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戸山ヶ原と大磯に展開するスパイ網。 [気になるエトセトラ]

善福寺横穴古墳群.JPG
 しばらく前に、大磯の吉田茂邸に入りこんだ陸軍中野学校Click!出身の諜報員(スパイ)、東輝次Click!について書いた。マークした吉田茂の電話盗聴を行う「乙工作」から、実際に邸の中へ入りこんでさまざまな情報を収集する「辛工作」を行なっていた人物だ。その東輝次の手記がようやく読めたので、戸山ヶ原Click!周辺での動きや大磯Click!での具体的な工作の様子を詳しく理解することができた。
 東輝次は、戸山ヶ原Click!に設置された極秘のアジトである陸軍兵務局防衛課第四課分室(通称ヤマ)へ通勤しているので、ひょっとすると落合地域にも住んでいたのではないかと疑ったが、彼はより戸山ヶ原Click!に近いエリアを転々として暮らしていた様子が判明した。中野学校を卒業してから、東輝次は北方満州特務機関に配属されたが、そのうち内地勤務の3名に任命されている。そして、淀橋区柏木5丁目(現・北新宿4丁目)の図南寮へ軍属として下宿し、戸山ヶ原の兵務局分室へ通っている。下宿から兵務局分室まで、歩いても20~25分ほどで着いただろう。
 まず、東輝次は思謀班に属して、反戦平和主義者や民主主義者、左右翼思想を持つとみられる人物たちの盗聴任務についている。その中心となったのが「ヨハンセン」と呼ばれた吉田茂を中心とする、ヨハンセングループに対するスパイ活動だった。その様子を、2001年(平成13)に光人社から出版された、東輝次『私は吉田茂のスパイだった』から引用してみよう。
  
 余は「吉田茂」ほか二名の盗聴を担当した。陸軍軍医学校Click!西方のその建物は、二棟の小さな二階建てである。春夏秋冬、四季を通じて四囲の窓ガラスには暖簾が下ろされ、八月の炎暑には室内が蒸れ返っていた。しかし、その中で終日「レシーバー」は耳から離せなかった。いつ電話がかかって来るか分からないからである。官庁の勤務時限後も、当座は一人ずつかならずこれに従事したのである。/一家族の電話の盗聴を実施してから、その家の家族の状況、その声、話しぶり、そしてその連絡先、友人などが分かり得るまでには、優に三ヵ月はかかるのである。田舎と異なり、「ダイヤル」で相手を呼び出すので、その姓は分かっても、いかなる人物か分からないのである。それを全部の電話番号簿を引っ張り出して探すのである。/中野学校において、通信もやった関係にて「ダイヤル」の回転音にて大体の見当がつく。そうして紳士録、興信録を参考に、日々それが接触者として記録されてゆく。重要と思われるべき会話には、かならず録音がなされ、即時再生記録がなされるのである。現在のような「テープ」式のものではない亜鉛張りの円盤を使用する旧式なものであった。外諜関係はほとんど外国語であるため、すべて録音され、通訳室に回された。
  
 東は、中野学校で盗聴を習得したと書いているが、「有・無線」の科目に属するのだろう。ほかに諜報、宣伝、謀略、暗号、隠語、秘密インキ、開錠法、開咸法(手紙盗読)、獲得法(窃盗)、連絡、ロシア語、写真、偽騙、変装、候察、破壊、空拳、剣道、国体学、航空などの教科があったらしい。
東輝次(中野学校).jpg 東輝次(吉田邸).jpg
兵務局分室(ヤマ).jpg
 1944年(昭和19)10月、長期間の盗聴活動が終わり、実際に吉田茂邸へ書生として入りこむ工作をするにあたり、東輝次は本籍地を牛込区若松町66番地へ移している。ちょうど戸山ヶ原にあった尾張徳川家Click!の下屋敷跡に建つ、陸軍第一衛戍病院Click!(現・国際医療センター)の斜向かいにあたる地番だ。そして、下宿を淀橋区東大久保3丁目(現・新宿区歌舞伎町2丁目)にあった、大久保病院Click!前に変わっている。そこで、ニセの卒業証明や学業証明書、乙種傷痍軍人の紀章や証明書などを偽造した。
 準備は整ったものの、東が「一番苦労しなければならないのは方言である」と書いているように、最大の難関は江戸東京方言Click!が流暢にしゃべれなかったことだ。自身が生まれ育った地域や家庭の母語を消すことは、至難のワザだ。練習は重ねたものの、地付きの人間が一聴したら言葉の発音やイントネーションが微妙に異なるので、すぐにバレてしまうだろうと恐怖心を抱いている。だが、スパイ活動の舞台が神奈川県の大磯町、つまり今日的にいうなら神奈川県南部のいわゆる「湘南弁」エリアになったのでさほど怪しまれず、生活言語の心配はほとんどなくなった。
 以前にも書いたが、中野学校の陸軍兵務局と憲兵学校の陸軍憲兵隊は、まったく組織的に関係がない。兵務局側では、吉田茂を監視する憲兵隊の工作は常時つかんでいたが、憲兵隊側では兵務局のスパイ活動をまったく知らなかった。だから、同じ陸軍であるにもかかわらず、ある局面では兵務局の東輝次が憲兵隊の弾圧から吉田茂をかばったり、大磯に住む反戦平和活動のメンバーたちへの連絡に協力したりと、妙な経緯が生じることになった。東輝次が、徐々に吉田茂たちへ同情的になっていった理由がここにある。
 陸軍中野学校では軍服や軍人の所作はいっさい禁止され、できるだけ軍人からは遠い姿勢を身につけさせ、柔軟に思考することができる「民間人」になりすますスパイの養成機関でもあった。換言すれば、その教育には自由主義的な側面が濃厚だったため、ものごとを観察するのに多角的な視点を備えられる、軍人とは対極的な教育がほどこされた。そのせいか、日本の敗色が日々濃くなっていく中、東輝次が反戦平和の活動家たちと接触するうちに、「この人たちの言葉が正しいのではないか?」と“動揺”していく素地が、最初から存在していたのだ。千畳敷山(湘南平)Click!の山頂へ高射砲陣地を設営する際、吉田邸からは若い東が動員されたが、威張り散らす軍人たちへ反感をおぼえている。
吉田茂邸.JPG
明治天皇観漁碑.jpg
湘南平高射砲陣地1946.jpg
 このころ、東京の戸山ヶ原は1945年(昭和20)4月13日夜半の山手空襲Click!で壊滅状態となり、兵務局分室(ヤマ)は表向きの兵務局本部の裏手にあった厩舎に移るというありさまだった。その直後、4月15日の早朝に憲兵隊が吉田茂を検挙しに、大磯の邸を包囲した。東輝次は、憲兵たちの横柄な口のきき方に反発しながら、隣りの二宮町にあった牧場へ牛乳を取りにいくという名目で急いで外出し、ヨハンセングループの大磯町大磯にある原田熊雄男爵邸と、大磯町東小磯にある樺山愛輔伯爵邸に電話で異変を知らせた。証拠となる機密書類(近衛文麿Click!の天皇上奏文写し)が憲兵隊に押収されないよう、焼却の時間を与えるのが目的だった。
 吉田茂を検挙したあと、憲兵隊は大磯の街中に「吉田茂は敵国のスパイだった」というデマを流した。吉田邸には、新聞も配達されなくなった。吉田家にいる人々も外出しづらくなり、用事はすべて東輝次がこなすことになった。そんな中、東は吉田邸に新聞を配達しなくなった新聞屋に街中で出会っている。同書より、再び引用してみよう。
  
 途中で新聞配達夫に遭ってなじると、/『吉田さんはスパイだって言うから、新聞なん(て:ママ)入れられない』と言う。/『そんな馬鹿なことがあるもんか。誰がそんなことを言ったんだ』と言うと、/『憲兵隊の人が言っていた。何でも裏の山に秘密の穴倉があって、書生と一緒に無電で外国に送っていたって』/人の好い四十年配の彼は、そう答えた。/余は開いた口が塞がらなかった。その穴倉は、幾百千年の昔、この付近にいたと思われる人間の蟄居生活の遺物である。これが三つばかりあった。入口は三尺平方くらいであるが、中は六尺近くもあり、畳三枚の広さはあるのである。これは今、物置に使用されている。/余はその書生が自分であること、そしてそんな嫌疑じゃないと説明し、新聞を頼んだ。
  
 まるで、東輝次はヨハンセングループのメンバーになったかのような姿勢で、大磯町に流れた吉田茂のデマを打ち消しにまわっている。
 文中に「秘密の穴倉」の話が出てくるけれど、これは東輝次が書く大昔に住んでいた“原始人”の「蟄居生活の遺物」(関東の「原野」には未開の野蛮人=坂東夷しか住んでいなかったという、いかにも戦前の皇国史観Click!の虚構らしい視点だ)ではなく、大磯丘陵の各地に散在する古墳時代末期の横穴式古墳群の一部だ。国道1号線をはさみ吉田邸のすぐ北側にある、広大な城山公園(旧・三井別邸)の庭園内に残された城山横穴古墳群と同時期に築造された一部が、吉田邸の山の中にも点在していたものだろう。
原田熊雄男爵邸1946.jpg 樺山愛輔伯爵邸1946.jpg
池田成彬邸1946.jpg 久原房之助邸1946.jpg
城山横穴古墳群.JPG
 東輝次は、吉田茂の憲兵隊による検挙によって工作の任をとかれ、つづいて天皇に近いヨハンセングループのひとり、「コーゲン」こと近衛文麿Click!のスパイ工作を手がけることになる。近衛の下落合にあるClick!は山手空襲で焼けてすでに存在せず、荻外荘Click!から箱根の麓にある知人の別荘へ、そして軽井沢の別荘へと居所を転々と変える近衛文麿と接触するのは容易ではないのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:東輝次が「蟄居生活の遺物」と書いた大磯の横穴古墳群のひとつで、高麗山麓の原田伯爵邸にもほど近い善福寺の境内にある善福寺横穴古墳群。
◆写真中上上左は、陸軍中野学校時代の東輝次。上右は、大磯の吉田茂邸で撮影された東輝次。は、1944年(昭和19)12月23日の空襲4か月前に撮影された戸山ヶ原の兵務局分室(ヤマ)と、表向きの兵務局防衛課の本部建物。
◆写真中下は、国府本郷にある旧・吉田茂邸の門のひとつ。は、東輝次が諜報の連絡に使用した北浜の「明治天皇観漁記念」碑。道路側(北側)の角に通信文を入れた金属缶を埋めて、スパイ同士の連絡をつけていた。は、千畳敷山(湘南平)の山頂に設置された12.7mm高角砲による高射砲陣地だが、ほどなく艦載機による空襲で破壊された。
◆写真下:1946年(昭和21)に撮影された大磯のヨハンセングループの邸宅で、は原田熊雄男爵邸()と樺山愛輔伯爵邸()。は、池田成彬邸()と久原房之助邸()。久原邸の目の前には、陸軍兵務局が設置したスパイアジトがあった。は、スパイの「通信施設」にデッチ上げられた城山横穴古墳群のひとつ。


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死んでも抵抗してやるの小熊秀雄。 [気になる下落合]

サンチョクラブ跡1.JPG
 壺井繁治Click!が「村長」をつとめていたサンチョクラブの事務局は、上落合2丁目783番地に住んでいた漫画家・加藤悦郎Click!宅に置かれていた。ちょうど中井駅前にある落合第二小学校Click!(現・落合第五小学校Click!)の近く、最勝寺Click!の北側を東西に走る道沿いの南側だ。上落合に住んでいた、政府の思想弾圧と軍国主義化の流れに抵抗する表現者たちは、過酷な弾圧をくぐり抜け限りない“後退戦”を繰り返しながら、サンチョクラブに集合していた。サンチョクラブの集まりがあるたびに、長崎に住む小熊秀雄Click!も目白通りを越えて、上落合の加藤悦郎宅まで通ってきている。
 当時、サンチョクラブの「村長」だった上落合2丁目549番地に住む壺井繁治宅Click!の周囲には、隣家の井汲卓一をはじめ、近くには細野考二郎、上野壮夫、堀田昇一、村山知義Click!、野川隆、江森盛弥、山田清三郎、本庄陸男、大道寺浩一などの旧・日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)のメンバーが集合していた。サンチョクラブは、1935年(昭和10)11月に壺井繁治を「村長」とし、加藤悦郎が「助役」、小熊秀雄が「収入役」、メンバーとしては中野重治Click!、村山知義、窪川鶴次郎Click!、森山啓、江森盛也、坂井徳三、新井徹、橋本正一、松山文雄Click!岩松惇(八島太郎)Click!などが参集して結成されている。
 サンチョクラブには「名誉村民」もいて、風刺や皮肉、揶揄などで世界的にも高名な表現者たちが名を連ねている。「娑婆にはいないが、何れも地獄で健在、エンマ大王をさえ風刺の矢で突き刺そうという手合い」として、たとえばゴーゴリやプーシキン、モリエール、ハイネ、セルバンテス、ドーミエ、鳥羽僧正、十返舎一九、小林一茶などが「名誉村民」として列挙されていた。
 サンチョクラブが結成された1935年(昭和10)という年は、陸軍省新聞班が『国防の本義とその強化』と題するパンフレットを発表し、「日本の危機」を盛んに喧伝して戦争を「たたかいは創造の父、文化の母である」と美化し煽動していた時代だ。結果、大日本帝国は「たたかいは創造の破滅、文化の破壊」への道を真っ逆さまに転げ落ち、一面が焼け野原の中で国家の破滅、すなわち「亡国」の憂き目に遭うことになるのだが、このときは視野の広い少数の人々にしか、そのゆく末が見えていなかった時代だ。
 また、同年をさかいに従来の共産主義者や社会主義者、アナーキストたちの思想弾圧に加え、資本主義革命とともに育まれてきた民主主義や自由主義の思想などまでをもいっさい否定し、陸軍主導の「国防国家建設」というファシズム体制へなだれこむ端緒の年ともなった。民主主義者や自由主義者は弾圧を受け、特に学術の分野ではそのような思想の持ち主は「学匪」と呼ばれて追放されるか、容赦なく検挙されて起訴されていった。
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 翌1936年(昭和11)早々の2月26日には、陸軍皇道派Click!によるクーデター「二二六事件」Click!が勃発する。サンチョクラブのメンバーたちに限らず、日一日と悪化していく政治状況にかろうじて抵抗をつづけようとする人々は、少なからぬショックを受けただろう。壺井繁治は事件後、中野駅から省線に乗って飯田橋で下車し、半蔵門まで歩きながら東京市内の様子を観察している。そのときの様子を、1966年(昭和41)に光和堂から出版された壺井繁治『激流の魚』から引用してみよう。
  
 道端に並んでいる戦車が反乱部隊のものであるにしろ、または鎮圧部隊のものであるにしろ、それら鋼鉄の武器は、ファシズムの砦としてわたしを威圧せずにはおかなかった。いつ誰に捕まるかわからぬ不安を抱きながら、半蔵門近くまでゆくと、大勢の市民が小さいトランクや毛布類そのほか、身のまわりの品物を携えて続々と避難して来る。誰から聞くと、いつ戦火が交えられるかわからず、軍からの命令で避難しているのだという。わたしは不安を感じながらも、ゆけるところまでいってみたい気持に駆り立てられ、群集の非難方向とは逆の方向へ歩いていったが、結局彼らと同じ方向へ引き返さねばならなかった。赤坂の山王ホテルが反乱部隊の本部となっており、そのホテルの前で幟を立て、鉢巻き、襷掛け姿で演説している将校を見てきたというひともあったが、交通が遮断されているので、そこへはゆけそうになかった。
  
 このとき、壺井繁治・壺井栄夫妻の家から北北東へわずか600m、サンチョクラブの事務局からも東へ約600mのところ、下落合3丁目1146番地(現・中落合1丁目)の佐々木久二邸Click!に、ワシントン条約やロンドン条約などの軍縮を推進した、海軍出身の岡田啓介首相Click!が隠れているとは夢にも思わなかっただろう。
 さて、サンチョクラブの集まりや表現も徹底した弾圧を受け、表現の場を奪われ早々に「自主解散」せざるをえなくなったあと、1940年(昭和15)の夏に、壺井繁治は銀座で小熊秀雄の最後の姿を目撃している。肺結核の病状が進行したのか、おぼつかない足どりで歩く小熊へ、壺井は喫茶店「ヨシタケ」の中から声をかけてお茶に誘った。
 小熊秀雄が死去する2~3ヶ月前、いまだなんとか立って銀座を闊歩できていたころの最後の姿を、同書から少し長いが引用してみよう。
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 その年(1940年)の夏の午後、わたしは銀座のヨシタケという喫茶店の通りに面した窓際でコーヒーを飲みながら、ぼんやりと窓ガラス越しに往来を眺めていると、向こうから小熊秀雄が少しうつむき加減にふらふらしたいつもの独特な歩き方で、こちらへ近づいてくるのが眼にとまった。わたしが窓ガラス越しに「やあ」と声をかけると、彼の方でも「やあ」と反射的に、痩せた手をふるわせるような恰好で答え、すぐ店の中へ入ってきて、わたしのテーブルの前に腰をおろした。彼はいつものようにステッキを携えていたが、その時の彼は病み上がりの人間が、五キロも六キロもの遠い路を歩いてきて、やっとこの休み場所に辿り着いたといったような疲れ方をしていた。何か飲まぬか、といったら、要らぬと答えた。いつも会えばヨーロッパ人のような大きな身振りで喋り捲くる彼が、そのときにかぎって至極おとなしく、膝の上に手など置いたまま、自分からすすんで何にも喋らず、わたしの話に消極的に受け応えするだけだった。わたしはこんな静かな小熊秀雄を、これまで一度も見たことがなかった。この時「死神」はすでに、彼の肉体の内部にどっかりと腰を据えていたのだ。
  
 1940年(昭和15)の秋まで、それでも小熊秀雄は「現代文学」などに作品を発表していたが、病状は急激に悪化していった。それらの作品は、従来の外向きだった意識から、精神の内側へと向いたような表現が多くなっていった。常に体制や社会状況を攻撃していた小熊が、初めて守勢に立たされて防戦にまわったような詩だったと、のちに壺井繁治はこのときの感想を書いている。
 小熊秀雄の晩年作である「夜の床の歌」では、自由な結社や表現を奪いつづける政府への反発や怒りをこめて、「死んでも抵抗してやる」と心の声を絞り出して叫んでいるようだ。船山馨Click!は1970年代末の政治状況にさえ、小熊秀雄をあの世から呼びもどして自由に批判させてみたいと書いた。その当時よりも、はるかに状況が悪くなってしまった現在、予防拘禁を含む現代版「治安維持法」が取沙汰される時代に、もう一度ここにも小熊の「夜の床の歌」の一部を引用して、この記事を終わりたい。
壺井繁治.jpg 小熊秀雄.jpg
小熊秀雄「青物市場」(上落合)1930.jpg
  
 あゝ、彼等は立派な歴史をつくるために/白い紙の上に朱をもって乱暴に書きなぐる、/数千年後の物語りの中の/一人物として私は棺に押し込められる、/私はしかしそこで眼をつむることを拒む、/生きていても安眠ができない、/死んでも溶けることを欲しない、/人々は古い棺でなく/新しい棺を選んで/はじめて安眠することができるだろう。/太陽と月は、煙にとりかこまれ/火が地平線で/赤い木の実のように跳ねた。/ああ、夢は去らない、/びっしょり汗ばみながら/いらいらとした眼で/前方を凝視する。
  
 この詩がつくられてからわずか5年後、東京は見わたす限りの火焔と火流で焼かれ、太陽と月どころか、空さえ煙でよく見えない日々を迎えることになる。

◆写真上:サンチョクラブの事務局があった、上落合2丁目783番地あたりの現状。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる上落合2丁目783番地の加藤悦郎邸あたり。は、1935年(昭和10)11月に結成されたサンチョクラブの面々。中央に村長の壺井繁治が座り、中野重治や窪川鶴次郎、小熊秀雄(左端)らの顔が見える。
◆写真中下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみるサンチョクラブがあったあたり。は、別角度から撮影した上落合2丁目783番地界隈。は、1936年(昭和11)2月29日に発行された「戒厳司令部発表」の東京朝日新聞号外。
◆写真下は、戦後に撮影された壺井繁治()と若き日の小熊秀雄()。は、1930年(昭和5)に制作された小熊秀雄の「上落合風景」の1作『青物市場(上落合)』。


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目白・落合地域よりもすごい目黒駅東。(下) [気になるエトセトラ]

寺町台地01.JPG
 目黒駅の正面口改札を通り、目黒通りを右手(東側)へしばらく歩くとファミリーマートが見えてくる。ここが、巨大な森ヶ崎古墳(仮)Click!への入り口だ。南へわずか50mも歩かないうち、すでに後円部の北東部へと突き当たっていることになる。ここから、南斜面へと下る坂道がつづくわけだが、墳丘の後円部を避けるように丸く半円を描く坂道を200mほど歩くと、今度はやや弓なりになった直線状の坂道が、ゆるやかに下りながら200mほどつづいている。この突き当たりに、幕末までは大きな溜池が存在していた。
 その灌漑用の溜池へ、三田上水から三田用水へと用途が転化した水流や、湧水源だった鳥久保の流れを効率的に貯えるためだろう、本来は前方部の墳丘があったと思われる部分が大きく掘削され、小さな谷間状になっている。だから江戸期の終わりには、その谷底から森ヶ崎の丘上をはるかに見上げるような風情だったと思われる。しかし昭和期に入ると、その風景は激変する。灌漑用に掘られたとみられるV字型の谷間が拡張され、言い方を変えれば前方部の墳丘残滓である森ヶ崎を全体的に崩し、墳丘西側の斜面を山手線の線路際まで埋め立てる地形改造が行われている。
 この西側へ新たな台地を形成し、青木邸と花房邸、そして花房邸住宅地を開発するために、墳丘に盛られていた土砂では足りなかったのか、墳丘の下まで深く掘り起こす土木工事が行われている。これにより、前方部の森ヶ崎は凸地だったものが凹地になり、江戸期からつづいていたV型の谷間はやや広めな低地斜面となり、後円部も南側から深く掘削されて、現在では後円部の北側から南へいきなり落ちこむ崖地状の地形となってしまった。そして、戦前にこの斜面全体がひな壇状に開発され、目黒駅前の閑静な住宅街が形成されていく。後円部の中央付近を歩くと、昭和初期の大規模な土木工事の跡を、改めて確認することができる。森ヶ崎古墳(仮)の東側全域が、まるで丘に切れこむ谷戸のような地形に変貌してしまった。
 昭和初期に地形的な痕跡さえ残さず、このように徹底した破壊がなされた古墳もめずらしいだろう。通常の破壊だと、江戸期に開墾のため平らにならされるか、明治以降はおもに道路敷設や宅地化のために崩されるかしている。だから、戦後1947年(昭和22)の米軍による爆撃効果測定用の空中写真などを参照すると、住宅街の下に隠れていた痕跡が露わとなり、そのフォルムを比較的容易に確認することができる。ところが、森ヶ崎古墳(仮)の場合は山手線の駅前という立地が“災い”したのか、地形をすべて変えるほど徹底的に開発され尽くしてしまっている。だから、焼け跡の写真をいくら参照しても、その痕跡に気づかないのだ。
 ところが、森ヶ崎古墳(仮)のすぐ近くにそれほど人の手が加えられず、ほぼ江戸期のままの姿をとどめた巨大な人工の構造物があることに気づいた。それは、森ヶ崎古墳(仮)の様子を確認するため、1881年(明治14)に陸軍参謀本部が作成した地形図(フランス式彩色地図)を眺めていたときだ。森ヶ崎古墳(仮)のすぐ西側500mほどのところに、大きな正方形の台地があることに気がついた。江戸期から、芝増上寺の別院(下屋敷)などが建立され、一帯が寺町にされていた台地だ。四角の一辺が、正確に180mもある巨大な正方形は、明らかに人工的な構造物だ。
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尾張屋切絵図目黒白金図1854.jpg
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 最初は、寺町を形成するために江戸期に行なわれた土木工事による地形かとも考えたが、そんな事例は大江戸広しといえども見当たらない。たいがいの寺社は、すでにある地形を利用し、その形状を部分的に改造して効率的に建てられているのであり、わざわざ巨大な正方形の台地をゼロから築造して、寺々を勧請する必然性などないのだ。もうひとつ、目黒地域は東京23区でもめずらしい、方墳(古墳時代の全期を通じて築造された正方形墳墓)が現存するエリアとしても有名だ。羨道や玄室があるので、江戸期にまたしても「狐塚」Click!とされていた、目黒区碑文谷にある碑文谷狐塚古墳だ。
 関東地方の方墳は、北関東や房総半島に多く現存しているが、江戸東京地方ではあまり発見(規定)されていない。もちろん前方後円墳や円墳とは異なり、方墳のかたちは便利なので、それとは気づかれないまま寺社の基礎にされたり、大名屋敷や住宅地のちょうどいい敷地にされてしまったケースも数多くあるのだろう。碑文谷狐塚古墳も、たまたま田畑の中にポツンと取り残されるように存続し、宅地開発でも古墳を避けるように家々が建てられたせいで、今日まで存在しつづけた稀有な事例だ。もっとも、「狐塚」とされていたせいで、江戸期から明治期にかけてなんらかの禁忌的な物語の伝承があったかもしれないのは、西池袋の「狐塚」Click!のケースと同じなのだろう。
 実は、江戸期まで増上寺下屋敷があった寺町の台地を、わたしはまったくそれとは気づかずに歩いていた。森ヶ崎古墳(仮)の痕跡を確認して歩いたあと、ついでにその下へとつづく谷間、すなわち上大崎村の農耕地だった広い田畑跡の斜面と湧水源を歩きつつ、谷底にあたる池田山公園へと足を運んでみたのだ。つまり、南へ向いている森ヶ崎古墳(仮)が見下ろしていた、古代からの耕作地および集落があちこちにあったとみられる一帯を歩いてみた。その帰り道に、現在では宅地開発による斜面のひな壇造成で丘が随所で崩され、あまり正方形には見えなくなってしまった寺町を抜けて目黒駅までもどった。古代人たちの独特な宗教観あるいは死生観にもとづく、古墳の築造にはもってこいの地形に見える、上大崎村と今里村にまたがった寺町台地の斜面または丘上に、あわよくば小規模な古墳の痕跡でも残ってやしないかと思ったからだ。
 ところが、のちに明治初期の地形図を参照して愕然とした。この台地全体そのものが、正確な幾何学にもとづいて築造したような方墳形をしていたからだ。いや、正確にいえば、台地上と同じ高度の地形が北東部へと流れ、連続しているように見えるので、方墳ではなく前方後方墳なのかもしれない。地形図からは、北東に面した正方形の1辺の、ほぼ中心から北東にかけて“尻尾”がついているようにも見える。だから、もともとは正方形の台地ではなく、羨道が口を開けた前方部をともなう前方後方墳の可能性もある。この想定で測定すると、墳長は300mほどになるだろうか。また、前方部をともなわない方墳だとすれば、1辺が180m、対角線の墳長は実に250mという巨大な規模だ。
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 前方後方墳は、おもに東日本に多い古墳形だけれど、もうひとつ出雲地方にも多く見られる形式だ。築造時期は、東日本の場合は弥生時代末から古墳時代前期にかけてが多く、出雲地方の場合は古墳時代の全期間を通じて築造されつづけている。東日本のクニグニと、出雲地方(この場合の「出雲地方」とは、記紀により推定される中国地方のほぼ全土のことだ)との人的・文化的な交流や関係性=連携を裏づける遺跡だが、他の関東地域に比べて東京地方では、方墳や前方後方墳の存在が少なすぎると感じていた。
 森ヶ崎古墳(仮)が、古墳時代の比較的早い時期の墳形をしており、また増上寺下屋敷を中心に寺町となっていた方墳、ないしは前方後方墳とみられる人工の構造物もまた、古墳時代前期の姿をしているとすれば、目黒から上大崎地域にかけての丘陵地帯は、かなり早くから拓けて数多くの集落が形成されていたと思われるのだ。そして、ことさら出雲地方とのつながり、すなわち「国譲り」に承服しない出雲の亡命者Click!(王朝の亡命一族)の影を強く感じさせる。
 しかも、両者の墳丘は東京地方では類例を見ない、きわめて規模の大きなもので、目黒・上大崎地域ばかりでなく、江戸東京の海辺に近い一帯を治めていたクニの「大王」クラスが存在していたエリアだと想定することができる。また、たとえば芝増上寺の境内に残る芝丸山古墳Click!の被葬者は、その配下の「王」または重臣クラスに“格下げ”されそうな気配だ。さて便宜上、この方墳または前方後方墳と思われるフォルムを、とりあえず上大崎今里古墳(仮)と呼ぶことにする。
 古代の平川の流れ(現・神田川)沿いに展開していた、百八塚Click!の事蹟や痕跡をたどるうち、現在の新宿区から豊島区、文京区あたりにかけてが、古墳とみられる痕跡の多さや規模の大きさから、古墳期の南武蔵勢力の中核地域ではないかと考えていたが、目黒川や渋谷川の流域にかけては、さらに強大な勢力のクニが存在し森ヶ崎古墳(仮)や上大崎今里古墳(仮)のフォルムに想定できる、規模の大きな古墳群を形成していた可能性がある。しかも目黒という地名は、江戸期に「馬畔(めぐろ)」の地名へ同音の別字が当てはめられたものであり、馬畔とは古墳期から関東各地に建設されていた「馬牧場」のことだ。
 のちに、鎌倉の政子さんClick!の時代までつづく「坂東の騎馬軍団」(関東では古くから反りのある太刀=日本刀Click!を用いた騎馬戦が主体だが、近畿圏ではでは直刀Click!=朝鮮刀を用いた徒士戦が主体だった)の母体となった、戦闘では重要な乗り物=馬(兵器)の供給地でもあった。同じく馬畔=馬牧場が数多く設置されていた、古墳期の関東地方におけるもうひとつの巨大な勢力、そして南武蔵勢力とは連携してヤマトにおもねる北武蔵勢力(現・埼玉県西部地方)と対峙し牽制していた上毛野勢力、すなわち「群馬」地域との強い連携の形跡も、馬畔=目黒地域を通じ改めて想定することができるのだ。
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 ひょっとすると、南武蔵勢力のクニグニではそれぞれ分業化が進んでおり、馬畔=目黒地域は戦闘や農耕に重要な「馬」の一大生産・供給地であり、タタラ遺跡が散在する落合・目白地域はその名が示すとおり、兵器づくりの基盤を支える「目白」=鋼Click!の一大供給地だった時期が、古墳時代を通じてあったのかもしれない。森ヶ崎古墳(仮)と上大崎今里古墳(仮)のかたちは、そんなことまで連想させるほどの圧倒的な存在感をおぼえる。

◆写真上:空襲の焼け跡が残る、上大崎今里古墳(仮)上に建立された最上寺の塀。
◆写真中上は、1948年(昭和23)に撮影された焼け跡の森ヶ崎古墳(仮)と上大崎今里古墳(仮)。は、1854年(嘉永7)の尾張屋清七版切絵図「目黒白金図」にみる増上寺下屋敷とその周辺。は、1881年(明治14)に作成された地形図にみる上大崎今里古墳(仮)のフォルム。このころまで、いまだ正方形の台地形がハッキリ残っていたのがわかる。
◆写真中下は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる同地域。正方形の墳丘に合わせ、周囲の道路も碁盤の目のように形成されているのが面白い。は、1948年(昭和23)撮影の空中写真にみる同所。は、同写真に撮影ポイントを加えたもの。
◆写真下:上大崎今里古墳(仮)の、墳丘下と墳丘上の現状。寺町の北西側には海軍の火薬工廠があったため、激しい空襲にさらされ随所に焼け跡の塀が残る。


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目白・落合地域よりもすごい目黒駅東。(上) [気になるエトセトラ]

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 『伽羅仙台萩(めいぼくせんだいはぎ)』にちなむ目黒鬼子母神Click!へ立ち寄りがてら、江戸期には下目黒村と中目黒村の入会地(字大塚とその周辺域)にかつてあった、大塚山古墳について調べながら現地を歩いているとき、目黒駅周辺の空中写真を年代を追って眺めていた。そして、目黒駅の東側にハッキリと刻印されたフォルムに、期せずして思わず目が釘づけになった。
 多くの方はご存じだと思うが、JR山手線の目黒駅は目黒地域(上・中・下目黒村)にはなく、目黒エリアから追いだされ上大崎村の山の中に建設されている。だから、目黒駅とその周辺は中目黒村でも下目黒村でもなく、歴史的には上大崎村の村域ということになる。目黒駅の東側一帯は、上大崎村に囲まれるように播磨の森伊豆守(1万5千石)の上屋敷が建っていたエリアだ。
 このような大江戸Click!の郊外に、下屋敷(隠居屋敷)ではなく、上屋敷の敷地が与えられている大名は非常にめずらしい。千代田城Click!へ登城するには、大手門まで直線距離でさえ8km(道筋を通ったら10kmほど)もあるので、季節にもよるが未明の2~3時起きだったろう。ほとんど幕府によるイヤガラセとしか思えないが、森家は織田信長の家臣だった森蘭丸がいた家系だ。ちなみに、江戸後期には織田家(織田安芸守)の上屋敷も近くにあり、しかも森家の屋敷よりもかなり小さな敷地を与えられている。
 さて、目黒駅の東側に巨大な鍵穴状のフォルム(前方後円墳の形状)を見つけたのは、1936年(昭和11)の空中写真だった。ちょっとケタ外れの大きさなので、最初は目を疑ったのだが、自然にこのようなかたちが形成されるとは考えられず、明らかに人工の構造物の痕跡である可能性が濃厚だ。このような巨大なサークル痕(直径規模)は、かつて上落合地域でとらえられたサークルClick!に匹敵すると思われるのだが、上落合ケースでは一端(東側)の途切れたサークル痕が残るのみで、すでに全体のフォルムは確認できなかった。(田畑の開墾で前方部が完全に消滅したのだろう) だが、上大崎のかたちは、本来のフォルムがくっきりと昭和初期まで刻印されて残っているケースだ。
 実際に現地を歩いてみると、すでに墳丘はほとんど存在せず、逆にえぐられてV字型の谷状地形になった部分(墳丘東側)さえあった。特に前方部は、その痕跡がほとんどわからず、ただ坂下(丘麓)に向かって低い土地がつづいているだけのように見える。現在では、そこがひな壇状に開発され、なだらかな坂道とともに住宅街が拡がっているだけだ。また、墳丘の西側は森伊豆守の上屋敷があったあたりを中心に高くなっており、さらに、昭和初期に開発されたとみられる青木邸や花房邸の屋敷と、戦前から開発されていたとみられる「花房家分譲地」の高台となっており、後円部と前方部の墳丘がほとんど存在しなくなっていた。
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 現場を歩いてみて、少なからず確信が揺らぎかけたのだけれど、この土地に重ねられた事蹟を江戸期までさかのぼってみると、地形を変えてしまうほどの大規模な土木工事が、連続して行われている斜面だったことが見えてきたのだ。まず、江戸前期の1660年代(寛文年間)に、玉川上水Click!から延々と引いてきた「三田上水」が開発されている。三田上水は、墳丘北側の丘上(現・目黒通りあたり)を東西に横切るように掘削されている。やがて、1720年代(享保年間)に三田上水が廃止されると、耕作地の灌漑用水を目的に「三田用水」として転用されるが、のちに墳丘の東側に通う道筋へ沿うように、南向き斜面へ三田用水の分水が掘削され、丘下に拡がる上大崎村の田畑をうるおしている。
 このとき、三田用水分水の運用管理(土砂崩れや土砂の流出防止など)のために、前方部の南東側が大きく削られ斜面の傾斜角(鋭角斜面から鈍角斜面へ)が大きく変えられている可能性がある。さらに、三田用水の分水では水量が足りなかったのか、江戸中期になると墳丘の東北側にあった、久保(ku-ho)Click!の名がつけられている湧水源「鳥久保」からの流水を引き、前方部の南側に大きな溜池が設置されている。このときもまた、前方部の土砂がさらに崩されてV字型の谷状にされ、水流がスムーズに下るよう溜池の掘削とともに、地形が改造されている可能性がきわめて高い。
 同時に、江戸時代(中期か?)に森家の上屋敷が建設されるにともない、敷地を整地化する必要が生じている。森家の屋敷地は、後円部の西側にかかるような位置に設定されているので、もし大きな墳丘が残っていたとしたら、それらの土砂を取り除く必要があっただろう。また、前方後円墳のフォルム全体は、森家の「抱屋敷」敷地内にほぼ含まれているので、なんらかの土木工事が行われ、邪魔な墳丘が全的に崩された可能性もある。
 大規模な土木工事は、明治期になってもつづく。1885年(明治18)になると、日本鉄道が品川・赤羽線(現・山手線)を敷設し、上大崎村の丘を切り通し状にして目黒停車場が設置される。このとき、前方部西側の土砂が大量に削りとられているようだ。理由は、鉄道の敷設工事で深く掘削が必要だったのと、三田用水の掘削・通水ケースと同様に目黒停車場や軌道(線路)への土砂崩れ、あるいは土砂の流出を防止するために、崖地を大きく削り傾斜角をゆるめる必要があったとみられる。こうして、巨大な古墳の前方部は東西から削られ、まるで矢じりのような逆三角形になってしまった、1887年(明治20)に作成された地形図では、この岬状になってしまった地形に森家の上屋敷にちなんだ、「森ヶ崎」という地名が採取されている。
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 ところが、大規模な土木工事はこれで終わりではなかった。目黒駅前に拡がる地形の大改造は、これからが“本番”だったのだ。昭和期に入ると、森家上屋敷のあった位置には森ヶ崎下大崎郵便局や東京市電車庫が建設された。そして、そのさらに南側には大きな青木邸と花房邸が建設されている。この大きな両邸を建てるために、森ヶ崎の土砂つまり前方後円墳の土砂を丸ごと、山手線の線路際の斜面まで移動して、線路側へと下る傾斜を埋めてしまったのだ。岬状に大きく南へ突き出していた森ヶ崎が、あたかも西へそっくりそのまま100m以上も移動してしまったように見える。しかも、南斜面に築造されていた古墳の土砂ばかりでなく、その下部の土砂まで深く掘削し、花房邸の南南東側へ新たな台地を人工的に築き、「花房家分譲地」として昭和初期に売り出したのだ。
 この昭和初期に行われた地形の大改造で、上大崎村にあった巨大な前方後円墳の痕跡は、ほぼ完全に消滅した。現在、目黒駅やその南側の線路際ぎりぎりまで、切り立つようにコンクリートの擁壁が迫っているけれど、大屋敷だった青木邸と花房邸、そして線路際まで迫る花房家分譲地が開発できたのは、コンクリートによる強固な擁壁技術が発達したおかげだろう。換言すれば、目黒駅と線路に沿ってその南につづく東側のコンクリート擁壁の中身は、巨大な前方後円墳の墳丘土砂で形成されている……ということになる。
 この鍵穴フォルムをした地形、すなわち前方後円墳とみられる形状は、前方部が真南の斜面から谷間を向いて築造されている。ほぼ目黒通りに接するほどの位置から墳丘がまっすぐ南へ向かい、江戸期に付近の農民によって掘削された溜池のある「字池谷」の北側までの墳長は、約400mほどはありそうだ。周濠が掘られていたとすれば、山手線の目黒駅や線路(の上の敷地)を飲みこんで、さらに壮大な墳形をしていただろう。ちなみに、名前がないとこれからの記述に困るので、この前方後円墳とみられるケタちがいの大きなフォルムを、仮に「森ヶ崎古墳(仮)」と呼ぶことにする。
 400mクラスの前方後円墳は、東日本ではいまだ未発見(未確認)であり、全国でも大阪府にしか存在が規定されていない。墳長の規模からいうと、森ヶ崎古墳(仮)は大阪府の誉田山古墳(俗に応神陵)Click!に近いだろうか。しかも、前方部が多摩川沿いに展開する多摩川台古墳群の宝莱山古墳Click!や、平川(現・神田川)斜面の成子天神山古墳(仮)Click!などと同様に、三味線のバチ型のような形状に近く、古墳時代でもかなり早期のころではないかと想定できるのだ。明らかに、南武蔵勢力を代表する「大王」クラスの墳墓のひとつだろう。もっとも、南関東では稀有のサイズだが、北関東の上毛野・下毛野地域(現・群馬/栃木両県)では、同サイズの古墳が新たに発見されるかもしれないが……。
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 さて、森ヶ崎古墳(仮)の東側には、古墳の墳形に沿って拓かれた江戸期からの道路が、現在もほぼそのままのかたちで残っている。実際に現場を歩いてみて、そのあまりにもケタちがいのサイズに改めて驚いてしまったのだが、驚きはそれだけにとどまらなかった。明治の最初期に作成された、より古い1881年(明治14)作成の陸軍参謀本部の地形図(通称・フランス式彩色地図)を参照していたとき、森ヶ崎古墳(仮)の東約500mのところに、もうひとつの人工物とみられる巨大な構造物の痕跡を見つけてしまったからだ。
                                  <つづく>
  
 最後にちょっと長い余談だけれど、昨年(2016年)12月29日の新聞やニュースで、稲荷山古墳の「金錯銘鉄剣」が同古墳の主墳(粘土槨)ではなく、陪墳(礫槨)から発見されている……という(公然とした)報道がようやくなされた。(X線による粘土槨=主墳での玄室確認のため) 稲荷山古墳そのものの地質からではなく、陪墳の礫槨から鉄剣が発見されたという事実は、当初から、偏見がなく科学的な事実を尊重するマジメで真摯な古代史学者や地質学者、考古学者たち、そして地元にある記念館の学芸員までが指摘していたにも関わらず、「皇国史観」の御用学者たちが寄ってたかって、あたかも稲荷山古墳の主墳から発見されたかのようにスリカエ、日本史の教科書にさえあたかも「稲荷山古墳(の主墳)から発見された」かのような表現で記載されるまでになっていた。こうやって、教育やマスメディアの動員により、戦前からつづく「皇国史観」が刷りこまれていくのだろう。
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 通常の論理的な思考回路の持ち主なら、陪墳から出土した鉄剣の持ち主が仕えた「主人」とは、当然のことながら稲荷山古墳(主墳)の被葬者(大王)だと想定するのが一義的な研究姿勢であり、場ちがいな近畿地方の「大王」と結びつけるのがそもそも不自然なのだ。まるで、なんでもかんでも「将軍様」の事蹟にする北朝鮮の「将軍様史観」のような稚拙さでありお粗末さだと、歴史学者でなくとも素人のわたしでさえ思う。
 鉄剣の文字も、どうしても「ワカタケル?=雄略天皇??」とは読めないと、多くの漢語学者や国文学者が、文字の発見当初から指摘していたはずだ。しかも、本拠地があったとされる王宮名「斯鬼宮(しきのみや)」については、稲荷山古墳の北東20kmに「磯城宮(しきのみや)」そのものの同音地があり、さらに同古墳周辺の北武蔵勢力エリアに散在する「しき」(志木など)の“音”地名をいっさい無視して、稲荷山古墳から400km近くも離れた近畿のワカタケル?(雄略?)の嫁さんの実家(なぜ妻の実家が“宮”なのだ?)などと、まったくわけのわからない設定をして、マジメで学術的な学者たちから失笑をかっていたにもかかわらず、まったく懲りていない。
 南武蔵勢力や上・下毛野勢力と対峙していた、北武蔵勢力の「大王」かもしれない「獲加多支鹵(ヱカタシロ?)」(この漢字の解釈にさえ呉音・漢音など当初から諸説ある)に仕えた陪墳の被葬者の「主人」は、まちがいなく稲荷山古墳に眠る主墳の被葬者だろう。歴史は都合の悪いことを消して「なかったこと」「見なかったこと」にすることではなく、事実や科学的な成果を丹念に掘り起こして積み重ね、真摯に分析・調査・検討・記録しつづけることだ。人文・自然・社会を問わず諸科学的な成果が出るたびに後退し、限りなく崩壊を繰り返す「皇国史観」とは、いったいなんなのだろうか?


◆写真上:森ヶ崎古墳(仮)の後円部上部を、東西に横断する道路の現状。
◆写真中上は、幕末の「御府内場末往還其外沿革図書」にみる享保年間の森伊豆守上屋敷とその周辺。は、1854年(嘉永7)に作成された尾張屋清七版の切絵図「目黒白金図」。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる森ヶ崎古墳(仮)のフォルム。
◆写真中下は、上掲の空中写真に現状の撮影ポイントを記載したもの。は、現状の森ヶ崎古墳(仮)跡。が前方部と後円部のくびれの部分で、が三味線のバチ型に反り返る道筋、のトラックが停まっているあたりが前方部の先端あたり。
◆写真下は、1881年(明治14)作成の地形図にみる森ヶ崎一帯。は、1887年(明治20)作成の地形図にみる同所。は、森ヶ崎の土砂が西へ移動してしまったあとの1940年(昭和15)前後とみられる様で、地形の大改造が行われたのが瞭然としている。


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情報の共有と交流を促進する「親族メディア」。 [気になる下落合]

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 地域の取材を進めていると、家族や親戚・親族に限定したミニコミメディアに出会うことがある。きょうは、落合地域を取材していて偶然に出会った、そんな地域限定……ならぬ家族や親戚、さらにその友人知人に限定されたメディアをご紹介したい。
 親戚や親族との交流は、通常は法事や祝いごと、パーティなどの席に限られることが多いが、その現場で“積もる話”を交換し合うのがほとんどだろう。そこで何年かぶりに再会した親戚同士が、最新の情報交換やその後の消息、あるいはエピソードの経緯を知ることになる。若い子たちなら、各種SNSによるテキストや画像の情報交換を通じて、家族や親戚間のさまざまな話題や情報を共有し合うかもしれない。だが、SNSをしていない高齢者たちには、それらの情報はとどかない。
 しかし、親戚同士や一族の方たちが一度は訊いてみたい情報、あるいは知っておきたいアイデンティティ的な知識、たとえば先祖はいつごろ東京へやってきたのか、どのような仕事をしてどこで暮らしていたのか、関東大震災のときはなにをしてどこへ避難したのか、戦争中はどのような生活を送っていたのか、どうやって戦災のカタストロフをくぐり抜けてきたのか、戦後はどのようにすごしてきたのか……etc.、そのような情報をふんだんかつ豊富にもっているのは、実は祖父や祖母などの高齢者たちなのだ。
 だから、お祖父さんやお祖母さん、伯父・伯母さん、叔父・叔母さんたちが参加していないSNSには、当然、そのような情報や物語、体験談などが蓄積できない。ご本人が亡くなってしまったら、二度と興味を惹かれたテーマについて訊くことができないし、「自分はなぜここで生まれ、ここにいて生活してるの?」といった、本人にとっての根源的あるいは依って立つ実存的な足もと=基盤の概念を、永久に失うことになってしまう。そのような情報の喪失や偏り、世代間における意識の乖離や認識の齟齬をなくす目的でつくられているのが、家族や親戚限定の紙メディア=親族ミニコミ誌なのだろう。
 落合・長崎地域への空襲や、戦後史などについて取材をさせていただいた、東京写真工芸社(富士見写真場Click!)の佐藤仁様Click!が、昨年(2016年)8月に亡くなった。1945年(昭和20)4月13日夜半の空襲による延焼で、小野田製油所Click!の裏に積んであったドラム缶が爆発して吹っ飛んだ話や、近くにあった銭湯の仲ノ湯(戦後は久の湯)の釜場に、日本の迎撃戦闘機Click!が落ちてきた話、写真館の至近に250キロ爆弾が落ち、破片が防空頭巾を切り裂いてカメラを壊し九死に一生をえた話、戦後の長崎神社改築の話など、多種多様なお話をうかがっていた。わたしの取材は必然的に落合地域側のテーマが多く、今度は長崎地域(椎名町地域)のお話を詳しくうかがおうと思っていただけに、たいへん残念だ。
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 亡くなった佐藤仁様の甥にあたる、佐藤創様からご連絡をいただき、親族ミニコミ誌「キラキラシュガー」の取材オファーをいただいたのは、今年(2017年)の1月だった。わたしはいつも対象者に取材させていただき、お話をうかがう側なので当初は面食らったのだが、親族ミニコミ誌とその役割りに強く惹かれてお話をさせていただくことになった。1時間半ほどの短い時間だったので、佐藤仁様が証言された地域の記憶や、その思い出などあまり詳しくは語れなかったのだが、取材から1週間ほどてして「キラキラシュガー」第4号がとどいた。
 さっそく内容を拝見すると、とても面白い。すべてをフォントの編集にせず、子どもたちの文章は手書きのまま掲載するなど、さまざまな工夫がほどこされている。また、子どもたちの描いたイラストや、親族の古写真などが掲載され、それにまつわる物語やエピソード、思い出話などが記事としてつづられている。家族ばかりでなく、親戚・親族一同でこのような情報をリアルタイムで共有し合えれば、そこから派生してより多種多様な情報や消息が集まって、より内容の濃い「記録集」として蓄積されていくだろう。
 ちょっとその一部を、「キラキラシュガー」第4号から引用してみよう。佐藤仁様の兄にあたる佐藤晋様の、子どものころに見た下落合の情景だ。
  
 (現在 西武新宿線 中井駅から目白大学周辺) いつも弟<佐藤仁様>や近所の子を引き連れて夏の太陽に温められたトマトを食べたり、冷たい井戸水を頭から被ったり、神田川へ入り込む小川<妙正寺川>で小魚をすくったり土手の小穴からダラリとぶら下がって昼寝でもしているのか赤腹の山カガシを引っ張りだしたり…/そんな事をやりながら「何故?」「どうして?」と心配気に不思議がっていたのが弟でした。私の弟や妹達が一番世話になったのも弟の「仁」でした。(<>内引用者註)
  
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 さて、落合地域を取材していてもうひとつ出会った印象深いメディアに、近衛町Click!藤田孝様Click!たちが刊行された「藤田譲氏とその一族の記録」(2014年)がある。やはり、家族をはじめ親族で「家族の歴史」を共有するために作成された冊子だ。下落合へClick!を建設して住むようになった一族の歴史や、関わった事業の起ち上げやその仕事上での役割り、一族のルーツを訪ねる旅行記、一族の現状と消息の詳細など、内容は多岐にわたりとても豊富だ。この1冊を読めば、藤田家の誰もが先祖の来し方を知ることができ、「いま、なぜ自分はここにいるのか」を知ることができる。
 やはり、藤田家に残るアルバムから古写真がふんだんに引用され、イラストや絵画も数多く掲載されている。また、家族の歴史を記述するのと同時に、そのとき世の中の動きはどうなっていたのか?……というように、社会の流れ(近代史)と家族・親族の動向とを重ねて記述している点が秀逸だ。親族間で共有する冊子としての役割りを超えて、貴重な写真資料とともに、このメディア自体がひとつの近代史における証言資料としての意味合いをも備えている。
 たとえば、お祖父さんが生きていた時代、日本はどのような政治・経済状況に置かれていたのか、また文化的にはどのような出来事があり、そこでどのような人々が活躍していたのか……などなど、同時代の社会的な状況がコンカレントで参照できるようになっている。メインテーマは藤田家なのだが、期せずして近代史の流れをおおよそ把握でき、そのようなマクロ的な視界から改めて藤田家の経緯をとらえ直すことができるという力作だ。
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 ブログやSNS、IMなどのツールがあたりまえになった今日、実はいちばん記録しておきたい情報をお持ちの方々が、それらのツールを利用していない世代だ……というのに気づく。そのような“気づき”もあって、13年前にこのようなサイトをはじめた経緯もあるのだけれど、デジタルメディアを利用していない世代に拙記事は読めず、記事を出力(印刷)してお送りする以外、その記述や記録を踏まえての新たなフィードバックは期待できない。親族同士のリアルタイムによる情報共有や、家族の歴史や消息といった世代間を大きくまたがる用途には、まだまだ紙メディアが活躍し、その定期的な発行が有効なのだろう。

◆写真上:戦前に撮影された、若き日の佐藤仁様。(小川薫アルバムClick!より)
◆写真中上は、「キラキラシュガー」第4号の表示上部に描かれたメインビジュアル。は、同誌の中ページで写真やイラストがふんだんに使われている。
◆写真中下は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された落合地域で、佐藤仁様たちが遊んだころの風情がいまだに残っている。は、GoogleEarthにみる現在の同所。は、子どもたちが描いた佐藤仁様たちの遊び場イラストマップ。
◆写真下は、2014年(平成26)発行の『藤田譲氏とその一族の記録』表紙()とアルバムページ()。は、藤田孝様による旅行記「祖父の郷里を訪ねて」。


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続・岡田虎二郎のずぶ濡れ帰宅ルート。 [気になる下落合]

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 以前、岡田虎二郎Click!が1920年(大正9)9月30日に台風の暴風雨と遭遇し、自宅へともどった「ズブ濡れ帰宅ルート」Click!をご紹介した。そのとき想定したのは、娘の岡田礼子Click!が暮らしていた下落合404番地、すなわち近衛町Click!の住宅番号でいうと近衛町6号を想定していた。だが、この近衛町6号の家は岡田虎二郎の死後、どうやら大正末ごろに虎二郎の妻と娘が下落合内を転居して、住んだ家らしいことが判明した。
 岡田虎二郎は1920年(大正9)9月30の木曜日、東京各地で開かれている静坐会の会場をまわっていた。1972年(昭和47)に春秋社から出版された『ここに人あり~岡田虎二郎の生涯~』によれば、木曜日の順路は早朝の本行寺(日暮里)にはじまり、笹川てい宅(西片町)→徳川慶久Click!(第六天町)→田健次郎(広尾町)→生田定七(加賀町)→宗参寺(弁天町)→青山幸宣(富士見町)→斎藤浩介(四谷伝馬町)→中村雄次郎(四谷仲町)→須藤諒(若葉町)→西教寺(本郷追分)と、市内を精力的にまわっている。そして、最後の西教寺で東京市は台風の直撃を受けて、大暴風雨の圏内に入ってしまったようだ。
 台風一過の翌日、日暮里の本行寺Click!へと向かっていた相馬黒光Click!は、目白駅Click!で偶然いっしょになった岡田虎二郎の様子を記録している。1977年(昭和52)に法政大学出版局から出版された『黙移~明治・大正文学史回想~』から引用してみよう。
  ▼
 先生逝去の直前、大暴風雨がありまして、池袋の辺りから目白にかけて一面の泥海と化したことがありました。夜おそく先生はその水の中を歩いてお帰りになりました。その翌日、私は省線に乗り日暮里に向って走っていますと、目白駅(先生のお宅はそのころ落合村にありました)から先生が乗り込まれ、私のすぐ隣りに腰をおろされました。私がかつてお貸しした「シェンキウィッチ」の「先駆者(谷崎氏訳)」についてこうお尋ねになりました。/『あの「先駆者」を読んでどこが面白かったか』(後略)
  
 相馬黒光は、1921年(大正10)10月1日の出来事として記録しているが、岡田虎二郎は前年の1920年(大正9)に死去しているので、記憶に1年間のズレがある。
 ちなみに、10月1日の金曜日に岡田虎二郎がまわっていた静坐会会場は、本行寺(日暮里)→遠藤少五郎(本郷)→長谷川保(本郷元町)→久能木商店(日本橋室町)→統一教会(芝花園町)→稲葉順造(飯倉片町)→有馬頼寧(青山北町)→岩手脩三(駿河台袋町)→豊原清作(神田松住町)ということになる。淀橋角筈の相馬愛蔵Click!・黒光がいる新宿中村屋Click!へは、毎週月曜日の本行寺(日暮里)の次にやってきていた。会場先には当時の皇族や華族、財閥系の屋敷も多く含まれており、安田善之介(本所横網町)や安田善四郎(日本橋小網町)、東伏見宮(赤坂葵橋)、前田利満(小石川三軒町)、井伊直安(柏木)、徳川達道(小石川林町)、鍋島直明(青山南町)などの名前も見えている。
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 さて、相馬黒光が「落合村にありました」と書いている岡田虎二郎の家は、彼が死去した自宅の特定から下落合356番地であることが判明した。この住所は、おそらく大正後期に地番変更がなされた区画であり、1925年(大正14)現在の明治期からつづく「落合村市街図」→「落合町市街図」では、下落合350番地のままとなっている場所で、356番地は欠番だった可能性が高い。つまり、岡田虎二郎の死去と相前後するように、下落合350番地が356番地へと変更された可能性がある。
 下落合356番地は、ミツワ石鹸Click!三輪善太郎Click!敷地の北側にあたる一画で、のちに同社重役の衣笠静夫Click!が住む敷地の東隣りだ。同地番の岡田邸は、したがって三輪家からの借地だったと推定でき、ひょっとすると岡田家は三輪家が敷地内に建てた借家に住んでいたのかもしれない。岡田虎二郎は、1920年(大正9)10月14日の夜に倒れ、翌日に青柳病院へと入院し、10月17日の深夜に尿毒症で急死している。
 さて、岡田虎二郎の葬儀を愛知県渥美郡田原町で挙げたあと(東京でも静坐会の会員による葬儀または追悼式が行われただろう)、遺族の妻・き賀と娘の礼子はいつ近衛町へと引っ越しているのだろうか。大正期の明細図から、順番にたどってみよう。まず、1925年(大正14)に発行された「出前地図」Click!では、下落合356番地(「365」と誤記)に「藤田」という名前が採取されている。だが、この種の地図でよく見られるように、「藤田」ではなく「岡田」ではなかったかという、住民名の採取まちがいの可能性が残る。
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 翌1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」では、下落合356番地に「渡辺」という人物が住んでいる。したがって、同年にはすでに岡田家は356番地にいなかったとみられる。ちなみに、1938年(昭和13)作成の「火保図」を参照すると、すでに「渡辺」から「庄司」という人物に変わっているのがわかる。このように、めまぐるしく住民名が入れ替わる家は、借地・借家だった可能性が高いのだ。
 もし、「出前地図」に採取された「藤田」が「岡田」の採取ミスであれば、岡田家は虎二郎の死後1925年(大正14)までの4年余りを下落合356番地で暮らし、同年に下落合404番地の近衛町6号敷地へと転居していることになる。また、岡田虎二郎の死後ほどなく近衛町へ転居しているとすれば、東京土地住宅Click!が近衛町の販売をスタートした1922年(大正11)ごろ、すなわち虎二郎の死から2年後ということになるだろうか。岡田家は虎二郎の多大な収入から裕福であり、近衛町の土地をすぐに購入して自邸を建設できただろう。ただし、とりあえずは土地を購入しただけで、すぐに自邸は建設せず、女所帯なので周囲に住宅が増えてから家を建てているのかもしれないのだが……。
 藤田孝様Click!のもとに、東京土地住宅の常務取締役・三宅勘一Click!の名前が入った「近衛町地割図」が保存されている。目白駅近くの金久保沢Click!あたりに「豊島区」の名称が入っているので、大東京35区時代に入る1932年(昭和7)以降に作成された地割図だと思われる。同図には、「下落合四〇四番地四号」と「弐百拾弐坪四合」の記載とともに、岡田礼子の名前が採取されている。すでに岡田虎二郎の妻・き賀の名前ではなく娘の名前になっているところをみると、ほどなく母親もつづけて死去したものだろうか。
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 下落合356番地の家は、下落合404番地の近衛町よりもかなり遠いので大暴風雨の中、岡田虎二郎はかなり身体にこたえただろう。目白駅付近から下落合の丘陵に上ったのだろうが、道路はまったく舗装されていない時代だ。強風にあおられながら、泥道のぬかるみで足を取られ、Click!が脱げてしまったかもしれない。大正当時の道筋をたどると、目白駅あたりから旧・近衛邸のある丘上へ出て、林泉園の尾根上を通る最短距離を歩いたとしても、下落合356番地の自宅まではゆうに800m弱ぐらいはありそうだ。

◆写真上:下落合356番地にあった、旧・岡田虎二郎邸跡(右手の白塀)の現状。
◆写真中上は、1925年(大正14)に作成された「豊多摩郡落合町市街図」にみる下落合356番地。いまだ明治期の350番地のままで356番地は欠番となっており、大正後期に地番変更が行われているとみられる。は、同じく1925年(大正14)に作成された「出前地図」(「下落合及長崎一部案内図」)にみる下落合356番地の「藤田」邸で、「岡田」邸だったにもかかわらず表札の誤採取の可能性が残る。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる下落合404番地の岡田邸と下落合356番地の渡辺邸。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合356番地の庄司邸と、その周囲に拡がる三輪善太郎邸敷地。
◆写真下は、1920年(大正9)9月30日の大暴風雨の日にずぶ濡れになった岡田虎二郎の新・帰宅ルート。w 中左は、藤田孝様の家に残る「近衛町地割図」の近衛町6号に掲載された娘の岡田礼子邸。中右は、おそらく20代後半か30代前半とみられる岡田虎二郎。は、下落合404番地(近衛町6号)に建っていた岡田邸跡の現状で、岡田礼子から敷地を購入してアトリエを建てているのは安井曾太郎Click!だ。


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江戸の屋敷や商家跡から出土するもの。 [気になるエトセトラ]

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 近ごろ東京のあちこちで、江戸期に建てられていた屋敷や商家の遺構の発掘調査を耳にする。数年前に新宿歴史博物館Click!の近く、三栄公園で埋蔵文化財の発掘調査が行われているのを目にした。江戸時代は北伊賀町にかかるエリアなので、なにか商家の遺構でも発見されただろうか。
 同博物館が建設される以前、江戸期には伊賀の組屋敷が建っていた敷地あたりから、大量の獣骨が出土している。幕府の御家人である伊賀組屋敷や扶持が多めな屋敷は、その一部が町域となっていて町人たちも隣接して住んでいたようだ。ひょっとすると、組屋敷の敷地の一部をナイショで町人に貸与し(幕府により敷地の賃貸は原則的に禁止)、管理する差配を置いていたものかもしれない。発見された獣骨は、判明しているだけでもイノシシ(最少個体数97頭)、ニホンジカ(同32.71頭)、ニホンカモシカ(同7.11頭)、ツキノワグマ(同3頭)、ニホンオオカミClick!(同3頭)などだった。発見された限りの骨は完全骨格のものは少なく、身体の一部の骨が多かったという。狭い敷地でこれだけの獣骨が発見されるということは、さらに多くの獣肉が集積していた可能性が高い。
 つまり、1頭の動物をいくつかの部位に解体したあと、江戸にめぐらされた専門の物流ルートを通じて肉が町場へ配送されていた……と考えるのが自然だろうか。その個体数の多さから、武家屋敷が多い乃手Click!のエリアだった四谷三栄町にも、(城)下町と同様にももんじ屋Click!(肉料理屋)が開店していたと想定することができる。中でも、牛肉より美味だとされるアオジシ(ニホンカモシカ)や、非常に美味しいニホンジカの肉は人気があったと思われ、シシすき(焼き)や江戸風シシ鍋(いわゆるボタン鍋とは別物で牛鍋に近い)と同様に好まれていたのではないだろうか。この獣類や鳥類(日本橋ではカモなど)の“すき焼き”料理Click!や鍋料理をひな型に、明治以降になると肉の素材にウシが加わり、東京には濃い“したじ”(醤油の江戸東京方言)ベースで甘辛の牛すき焼きや牛鍋Click!が誕生することになる。
 さて、江戸時代の発掘現場からは、思いもよらない遺物が出土することがある。幕府の大旗本(時代により譜代大名)だった柳生家の菩提寺・広徳寺の墓所から、ツゲの木で精巧につくられた入れ歯(全部床義歯)が出土している。柳生宗冬が使用したとされているけれど、厳密に規定できるかどうかは知らない。現在のおカネに換算すると、制作には2,000万円ほどの経費が必要だったようだ。以前、下落合の第二文化村Click!に住んだ歯科医学のパイオニアであり、東京医科歯科大学Click!の創立者・島峰徹Click!のことを書いたとき、江戸期の専門職だった「入歯師」Click!について触れたことがある。
 精巧な木製入れ歯は、現在でも制作するのは困難で、自在に木彫ができる彫刻の巧妙な技術をマスターした専門家でないとできないようだ。浅草の阿部川町(現・元浅草界隈)に住んだ仏師(仏像の彫刻師)が、柳生家の墓所出土の入れ歯を再現した記録が残っている。某大学教授からの依頼で、どうやら大もとは宮内庁を通じて興味をもった昭和天皇からのオーダーだったようだ。
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 1991年(平成3)出版の『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和』7巻(台東区芸術・歴史協会)所収の、大川幸太郎「江戸っ子阿部川町九代目」から引用しよう。
  
 私もこないだ、ツゲで作ったんですけど大変ですよ、型をはめてやるんでなく、木で彫って口の中へ入れて、さわるとこを削って、口の中へ入れたり出したり、相当長い間かかるんでしょうからね。仏師の手間が一日いくらで来るんでしょうから。全部仏師がやったもんです。仏師でなければ、そういう細かい仕事はできないんですよ。/普通の彫刻師は、下へ置いて彫るんです。仏師は手で持って彫るんです。入れ歯は立体ですから手で持って彫れる仏師でなければ出来ないわけなんですね。/広徳寺の現物、今うちに来てます。すごい貴重品だから気をつけて下さいって、大学の先生が持って来たんですけどね、この歯のところは象牙です。今世界中で日本の入れ歯を随分外人の歯科医が研究に来るらしいですよ。
  
 腔内の微妙なカーブや、口当たりを細かく絶妙に調整できる高い技術力がないと、とても木製の入歯師はつとまらなかった様子がうかがえる。現代では、その技術を継承しているのは、木彫の仏師しかいないようだ。もっとも、手先が非常に器用な彫刻家(陽咸二Click!レベルかな?)なら、なんとかつくることができるかもしれない。
 大川幸太郎という人は、8歳になった小学生のときから仏像彫刻を修行しはじめ、22~23歳になった兵役後の年季明けで独立している。この文章を書いたときは、すでに50年以上のキャリアがある仏師だった。柳生家の墓から出土した入れ歯は、ツゲ木の歯茎に象牙の歯でつくられたものだったが、そのほかにも歯の部分がコクタンで仕上げられた入れ歯も出土している。日本でもっとも古い入れ歯は、室町時代の遺構から出土した450年前のものだそうだが、女性が使っていたらしい。
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 それほど大昔から、歯周病による歯抜けに悩んだある程度の身上のある人々は、彫りが巧みな専門家(おもに仏師)に依頼して入れ歯を制作していたようだ。もっとも、江戸初期の柳生家とそのつながりが強い伊賀家などでは、“草”(忍び=諜報員)の仕事がら永久歯が生えると抜歯してしまい、総入れ歯にしてしまったという伝承が残っている。もちろん、情報収集を行なうためにどこかへ潜入する際、怪しまれないよう人相風体を変える必要があったからだ。江戸期に“草”を職業にしていた人々の墓所を発掘すると、数多くの入れ歯が見つかるのかもしれない。
 入れ歯が特殊な階級や、一部のおカネ持ちだけでなく、一般の町民にまで浸透してきたのは江戸後期になってからのことだ。ほとんど木製のものが多かったのだろうが、専門の技工を身につけた入歯師が街中に看板をかかげることになる。木製の歯茎にコクタンの歯を嵌めこんだ、女性専用の鉄漿(歯黒)いらずの入れ歯も多くつくられている。
 さて、阿部川町で仏師をしていた大川幸太郎という人は、戦前から川柳(せんりゅう)の句会も催していた。江戸期に町名主だった柄谷川柳(八右衛門)が、龍宝寺の門前町とみられる阿部川町に住んでいたことから、それにちなんで川柳をはじめたらしい。ところが、戦時中に「反戦川柳」を詠んで殺された、鶴彬(つるあきら)という人物(同句会のメンバーだったのかもしれない)の証言を残している。以下、同書から再び引用してみよう。
  
 戦争中に反戦川柳を作りましてね、それで殺されちゃった人がいるんですよね。最初は戦争反対ということでもって警視庁へひっぱっていかれて、散散ひっぱたかれて、幾日か留められて釈放されるんですね。帰されるとまた発表して捕まる。それを繰り返してるうちに、特高が怒っちゃって赤痢にしちゃって病死にしちゃうんですね。/拷問したりすると問題になるから、たまたまそういう病気に運悪くなったというふうにするために菌食わしちゃったんですね。その人の川柳は本当にすごいです。/落語家などが変な川柳をやるので川柳はふざけたもんだと思ってる人が多いんでね、機会ある毎にその話をするんですけどね。/手と足を もいだ丸太にして返し(中略)/帰されたって、ただものを食って、脱糞してるだけで、ただ生きている丸太ん棒ですからね、戦争ってのはこういうもんだって事ですよね。
  
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 ここで書かれている「赤痢菌」が事実だとすれば、特高Click!はどこから入手したものだろうか。以前こちらの記事にも登場しているけれど、戸山ヶ原に設置された陸軍兵務局分室Click!(のち陸軍中野学校Click!)の福本少佐が、もともとは憲兵隊特高課の課長であり、警視庁の特高課とは非常に近しい関係にあったらしいことを書いた。警視庁特高課の幹部が、陸軍兵務局分室への就業(特務要員として)を推薦しているらしい形跡さえうかがわれるのだ。陸軍兵務局分室は、もちろん諜報員(スパイ)養成のために、同じ戸山ヶ原に建設されていた陸軍科学研究所Click!防疫・細菌研究室(731部隊拠点)Click!とはツーカーの仲だったことが、さまざまな証言からうかがえる。

◆写真上:江戸期の遺構がふんだんに眠る、四谷界隈でかいま見られた関東ローム。
◆写真中上は、三栄公園の埋蔵文化財発掘調査。は、1850年(嘉永3)の尾張屋清七版江戸切絵図「千駄ヶ谷鮫ヶ橋四ッ谷絵図」にみる三栄公園の北伊賀町あたり。は、大量の獣骨が発見された三栄町遺跡の上に建つ新宿歴史博物館。
◆写真中下は、四谷三栄町遺跡から出土したイノシシやアオジシ(ニホンカモシカ)、ニホンジカなどの多種多様な獣骨。は、四谷荒木町の「策(むち)の池」へと下る旧・松平摂津守Click!の上屋敷内だった敷地へ明治以降に設置された坂道。
◆写真下は、広徳寺の柳生家墓所から出土した寛永年間(1624~1645年)につくられたとみられるツゲ+象牙の入れ歯。は、1864年(元治元)に制作された国芳『きたいな名医難病治療』の部分。歯科医の膝元には、いくつかの入れ歯が置かれている。は、1861年(文久元年)の尾張屋清七版江戸切絵図「浅草絵図」にみる龍宝寺と阿部川町。
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ほとんど人が歩いていない鎌倉。 [気になるエトセトラ]

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 わたしが子どものころ、親に連れられてバスに乗りユーホー道路(遊歩道路)Click!=国道134号線をそのまま東へたどって鎌倉で降りると、ほとんど人に出会わなかったのを憶えている。もちろん、鶴ヶ岡八幡宮や高徳院の大仏、円覚寺などの観光スポットには、それなりに修学旅行の学生や生徒たちが50~100人とかたまっていたのだが、ちょっと脇道にそれると人の姿を見ることはめったになかった。ほぼ隔週おきに鎌倉へ遊びに出かけたのは、北鎌倉に母親の親戚が住んでいたせいもあっただろう。北鎌倉は、鎌倉に輪をかけたように“無人”のような風情だった。
 たまに家の庭先で焚き火などをしている人に出会うと、今日でいう“街歩き”のようなわたしたちの姿を見て、「あなたがた、こんなところでなにしてるの?」というように、怪訝な表情で見られたものだ。ユーホー道路Click!や若宮大路、鎌倉駅前、大仏へと向かう長谷の通りなどはかろうじてアスファルトが敷かれていたけれど、ほとんどの道路は舗装もされておらず、小町通りは風が吹くと土埃が舞うような風情で、駅前なのに人の姿はあまりなかった。クルマもいたって少なく、たまに走り抜ける修学旅行の観光バスが目立っていた時代だ。
 それでも夏になると、多くの海水浴客がわたしの子どものころから横須賀線や小田急線で押しかけて、由比ヶ浜や材木座海岸、片瀬・江ノ島海岸(ちなみに江ノ島は藤沢市)、鎌倉水族館(のち閉館)などは芋の子を洗うような混雑ぶりだった。七里ヶ浜は、関東大震災Click!とそれにともなう津波Click!で海底の地形が大きく変わってしまい、一般客の遊泳が禁止されていたのを憶えている。この浜で見かけたのは、流行りはじめた波乗り(サーフィン)のお兄ちゃんやお姉ちゃんたちか、釣り人Click!だけだった。
 だから夏の鎌倉というと、できるだけ海岸近くは避け、わたしたちは山側のハイキングコースをよく歩いていた。山々へ入りこむ谷(やつ)にはかなり奥まで田畑が拓かれていて、いまのような新興住宅地が谷奥まで開発される前の姿だった。そういうところでは、よくマムシやヤマカガシなど毒ヘビClick!に遭遇し、草が微妙に横ゆれするマムシはそっと避けて通るか、ヤマカガシは予想外のスピードで“追いかけて”くるので走って逃げた。わたしの高校時代ぐらいまで、鎌倉のマムシによる被害はあとを絶たず、市内のとある病院ではカーテンを閉めようとした看護婦が、中にくるまっていたマムシに気づかずに噛まれて亡くなったというニュースが流れたのを憶えている。
 鎌倉(海側)の混雑も夏の間だけで、秋冬春はもとの静かなたたずまい……というか、当時の資料に書かれた表現を借りるなら「さびれてうら寂しい」、誰もいない海や街並みにもどっていた。「有名な寺々もさびれて、朽ちそうなほどボロボロだったんだよ」とか、「春先の風が強い日の午後は、土埃がひどい小町通りには人っ子ひとりいなかったよ」とか、「国道134号線はクルマがあまり走らず、稲村ヶ崎から腰越までの散歩にはもってこいだったんだ」とか友人知人に話しても、「信じられない」という顔をされるのだが、やたら鎌倉に人が押し寄せるようになったのは1970年代の半ばあたりだろうか。確か極楽寺を舞台にした鎌田敏夫のドラマがヒットし、その少し前から「an・an」や「non-no」といった女性誌が、競うように“鎌倉特集”を組みはじめたころだ。
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 東京でいうと、ちょうど原宿が繁華街化した時期と、鎌倉の混雑とが妙にシンクロしているような印象がある。原宿も、駅前からすぐに住宅街が拡がり、ときおり犬を散歩させる地元住民に出会うだけで、声高に話すのもはばかられるような静かな乃手Click!の街並みだった。外国人が多く住んでいたせいだろうか、帰国する彼ら相手のアナクロで妙ちくりんな日本土産の店や刀剣店が、ところどころに開店していたのを憶えている。この街が“ファッション化”したのも、1970年(昭和45)すぎであり、若い子たちの姿を多く見かけるようになったのも70年代の半ばなので、やはり「an・an」や「non-no」の“原宿特集”からだろうか。
 さて、わたしが子どものころの鎌倉の街並みについて、あちこちで懐かしそうに語るものだから、「きっと、こんな感じだったんでしょ?」と1冊の写真集をいただいた。1955年(昭和30)に朋文堂から出版されたツーリストガイドブックス1『鎌倉』だ。ご両親の書棚を整理していたら見つかったそうで、ページをめくると子どものころに眺めていた鎌倉の風景写真が大量に掲載されている。わたしが生まれる前に出版された本だが、「そうそう、まさにこの光景だったんだ!」と反応すると、「確かに人が、ほとんどまったくいないねえ」と納得してくれたようだ。
 若宮大路やユーホー道路はクルマの姿もめずらしく、人がポツンポツンと歩いている程度だった。フェンダーミラーのセドリックで、ほんとうに「ぶっ飛ばせた」時代だ。どこの寺々も、修繕費にこと欠くのかボロボロで、建長寺にいたってはいまにも茅葺きの屋根から倒壊しそうな風情だったのだ。鶴ヶ岡八幡宮はハトClick!ばかりが多く、人の姿があまり見えない。浄明寺ヶ谷(やつ)の杉本寺では、子どもたちが現在では立入禁止の風化して朽ちかけた石の階段(きざはし)で遊び、瑞泉寺では庭の樹木が小さく、建立された当初の庭園の姿をよく踏襲し、極楽寺Click!では子どもの木登りに最適なサルスベリClick!が、「ちょっと登ってみれば?」と囁いて誘惑している。w 江ノ島の展望台は古い姿をしていて、東京オリンピックでヨットハーバーが造成された東側の島影も、もとのままなのが懐かしい。ちょっと、同書の「プロローグ」の一部を引用してみよう。
  
 鎌倉は、単に旧蹟の地というだけではありません。静かな雰囲気、夏は涼しく冬は暖い温和な気候、海岸と松林に恵まれた新鮮な空気、東京・横浜に近接した便利の良さから保養地、別荘地として人々に愛され、とくに著名な文化人の移り住むものが多く、作家や音楽家、演劇・映画人など、「鎌倉文士」という言葉さえ一般化しているほどです。この点、鎌倉は古い歴史とともに、近代的な文化の雰囲気を常に呼吸している土地といえるでしょう。最後にまた、海水浴場であるということが、鎌倉の大きな魅力です。夏の訪れとともに、江ノ島をひかえたこの海岸は、俗に「海の銀座」と呼ばれるほどの賑わいを見せ、年中行事のカーニバルを中心に、鎌倉の人出は最高潮に達するのです。/これほど観光地としてのさまざまな要素を、一つの土地に併せもっているところも少いでしょう。
  
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 現代的な視点からいえば、この文章の中で「鎌倉」の地名を「大磯」Click!に入れ替えれば、多くの点で記述が一致するだろう。「静かな雰囲気」が消えてしまった鎌倉ではなく、夏になると大磯へ出かけるのは、子どものころに体験した鎌倉の雰囲気を、どこかで味わいたいからなのかもしれない。
 観光客の誘致が目的のツーリストガイドブックス1『鎌倉』なので、盛んに歴史的な名所や散歩に適した場所を紹介しているのだが、同書が出版されてから10年以上たった1965年(昭和40)の時点でも、前年の東京オリンピックにより江ノ島のかたちは大きく変わったが、鎌倉はたいして変化のない風情を見せていた。同書の記述では、あちこちで「鎌倉時代当時の風情を味わい、その<よすが>を偲ぶことができる」というような表現が頻出するけれど、確かに中世で時間が止まってしまった感覚を味わうことができる街並みや山里が多かった。
 わが家には、1950~60年代の鎌倉と箱根、大山・丹沢Click!をとらえたアルバムがいちばん多いが、それだけ親がわたしを連れ歩いて遊びに出かけた“証拠”なのだろう。わたしの世代になってから、クローゼットの奥にしまいこまれたアルバム類は整理してないけれど、きっと懐かしい風景写真が横溢しているにちがいない。時間に余裕ができたら、探し出してきてエピソードとともにご紹介してみたい。
 わたしの記憶にあるなしにかかわらず(わたしが物心つく以前の、幼稚園時代から鎌倉へは通いつづけていた)、鎌倉のありとあらゆる地域を巡ったと思うのだが、唯一、連れて行ってくれなかった場所が飯島崎の先(沖)にある、鎌倉幕府Click!が築造した貿易湊(みなと)「和歌江島」だ。全国をめぐる幕府の交易船はもちろん、宋からの貿易船も来航していた可能性の高い湊だが、満潮時にはすぐに水没してしまうし、飯島崎で舟を雇わなければ渡れないので親たちは面倒を避けたのだろう。GoogleEarthで確認すると、干潮時に撮影されたのか、湊の築造跡をいまでもクッキリと確認することができる。
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 幼児のころから学生時代ぐらいまで、わたしは鎌倉をよく散歩していたが、以前は800年前の鎌倉時代を想像しながら、その面影や片鱗を求めてあちこちを歩いていたように思う。ところが、最近では鎌倉を歩くと、わたしが子どものころに歩いていた鎌倉の風景、つまり、1960年代の風情を思い出しながら歩いていることに気づく。幼いころに見た光景や風情にことさら哀惜を感じるのは、やはり年をとった証拠だろうか。

◆写真上:室町幕府を開いた、北関東は足利出自の鎌倉幕府御家人・足利尊氏の墓所である北鎌倉の長寿寺。足利尊氏の墓所から白旗社の源頼朝の墓、そして報国寺の足利一族代々の墓を結ぶと直線になる。また、尊氏と頼朝と寿福寺にある政子さんClick!の墓を結ぶと、鶴ヶ岡八幡宮を底辺の一画とした面白い直角三角形ができあがる。もうひとつの安養院にある政子さんの墓を起点にすると、なにが見えてくるだろうか?
◆写真中上は、ほとんどクルマも人もまばらな1955年(昭和30)ごろの若宮大路で、1960年(昭和35)すぎも相変わらず同じだった。右上に見えている岬は稲村ヶ崎。十王岩から鎌倉市街地を見下ろすと、若宮大路にはクルマが渋滞しているのが見え(下)、沖の島影は伊豆大島。は、子どもたちがよく遊んでいた杉本寺の風化した階段(きざはし)で、わたしも上下してよく遊んだ(上)が、現在は立入禁止になっている(下)。
◆写真中下は、茅葺きのままの覚園寺を百八やぐらClick!が密集した斜面から眺めたところ。奥の小谷(こやつ)・亀ヶ淵には、いまだ水田が拡がっているのが見える。は、茅葺きの屋根がボロボロでいまにも倒壊しそうな建長寺の山門(上)。さすがに茅葺き屋根はなくなった現代の建長寺で、沖の遠景は伊豆半島(下)。は、人っ子ひとりいない名越切通し近くの曼陀羅堂やぐらClick!で、奥に写っているのは10歳ぐらいのわたし。鎌倉時代の無数の死者が眠る五輪塔に囲まれて、とても楽しそうだ。w
◆写真下は、山門の龍眼が光るといわれる飯島崎の手前の光明寺。は、飯島崎の沖にある和歌江島(上)といまも残る鎌倉湊跡(GoogleEarthより)。は、東側に東京オリンピックのヨットハーバーができ島影が変わるほどの大改造が施される前の江ノ島。


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ぜんぜん面白くないクイズや娯楽コラム。 [気になる下落合]

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 記事の資料にするため、とあるテーマを抱えながら昔の雑誌や新聞をひっくり返していると、必ず読者向けの娯楽コラムや懸賞クイズが掲載されている。いまでも、新聞や雑誌などに囲碁や将棋、クロスワードパズルのコーナーがあるのと同じように、戦前のメディアにもおそらく記者たちが頭をひねって考案したのだろう、読者が喜びそうなクイズやお笑いコラムなどが載っている。
 だが、どこが面白いのかサッパリわからなくてぜんぜん笑えず、逆に首をひねってしまう“迷作”も少なくない。たとえば、冒頭の写真は雑誌に掲載された読者クイズなのだけれど、ふたりの有名人の顔をタテに切って左右を継ぎ合わせた、ちょっとグロテスクな出題となっている。いま、こんなことをしたら「あたしの顔を半分に切ったりして、なにすんのよ! どーゆーこと?」と、即座に本人たちからクレームがきそうだが、当時はたいして問題にならなかったようだ。
 また、新聞社が発行する写真雑誌のため、新聞によく目を通している読者、つまり人物の顔を紙上で記憶している読者に有利な出題となっている。いまのようにTVが存在しないので、たとえ有名人といっても顔は広く知られてはいなかった時代だ。誰と誰の顔をくっつけたのか、読者のみなさん当ててみよう!……というのが懸賞クイズなのだ。当たった人には、抽選で2名の読者に現金5円がプレゼントされる。大正末の5円というと、だいたい今日の4,000~5,000円ぐらいだろうか。ちょっとしたお小遣い程度の金額だが、家計の足しにと応募者は多かったとみられる。
 さて、このブログをお読みの方なら、下落合のテーマとともに何度か登場している人物の顔(半分)なので、冒頭の写真を見てピンとくる方も多いのではないだろうか。1924年(大正13)に東京朝日新聞社から発行された、「アサヒグラフ」10月29日号の「読者のおなぐさみ」懸賞クイズから引用してみよう。
  
 読者のおなぐさみ/懸賞『誰と誰?』
 二人の顔を真中から継ぎ合わせた写真です。二人共有名な歌人で、その一人は男爵夫人で、本願寺に関係あり、一人は子福者で夫君と共に明星派の重鎮歌道、古典、其他新しい婦人運動にも関係してゐられます 右は誰左は誰でせう。(半分宛顔を隠して御覧なさい)/官製はがきに左誰れ、右誰れと姓名を記し本社グラフ部懸賞係宛でお送下さい。/締切十一月七日/正解者二名に金五円宛贈呈(正解者多数の場合は抽選による)
  
 正解はもちろん、右が下落合の九条武子Click!で左が与謝野晶子なのだが、「アサヒグラフ」の愛読者か、新聞の文化欄を注意深く読んでいる読者には、比較的やさしい問題だったのではないだろうか。もう少し賞金の額や、当選者の数を増やしてもよさそうなものだが、東京朝日新聞のクイズはおしなべてケチなのだ。
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 当時の主婦向けの雑誌にも、同じような懸賞クイズが掲載されている。こちらは、ウォーリーを探せならぬ「道夫さん」を探せクイズだ。いまから見ると、なんだか読者をバカにしてるんじゃないかと思うような出題だが、主婦の中には懸賞クイズを毎号楽しみにしていた読者もいたのだろう。こちらの賞品は現金ではなく、女性向けのファッションアイテムや化粧品などのグッズ、絵はがきなどとなっている。1928年(昭和3)に主婦之友社から発行された、「主婦之友」2月号より引用してみよう。
  
 懸賞考へ物新題
 お母さんは、道夫さんと、龍夫さんに、お揃ひの着物を着せて、お稲荷さんへお詣りに来たかへりがけに、兄さんの道夫さんを見失つてしまひました。お母さんは血まなこでさがしてをりますが見当りません。皆さん、道夫さんは、どこに何をしてゐるのでせうか、よーく探してやつてください。あてた方には公平な抽籤のうへ、五名に大流行の革製ハンドバッグ一箇づゝ、二十名にルビー入白銀洋髪飾ピン一本づゝ、三十名に化粧直しコンパクト一箇づゝ(略) 千名に川原久仁於画伯筆の美しい三色版絵はがき一組(四枚)づゝを差上げます。用紙は必ずハガキを用ひ、答と並べて裏面に住所姓名をハッキリと書き、二月廿八日までに、東京都神田駿河台主婦之友社編集局、懸賞係り宛にお送りくたさいませ。
  
 この「道夫さんを探せ」クイズの絵を描いたのは、サインに「クニオ」とあるので挿画家・児童文学作家の川原久仁於その人なのだろう。一見しておわかりのわうに、「道夫さん」は風船をふくらませて売る露天商の前で、両手を開いて夢中になっているのが数秒で見つかり、いま風のツッコミでいうと「ヘタクソか?」となるのだけれど、漫画が流行しはじめた当時としては新鮮で面白い、画期的なクイズだったのかもしれない。
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 雑誌に限らず、新聞にも娯楽コラムあるいは面白記事のコーナーがあって、そのときのタイムリーな話題に合わせて読者を笑わせようと試みている。時事マンガと呼ばれるジャンルのほか、「笑い話」的な記事を載せるのが流行った時期があった。特に、日中戦争が泥沼へとはまりこんでいく日本の、重苦しく暗い世相を背景に、新聞にさえわずかな笑いを求めた読者がいたのだろう。新聞にネタを寄せる側も、笑いを誘う読者ウケをねらったような投稿がめずらしくなかったようだ。でも、今日から見ると、その多くはユーモアにさえとどかない、ピクリとも笑えない内容が多い。時代とともに、笑いの質が大きく変化してしまったせいもあるのだろう。
 たとえば、帰国途中の近衛秀麿Click!が太平洋上の日本郵船・氷川丸Click!から、東京朝日新聞社へ打電した悲鳴短歌が掲載されている。当時の読者は大笑いしたのかもしれないけれど、いまとなっては「だから、どうしたってんだ?」とクールに返されてしまいそうな作品だ。1937年(昭和12)3月に発行された、東京朝日新聞の記事から引用してみよう。
  
 まぐろでも泳ぎにくかろこのウネリかな/帰朝船中から近衛子の悲鳴
 欧米各国の指揮棒行脚にすばらしい成功を収めた近衛秀麿子は、十九日横浜入港の氷川丸で帰朝する予定のところ、先般東京近海を荒した低気圧に途中で遭遇、連日のシケ続きに船足が進まず、予定より二日も遅れて二十一日早朝横浜入港となつた。さるにてもこの時化は、よほどカラダに応へたものと見えて、十九日船中から本社に無電を寄せて曰く、/海シケ通しで元気なし/〇/海の中いま喰ひ頃のマグロかな/〇/沈むなら刺身包丁にワサビとり、マグロの群を切つて果てなむ/〇/マグロでも泳ぎにくかろこのウネリかな/(呵々)
  
 これも現在では、「ヘタクソか?」といわれてしまいそうだけれど、もともと生マジメな近衛秀麿が詠んだ、おかしな俳句や短歌ということで、ウケる人にはウケたのだろう。当時の東京朝日新聞の紙面らしい、また近衛秀麿もそれを意識したユーモアセンスだ。
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 さて、最後に余談だが、日本にコカコーラが輸入されたのは大正時代の初めとされているけれど、高村光太郎Click!の詩などに見られるだけで、輸入元が出したであろう広告がなかなか見つからなかった。高村が『道程』に書いている「コカコオラ」は、明治屋が日本代理店となって発売される前、芥川龍之介Click!が「コカコラ」と書く以前のものであり、日本に輸入された直後の製品だったとみられる。ようやく、大正初期から「日本一手輸入販売元」としてコカコーラを販売していた、斎藤満平薬局(現在も千代田区で営業)の媒体広告を見つけたのでご紹介したい。そう、当初コカコーラは疲労回復の健康薬剤として売られており、下落合の中村彝Click!カルピスClick!とともに飲んでいたかもしれない。

◆写真上:1924年(大正13)発行の「アサヒグラフ」10月29日号に掲載のクイズ写真。
◆写真中上は、「アサヒグラフ」(東京朝日新聞社)の同号に掲載された懸賞クイズ。は、下落合753番地の九条武子邸跡で現在は新築住宅が建っている。
◆写真中下は、1928年(昭和3)発行の「主婦之友」2月号に掲載された懸賞クイズ。は、1937年(昭和12)3月の東京朝日新聞に掲載された近衛秀麿の“迷作”。
◆写真下は、下落合436番地の近衛文麿・近衛秀麿邸跡。は、1919年(大正8)8月18日の東京朝日新聞に掲載された斎藤満平薬局の「コカ、コラ」媒体広告。


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