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中村彝アトリエの「仏像」を特定する。 [気になる下落合]

彝アトリエの西壁.JPG
 かなり以前に書いた記事でも取り上げたが、中原悌二郎Click!が1919年(大正8)8月、下落合の中村彝アトリエClick!で『若きカフカス人』を制作中に撮影されたとみられるニンツァーの写真Click!が残っている。モデルになったニンツァーが写る背後の壁面には、中村彝が死ぬまでアトリエに架けていたレンブラント風の『帽子を被る自画像』(1910年)がとらえられている。このとき、アトリエの主である中村彝は7月3日から9月13日まで、夏の間じゅう茨城県の平磯海岸へ転地療養をしていて留守だった。
 さて、きょうのテーマは、『帽子を被る自画像』の上に架けられた、おそらく仏像彫刻とみられる2体(右端の一部を入れれば3体)の、まるでモチーフの石膏像のようにみえる“物体”だ。前の記事にも書いたが、この表情は仏を守護する四天王や十二神将、金剛力士(阿形)、さらには風神雷神の表情以外には考えにくい。なぜ、彝アトリエの壁面に、仏像のモチーフが架けられているのだろうか? 中村彝は神道の家柄であり、若いころ野田半三Click!を通じてキリスト教へ惹かれた時期もあったようだが、仏教に興味を抱いたというエピソードは聞かない。また、彝アトリエの壁面に仏像のモチーフが、いくつか架けられていたという証言も見つけることができない。だとすれば、これは中村彝が自ら入手したものではなく、誰かが外部から持ちこんだと考えるのが自然だろう。
 そこには、どのような可能性が考えられるのだろうか? 1919年(大正8)の夏、彝アトリエに関係している人物たち、たとえばアトリエの留守番を頼まれた、美術誌『木星』Click!を発行している下落合1443番地の木星社社主・福田久道Click!、ニンツァーをモデルに『若きカフカス人』を制作した中原悌二郎、ニンツァーを中原に紹介した相馬愛蔵・黒光夫妻Click!……。これらの人々は、時期が少しずつズレているとはいえ、みな奈良の古い仏像に興味をもっていた人物ばかりだ。
 しかも、彫刻という表現分野を考えるのであれば、奈良の仏像に強く惹かれ相馬夫妻とも親しかった荻原守衛(碌山)Click!も含めて、考慮しなければならないテーマだろう。荻原守衛は1910年(明治43年)に死去しているが、中原悌二郎は荻原からの感化で画家から彫刻家へと転じている。以下、荻原守衛の仏像好きについて、1966年(昭和41)に碌山美術館から出版された相馬黒光『碌山のことなど』から引用してみよう。
  
 碌山はとにかく希臘(ギリシャ)の彫刻は嫌ひで、片寄つた処はありましたが、これを軽蔑してゐました。底力といふことをよく云ひました。そして戒壇院の四天王とか新薬師寺のものとか、仏を護る荒神に目をつけてゐました。私はその後、法隆寺へいつて四天王を見ましたが、このぼやあつとしたやうな四天王、併しこの人が動いたらどうな力を現はすかといふやうなあの作については碌山は何も云はなかつた。わからなかつたのでせうか。(カッコ内引用者註)
  
 また、中原悌二郎は彝アトリエで『若きカフカス人』を制作する前年、1918年(大正7)10月に初めて奈良を訪れている。このとき、彫刻家仲間の石井鶴三、平櫛田中、堀進二が同行していた。石井鶴三の証言を、1981年(昭和56)に出版された中原信『中原悌二郎の想出』(日動出版)所収の、石井鶴三「中原君と私」から引用してみよう。
  
 君(中原悌二郎)ははじめて奈良を見た。長年君が憧れてゐた奈良の古藝術と自然とはどんなに君を喜ばしたか、君は至る處で子供のやうに喜んで居た。最初の日は堀(進二)さんと君と私(石井鶴三)の三人だつた。其日は新薬師寺と博物館を見て、三笠山下の宿に泊つた。君は鎌倉時代以下のものには全く見向きもしなかつた。(中略) 二日目からは平櫛さんが加はつて、再び博物館を見、午後三月堂から戒壇院へ行つた。三日目には法華寺から西の京の唐招提寺と薬師寺を廻つた。君は古藝術を熱愛してゐたが、決して執拗でなく、淡々として見て廻つた。(カッコ内引用者註)
  
彝アトリエのニンツァ-.jpg 彝アトリエの大正ガラス.jpg
彝アトリエの仏像.jpg
 ここで興味深いのは、相馬黒光の荻原守衛に関する証言と、石井鶴三の中原悌二郎に関する証言に、共通する同一の寺院名が登場していることだ。東大寺の戒壇院と新薬師寺の薬師堂で、いずれも仏を守護する“荒神”の彫刻で有名な寺々ということになる。
 以上のような前提を考慮したうえで、中村彝アトリエの壁に架けられていた仏像とみられるモチーフには、以下のような可能性を想定することができる。
 ①中村彝が碌山の習作を遺品として譲り受けた。(中村屋から持ちだした)
 ②中原悌二郎が碌山の遺品として譲り受け、彝アトリエへ制作期間中に架けた。
 ③中原悌二郎が奈良旅行後に印象深い記念として作り、制作期間中に架けた。
 ④中原悌二郎が奈良旅行の記念にレプリカ土産を入手して、制作期間中に架けた。
 ⑤福田久道が奈良土産として、レプリカを中村彝にプレゼントした。

 この時期、やはり奈良とゆかりの深い会津八一Click!は、いまだ彝アトリエを訪問していないし、相馬黒光『黙移』(法政大学出版局/1977年)の記述によれば、福田久道の案内で相馬夫妻が初めて奈良をめぐったのは、彝の死後しばらくたった昭和に入ってからのことだ。したがって、考えられる可能性としては、彝アトリエとの関連も含めて上記の5つぐらいだろうか。
 さて、はちょっと考えにくい。中村彝は、確かに中原悌二郎とともに荻原守衛のアトリエを訪問してはいるが、あえて習作(碌山がこのような習作を制作したとすればの前提だが)を持ちだすほど、彫刻に興味を持っていたかどうかは不明だ。また、彝アトリエの壁面に、このような像が架かっていたとすれば、おそらく彝の周囲にいた誰かが証言を残しているはずだが、そのような証言は存在していない。
 また、木星社の福田久道が奈良の土産に、仏像のレプリカを彝アトリエへ持参したというのも考えにくい。当時、このようなレプリカClick!が奈良土産として売られていたかどうかという課題もあるが(わたしは高価だったろうが売られていたと思う)、画家の中村彝のもとへ福田久道が仏像のレプリカをあえて土産にするとは思えない。そうなると、中原悌二郎がニンツァーをモデルにして、彝アトリエで『若きカフカス人』を制作中に持ちこんだと考える②③④が自然だろう。
 ただひとつだけ、気になることがある。1919年(大正8)の夏、兵庫県西ノ宮町に滞在していた曾宮一念Click!から平磯海岸で療養中の中村彝あてに、奈良の仏像彫刻の写真類が送られていることだ。それは、同年7月18日の彝から曾宮一念あての手紙に書かれているのだが、1926年(大正15)に岩波書店から出版された、中村彝『芸術の無限感』から引用してみよう。
  
 兎に角僕は君の貴い芸術と感情とが、つまらない事情の為めに傷つけられない様に心をこめて祈る事にしよう。天平の彫刻写真を有り難う。臥ながら見ていると迚もいゝ気持がする。
  
 平磯にいる彝に送られたのは写真であり、下落合の写真にとらえられた立体のレプリカないしは石膏像とは異なるが、中村彝が天平の仏教美術を同年夏に見知っていたのは事実だ。ただし、曾宮一念がなぜ天平仏の写真を送ったのか、前後の事情は不明だ。
伐折羅大将.jpg 戒壇院増長天.jpg
金剛力士像(興福寺).jpg
 もうひとつの課題として、荻原守衛が奈良の仏像を習作として制作したかどうかがある。わたしは、寡聞にしてそのような事例を知らないし、また残された碌山アトリエの写真にも、そのような作品を見つけることができない。また、彫刻家である中原悌二郎が、わざわざの土産品としてできの悪いレプリカを入手するだろうか?……という大きな疑問も残る。したがって、もっとも可能性が高いのはであり、中原自身が奈良旅行から帰った直後に、印象深い仏像を記憶が薄れないうちに自ら習作し、彝アトリエを借り受けた期間だけ壁面に架けておいた……と考えるのが自然だろう。
 では、いずれの寺院に安置された、どの仏像を模倣し習作したのだろうか? 以前にも書いているが、中央に架けられた像は、その表情、首の角度、首まわりの甲冑意匠などを勘案すれば新薬師寺の十二神将の1体、伐折羅大将Click!にまちがいないだろう。レプリカClick!なら、塑像の顔に黒い剥落痕が表現されそうだが、それが見られないのは中原悌二郎の習作だからであり、おそらく石膏ないしは粘土でできていると思われる。ただし、中原悌二郎には悪いが、伐折羅大将の表情は実物にあまり似てはいない。
 左側に架かる仏像は、ややうつむき加減で表情が見えにくいが、可能性としてはふたつあるように思われる。ひとつは、石井鶴三の証言にも登場している戒壇院の四天王のうち、唯一口を開けて怒りの形相をする増長天だ。実際の像は、ほぼ正面を向いているのだが、その頭部(顔面側)だけを習作して壁に紐で吊るしたら、おそらくこのようなうつむき加減になるだろう。下から見上げれば、正面顔にも見える。
 余談だけれど、子どものころ親父が買ってきて大切にしていた増長天の大きめなレプリカ(胸から上)が家にあったのだが、わたしはスーパーボールの標的にして、頭にぶつけて倒し破壊した。あまりのヤバさに、その直後から熱を出して寝こんだ憶えがある。
 増長天にしては、やはり顔がうつむきすぎで表情も目がかなり吊り上がっており、眉間から額の憤怒皺も鋭角すぎる点に留意するとすれば、もうひとつの可能性は興福寺にある阿形の金剛力士像だろうか。顎の線が、増長天よりもやや華奢で細めなところも、そのような印象をおぼえるのだ。中原悌二郎は、奈良の国立博物館を繰り返し訪れているが、ちょうどその時期に金剛力士像が興福寺から博物館へ貸し出されていたのかもしれず、彼は繰り返し同像を眺めたのかもしれない。
彝アトリエのドア.JPG 彝アトリエのフィニアル.jpg
彝と中原悌二郎.jpg 伐折羅大将レプリカ.jpg
 さて、のケースだとすれば、彝アトリエから中原悌二郎が引きあげたあと、体調が思わしくないまま平磯海岸からもどった不機嫌な中村彝は、壁龕のあるアトリエ西壁のあちこちに穴がボコボコ開いているのを見て、「穴ボコだらけだべ、なんじゃこりゃ~!?」とカンシャクを起こし、留守番の福田久道を問い詰めなかっただろうか? それとも、中原か福田のどちらかが彝の身体を気づかい、怒りださないように壁の穴を目立たぬよう粘土でふさいでおいたものだろうか。
 中村彝が下落合へ帰着直後のアトリエの様子は、『芸術の無限感』の書簡類では欠落している時期であり、また彝関連の資料にも見あたらず、下落合から平磯海岸へ彝を案内しいつもそばにいた鈴木良三Click!でさえも、帰着時の彝アトリエには立ち会っていないため“空白”の時間なのだ。

その後、舟木力英さんより、中村彝から高橋吉雄(箒庵)へ十二神将像の模像1体が贈られていることをご教示いただいた。したがって、アトリエ壁面に見える3体と思われる模像は、中村彝自身がどこかから入手したか、あるいはオーダーして造らせた像である可能性が高い。詳細は、コメント欄を参照。

◆写真上:復元された、中村彝アトリエの壁龕のある西側の壁。
◆写真中上上左は、1919年(大正8)8月に中村彝アトリエでポーズをとるニンツァー。上右は、旧来の大正ガラスがそのまま生かされている彝アトリエのテラスドア。は、ニンツァー写真にとらえられた西壁の上部に架かる仏像彫刻と思われる顔面像。
◆写真中下上左は、新薬師寺の十二神将のうち伐折羅大将。上右は、東大寺戒壇院の四天王のうち増長天。は、興福寺の金剛力士像(阿形)。
◆写真下上左は、大正期のドアがそのまま生かされた彝アトリエの入り口。上右は、同アトリエの屋根上に立つフィニアル。下左は、中原悌二郎(奥)と中村彝(手前)。下右は、わたしが小学生のときから家の壁面に架けられている伐折羅大将の実物大レプリカ。


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コメント 39

ChinchikoPapa

ライトに照らされた夜桜も、風情があっていいですね。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2015-04-12 20:27) 

ChinchikoPapa

その昔、『新宿警察』という北大路欣也と藤竜也が出演したドラマがありましたが、そたらのほうが『大都会』よりも印象に残っています。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>いっぷくさん
by ChinchikoPapa (2015-04-12 20:33) 

ChinchikoPapa

いつも北を上に見ているせいか、北を下にした空中写真の風景はどこか新鮮ですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2015-04-12 20:40) 

ChinchikoPapa

苔の栽培というと、すぐに尾崎翠の『第七官界彷徨』を想いうかべてしまいます、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>SILENTさん
by ChinchikoPapa (2015-04-12 20:43) 

ChinchikoPapa

ご訪問と「読んだ!」ボタンを、ありがとうございました。>tweet_2さん
by ChinchikoPapa (2015-04-12 20:45) 

ChinchikoPapa

映画館ではなくDVDでですが、『フラメンコ・フラメンコ』は観ました。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>makimakiさん
by ChinchikoPapa (2015-04-12 20:49) 

ChinchikoPapa

シンプルなシャンプーとリンスだけで、特にゴテゴテといろいろなものをつけて手入れをしないほうが、逆に髪がきれいというのはほんとうですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>やってみよう♪さん
by ChinchikoPapa (2015-04-12 20:53) 

ChinchikoPapa

桜餅のあと、つい言問団子も食べてしまうのですが、そのあと1週間は甘いもの抜きの生活がつづきます。長命寺の葉っぱは、少しかための塩漬けですが食べてしまいます。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2015-04-12 21:00) 

ChinchikoPapa

まだ、ティーオレというのは飲んだことがないです。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2015-04-12 21:06) 

ChinchikoPapa

わたしが子どものころ、地曳きにかかるシラスはほとんど価値がなく(売れず)、シラス丼というメニューもありませんでした。そもそも「シラス丼」として店で売っても、当時は「客をバカにしてるのか?」というような感覚だったでしょうね。そのせいでしょうか、手軽に近所の魚屋でとても安く手に入り、毎朝の食卓に必ずのぼっていました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ネオ・アッキーさん
by ChinchikoPapa (2015-04-12 21:17) 

ChinchikoPapa

いつも、「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>trending-nowさん
by ChinchikoPapa (2015-04-12 21:19) 

ChinchikoPapa

きょうは暖かかったせいか、ハナミズキも八分咲きぐらいになってました。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2015-04-12 21:21) 

ChinchikoPapa

撮影の現場へ向かう、カメラマンの馬車装備が面白いですね。当時の報道カメラマンも、似たような装備で出動したのでしょうか。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2015-04-12 21:39) 

ChinchikoPapa

年度末でバタバタ仕事をしているうちに、今年はいつの間にかサクラが散ってしまったような印象です。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>opas10さん
by ChinchikoPapa (2015-04-12 21:41) 

ChinchikoPapa

いま、あちこちでチューリップが満開ですね。昔に比べ、いろいろなカラーの花を見かけます。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>okin-02さん
by ChinchikoPapa (2015-04-12 21:44) 

ChinchikoPapa

「言ってみせるよりやってみせる」は、親に限らず人の主体性としてはとても大事なテーマですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ハマコウさん
by ChinchikoPapa (2015-04-12 22:26) 

ChinchikoPapa

どこかへ「亡命」し、行方が知れなくなった東北南部のアザマロやウクハウの伝承を踏まえますと、とりあえずは政治的には朝廷へ服従するポーズを見せていた、ナラ期から藤原期の「坂東夷」(原日本勢力)は、近畿勢力と「蝦夷」とにはさまれて微妙な動きを見せていたと思います。「朝廷軍」と「蝦夷」と二元論では整理がつかない課題ですね。このあたり、一方的な「続日本記」の記述などからは、いっさい見えてこない史的動向です。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2015-04-12 23:21) 

ChinchikoPapa

ご訪問と「読んだ!」ボタンを、ありがとうございました。>lequicheさん
by ChinchikoPapa (2015-04-12 23:25) 

ChinchikoPapa

生まれつき胃腸が丈夫なせいか、“お腹”で困ることはあまりないですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>simousayama-unamiさん
by ChinchikoPapa (2015-04-13 12:59) 

ChinchikoPapa

小学生のころ、各地にサイクリングロードがいっせいに造られたブームがあったのですが、それらの道路はいまどうなっているんでしょうね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2015-04-13 13:01) 

ChinchikoPapa

歩くときに下腹へ力を入れると、ずいぶんエネルギーの消費量がちがいますね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>one_and_onlyさん
by ChinchikoPapa (2015-04-13 14:25) 

ChinchikoPapa

米国のいいなりになればなるほど、国際政治における日本政府の存在感がますます希薄化していきますね。いつだったか国連での採決の際、米国政府の票を2票(+日本)としてカウントしているという、EUの外交官だかの裏話を読んだ憶えがあります。まことに情けないですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>siroyagi2さん
by ChinchikoPapa (2015-04-13 14:37) 

ChinchikoPapa

馬はかわいいですね。わたしもときどき近くの馬場に寄って、厩舎に入れてもらいかわいがっています。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>クッキーさん
by ChinchikoPapa (2015-04-13 15:57) 

ChinchikoPapa

亡者の川流れの歌ですね。震災や空襲で死に、隅田川に浮かんだ死体は赤黒いイメージですが、飢饉による餓死者はやせ細った青いイメージなのでしょうね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>月夜のうずのしゅげさん
by ChinchikoPapa (2015-04-13 18:18) 

Marigreen

曾宮一念が兵庫県西宮市に一時滞在してたとは知らなかった。その間の活動を調べてみる。
馬をかわいがってるとのことですが、乗ってかわいがってるのか?只撫でさすってかわいがっているのかわからない。
by Marigreen (2015-04-14 07:50) 

ChinchikoPapa

Marigreenさん、コメントをありがとうございます。
曾宮一念は本をたくさん書いていますので、西宮でなにをしていたのか本人の著作から判明するのではないかと思います。
近くに学習院馬場があり、散歩の途中でたまに厩舎へ入れていただき馬に会っています。同大学の馬術部の馬ですから、部外者のわたしは乗れません。撫でてかわいがっているだけです。w
by ChinchikoPapa (2015-04-14 12:39) 

ChinchikoPapa

鴨川べりの町屋へ止まりましたが、四条・五条あたりの夜歩きも風情があっていいですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>shin.sionさん
by ChinchikoPapa (2015-04-14 12:54) 

ChinchikoPapa

人間で確実に「平等」なのは、寿命や死ですね。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>未来さん
by ChinchikoPapa (2015-04-14 12:56) 

ChinchikoPapa

4月に入って、雨ばかりがつづきますね。これで陽が照ると、一気に暖かくなりそうですが。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>sarusanさん
by ChinchikoPapa (2015-04-14 13:40) 

ChinchikoPapa

これだけ毎日雨降りだと、だんだん外出がおっくうになりますね。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2015-04-14 20:23) 

ChinchikoPapa

ご訪問と「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>neo-kaminewsさん
by ChinchikoPapa (2015-04-14 20:27) 

うたぞー

ところで増長天のレプリカを壊したあと、お父様はどうされたのでしょうか?そしてパパさんは?
by うたぞー (2015-04-17 00:02) 

ChinchikoPapa

うたぞーさん、コメントと「読んだ!」ボタンをありがとうございます。
熱を出して寝こんだので、なんとか叱られずに済みました。でも、次に東大寺大仏殿前の八角灯籠にすかし彫りされた、銅製の天女像の壁掛けを壊したときは、さすがに怒られましたね。金属製だと思ってたのですが、銅色を塗った陶器製でボールをぶつけたら、すぐに欠けてしまいました。^^;

by ChinchikoPapa (2015-04-17 00:40) 

ChinchikoPapa

ベルリン・テイスティングの結果が面白いですね。缶を開封した直後の、パイプタバコの香りがする“赤”はけっこう好きですよ。w 「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>fumikoさん
by ChinchikoPapa (2015-04-17 22:03) 

舟木力英

高橋箒庵の『箒のあと』に、大正9年、中村彝が箒庵に「新薬師寺十二神将模造銅面一個」を届けさせた旨の記述があります。「病気が癒えたら、報恩のため、是非貴下の肖像を描きたいと思っていたが、今は甚だ覚束なければ、先づ此小品を机右に捧ぐと云ふ伝言であった」と続いています。彝と箒庵とは生涯、直接には会えなかったのですが、箒庵は彝アトリエ建設を金銭的に支援したので、なんとかその恩に報いたかったようです。そして、彝は、Papaさんが具体的に写真で示してくれた模造面のほか、今村繁三が持っていたシスレーの風景作品の模写を遺言で箒庵に贈りました。しかし、今村が持っていたこのシスレー、その後、海外に流出したのか、国内にあって震災や大戦をくくりぬけているのか、その辺が気になっています。彝の模写の方も1967年以後、関連展覧会に出ていないようです。彝の模写は一時、酒井億尋がもっていたとも言われていますが、、、このオリジナルと模写の行方がとても気になっています。
by 舟木力英 (2015-06-05 17:31) 

ChinchikoPapa

舟木力英さん、貴重な情報をありがとうございます。
中村彝と、日比翁助の先代(三越デパート)である高橋吉雄との間で、交流があったことをうかつにも知りませんでした。ということは、彝自身が壁面のレプリカをどこかへオーダーして入手し、しばらくアトリエに飾っていたあと、高橋箒庵へ模写作品ともどもとどけた可能性が高いですね。さっそく、記事末に注釈を入れさていただきます。ありがとうございました。
中村彝の画集や図録を見ていますと、モノクロで撮られた作品の中には、戦災で失われたとみられ、戦後は一度も出展されていないものや、以前は展覧会の図録に収録されていたものの、80年代以降はまったく姿を見せない気になる作品がいくつかありますね。どこかで、人知れず秘蔵されたままなのでしょうが、誤って処分されないことを祈るばかりです。
by ChinchikoPapa (2015-06-05 18:23) 

舟木力英

彝アトリエの十二神将模造面が彝自身のオーダー品だったか、誰かから贈られたものかは、小生、分かりません。Papaさんが考えられているようなこともあるかもしれませんね。
シスレー模写は、彝の死後、鈴木良三により、遺言に従い、届けられたものです。それが機縁で良三氏も箒庵高橋義雄からフランス渡航の支援を受けるようになったと自著に書いています。
それにしても、アトリエにあった十二神将模造に目を付けられたのは、興味深い発見ですね。焼失した作品ですが彝の「保田龍門の肖像」、これは鬼気迫る表情と言われ、かっと目を見開いてます。また、彝の「髑髏を持てる自画像」の、火焔のように燃え上がる頭髪の表現、これらがこの模造の遠い反響である可能性もあるいは想像されるかもしれませんね。
興味深いブログ内容、前から拝見していました。ありがとうございます。
by 舟木力英 (2015-06-05 20:30) 

ChinchikoPapa

舟木力英さん、重ねてコメントをありがとうございます。
手もとにある鈴木良三『芸術無限に生きて』を参照しましたら、さっそく「洋行の思い出」の中に高橋箒庵の名前が登場(P23)していました。なにげなく読みとばしていますと、水戸出身の重要な人物を不注意にも失念していますね。重ねて、ありがとうございました。
おっしゃるとおり、晩年の『髑髏を持てる自画像』やベッドに横たわる『自画像』(1921年)の髪を見ますと、どこか伐折羅大将の怒髪を連想しないでもありません。w こちらこそ、これからもよろしくお願いいたします。

by ChinchikoPapa (2015-06-05 20:55) 

ChinchikoPapa

最近、あっさりしたクセのない白米に惹かれ、北海道産ばかりを注文しています。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>suzuran6さん
by ChinchikoPapa (2015-06-06 16:16) 

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