江戸後期の耕地拡張か、あるいは明治期の学習院キャンバスの造成時かは不明だが、大がかりな土木工事が同斜面に実施されている可能性がある。斜面を鋭角に切り崩すことによって確保できたのが、戦前から逓信省船舶試験所の敷地であり、「子ギシノサト(根岸の里)」までつづく学習院馬場の敷地だったのではないだろうか。
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 さて、「根岸の里」について詳細に記述する余裕がなくなってしまったが、『和佳場の小図会』によれば「ねがはら(根河原)」の里とも呼ばれ、古くから人が住みついており「冬暖にして夏涼し。水清くして野菜自然に生立ちぬ。めで度所なるべし。蛍大きくして光格別につよしと云」と書かれており、この地域では非常に住みやすいエリアだったことがわかる。目白崖線の南斜面を背負っているので、丘上とは異なり北風が吹く冬場には特に暖かかったのだろう。同書の鳥瞰図を見ると、大名の中屋敷や下屋敷、旗本屋敷などを避けるように、下高田村の家々が建ち並んでいる様子が描かれている。

◆写真上:富士見茶屋(珍々亭)跡の下に建つ、元・船舶試験場跡の巨大なマンション。
◆写真中上は、金子直德『和佳場の小図絵』写本(早稲田大学蔵)に付属する鳥瞰図「雑司ヶ谷、目白、高田、落合、鼠山全図」の一部。は、白兎園宗周(=金子直德)『富士見茶家』に付属する鳥瞰図の中央部。は、同図の「大ノ山」周辺の部分拡大。
◆写真中下は、学習院大学内に残る富士見茶屋(珍々亭)跡。中左は、早大に保存されている宗周(=金子直德)『富士見茶家』。中右は、安藤広重の『富士三十六景』のうち「雑司ヶや不二見茶や」。は、雑司ヶ谷道から見た「大山」山麓の現状。
◆写真下は、斜面を削って整地化した敷地に造られた学習院馬場。は、「根岸の里」方面へ下りる学習院内の山道。は、「根岸の里」があったあたりの現状。このあたりの斜面も削られ、垂直に近いコンクリートの擁壁が造られている。


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