So-net無料ブログ作成
検索選択

大磯のヨハンセンを諜報・監視せよ。 [気になるエトセトラ]

大磯吉田邸.JPG
 今年も、「落合道人」サイトをお読みいただきありがとうございました。来年も、よろしくお願いいたします。今年最後の記事は、戦時中のちょっと長い物語がテーマです。
  
 1945年(昭和20)の4月13日夜半、乃手はB29によって大規模な第1次山手空襲Click!を受けた。この空襲で、陸軍軍医学校Click!や防疫給水部の防疫研究室Click!陸軍第一衛戍病院Click!などの建築群にはさまれるように建っていた、木造の兵務局分室Click!も焼けている。のちの陸軍中野学校の母体であり、防諜・謀略機関の工作本拠地として設置された同分室(工作員からは工作室=“ヤマ”という符牒で呼ばれた)は、このあと戸山ヶ原Click!陸軍科学研究所Click!をはさんで下落合の南側に位置する、4月13日の空襲から焼け残っていた百人町のアパートへと移転している。
 空襲で焼ける前の兵務局分室は、陸軍第一衛戍病院の入院患者からも頻繁に目撃されていた。同病院の西側に隣接していた、秘密工作機関の本部建物よりも出入りが厳重だったようだ。その様子を、1971年(昭和46)に番町書房から出版された畠山清行『秘録 陸軍中野学校』から引用してみよう。
  
 工作室の古ぼけた二階家は、真夏といえども、まわりの窓硝子には竹すだれをおろし、外界からの目をさえぎっていたので、付近の住民は『幽霊屋敷』と呼んでいたが、当時、南支で戦傷して、陸軍病院に入院していた鹿島誠氏(略)は、/「あの建物は、病院の窓からもよくみえました。朝夕には背広服の男たちも出入りしたし、どこかの会社の研究室という話で、そのため毎晩電燈もつけっ放し。だれかが屋内を動きまわっている気配が感じられたが、われわれも別に疑わなかった。(後略)」
  
 さて、工作室(ヤマ)で行なわれていた重要任務のひとつに、自由主義者や和平主義者、終戦工作をしそうな親米英派の人物に対する諜報活動がある。太平洋戦争がはじまると同時に、憲兵隊は彼らの行動を監視しはじめているが、兵務局分室でも彼らをマークして監視する工作がはじまった。具体的には、中野学校出身の特務工作員を対象者の家に書生として住まわせたり、隣家へ住まわせて様子を探らせたり、あるいは特別な訓練を受けた女性を女中として送りこむ、いわゆるスパイ工作だった。
 ここで面白いのが、憲兵隊と陸軍中野学校の“ヤマ”(工作室)との間で、まったく情報共有がなされていないことだ。これは、憲兵隊特高課と警視庁特高課Click!との間で情報交換がなされず、ときにはマークした相手に憲兵隊へ書類を提出する法的義務はないなどと、「親切」に憲兵隊の資料収集を妨害する“憲兵隊除け”Click!を教示していった特高刑事の例(長崎のプロレタリア美術研究所Click!など)でも見られるが、陸軍内部の組織間においても同様の傾向が顕著だった。
 戦時中、中野学校が母体の“ヤマ”が目をつけていた人物は30名以上にのぼっており、近衛文麿Click!鳩山一郎Click!、原田熊雄、幣原喜重郎、池田成彬Click!、久原房之助、鈴木貫太郎、米内光政Click!吉田茂Click!澤田廉三Click!、岩淵辰雄、賀川豊彦らの名前が挙げられていた。彼らは工作員の間では名前ではなく暗号で呼ばれ、たとえばハリス(鳩山一郎)、ヨハンセン(吉田茂)、シーザー(幣原喜重郎)、イワン(岩淵辰雄)などといった具合だ。この中で、“ヤマ”が特に力を入れていたのが、もっとも和平工作に積極的だとみられる吉田茂と近衛文麿のふたりだった。
 “ヤマ”では、対敵諜報を7種類に分類していたが、マークしている人物に対しては「辛工作」あるいは「己工作」を実行しようとしている。「辛工作」は工作員潜入であり、「己工作」は偵察訓練を受けた女中や書生の自宅潜入だった。ヨハンセン(吉田茂)工作では「己工作」が採用され、大磯の別邸へは東京麹町の本邸へすでに入りこんでいた女中スパイと、陸軍中野学校出の東輝次が書生として派遣されることになった。東京の吉田邸を電話盗聴していた“ヤマ”では、本邸にはすでに憲兵隊の女中スパイがひとり送りこまれているのを探知していた。したがって、中野学校が母体の工作機関本部では、大磯の別邸工作へと力を入れたものだろう。
陸軍兵務局分室19450517.jpg
陸軍兵務局分室1944.jpg
百人町ヤマ.JPG
 このスパイの女中と東輝次が、平塚からバスに乗って大磯へと向かう様子は、地元の大磯住民によって早くも目撃されている。同書から、再び引用してみよう。
  
 (前略)あれは、十九年の十一月二十九日でした。(中略) 平塚からバスへ乗った若い男女が私と同じ、“西小磯の切通し”といって切符を買った。(中略) だから『切通し』と聞いたとたんに“おやッ”と思って顔を見たが見覚えがない。娘はもんぺ姿で大きなふろしき包みをかかえ、二十四、五歳の男は、当時流行の満州国の協和帽をかぶっていた。服は国民服で、胸に傷痍軍人記章をさげている。切通しのバスの停留所は、吉田さんの邸へのあがり口(中略)にあります。この切通しで、私の前に下車した二人は坂をのぼっていく。(中略) 翌日から吉田さんのところに新しい書生さんの姿が見えるようになった。そのときのもんぺの娘が本邸女中のおマキさんで、男が書生の東さんでした。
  
 東輝次は、この仕事を遂行するにあたって戸籍の偽造や身分・経歴の詐称、傷痍軍人らしい身のこなし方にいたるまで、徹底的な訓練を受けている。
 吉田茂の別邸は、大磯町西小磯に拓かれた切通しの海岸側にあり、北側とは国道1号線をはさんで三井別荘Click!(現・城山公園)と向きあっている。吉田の養父が、約1万坪の土地を取得して別荘にしていたもので、当初の建物は関東大震災Click!で倒壊し、間に合わせに建設した小さなバラック建築が吉田の別荘だった。のちの広大な「海千山千楼」に比べて10畳が2間に4.5畳と台所、それに離れの8畳間がついたささやかな建物だった。スパイの女中は4.5畳で、東軍曹は離れの8畳間で起居することになった。やがて、東京の本邸が焼けると、吉田は愛人の小りんを連れて大磯へ引っ越してきた。
 当時の別荘には水道が引かれておらず、東は書生として別荘の水汲みという重労働を毎朝こなすことになった。吉田邸を訪れた方はおわかりだろうが、邸は小高い丘の頂上にあり、ふもとの井戸水を丘上へ汲みあげるには何度も往復しなければならない。また、隣り町の二宮へ毎朝牛乳をもらいにいったり、広大な敷地の掃除など東の仕事はきつかった。ヨハンセン(吉田茂)は、家の重労働を黙々とこなす東輝次が気に入り、しだいにいろいろな会話をするようになった。吉田は歯に衣を着せないので、「このままでは、日本は敗戦必至、国が亡びる」といった意味のことまで平然と話すようになる。スパイとして入りこんだ東は、それに反発を感じないばかりか陸軍中野学校の天皇批判も許容されるような、「忠君愛国」とは正反対の「自由主義」教育に触れたせいか、冷静に状況を分析すると、徐々に吉田のいっていることが正しく思えるようになっていった。
大磯吉田邸間取り.jpg
大磯切り通し.JPG 大磯池田邸.JPG
吉田邸1946.jpg
 東京は空襲が激しくなり、工作機関の本部や“ヤマ”(工作室)も空襲の被害を受けた。いちいち特務員が東京へ出て、詳しい報告をまとめるのが困難になりつつある中で、いっそ大磯へ“ヤマ”(工作室)の出張所を設置してしまおうとするプランが具体化した。場所は、統監道の手前(東側)の国道1号線に面した北側で、現在の大磯中学校の斜向かいあたりにある2階家を借り上げることになった。このころには、吉田茂自身はもちろん東輝次やマキにまで憲兵隊の尾行がつくようになっていたので、工作機関本部では憲兵隊にふたりの素性が露見しないよう細心の注意が払われている。
 1945年(昭和20)4月15日の早朝、吉田邸は憲兵隊に包囲され吉田茂は逮捕された。直接はスパイ容疑だったが、憲兵隊では近衛上奏文Click!の作成に関与したとみて、その写しかメモを家宅捜査で探しまわった。憲兵隊の来訪とともに、東輝次は上奏文の写しが女中の手で台所のかまどですばやく燃やされるのを見ていたが、すでに大磯の新しい“ヤマ”で写真撮影が済んでいたのと、憲兵隊への反発からまったく止めようとはしなかった。結局、近衛上奏文は見つからず、吉田が樺山愛輔へ送った手紙の文面、「陸軍はもはやこの戦争遂行に自信を失い、士気の沈滞は蔽うべくもなく敗戦必至と存候」が反戦思想に問われ、陸軍刑務所に収監された。同刑務所が1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲で焼けると、吉田はそのまま釈放されている。
 それからの東輝次は、もはや吉田邸に用はなくなり、東京の本部からも早く書生を辞めて帰還せよという指令を受けていた。だが、吉田茂に対する罪悪感からか、食糧の配給が少なくなったのを心配して吉田邸の庭へ次々と畑を開墾し、苦労して手に入れた四季折々の野菜の種をまいて、吉田一家がこの先当分は食べ物に困らないようにしてから、吉田茂へは「母のもとへ帰りたい」といってヒマをもらい、近所の人たちには「憲兵隊がくる家だから、おっかないので辞めた」といって大磯をあとにしている。
大磯工作室地図.jpg
大磯工作室跡.jpg
畠山清行「秘録陸軍中野学校」1971.jpg 東輝次「私は吉田茂のスパイだった」2001.jpg
 戦後、東輝次は憲兵隊とは別組織の、陸軍中野学校を母体とする工作機関のスパイだったことを詫びようと、吉田邸を訪ねている。東が土下座して詫びると、しばらく沈黙したあと吉田は「当時は君が勝ったけど、いまはわたしが勝ったね」と上機嫌でいい、横にいた小りんからは「まアまア、あなたがスパイとは(中略) 私たちには恨みどころか、感謝していますよ。あの物のないときに、あんな苦労までして、私たちに畑をつくってくれた恩人ですもの」といわれている。事実、若い男がいなかった時代、「いい人がスパイとしてきてくれて、よかった」とでも感じたのではなかろうか。吉田茂のクルマで駅まで送られた東輝次は、吉田から記念にハマキをもらった。この日から、吉田家と東家は家族ぐるみの付き合いになっていくのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:バス停「切通し」(現・城山公園前)も近い、大磯町西小磯にある吉田茂邸。
◆写真中上は、1945年(昭和20)4月13日の第1次山手空襲後5月17日にB29偵察機から斜めフカンで撮影された戸山ヶ原の陸軍施設。コンクリート建築は焼けていないが、陸軍兵務局分室をはじめ木造家屋が全焼している。は、1944年(昭和20)に陸軍機から撮影された百人町界隈。は、百人町の工作室(ヤマ)があったあたりの現況。
◆写真中下は、大磯町西小磯に建っていた吉田別邸の間取り。中左は、バスの「切通し」停留所があったあたりの現状。中右は、吉田邸から東へ1,000mほどのところにある池田成彬の別邸。は、1946年(昭和21)に撮影された西小磯の吉田邸。小さなバラック別荘の前に、東輝次が開墾した広い畑が見えている。
◆写真下は、大磯町東小磯の国道沿いに設置された工作室(ヤマ)の位置。大磯をよく知らない方が作成した地図のようで、あちこちにおかしな地形や配置が見られる。は、工作室(ヤマ)があったあたりの現状。下左は、1971年(昭和43)に番町書房から出版された畠山清行『秘録 陸軍中野学校』。下右は、2001年(平成13)に光人社から出版された東輝次『私は吉田茂のスパイだった』。


読んだ!(27)  コメント(34)  トラックバック(2) 
共通テーマ:地域

読んだ! 27

コメント 34

日本科技大野球部員

このブログの影響を受けて私も近所である渋谷目黒世田谷の歴史について意識するようになりました。特に渋谷にある旧朝倉邸の凄さにはちょっとした衝撃を覚え、いろいろ調べてみたら朝倉家の栄枯盛衰があったりと、ちょっとした街の佇まいにも歴史有り、と思う今日この頃です。また目黒世田谷に残る長屋門などを見てるとこの一帯がかつては農村であったことを知り、ただただ驚くばかりです。
by 日本科技大野球部員 (2015-12-29 01:23) 

ChinchikoPapa

日本科技大野球部員さん、コメントをありがとうございます。
渋谷の朝倉邸といいますと、代官山の街づくりがすぐに思い浮かびますね。目黒には、いまだに農家建築(すずめのお宿)が残り、世田谷でもあちこちで庄屋建築(畑地もずいぶん残っていますね)を見かけます。ぜひ、地域の物語を発掘されてください。少し掘り下げると、「地域史」のはずがいつの間にか「日本史」へと繋がり、拡がっていくのが面白いですよ。^^
by ChinchikoPapa (2015-12-29 11:03) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>paul_226さん
by ChinchikoPapa (2015-12-29 11:03) 

ChinchikoPapa

逗子から葉山にかけて、びっくりするほど煌々と明るいですね。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2015-12-29 11:09) 

ChinchikoPapa

連雀通りの庚申塚をガードする、コンクリートの構造物がすごいですね。過去にクルマが突っこんで、庚申塚が損傷した事故でもあったのでしょうか。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2015-12-29 11:21) 

ChinchikoPapa

ブレイの『Open To Love』は、“静”のピアノソロで美しいですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2015-12-29 11:26) 

ChinchikoPapa

男の子ばかりでなく、女の子も仮面ライダーになりきってますね。w 「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>makimakiさん
by ChinchikoPapa (2015-12-29 11:30) 

ChinchikoPapa

ご訪問と「読んだ!」ボタンを、ありがとうございました。>やってみよう♪さん
by ChinchikoPapa (2015-12-29 11:35) 

ChinchikoPapa

先日、黄色い絨毯が美しいイチョウの森の落ち葉だまりへ足を踏み入れたら、落ちた銀杏だまりでもありまして、強烈な匂いに閉口しました。w 「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2015-12-29 11:40) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>yohtamboさん
by ChinchikoPapa (2015-12-29 11:41) 

ChinchikoPapa

昨夜から急に冷え、コタツにいるのがなによりも快適です。でも、明日から大量の落ち葉掃きに追われます。(汗) 「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>okin-02さん
by ChinchikoPapa (2015-12-29 14:18) 

ChinchikoPapa

うちは朝日と東京の両紙をとっているのですが、最近の朝日はだらしないことこの上ないですね。報道とは命がけのはずであり、もう一度ジャーナリズムとはなにか?…を、1945年から見つめ直してほしいものです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2015-12-29 14:26) 

アヨアン・イゴカー

吉田茂のスパイ、とても面白い記事でした。少しでも考えの異なるものを排除しようとする人々が、彼らの独善狂信によって彼らとは関係のない人々を巻き添えにする政府の何と多いことか、そう感じます。

>陸軍中野学校の天皇批判も許容されるような、「忠君愛国」とは正反対の「自由主義」教育に触れたせいか、冷静に状況を分析

教育者には論理的思考力と科学的分析力、それらを正しく使うことのできる哲学、信念が不可欠だと改めて感じます。
by アヨアン・イゴカー (2015-12-29 14:40) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、コメントをありがとうございます。
多角的な検証眼と、単なる感情や印象による「感想」ではなく、事実としての裏づけをともなう論理的な思考回路、そしてオープン性は非常にたいせつですね。
でも、考えてみますと前半期の陸軍中野学校は、軍人にはとても見えない“敵”が油断するような「自由主義」的で、なりすまし上手の優秀な特務工作員を養成しようとして、実はしごく当たり前な視点=認識力・判断力をもつ若者を教育してしまった側面もあり、皮肉といえば皮肉ですね。
いつか、「在郷軍人会」の記事でも書きましたけれど、軍人という職業の前に地域市民的な眼差しが強くなると、彼らは問題意識を強く持ちはじめてニュートラルな思考へと“回帰”しますが、その回帰する余裕さえ奪われた戦時中にもかかわらず、吉田邸における東輝次の“気づき”は、軍人としても非常にめずらしいエピソードだと思います。
by ChinchikoPapa (2015-12-29 16:28) 

ChinchikoPapa

ご訪問と「読んだ!」ボタンを、ありがとうございました。>ままさん
by ChinchikoPapa (2015-12-29 16:33) 

ChinchikoPapa

ご訪問と「読んだ!」ボタンを、ありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2015-12-29 21:52) 

ChinchikoPapa

いつも、「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>月夜のうずのしゅげさん
by ChinchikoPapa (2015-12-29 21:56) 

ChinchikoPapa

醸造アルコールと書いてある酒は買いづらいのですが、ほかに添加物の書かれた酒はさらに買いにくいです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>skekhtehuacsoさん
by ChinchikoPapa (2015-12-29 22:01) 

ChinchikoPapa

「野菜は身体にいい」とはよくいわれるフレーズですが、昔からの「牛乳は身体にいい」というフレーズにも似て、個々人の体質にもよるのでしょうね。野菜を食べすぎて低体温症になり、身体を壊す人もいます。わたしも野菜を摂りすぎると、身体が重くなり体調が悪くなりますね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>simousayama-unamiさん
by ChinchikoPapa (2015-12-29 22:20) 

ChinchikoPapa

高松塚古墳は、壁画をカビから守るために設置された工事現場のような養生がとれて、すっかりきれいに整備されたのですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>opas10さん
by ChinchikoPapa (2015-12-29 23:47) 

SILENT

大磯の女中と書生スパイの記事、興味深く思いました。今年、GHQと
戦った女 沢田美喜」という新潮社刊の本を読み、戦前の東京と戦後の動乱期の日本の姿をまた知る事ができました。オセロゲームのように思想が逆転する現実に流されて、今も生きる我々の視点と何か重なって見えてくる記事でした。
by SILENT (2015-12-30 02:05) 

kei

今年最後に、読みでのある記事をありがとうございます!
吉田茂と東輝次の関係、いいですね。
おたがいの立場を超えて、人間対人間としてわたりあっているところに、胸が熱くなります。
あと、中野学校で教育された方が、軍国主義に傾倒しないというのは面白いですね(笑)

別件になりますが、「己工作」で決まりかなと思いました。
偵察訓練を受けた女中や書生の自宅潜入というのは、かなり効果があったのでは。若い娘さんであれば、まったくといっていいほど怪しまれなかったでしょうし。
昭和29年当時、下落合4-2144に、面白い人が住んでいたことがわかりました。
これに関してはちょっと改めます。ノーマークだったので、頭を抱えましたw
by kei (2015-12-30 09:56) 

ChinchikoPapa

SILENTさん、コメントと「読んだ!」ボタンをありがとうございます。
澤田美喜の名前は、米軍の公開資料にもあちこちに出てきますが、彼女は池之端の本邸をキャノン機関へ「本郷ハウス」として提供し、麹町の自邸もGHQに使われていたせいでしょうか、特に米軍の情報機関とのつながりが濃いですね。エリザベス・サンダースの遺産を、大磯のホーム建設資金へと導入できたのも、米軍情報機関の仲介によるものです。
「GHQと戦った」というよりも、米軍の情報機関との接触を濃密にすることで、米軍内の動向をできるだけ正確に把握し、財閥解体を目前に「三菱」が抱えていた各事業の生き残りと、自身がめざす事業の“着地点”を、キャノン機関をはじめG2やGSの別なく常に探りつづけていた……というほうが正確でしょうか。
下山事件をはじめ、当時の鉄道関係の不可解な事件を突っこんで調べますと、米軍情報機関と親しかったせいか、意外なところで澤田美喜の名前が浮上してきますね。
by ChinchikoPapa (2015-12-30 13:09) 

ChinchikoPapa

わたしの場合、仕事がメチャクチャ忙しかったせいもあるのでしょうが、1990年代の特に前半期に聴いたはずの、特にこれといった音楽の印象がありません。アルバム作品の記憶も、なぜか希薄ですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>lequicheさん
by ChinchikoPapa (2015-12-30 13:14) 

ChinchikoPapa

来年も、よいお年をお迎えください。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ネオ・アッキーさん
by ChinchikoPapa (2015-12-30 13:20) 

ChinchikoPapa

ミニストップのモンブランソフト、強烈に惹かれますね。w
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>うたぞーさん

by ChinchikoPapa (2015-12-30 13:25) 

ChinchikoPapa

ご訪問と「読んだ!」ボタンを、ありがとうございました。>Ujiki.oOさん
by ChinchikoPapa (2015-12-30 13:34) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ゆきママさん
by ChinchikoPapa (2015-12-30 13:35) 

ChinchikoPapa

keiさん、こちらにもコメントをありがとうございます。
吉田邸関連でも、ちょっと面白い現象がありました。それは、麹町にあった吉田本邸へ入りこんだ憲兵隊のスパイの書生(途中で吉田本邸を離脱)と、同様に憲兵隊のスパイだった女中は、戦後すぐに正体が露見しますが、大磯別邸に入りこんだ陸軍中野学校のスパイふたりは、本人たちが「自己申告」wをしなければ、戦後も気づかれないままだったという点です。それだけ、中野学校の工作は、すぐに足が出てしまう憲兵隊の工作よりも、より周到で綿密だったということなんでしょうね。
中野学校の、軍人臭さを徹底的に消去する思想教育も含めた「自由主義」カリキュラムは、陸軍当局にしてみれば非常に危うい諸刃の刃で、現地への潜入で怪しまれない人格づくりには非常に有効でも、いつ「ミイラとりがミイラになる」かわからない不安定な課題を、同時に抱え込むことになったのではないかと思うのですね。吉田別邸のケースは、「ミイラ」になりかけた事例ではないかと思います。さて、亀井事件のケースでも、そのようなことが起きているのでしょうか。
下落合4-2144は現・中井2丁目の六ノ坂下西側、中ノ道に面したあたりの地番ですが戦前の「火保図」(1938年)から、戦後の住所変更が行われた1960年代までを通じて、たった1軒の家にしかふられていない地番です。さて、誰が住んでいたものでしょう。w
by ChinchikoPapa (2015-12-30 14:03) 

ChinchikoPapa

きょうは晴天で大掃除日和ですが、落ち葉掃きが腰にきて休憩中です。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>讃岐人さん
by ChinchikoPapa (2015-12-30 14:09) 

ChinchikoPapa

「見る・聞く・言う」の庚申(行進?)がいいですね。w
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>siroyagi2さん
by ChinchikoPapa (2015-12-30 16:36) 

ChinchikoPapa

今年も、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。
来年も、どうぞよろしくお願いいたします。>ぼんぼちぼちぼちさん
by ChinchikoPapa (2015-12-31 00:03) 

ChinchikoPapa

毎年、宮城産のカキはスダチと生醤油の生食で楽しんでいたのですが、残念ながら2011年以降は食べられなくなってしまいました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2015-12-31 16:25) 

ChinchikoPapa

昨年の記事にまで、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2016-01-05 19:47) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 2

トラックバックの受付は締め切りました