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まぼろしの雑司ヶ谷「異人館」。 [気になるエトセトラ]

雑司ヶ谷異人館跡.JPG
 山手線の目白駅Click!を越えた向こう側に、気になる西洋館がふたつある。目白町と雑司ヶ谷町(現・南池袋含む)は、山手空襲Click!から一部の焼け残った住宅街が戦後までつづいていたので、明治末から昭和初期までに建てられた住宅が、そのままの姿で建っていた。ときどき、それらの街角を舞台にした絵画や小説の作品に出あったり、印象的な建築が記録されたりしている。
 目白町の西洋館(または文化住宅)を舞台にした作品で、すぐに思い浮かぶのが中井英夫Click!『虚無への供物』Click!だ。空襲にも焼け残った住宅街に建つ「氷沼邸」は、周囲の様子や駅までの距離、あるいは平面図さえ同作に登場するので、どのあたりに建っていた住宅なのか、特定することができる。1987年(昭和62)に三一書房から出版された、『中井英夫作品集・第10巻/死』所収の『虚無への供物』から、「氷沼家」の描写を少し長いが引用してみよう。
  
 国電の目白駅を出て、駅前の大通りを千歳橋(ママ)の方角に向うと、右側には学習院の塀堤が長く続いているばかりだが、左は川村女学院から目白署と並び、その裏手一帯は、遠く池袋駅を頂点に、逆三角形の広い斜面を形づくっている。この斜面だけは運よく戦災にも会(ママ)わなかったので、戦前の古い住宅がひしめくように建てこみ、その間を狭い路地が前後気ままに入り組んで、古い東京の面影を忍ばせるが、土地慣れぬ者には、まるで迷路へまぎれこんだような錯覚を抱かせるに違いない。行き止まりかと思う道が、急に狭い降り坂となって、ふいに大通りへぬけたり、三叉に別れた道が、意味もなくすぐにまた一本になったりして、それを丈高い煉瓦塀が隠し、繁り合った樹木が覆うという具合だが、豊島区目白町二丁目千六百**番地の氷沼邸は、丁度その自然の迷路の中心に当る部分に建てられていた。/宝石商だった祖父の光太郎が、昭和四年、初孫の蒼司が生れたのを喜んで、半ば隠居所を兼ねて建てた家だが、これという趣味も奇癖も持たなかったせいか、久生の期待したような尖塔も櫓楼もある筈はなく、間取りなどもごくありふれた平凡な建物だった。
  
 中井英夫は、弦巻川へと下る北向きの斜面を「運よく戦災にも会わなかった」と書いているが、1947年(昭和22)の空中写真を参照すると、かなりの範囲が焼け野原となっている。彼が1958年(昭和33)に、下落合4丁目2123番地へ転居してくるころには、すでに焼け跡のバラックが消えて住宅街が復旧していたので、そのあたりを散歩すると古い家屋が目について、一帯が空襲でも焼けなかったように見えたのかもしれない。
 「豊島区目白町二丁目千六百**」と書かれているので、500坪もの庭を持つ大邸宅の「氷沼邸」が、山手線沿いの路地が迷路のように入り組む、細長く焼け残った住宅街の中に想定されていることが知れる。下落合からこのあたりまで散歩に出た中井は、川村学園のあたりから目白通りを北側へ左折し、複雑で狭い迷路のような路地を歩いて、「氷沼邸」に設定する西洋館の目星をつけたのだろう。現在でも、路地こそ拡幅され舗装されてはいるが、複雑な三叉路やおかしな道のかたちはそのまま残っている。
 目白町2丁目1600番台の地番は、川村女学院(現・川村学園)や高田第五尋常小学校(現・目白小学校)の裏手を東西に、また山手線沿いを南北に長く連なる太い「L」字型のエリアに限定されるが、同学園や小学校の北側一帯は空襲でほぼ焼け野原だったので、戦前からつづく1600番台の住宅街というと、入り組んだ路地の存在とともに、山手線沿いの南北に細長い一画のほうに想定されたとみられる。
目白町和館.JPG
虚無への供物1964講談社.jpg 目白町2丁目氷沼家1947.jpg
雑司ヶ谷異人館1986.jpg
 『虚無への供物』の「氷沼家」は、モデルとなる西洋館はあったかもしれないが、あくまでも虚構のうえで存在する“幻の邸宅”だけれど、実在したにもかかわらず今日では人々の口の端にのぼることさえなくなり、“幻”と化してしまった巨大な西洋館があった。同じ高田町エリアの雑司ヶ谷に建っていた松平貞一邸だ。明治末にはすでに建設されていた同邸は、周囲の住民から「異人館」あるいは「異人屋敷」と呼ばれていたが、別に外国人が住んでいたわけではない。(敗戦後の一時期、GHQに接収されていた可能性はあるが……) 「松平」という姓からうかがえるように、おそらく徳川家の姻戚のひとりが建てた明治仕様の西洋館だったのだろう。
 豊島区の郷土資料をたどっても、弦巻川北岸の丘上にそびえてかなり目立つ、巨大で特徴的な西洋館だったにもかかわらず、意外にもほとんど記録が残されていない。1933年(昭和8)に出版された『高田町史』(高田町教育会)にも、特に「松平家」は地元の“有名人”としての記載がない。つまり、ほんとうに幻の雑司ヶ谷「異人館」なのだ。
 「異人館」の所在地は、雑司ヶ谷(4丁目)572番地(現・南池袋4丁目)であり、今日の南池袋第二公園の東側あたりの一画だ。木造であったにもかかわらず空襲からも焼け残り、戦後には周辺の住民たちからメルクマールとして記憶された大屋敷だった。都電荒川線の鬼子母神電停を降り、線路沿いのほぼ直線の道を北へたどると、暗渠化された弦巻川の跡をすぎてから登り坂となる。その坂上に、あたりを睥睨するように明治期の大きな西洋館(松平邸)が見えていた。
 一度こちらでも引用しているが、1986年(昭和61)に発行された「広報としま」7月号所収の、永井保Click!「わたしの豊島紀行<22>」から引用してみよう。
  
 目白台から落合にかけての台地斜面には、名だたる坂が多く、景色もいいが、旧鎌倉街道が横切る、だらだら坂の多い雑司ヶ谷風景も好きである。いまは取り壊されてしまったが、鬼子母神電停から北へ、線路ぞいの坂の上にあった異人館(実際の名は知らない)などは好画題になった。
  
雑司ヶ谷異人館1938.jpg
雑司ヶ谷異人館横.JPG
松平貞一邸1947.jpg
松平貞一邸1975.jpg
松平貞一邸1984.jpg
 永井保は、「異人館」あるいは「異人屋敷」と呼ばれた明治末の西洋館が、1986年(昭和51)7月の時点で「取り壊され」たと書いている。空中写真で確認すると、1984年(昭和59)にはいまだ建っているのが確認できるので、おそらく1985年(昭和60)前後に解体されているのだろう。
 永井保は「異人館」のイラストを残しており、下見板張りの外壁で屋根には尖った細いドーマーが並ぶ、いかにも明治期の建築らしい西洋館だったようだ。たとえるなら、1912年(明治45・大正元)に建設された、大磯Click!駅前の大きな旧・木下別邸のような意匠をしていたのだろう。イラストの表現を見ると、旧・木下別邸のように外壁が明るい色で塗られているようには見えず、なにか濃い色に塗られていたように見える。おそらく、外壁の腐食を防ぐためコールタールが塗られ、建設から間もない時期はともかく、戦後はこげ茶色をした外壁だったのではないだろうか。
 また、1992年(平成4)に弘隆社から出版された後藤富郎『雑司が谷と私』にも、「異人館」あるいは「異人屋敷」と呼ばれた、雑司ヶ谷の同地番に建っていた大きな西洋館が記録されている。なお、「昨年遂に取りこわ」されたと書かれているが、同文は1985~86年ごろに書かれたものではないか。
  
 宝城寺裏の丘の上に明治末から異人屋敷(異人館)と呼ばれた異様な建物があったが、昨年遂に取りこわし、その姿を消した。弦巻川は宝城寺下四つ辻のところの土橋で、流れは杜深い大久保彦左衛門邸内に注がれて入った。彦左衛門は殊にこの勝景を愛で池の汀に茶室を設け、しばしば清会を催したという。
  
 「異人館」が松平邸だったというのは、地元でも知られていなかったようで、住民の詳細について記した資料は見あたらない。きっと、「異人館」には昔から表札が出ていなかったか、あるいは住民がときどき変わって〇〇邸とは呼びづらかったのかもしれないが、少なくとも1938年(昭和13)の「火保図」には、松平貞一邸と採取されている。
大磯旧・木下別邸1912.jpg
尾張屋雑司ヶ谷音羽絵図1857.jpg
雑司ヶ谷大鳥社.JPG
 さて、この「松平」がどこの松平さんなのか同邸の周囲を見まわすと、ひとつの大きなヒントを見つけることができる。「異人館」から、西へわずか140mにある王子電車(現・都電荒川線)をはさんだ雑司ヶ谷大鳥社だ。同社は、金山稲荷Click!の対岸である目白台Click!にあった出雲藩松平出羽守の下屋敷(のち百人組同心大縄地)に由来する祭神であり、江戸期には嫡子の病平癒を願って祭神を出雲大社から勧請している。詳細は省くが、この出雲藩松平出羽守の末裔のひとりが、明治末に大鳥社の見える丘上の地へ、大屋敷を建設しやしなかっただろうか? 目白台からもほど近い雑司ヶ谷の「異人館」は、かつて“異人”など一度も住んだことのない、出雲の松平家にちなむ邸宅だったのではなかろうか。どなたか、ご存じの方があればご教示いただきたい。

◆写真上:南池袋第二公園の東側にあたる、丘上の雑司ヶ谷「異人館」跡の現状(正面)。
◆写真中上は、目白町2丁目16XX番地界隈に残る和館。中左は、1964年(昭和39)に講談社から「塔晶夫」名で出版された中井英夫『虚無への供物』。中右は、氷沼邸が想定された1947年(昭和22)撮影の空襲をまぬがれた16XX番地界隈。は、1986年(昭和61)に永井保が1951年(昭和26)ごろの風景を前提に描いた雑司ヶ谷「異人館」。
◆写真中下は、1938年(昭和13)の「火保図」に採取された「異人館」こと松平貞一邸。は、雑司ヶ谷「異人館」の近隣に残る古い和館。は、上から順に1947年(昭和22)・1975年(昭和50)・1984年(昭和59)の空中写真にみる松平邸。
◆写真下は、1912年(明治45・大正元)に建てられた大磯駅前の旧・木下別邸。は、1857年(安政4)に制作された尾張屋清七版切絵図「雑司ヶ谷音羽絵図」にみる出雲藩松平出羽守下屋敷。は、雑司ヶ谷「異人館」の近くにある雑司ヶ谷大鳥社。

コメント欄に、@mina_zou_coinpaさんより貴重な情報をいただいた。「異人館」はご友人の邸であり、松平邸の2軒西隣り(現・南池袋第二公園)に建っていたというものだ。そして、「異人館」の解体は1979年(昭和54)のことだったという。詳細は下記のコメントをご参照いただきたい。
 (ありがとうございました。>@mina_zou_coinpaさん)
もうひとつのテーマ、近くにあった松平邸は、下屋敷内に大鳥社を勧請した出雲藩松平出羽守の末裔の方だったかどうか、ご存じの方がおられればご教示いただければ幸いだ。
下の写真は、1975年(昭和50)に撮影された印の雑司ヶ谷「異人館」(上)と、その跡地である南池袋第二公園(中)、そして敗戦時には丘上にそそり立つように見えた王子電車(都電荒川線)沿いの坂道(下)。
コメント欄に、「お名前(必須)」さんより貴重なコメントをいただいた。同西洋館は明治期に来日したお抱え外国人のリヒャルト・ハイゼ邸ではないかという情報だ。詳細は、下記コメントをご参照いただきたい。(ありがとうございました。>お名前(必須)さん)

雑司が谷異人館.jpg
南池袋第二公園.JPG
雑司ヶ谷上り坂.JPG

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読んだ! 28

コメント 35

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>はじドラさん
by ChinchikoPapa (2017-06-09 13:28) 

ChinchikoPapa

週末に寝不足の中、長い『ダンス・ウィズ・ウルブズ』を観にいった記憶があります。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>@ミックさん
by ChinchikoPapa (2017-06-09 13:31) 

ChinchikoPapa

いつも、「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>鉄腕原子さん
by ChinchikoPapa (2017-06-09 13:32) 

ChinchikoPapa

演奏にハーモニカが入ると、その音色だけでブルースっぽく聴こえるから不思議ですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2017-06-09 13:34) 

ChinchikoPapa

赤坂界隈には、ずいぶんアジア系の店が増えましたね。梅雨入りしたとたん、晴れの夏日はきついです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2017-06-09 13:37) 

ChinchikoPapa

ご訪問と「読んだ!」ボタンを、ありがとうございました。>やってみよう♪さん
by ChinchikoPapa (2017-06-09 13:38) 

ChinchikoPapa

夜の国立科学博物館へは、その昔、なにかのイベントで出かけたことがありますが、夜の国立博物館は経験がないです。帰り道、裏の寛永寺墓地を歩きながら鶯谷へ抜けると、かなり涼味を味わえそうですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2017-06-09 13:42) 

ChinchikoPapa

最近、誰かが餌でもやっているのでしょうか、神田川沿いに棲む臆病なはずのハイイロセキレイやセグロセキレイが、川辺を散歩すると足もとへ寄ってきます。小鳥はかわいいですが、すぐに餌付けをしたがる人がいるようですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kazgさん
by ChinchikoPapa (2017-06-09 13:46) 

ChinchikoPapa

ネコ扇子を欲しいと思って調べたのですが、1点ものの手描き作品のせいで、思いのほかけっこうしますね。リトグラフとかで制作していただくと、もう少しリーズナブルになるでしょうか。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2017-06-09 13:49) 

ChinchikoPapa

ちょうどいま、レタスにアスパラが美味しい季節ですね。このところ、サラダを多めに食べるようにしています。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>okin-02さん
by ChinchikoPapa (2017-06-09 13:51) 

ChinchikoPapa

野毛の商店街には、日本の元祖JAZZ喫茶があって、学生時代によく通いました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>siroyagi2さん
by ChinchikoPapa (2017-06-09 13:52) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>AKIさん
by ChinchikoPapa (2017-06-09 18:08) 

ChinchikoPapa

アナログのカメラ、そろそろオーバーホールに出さないと、ほんとうに使い物にならなくなってしまいそうです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>(。・_・。)2kさん
by ChinchikoPapa (2017-06-09 18:11) 

ChinchikoPapa

きょうは、カツオのたたきを食べました。よく冷えた「九州」が、テーブルサイドに欲しかったですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>skekhtehuacsoさん
by ChinchikoPapa (2017-06-09 23:45) 

ChinchikoPapa

うちはGbitEtherとひかり電話にしてから、2年ほどたつでしょうか。NTT回線ですが、WiFiルータを接続すると通信スビートがガクンと落ちるのに悩まさています。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>いっぷくさん
by ChinchikoPapa (2017-06-10 14:14) 

ChinchikoPapa

菖蒲の上にトンボが飛ぶと、「勝負に勝虫」で典型的な武家の絵柄になりますが、まだトンボの群れは見えないでしょうか。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>tarouさん
by ChinchikoPapa (2017-06-10 14:22) 

ChinchikoPapa

江戸期の住宅というのは、すごいですね。落合地域では、寺社建築を除くと明治建築の住宅は残っていますが、江戸期の住宅は1960~70年代に消滅してしまいました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>difficult-waveさん
by ChinchikoPapa (2017-06-10 15:42) 

ChinchikoPapa

東京じゅうを歩いて写真に撮ってますと、中にはどこのなにを写したのかわからない写真が、少しずつ増えてきます。その写真の前後の風景を見ても、まったく思い当たりません。そのような刹那、記憶力の低下に愕然とすることがありますね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
by ChinchikoPapa (2017-06-10 22:24) 

ChinchikoPapa

歯の治療、泊りがけでたいへんでしたね。わたしも、きょうは歯医者の定期検診日で、歯の一部のエナメル質が剥げているといわれ、コーティングをされて帰ってきました。いつものクリーニングのみだと安いのですが、ちょっと手を入れると診察料が倍以上にハネ上がりますね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>SILENTさん
by ChinchikoPapa (2017-06-10 22:29) 

ChinchikoPapa

ホテルや旅館の組合から圧力がかかり、自治体の条例でよけいな規制がかかる可能性もありますね。システムの世界から見える範囲内でも、30年先50年先を見据えた戦略的なダイナミズムやスケーラビリティが欠落している日本は、「ダメかも」しれません。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>うたぞーさん
by ChinchikoPapa (2017-06-11 00:32) 

ChinchikoPapa

「須賀」という地名の東西のどこかに、「横須賀」と呼ばれる地域が存在するケースが多いのですが、近くに「須賀」はあるのでしょうか。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>yamさん
by ChinchikoPapa (2017-06-11 12:07) 

ChinchikoPapa

どことなく秋の気配がする、木漏れ日の森を想い浮かべてしまいました。弦楽器の、ふくらむ倍音表現はむずかしいですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2017-06-11 12:15) 

ChinchikoPapa

いつも、「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>ネオ・アッキーさん
by ChinchikoPapa (2017-06-11 12:28) 

ChinchikoPapa

酸味の強いヤマブドウが大好きです。特にジャムにしてトーストに塗ると、さわやかでいいですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>hirometaiさん
by ChinchikoPapa (2017-06-11 17:37) 

ChinchikoPapa

そろそろ、山々の新緑→深緑がきれいでしょうね。梅雨どきの伽藍も、みずみずしく映えているでしょうか。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>opas10さん
by ChinchikoPapa (2017-06-11 17:41) 

ChinchikoPapa

こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>gf487323さん
by ChinchikoPapa (2017-06-12 16:03) 

ChinchikoPapa

こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>fumikoさん
by ChinchikoPapa (2017-06-17 15:08) 

@mina_zou_coinpa

はじめまして。
中学時代の仲が良かった友人が、この「まぼろしの雑司ヶ谷「異人館」」に住んでまして、その解体までを見届けました。
記事中の航空写真で指示された場所が違うので、コメント欄から不躾に指摘するのは如何なものかと思いましたが、メールフォームが無いのでこちらからお知らせします。
まぼろしの雑司ヶ谷「異人館」の解体は1979年の春頃です。
そして所在していた位置は、現在の南池袋第二公園になります。
by @mina_zou_coinpa (2017-06-24 21:17) 

ChinchikoPapa

@mina_zou_coinpaさん、貴重なコメントをありがとうございます。
実は、この「異人館」の特定につきましては、豊島区にお住いの方と多少の議論を重ね、付近の地形や宅地開発のひな壇の状況から、このエリアでもっとも大きな松平邸のことではないか……ということに落ち着いた経緯がありました。
ウラとりのため、念のため雑司ヶ谷鬼子母神の参道にある、「雑司ヶ谷案内処」の方々あるいは資料類にも当たったのですが、残念ながら「異人館」を知る方も、当時の資料も見つかりませんでした。
ということは、そのお友だちの方の家は、記事末に新たに掲載しました、緑色(おそらく銅びき屋根)の邸でしょうか?
by ChinchikoPapa (2017-06-24 23:24) 

@mina_zou_coinpa

いえ、その右斜め上の三角屋根の建物です。
1984年の航空写真だと赤丸印の北西側に見える空き地部分です。
友人は異人館そのものに住んでいました。一階と三階は空きで解体直前に三階に入らせて貰いましたが、昭和30年代の週刊誌や芸能雑誌が山積みになっており、その頃まで事務所か何かの作業場として使われていたと感じました。
建物の存在があまり知られていないのは、敷地前道路が狭く木々が並び見上げる様な雰囲気ではなかった事。
さらに敷地前道路と異人館の間に木造アパートの様な建物があり、普通に歩いていたら目立たない事(私もそうでした。)、そしてバイパス道路工事による近隣住民の大量引越しもあると思います。
残念ながら異人館単体で撮った写真は無いのですが、都電と一緒に撮ったものが何枚かあるはずなので、ちょっと探してみます。

by @mina_zou_coinpa (2017-06-25 10:21) 

@mina_zou_coinpa

訂正です。よく見るとご指定の丸印内緑屋根と三角屋根繋がって見えますね。
記事末掲載画像でChinchikoPapa様の仰る場所で間違いありません。
お詫びして訂正致します。
by @mina_zou_coinpa (2017-06-25 10:50) 

ChinchikoPapa

@mina_zou_coinpaさん、重ねてコメントをありがとうございます。
さっそく、記事末へ2枚の追加写真とともに、コメントを挿入いたしました。戦後、ある程度の時間がたってしまいますと、周囲の建物や屋敷の緑に隠れて、目立たなくなってしまったのでしょうね。永井保のように見えていたのは、せいぜい1950年(昭和25)ぐらいまででしょうか。地元にお住いの方々が集う雑司ヶ谷案内処でも、みなさん首をかしげていらっしゃいましたので、昭和30年代に入ると新しい住宅群にまぎれてしまったのかもしれません。
もし、異人館が写る写真が見つかりましたら、どこかでご紹介いただければうれしいです。豊島区の知り合いが、雑司ヶ谷の古老の方にも当たってくださいましたが、写真は残っていないようです。
いろいろ貴重な情報を、ありがとうございました。改めて、お礼申し上げます。
by ChinchikoPapa (2017-06-25 14:07) 

ChinchikoPapa

どことなく、ヤマタノオロチを感じさせるインスタですね。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2017-07-18 19:39) 

お名前(必須)

こんにちは、はじめまして。
いつも楽しく読ませていたただいて
おります。
とても勉強になります!

この異人館とは・・・
リヒャルト・ハイゼの邸宅のことのようです。
この人は明治初期に
お雇い外国人として来日、
学習院などでドイツ語を教えていた
ドイツ人です。

ある日、
会津の飯盛山を訪れ、
そこで白虎隊の話を知り、
日本人の忠誠心というものに
深く感銘を受けたそうです。
自分のお墓を飯盛山にたてるまでに
この日本を愛してくれた方だそうです。
奥様のヨシさんは日本人で、
今でも二人のお墓が飯盛山にはあり、
その息子のエーリッヒさん、
ドイツ人の奥様のニーナさんの
お墓もあります。
エーリッヒさんはニベアの日本法人の
偉い人だったそうで、
お墓にはあの青いニベア缶がたくさん
お供えされています。
去年の冬に行った時はアトリックスの
新製品がありましたよ!

で、
雑司が谷の宣教師館に行った際に、
展示物の「雑司が谷に住んだ著名人」の
地図を見ましたときに、
このブログ記事の話題になっていました
場所辺りに、

「ハイゼの原」

と書かれていたのです。

ハイゼ??
ああ、なるほど!!

その後ネットで「ハイゼの原」を
調べましたが、そうそう情報は
多くありませんね。
学習院の図書館のPDFファイル記事が
解明の決め手でした。

なお絶版ですが、
リヒャルト・ハイゼに関する本が
出ていたようですね。


それでは。
by お名前(必須) (2017-08-17 22:03) 

ChinchikoPapa

お名前(必須)さん^^;、貴重なコメントをありがとうございます。
リヒャルト・ハイゼという名前は、初めて聞きました。お雇い外国人というと、やはり明治期に建てられた西洋館の気配が濃厚です。どなたに訊いてもご存じないので、調べあぐねていました。ニベアの、ちょっと古めな社史かなにかに当たれば、詳しく紹介されているかもしれませんね。
ということは、この明治期に来日したドイツ人が建てた家を、後年になって日本人のどなたかが買収し、上記コメントの@mina_zou_coinpaさんが書かれている「友人が住む家」に変わっていた……というようにも解釈できますね。雑司ヶ谷あたりの資料を見てますと、ときどきこの西洋館の記述がみえ、かなり以前から気になっていました。
永井保が、1951年ごろを想定した描いた同館の意匠を見て、大正期に建てられた西洋館とは明らかに異質な雰囲気で、大磯で見かける明治期の西洋館の風情を強く感じました。雑司ヶ谷宣教師館と同じころの建築が、しかも住宅としての大きめな西洋館が、ひょっとすると鬼子母神電停の近くにもあったのではないかと、ちょっとウキウキした気分で調べてみる気になりました。
でも、情報がきわめて少なく、なかなか資料も見あたりませんでしたので、いっそ記事にしたほうが情報が集まるのではないかと考え、浅薄な内容で恐縮ですがアップしてみました。
ほんとうに、貴重な情報をありがとうございました。記事末に、貴コメントの内容につきましても、追記しておきたいと思います。また、これから周辺のことを調べる際には、R.ハイゼの名前に注意してみようと思います。
by ChinchikoPapa (2017-08-17 22:49) 

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