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1945年(昭和20)3月10日午前0時8分。 [気になるエトセトラ]

東京大空襲01.jpg
 きょうは、東京の(城)下町Click!一帯を襲った東京大空襲Click!から70年めの節目にあたるので、これまで何度となく繰り返し記事Click!に取りあげてきたけれど、改めて米国防省などが公開した対日戦資料にもとづいて書いてみたい。もちろん、東京の山手地域を襲った二度にわたる空襲Click!からも70年がたち、これらの空襲を実際に体験し、詳細な証言ができる方も徐々に少なくなっている。
 わたしの親父は、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!に遭い、伝承されていた関東大震災Click!の教訓からだろう、大川(隅田川)とは反対方向へと逃がれ、東日本橋(旧・西両国)の実家Click!を震災以来、再び焼かれている。その直後、大学近くに借りていた淀橋区諏訪町Click!の下宿に避難したところ、運が悪いことに今度は同年4月13日と5月25日の二度にわたる山手空襲Click!にも遭遇した。ただし、学生時代の下宿は2軒北側の敷地で延焼が奇跡的に止まり、戦後はそこから大学やアルバイト先に通えている。その親父もすでに他界して、空襲当時の体験談を改めて聞くことができない。
 1990年代に入ると、米国防省あるいは国立公文書館が戦時中の対日戦に関する資料類を、次々と情報公開法にもとづき公表している。そこには、日本の各都市に対する爆撃の詳細や、軍事目標を中心とする「精密爆撃」から、都市全体を丸ごと焼き払う「無差別絨毯爆撃」へと作戦の推移する様子が克明に記録されている。これらの資料が20年近く前から公開されているにもかかわらず、日本の都市爆撃について「貴重な文化財がある都市は、米軍が空襲を避けた」という、まことしやかな“神話”をいまだに信じている方がいるようだ。「米軍は病院の爆撃を避けた」という“神話”Click!と同様に、戦後占領政策の一環として、GHQの対日世論工作員が意図的に巷間へ流布したと思われる、できるだけ日本人の抵抗や反感を抑え、占領政策をスムーズに進めるための「虚偽宣伝」が、後世まで非常にうまく浸透した成功事例なのだろう。
 空襲がほとんどないか、きわめて少なかった古くからの街々は、そもそも生産性を低下させる軍事的な目標が存在せず優先順位が低かったか、あるいは特別な攻撃目標として別の爆撃リストへ登録されており、通常の爆弾や焼夷弾による「無差別絨毯爆撃」が意図的に避けられていたことが、米国で公開された資料類から判明している。たとえば、「空襲が避けられた」はずの奈良市は、市街地への無差別絨毯爆撃の順番が80番めであり、その順番がめぐってくる以前、1945年(昭和20)8月13日の爆撃順位が63番めと64番めとされる、長野県の松本や上田への空襲を最後に、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏=敗戦を迎えてしまっている。
 また、「多くの貴重な文化財が尊重されて、爆撃目標から外され保存された」はずの京都市は、同年6月26日に市街地の一部(東山地区)が通常爆撃の被害を受けているものの、その直後から新潟、広島、小倉、長崎と並び、原爆投下の最有力候補地として意図的に攻撃がひかえられ、開発が最終段階に入った原爆目標都市として「温存」されていただけだ。原爆による爆撃効果や被害状況を正確に測定するためには、できるだけ都市を「無キズ」のままにしておかなければならなかった。
東京大空襲1944暮れ.jpg
東京大空襲1945暮れ.jpg
 さて、マリアナ諸島に第21爆撃軍が進出した1944年(昭和19)11月から、日本本土への空襲が本格化していくが、当初は沿岸部の工業地帯や東京や名古屋の中島飛行機製作所Click!など、兵器や工業製品を生産する軍事目標への攻撃が主体だった。この爆撃を米軍資料では「精密爆撃」、あるいはヨーロッパ戦線での対ドイツ戦における初期の空爆手法にならい「戦略爆撃」と呼称している。つまり、爆撃機が正確かつ精密に攻撃するのは軍事目標のみであり、一般市民が住む市街地への爆撃はできるだけ避けるという、当時の「戦争モラル」的な思考のうえに立脚している「倫理観」だった。この精密爆撃を推進していたのが、米陸軍航空隊総指揮官アーノルドのもとで第21爆撃軍司令官だったハンセルだった。ところが、1945年(昭和20)1月に精密爆撃にこだわり、それなりに大きな成果をあげていたはずのハンセルは更迭され、ドイツ空爆で戦果をあげたルメイが第21爆撃軍司令官に就任すると、徐々に市街地への無差別絨毯爆撃が主流になっていく。
 絨毯爆撃とは、ドイツ爆撃でB17爆撃機を一列縦隊で飛行させて、市街地へ隙間なく爆弾や焼夷弾を投下させた手法だ。ルメイは、着任当初はハンセルが立てた計画を踏襲してB29による精密爆撃を行なっているが、最初に大規模な市街地無差別爆撃が行なわれたのは、1945年(昭和20)1月23日の名古屋への空襲からだった。ただし、このときは攻撃予定の軍事目標が雲に覆われて見えず、「やむをえず」名古屋市街地を爆撃したことになっていて、いまだ市街地への無差別絨毯爆撃そのものが目的ではなかった。この軍事目標上空が悪天候で爆撃ができず、代わりに近くの市街地を爆撃する手法は、その後も引きつづき踏襲されていく。
 それが、計画段階から軍事目標への精密爆撃ではなく、ハッキリと都市への無差別絨毯爆撃そのものが目的となり、市街地全体を焼き払って焦土化する作戦に切り替わったのは、同年3月10日の東京大空襲からだ。つまり、当初よりジェノサイド(大量虐殺)をねらった無差別爆撃というテーマからとらえるなら、東京大空襲を出発点とし、その延長線上に広島と長崎への原爆投下があることが明らかだ。換言すれば、日本の工業地帯を爆撃しても、都市部での家内制手工業が中心の日本では生産力の低下が顕著ではなく、徐々に市街地への空襲をエスカレーションさせていった……という従来の説明(米軍によるあとづけの“理屈”だと思われる)はウソで、3月10日の東京大空襲を境に空爆そのものの目的や質が、まったくガラリと変わってしまったのだ。
東京大空襲before.jpg
東京大空襲after.jpg
 工業生産力を低め、ひいては国力を急速に衰えさせるためには、6大工業都市域(東京・横浜・名古屋・大阪・神戸・八幡)にある軍事目標への攻撃だけで十分だった。事実、日本の生産力は急カーブを描いて低下し、もはや青息吐息の状態で戦争継続は不可能であり、破産は誰の目にも明らかだった。前年1944年(昭和19)8月には、おもに資材調達が困難な側面から軍需省が「物的国力の崩壊」を素直に報告している。だが、それでも軍事目標への精密爆撃にとどまらず、市街地への無差別絨毯爆撃へ切り替えられた裏側には、「一億総特攻」や「一億玉砕」などと「本土決戦」を叫ぶ、国家の破滅へ“墓穴”を掘りつづけた軍部の存在があり、硫黄島の攻撃で大きな損害を受けつつあった米軍にとっては、日本本土への上陸作戦は膨大な犠牲を強いられる戦闘になるだろうと、リアルに想像させるだけの“材料”を与えてしまったことにもよるのだろう。
 そして、当然のことながら、ヨーロッパ人とは異なり得体のしれない思想や宗教観、価値観を備えたアジア人である日本人への、恐怖心をともなう蔑視思想が表裏に作用して、ためらわずに平然と焦土化作戦を遂行させることになったのだと思われる。そこには、これもあとづけの“理屈”として、「戦争を早く終わらせるためには……」という、これまで延々と繰り返されてきた米国のジェノサイド正当化の言葉=結果論がともなうことになった。東京大空襲は、もちろん病院も教会も学校もいっさい区別なく、一夜のうちに10数万人が焼け死んだ皆殺し作戦だった。
 1945年(昭和20)3月10日午前0時8分、日本側の発表では約130機、米軍資料では334機のB29による東京大空襲が開始された。このとき、少しでも多めの焼夷弾や市街地に散布するガソリンを積みこむために、多くのB29が搭乗員を減らし機銃を外して弾薬を搭載せず、東京上空には超低空で侵入している。1機のB29あたり、爆弾搭載能力ぎりぎりの6トンもの焼夷弾を積載していた。この様子を、1995年(平成7)に草思社から出版された『米軍が記録した日本空襲』所収の、『米陸軍航空部隊史』から孫引きしてみよう。
  
 先頭のB29大隊は“準備火災”を発生させることを目的としたナパーム充填のM47焼夷弾(七十ポンド)百八十発を携行した。この“準備火災”は相手の消防自動車陣の注意を集めるための火災であった。これらの照明弾投下機の後から続いて爆撃する他の機は五百ポンドのM69集束弾二十四発を運んだ。照明機の投弾間隔は三十メートル、他の機のそれは十五メートルと決定された。後者の間隔によって一平方マイルあたり最小限二十五トンの密度を与えるものと想定された。
  
 1平方マイル=2.5平方kmあたり25トンのM69集束焼夷弾、B29が334機として2,000トン超もの焼夷弾が、東京の下町へ降りそそいだことになる。空襲は、午前0時8分から2時30分までつづき、2時間余の間に隅田川両岸は関東大震災のときと同じような大火流Click!に包まれた。
東京都慰霊堂.jpg 米軍が記録した日本空襲1995草思社.jpg
山手空襲渋谷駅19450413.jpg 山手空襲19450525.jpg
 対ドイツ戦において、精密爆撃から無差別絨毯爆撃へと踏み切った司令官ルメイの言葉が残っている。1994年(平成6)に光人社から出版されたE.B.カー『戦略・東京大空爆―1945年3月10日の真実』(訳・大谷勲)から引用してみよう。
  
 君が爆弾を投下し、そのことでなにかの思いに責め苛まれたとしよう。そんなときはきっと、何トンもの瓦礫がベッドに眠る子供のうえに崩れてきたとか、身体中を火に包まれ『ママ、ママ』と泣き叫ぶ三歳の少女の悲しい視線を、一瞬思い浮かべてしまっているにちがいない。正気を保ち、国家が君に希望する任務をまっとうしたいなら、そんなものは忘れることだ。
  
 これを読む限り、自身が立案し実行した無差別絨毯爆撃が、地上でどのような惨禍を生じていたか、彼には十分に想像・把握できていたと思われる。前任指揮官のハンセルにはできず、後任のルメイには容易に踏みきれたその差とは、はたしてどのあたりにあったのだろうか。米軍資料を読み漁ってみても、方針を急転換したその背景はいくらでも想像できるが、明確な記録としては残されていない。

◆写真上:1944年(昭和19)11月より本格的な本土空襲を開始した、対空砲火を受けるB29の編隊。『米軍が記録した日本空襲』(草思社)の装丁より。
◆写真中上は、空襲前に撮影された東京の中心部。は、戦後に撮影された同市街地。下落合(中落合/中井含む)の西部が、かろうじて焼け残っているのが見える。
◆写真中下は、東京大空襲の前にB29偵察機によって撮影された東京市街地=(城)下町一帯。は、空襲から間をおかない時期に撮影された同所。本所・深川地域は、焼け野原が拡がりほとんどなにも残っていないが、日本橋は松島町や人形町あたりが焼け残っている。だが、この写真で焼け残っている街々も敗戦までの間に次々と爆撃され、その多くが消滅した。わたしの実家があった東日本橋の、千代田小学校Click!(現・日本橋中学校)あたりに、米軍が「×」印をつけているのがちょっと気にかかる。
◆写真下上左は、東京大空襲の犠牲者のうち105,000人分の遺骨・遺名が眠る東京都慰霊堂。一家全滅のケースなど、証言者さえ存在しない行方不明者はいまだ数が知れない。上右は、1995年(平成7)出版の『米軍が記録した日本空襲』(草思社)。下左は、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲で炎上する渋谷駅(画面下部)の周辺。下右は、同年5月25日夜半の第2次山手空襲下の東京市街地(場所は不明)。ともに、空中で破裂して発火したまま点々と落ちていくM69集束焼夷弾の光が見えている。


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コメント 52

niki

今は亡き祖母によく言われました。
お前の誕生日は東京大空襲があった日なんだよ、と。


by niki (2015-03-10 12:35) 

sig

生まれた年と場所は異なりますが、私の誕生日は3月10日。東京大空襲の約5か月後、B29の長岡大空襲は、当時4歳の子供が初めて記憶に焼き付けた光景でした。そんな私ですが、戦時中の記憶はほとんど薄れてきています。
by sig (2015-03-10 14:43) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>gacha-gachaさん
by ChinchikoPapa (2015-03-10 17:10) 

ChinchikoPapa

わたしの学生時代から、すでに銭湯絵師は旅をして仕事をする職業でしたので、当時から急減していたんでしょうね。nice!をありがとうございました。>simousayama-unamiさん
by ChinchikoPapa (2015-03-10 17:12) 

ChinchikoPapa

きょうも暖かで、都内の梅が散りはじめていますね。
nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2015-03-10 17:13) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>tweet_2さん
by ChinchikoPapa (2015-03-10 17:14) 

ChinchikoPapa

ポニーテールのほうが好きですが、ツインテールというとなぜか怪獣を想い出してしまいます。w nice!をありがとうございました。>やってみよう♪さん
by ChinchikoPapa (2015-03-10 17:16) 

ChinchikoPapa

西口のコクーンビルは、相馬俊子も通った女子学院高等科のキャンパスがあったところですが、先日そこを調べていたらかなり興味のあるテーマにぶつかりました。近々、記事にしたいと思います。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2015-03-10 17:22) 

ChinchikoPapa

ロリンズ節が絶好調のVil.1ですが、なぜかJAZZ喫茶ではあまりリクエストされない作品です。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2015-03-10 17:24) 

ChinchikoPapa

高田馬場駅をはさみ、「diglight」とはちょうど対象的な西側の位置にライブハウス「AREA」がありますが、こちらも一度も入ったことがありません。元・高田馬場パール座跡にできたこちらは、ヴィジュアル系のバンド専門のようですね。nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2015-03-10 17:29) 

ChinchikoPapa

正月より1kgと少しやせましたが、まだ2kgほど多いですね。
nice!をありがとうございました。>one_and_onlyさん
by ChinchikoPapa (2015-03-10 17:31) 

ChinchikoPapa

nikiさん、コメントをありがとうございます。
うちの親たちは、この日がくると必ず大空襲を口にして、眉間にシワを寄せ厳しい表情をしていました。わざわざ、代用食の「すいとん」を作って食べさせられたりしましたが、「絶対に忘れるな」ということだったのでしょうね。「すいとん」は当時のものよりは素材もよく、はるかに美味しかったのでしょうが……。
誕生日、おめでとうございます。5月のパリはみずみずしくて美しいでしょうね。気をつけていってらっしゃい。
by ChinchikoPapa (2015-03-10 17:39) 

ChinchikoPapa

滝つぼに向けて下がった、ブルーの大つららが美しいですね。
nice!をありがとうございました。>tarouさん
by ChinchikoPapa (2015-03-10 17:42) 

ChinchikoPapa

不思議なことに、人は心の柔軟性や自由さが顔に出ますね。
nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2015-03-10 17:43) 

ChinchikoPapa

sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
まずは、誕生日おめでとうございます。nikiさんと同じ日なのですね。w
ちょうど、3学期が終わり卒業式や終業式の時期でしたので、たくさんの子どもたちが疎開先から東京へもどっていたため、東京大空襲に巻きこまれたというケースがたいへん多いですね。
だからというべきでしょうか、命からがらかろうじて生き残った子どもたちが、いまもご健在で貴重な証言をうかがえる……ということなのだと思います。
うちの親父も、春休みで諏訪町から日本橋の実家にもどっていたところを、大空襲に遭遇しています。
by ChinchikoPapa (2015-03-10 17:57) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>neo-kaminewsさん
by ChinchikoPapa (2015-03-10 18:20) 

ChinchikoPapa

最近、朝食を意識的に抜いているのですが、頭がクリアで午前中の仕事がはかどります。歯、おだいじに。nice!をありがとうございました。>makimakiさん
by ChinchikoPapa (2015-03-10 18:31) 

ChinchikoPapa

義父は大空襲の直後から、大量の負傷者を第1師団のトラックで下落合の聖母病院まで下町からピストン輸送していましたが、当然、病棟内では間に合わず、すぐに外まであふれ出たと話していました。nice!をありがとうございました。>SILENTさん
by ChinchikoPapa (2015-03-10 19:11) 

NO14Ruggerman

AREAは私も未体験ですが、西友で買い物をしていると
AREAの演奏が響いて地震かと思わせるほどです。
それは迫力があっていいと思いますが、演奏終了前後に
入り口前でタムロしているコスプレ女子たちを見る限り、
おじさんには縁のないライブハウスなのだなあと
感じてしまいます。(苦笑)

by NO14Ruggerman (2015-03-11 00:47) 

dendenmushi

@そのルメイに、佐藤内閣のときの自民党政府は「勲章をおくった」と、なにかで読んだ記憶がありました…。
by dendenmushi (2015-03-11 08:32) 

ChinchikoPapa

『長崎犯科帳』は、ぜんぜん知りませんでした。実相寺昭雄と聞くと、ちょっと見たくなりますね。nice!をありがとうございました。>いっぷくさん
by ChinchikoPapa (2015-03-11 11:26) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>trending-nowさん
by ChinchikoPapa (2015-03-11 11:29) 

ChinchikoPapa

きょうが奥様の1周忌なのですね。欠落感と悲哀に満ちた、たいへんな1年間をすごされたことと思います。(合掌) nice!をありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2015-03-11 11:36) 

ChinchikoPapa

NO14Ruggermanさん 、コメントをありがとうございます。
高田馬場から下落合へもどるとき、たまに栄通り筋の田島橋をわたらず、宮田橋からまわることがあるのですが、「AREA」の西側にある急坂の下まで、コスプレの女子が行列していることがあります。
まだ明るいうちだと、コスプレ女子たちがキラキラして、ちょっと歩調をゆるめながら観察を楽しむのですが、暗くなってからだと闇の中に浮かぶ彼女たちは、なにやら物の怪の行列じみていて怖く、足早に通りすぎることになります。w
by ChinchikoPapa (2015-03-11 11:47) 

ChinchikoPapa

dendenmushiさん、コメントとnice!をありがとうございます。
ドイツや日本を問わず、一般市民を大量殺戮したルメイに勲章を上げてたたえる政府自民党というのは、いったいどういう歴史認識をしてるんでしょうね。その想いは、現状もまったく変わっていませんが。
by ChinchikoPapa (2015-03-11 11:59) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>mwainfoさん
by ChinchikoPapa (2015-03-11 12:00) 

Marigreen

いやあ貴重な米軍の神話の謎解きを読ませて戴きました。こういうことを書いてくれるから、Papaさんの記事は見逃せないんです。忙しいというのを言い訳に使いたくないけど、ほんとに忙しく、悠々自適でPapaさんの記事もじっくり読める日はいつ来るんでしょうか?
by Marigreen (2015-03-11 14:15) 

ChinchikoPapa

Marigreenさん、コメントをありがとうございます。
記事に書いたことは“謎解き”でもなんでもなくて、1995年以降に次々と公開された米軍資料を見れば、自ずと明らかだと思うのですが、どうして日本人はそれをいつまでも認知しないのかが、わたしにとっては“謎”なのです。
戦後、各分野に送りこまれた米国の工作員が(それは米国人とは限らず日本人も含むスパイですが)、どのようにして“神話”を形成し、それを日本国内に流布していったのかを史的に検証する作業が、つまりボールは投げられているのですからそれを受ける作業が必要だと思うのですが、おそらく与党の政治家までが顔をのぞかせると思われるテーマですので、誰も本格的に手をつけようとはしませんね。
by ChinchikoPapa (2015-03-11 15:12) 

カックン

初めまして。東日本橋現住民です。
両親が千代田小学校出身で(父は数年前死去しましたが)、84歳の母は昨日一日中大空襲のことを思い出していました。3月というのは戦争・地震・凶悪犯罪と我々が考えさせられる月ですね。
by カックン (2015-03-11 17:15) 

ChinchikoPapa

カックンさん、コメントをありがとうございます。
うちの親父も千代田小学校の出身で、毎年3月10日が近づくと東京大空襲の話をしていました。その後、学生時代に二度の山手空襲にも遭遇しているはずなのですが、なぜか空襲の話になると東京大空襲の話に集約されました。
おそらく、それほど衝撃的な出来事で、当時あちこちで見聞きした阿鼻叫喚の“地獄絵図”が、生涯、頭から離れなかったのだと思います。わたしにできることは、なんとか想像力をせいいっぱい拡げて、そこで繰り広げられた悲惨な物語を思い浮かべるだけなのですが。
by ChinchikoPapa (2015-03-11 17:56) 

月夜のうずのしゅげ

無茶苦茶にされた日本なのに
アメリカに対して
ほとんど怒れないように、たてつかないように
無理にでも受け入れさせられて来たようですね。
とっても悔しいです。
米軍が「×」印をつけている所も見てみました。
どうするつもりだったのでしょうか。
by 月夜のうずのしゅげ (2015-03-11 23:16) 

suzuran6

知れば知るほどコメントが出来なくなりますね。
戦争は戦っている国双方が、加害者であり被害者。どちらか正しいか、等と簡単には結論が出せません。
by suzuran6 (2015-03-12 06:43) 

ChinchikoPapa

いまなら、ドイツの再生可能エネ技術と、イタリアでもっとも進んでいるグローバルなスマエネ端末の普及戦略、そして日本のMWh系統大型蓄電システムをともなう最先端のスマエネ技術がタッグを組めば、おそらく世界のエネルギー技術&ビジネスを、この先50年はリードできると思います。(期せずして平和的な日独伊三国エネ同盟ですがw) 前世紀のエネルギー基盤の日本は、この先、周回遅れが進みそうですね。nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
by ChinchikoPapa (2015-03-12 09:56) 

ChinchikoPapa

月夜のうずのしゅげさん、コメントとnice!をありがとうございます。
「×」印が、とっても気になりますね。いまの地図でいいますと、空襲のとき中へ避難した人たちが「蒸し焼き」になった浜町の明治座と、東日本橋の日本橋中学校(旧・千代田小学校)の間ぐらいの位置です。この位置には、特に軍事目標となるような工場も軍の施設もなかったはずですが、なにをマークしているのでしょうね。
賢治研究の新潟大名誉教授・斎藤文一氏にはお会いしたことがありますが、それほど小難しいことをいう人ではないような印象です。もっとも、お酒が入っていたせいかもしれませんが……。w
by ChinchikoPapa (2015-03-12 10:11) 

ChinchikoPapa

suzuran6さん、コメントとnice!をありがとうございます。
米軍による東京大空襲のみのテーマに限らず、視界をもう少し拡げるなら、1937年からドイツはスペイン(ゲルニカ)で、翌1938年から日本は中国(重慶)で、都市への無差別絨毯爆撃を実施していたわけで、米国の加害性を正面から問いにくい事情には、それを口にすれば文字どおり「天にツバする」状況を招き、自国の行為が改めて浮き彫りになる……という、現実の国際関係にとっては不利益になるばかりという判断が、どこかにあるのでしょうね。
決して、「正しい」か「正しくない」かの次元で論じられる問題ではなく、「正しくない」次元のみですべての行為が論じられるべきだと思います。
by ChinchikoPapa (2015-03-12 10:31) 

ChinchikoPapa

「復興」ではなく、いまだ「復旧」レベルの状況かと思いますが、いずれの地域でも肝心の街をになう人々(人口)の低減が気になります。人的な基盤が崩れれば、より復興は困難になりますね。nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2015-03-12 10:41) 

ChinchikoPapa

柿を盗って食べたことはないですが、無花果の実はずいぶんありますね。w nice!をありがとうございました。>未来さん
by ChinchikoPapa (2015-03-12 15:30) 

ChinchikoPapa

グールドの「ゴルトベルク変奏曲」を聴くようになったのは大人になってからで、それまで家にあってよく聴いていたのはレオンハルト盤でした。ずいぶん古いレコードでしたので、1950年代のものでしょうか。nice!をありがとうございました。>lequicheさん
by ChinchikoPapa (2015-03-12 15:38) 

ChinchikoPapa

1998年に「歌舞伎町…」のひとつ前のデビュー作「幸福論」を聴いて、これはなんだ?……と感じて以来、携帯の着メロはすべて林檎作品で統一しています。w nice!をありがとうございました。>(。・_・。)2kさん
by ChinchikoPapa (2015-03-12 18:33) 

ChinchikoPapa

柄澤齊氏の作品は、ずいぶん前に渋谷かどこかのギャラリーで観たことがあり、ちょっと気になった版画家でした。いつも、ネコの写真が楽しみです。nice!をありがとうございました。>シルフさん
by ChinchikoPapa (2015-03-13 10:05) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>opas10さん
by ChinchikoPapa (2015-03-13 10:17) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>okin-02さん
by ChinchikoPapa (2015-03-13 11:37) 

古田

ルメイは部下だったマクナマラ(元国防長官)に対して、戦争に負けたら自分たちは戦犯として裁かれるだろうと語った、というのを、どこかで読んだ記憶があります。マクナマラを主人公にしたドキュメンタリー映画「フォッグ・オブ・ウォー」だったかもです。
by 古田 (2015-03-15 07:44) 

アヨアン・イゴカー

>原爆目標都市として「温存」されていただけだ。原爆による爆撃効果や被害状況を正確に測定するためには、できるだけ都市を「無キズ」のままにしておかなければならなかった。
この事実は知りませんでした。情報と言うのは一方的に流されるとそれが定説になってしまいます。特定秘密保護のような悪法が作り出してしまう制限された情報と同様に。
>決して、「正しい」か「正しくない」かの次元で論じられる問題ではなく、「正しくない」次元のみですべての行為が論じられるべきだと思います。
全く同感です。こういう考え方ができるかどうかは、人間としての良心があるかどうか、それに尽きるのだと思います。
>ルメイは部下だったマクナマラ(元国防長官)に対して、戦争に負けたら自分たちは戦犯として裁かれるだろうと語った 古田さんのコメント
自分たちの行為の非人道性を自覚していたのですね。

by アヨアン・イゴカー (2015-03-15 14:19) 

ChinchikoPapa

古田宙さん、コメントをありがとうございます。
マクナマラのドキュメンタリー『フォッグ・オブ・ウォー』といいますと、まずベトナム戦争の回想を思い浮かべてしまうのですが、まだ観ていません。DVD化されていますので、一度は観ておかなければいけないですね。考えてみますと、彼は日本への空爆を直接指揮する現場に直接立ち会っていたわけで、いろいろなことを見聞きしているのでしょうね。
by ChinchikoPapa (2015-03-15 14:26) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>ネオ・アッキーさん
by ChinchikoPapa (2015-03-15 15:00) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2015-03-15 15:49) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、コメントが前後してしまいました。
一方的な情報の“押しつけ”や情報操作は、それを検証する手段がない場合は、ウソが「史的事実」へと捏造されていくのを助長しますね。特定秘密保護法は、その検証作業をあらかじめ妨害するばかりか、政府に都合の悪い事実を意図的に覆い隠す、治安維持法以来の悪法だと思います。
by ChinchikoPapa (2015-03-16 17:42) 

ChinchikoPapa

箱根の関所跡は、ずいぶんキレイになってますね。子どものころは、小さな建物に関所役人の人形が置いてあるだけの、なんとなく不気味なところでした。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>うたぞーさん
by ChinchikoPapa (2015-03-20 11:40) 

ChinchikoPapa

こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>fumikoさん
by ChinchikoPapa (2015-03-26 22:28) 

古田 宙

昨日学習院のvideo centerで“Fog of war”を見直しました。
マクナマラは教師から空軍に参加して、ルメイの部下になって空爆作戦に関わったのですね。東京空襲直後に「負けたら戦犯だ」との発言をきいたそうですし、自分も同じだ、とも語ってました。フォードの役員から国防長官に登用されて、キューバ危機やベトナム戦に関わって、戦争から離れられなかった人物ですね。見ごたえ十分のドキュメンタリでした。
by 古田 宙 (2015-04-10 09:48) 

ChinchikoPapa

古田宙さん、コメントをありがとうございました。
子どものころ、ニュースを見ていると頻繁に「マクナマラ国防長官」という言葉が出てきたのを思い出します。いつ終わるとも知れないベトナム戦争が終結してから、もう40年もたったのですね。『Fog of War』は、ぜひ見てみたいです。
先に書きました、ドーリットル隊による東京初空襲の記事をご覧になり、早稲田中学校を卒業されて現在、学習院で講師をしておられる方の文章を、ある方がご紹介くださいました。東京では軍事目標ではない場所ばかりを爆撃している同空襲について、近々、再び記事にしてみたいと思っています。
by ChinchikoPapa (2015-04-10 10:12) 

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