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和宮の身代りと目白の新倉家。(下) [気になるエトセトラ]

豊坂稲荷1.JPG
 学習院が1908年(明治41)9月、四谷区尾張町から高田村高田(現・目白)へ移転を終えて開校したとき、同院のキャンパス南東部には、いまだ江戸期からつづく旧・高田村の稲荷社(八兵衛稲荷)の境内跡がクッキリと残っていただろう。稲荷社は学習院が開校する直前、1907年(明治40)にようやく高田村金久保沢Click!バッケ坂Click!=豊坂沿い、急坂の中途に遷座している。ただし、東京府知事による奉遷許可が下りたのは早く、学習院の高田村移転が表面化して早々の、1900年(明治33)のことだった。
 奉遷ののち、豊坂稲荷社と呼ばれるようになった同社の境内には、1907年(明治40)の遷座から間もない、1910年(明治43)7月と9月の年紀が刻まれた寄進の鳥居や石碑を、いまでも見ることができる。ちなみに、当時の豊坂稲荷社は目白停車場Click!の改札前に位置していて、目白駅が高田大通り(現・目白通り)に面する橋上駅化をしなければ、にぎやかな駅前の稲荷社になっていたかもしれない。
 余談だけれど、知人の話によれば宮崎燁子(宮崎白蓮)Click!の手記には、1924年(大正13)に初めて宮崎家を訪れた際、目白橋の下にあたる金久保沢の改札へ降りてから高田大通り(目白通り)へと上がる表現が見られるそうなので、目白駅が「1919年(大正8)に橋上駅化された」という「公式記録」は、やはりなにかのまちがいだろう。下落合で暮らした多くの人々の、1921年(大正10)以降の証言とともに、目白駅の橋上駅化は少なくとも関東大震災Click!以降のことではないか?
その後、目白駅の橋上駅化は1922年(大正11)と判明Click!している。
 また、地元の古老や有力者たち、あるいは敷地を譲りうけた旧・戸田家Click!の人々からでも聞いたのだろう、徳川義親Click!の証言によれば、1885年(明治18)に日本鉄道(私営)の目白停車場が設置されてからしばらくの間、駅周辺ではあえて「高田停車場」と呼ばれていたらしい。やはり、椿山も近い実際の目白地域(関口台)の地名(現・目白台の東側一帯)からは、駅があまりにも西へ離れすぎていたClick!ため、地元本来の地名をとって高田駅と呼ぶほうが自然だったのだ。
 さて、豊坂稲荷社には旧・高田村の名主だった島田家や大澤家、そして醍醐家、さらに旧・雑司ヶ谷村の名主だった新倉家などの末裔たちが、1961年(昭和36)7月に玉垣を建立した際の寄進名を見ることができる。学習院が高田村で開校する12年前、1896年(明治29)9月に当時の院長だった近衛篤麿Click!が、宮内省へ高田村への移転を上申し高田村の土地52,500坪の買収指令を出したときから、旧・高田村あるいは旧・雑司ヶ谷村の新倉家の不幸ははじまっていたのだろう。実際には、宮内省帝室林野局の所有地になった敷地を除いても、学習院の敷地は最終的に72,615坪にまでふくれあがった。
 これらの土地の多くは、江戸期からつづく高田村の名主の土地(農地)が多く含まれており、また明治期に旧・高田村の土地を精力的に買収していた新倉家の所有地もまた含まれていた。彼らは、宮内省の学習院あるいは帝室林野局からの要請であれば、イヤでも土地を手放さざるをえなかっただろう。地主の中には、最後まで土地を売りたがらず、宮内省による土地収用の強制執行を受けたケースもあったといわれている。
 1905年(明治38)に村長を退任した新倉徳三郎は、おそらく学習院へ多くの土地を売って得た資金をもとに、先の『高田町史』にも登場していた(株)高田農商銀行へ出資し大株主になったのだろう、1919年(大正8)現在では同銀行の取締役頭取に就任している。しかし、同銀行はほどなく買収の嵐にさらされて、高田地域を中心とする地元優先の経営をつづけられなくなっていった。高田農商銀行を乗っ取って経営権を握ったのは、またしても下落合575番地Click!堤康次郎Click!なのだ。1920年(大正9)に経営権を奪取した堤康次郎は、下落合に建設を予定していた目白文化村Click!事業や、武蔵野鉄道Click!の融資銀行として同銀行を活用しはじめている。そして、同銀行を堤グループの機関銀行へと徐々に営業内容を変更していった。
豊坂稲荷2.JPG 豊坂稲荷3.JPG
 さて、有吉佐和子のもとを訪れた新倉家の末裔を名乗る女性の、最初の証言へともどってみよう。これまでの記事を読まれた方は、ひょっとすると彼女は江戸期と明治期における新倉家のスタンス、あるいは明治以降の新倉家をめぐるさまざまなエピソードが、アタマの中でゴッチャになっていたのではないか?……ということに気づかれるだろう。和宮の時代の雑司ヶ谷村名主だった新倉家と、明治以降に高田村の戸長・村長だった全盛時代の新倉家の置かれた位置や環境が錯綜し、「和宮」に死なれたのと、「家運」が傾いたのと、屋敷の敷地が学習院に買収されたのとでは、時代的な齟齬が生じて因果関係がバラバラであることがおわかりいただけるかと思う。しかし、だからこそというべきだろうか、先祖や家系、家の歴史を語るときの伝承や記憶に、ままありがちな齟齬や脚色、勘ちがいであるがゆえに、証言者である女性の存在が有吉佐和子の創作ではなく、彼女の実在とともにその語る証言の信憑性が、逆に高いように感じてしまうのだ。
 有吉佐和子の『和宮様御留』は、和宮が京を出発したときからすでに替え玉であり、途中で身代わりの女性“フキ”が精神的な緊張から「発狂」してしまうため、やむをえず板橋宿でもう一度、別の替え玉の女性“宇田絵”とすり替える……というめまぐるしい展開だ。板橋宿で替え玉となるのが、小説中では「新倉覚左衛門」の左手首を失って嫁入りが困難な娘という設定になっている。この筋立てが、どこまでが事実でどこからが虚構かはとりあえず別にしても、千代田城へやって来た「和宮」が実は別人の替え玉ではないかという説は、有吉佐和子の小説以前からすでに薄々存在していた課題だ。
 それは、1958~60年(昭和33~35)にわたって東京大学が実施した、芝増上寺における徳川将軍墓の発掘調査・遺体検視がきっかけだった。将軍家墓所から発掘された和宮(静寛院)の遺体には、左手の手首から先がなかったのだ。京の橋本家にいたころの和宮は、幼いころに足の関節炎を患ったせいか歩行がやや不自由だったとされているが、両手はちゃんとそろっていたはずだ。同時に、発掘調査・遺体検視では足の骨格に病変を感じさせるような異常はなく、きわめて正常な両足だった。身長は143.4cmと非常に小柄で、32歳で死去したせいか棺には漆黒の毛髪がそのまま残っていた。
 また、夫であり21歳の若さで急死した徳川家茂の内棺からは、妻の和宮のものとされる髪(和宮の剃髪時)が発見されている。しかし、漆色の黒髪ではなく茶色がかった髪をしており、ふたつの髪束はまったく別人のものではないかという指摘がなされている。発掘調査に参加した東京大学理学部教授(人類学)の鈴木尚も、「果たして彼女の頭髪であろうか」と疑問形のまま記述を終えている。なぜ、和宮の剃髪時の髪と納棺されたときの髪が異なるのだろうか? もし、現代に行なわれた調査であれば、DNA鑑定や和宮の左手断面の解析などにより、さらに広い範囲の詳細な情報が判明していたと思うと残念だ。ちなみに、『和宮様御留』の「あとがき」では、和宮の棺から出た髪が茶髪で、家茂の棺から発見された髪束が黒と逆の記述になっている。
下高田村絵図1716.jpg
稲荷跡1.JPG 稲荷跡2.JPG
 和宮が嫁した当時、大奥はどのような環境だったのだろうか? どこまでも「御所風」の風俗やしきたりを貫くという和宮側の要望は、大奥の女たちにことごとく無視されて退けられ、和宮に付随して京からやってきた宰相典侍の庭田嗣子が記録したように、すべてが「大奥風」で仕切られ営まれていた。特に和宮には姑にあたる、天璋院との確執は深刻なものだったろう。当時の状況を、有吉佐和子の『和宮様御留』から引用してみよう。
  
 当時の千代田城大奥には、公方様お附きの女中が百七十人、先代将軍家定の生母本寿院お附き女中が五十三人、当代家茂の生母実成院に二十三人、そして先代公方の御台所であった天璋院には八十人の御附女中がいたところへ、宮様は宰相典侍以下七十七名を率いて乗りこまれたのだから、全部で四百名を越す女の集団が、朝から夜の夜中まで、京方と江戸の御風違いで末は女嬬やお端下まで、揉めごとに明け暮れるという騒ぎであった。
  
 千代田城Click!で暮らす和宮(静寛院)を描いた肖像や、江戸で撮影されたとみられる彼女の写真には、左手首がとらえられていない。いずれも、左手が着衣の中へ隠れて見えなくなっている。だが、明治維新後の1869年(明治2)に京へともどり、1874年(明治7)に再度東京(とうけい)へ出てきて麻布で暮らすようになった和宮(静寛院)には、はたして左手首があったのだろうか? 明治以降に撮影された、洋装の和宮(静寛院)とされる写真が残っているが、あくまでも「伝」であって確実に本人かどうかは不明のままだ。
 新倉家の末裔を名乗る女性が有吉佐和子を訪ねたのは、すでに増上寺の徳川将軍墓が発掘調査されたあとだとみられるので、話題になった和宮(静寛院)の左手首欠損について、なんらかの伝承に言及しているのかもしれない。だが、当時の有吉佐和子は和宮というテーマそのものにあまり興味がなく、そのまま聞き流している可能性もありそうだ。
和宮(写真).jpg 和宮(肖像).jpg
和宮左手首.jpg
 『和宮様御留』の中で、有吉佐和子は京で身代りになった娘“フキ”の体内に、「コンコンチキチン、コンチキチン」と祇園囃子のリズムを刻ませている。これは、和宮に化けさせられた哀れな“フキ”を際立たせる、また背後の京ギツネ(公家たち)をことさら象徴させている音色であり、リズム表現なのだろう。もし、仮に板橋宿で再び和宮が“新倉宇田絵”に入れ替わったとすれば、大奥で暮らす彼女の体内にはまちがいなく「ピーヒャラピーヒャラテケツクテンテン、ピーヒャラピーヒャラドンドコドン」と、大江戸の威勢のいい馬鹿囃子(ばかっぱやし)が、身体のどこかで絶え間なく鳴り響いていたかもしれない。

◆写真上:1961年(昭和36)に建立された豊坂稲荷(八兵衛稲荷)の玉垣に刻まれて並ぶ、旧・高田村と旧・雑司ヶ谷村の名主だった寄進者の姓。
◆写真中上は、遷座から間もない時期に建立された1910年(明治43)の年紀が刻まれた鳥居。は、玉垣の支柱にみる旧・名主たち(新・高田村の有力者たち)の姓。
◆写真中下は、1716年(正徳6)に下高田村(のち高田村)の名主・宇右衛門(姓不明)が幕府の巡検使に提出した「下高田村絵図」。下左は、千登世橋から眺めた学習院の森で稲荷は右手の丘上に建っていた。下右は、稲荷があったあたりを崖下から眺める。
◆写真下上左は、江戸で撮影されたとみられる和宮。扇を持っている右手は確認できるが、左手は袖中で見えない。上右は、同じく江戸で描かれた書き物をする和宮だが、やはり左手が見えない。は、1967年(昭和42)に出版された『増上寺 徳川将軍墓とその遺品遺体』(東京大学出版会)掲載の発掘された和宮の左手首の様子で、他の整然とした骨格に比べ明らかに納棺時から欠損していたらしいことがうかがえる。


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コメント 37

ChinchikoPapa

このアルバムは楽しいですね、聴いてると心が弾んできます。
nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2014-10-17 11:33) 

ChinchikoPapa

次回は、再び小金井のハケを取り上げる予定です。
nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2014-10-17 11:37) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>やってみよう♪さん
by ChinchikoPapa (2014-10-17 11:38) 

ChinchikoPapa

クラックしている、板壁の路地がいいですね。陽に照らされて、古い木と土壁の匂いがしそうです。nice!をありがとうございました。>opas10さん
by ChinchikoPapa (2014-10-17 11:40) 

ChinchikoPapa

なんだか、日本画の一幅を見ているような山容ですね。
nice!をありがとうございました。>yamさん
by ChinchikoPapa (2014-10-17 11:44) 

ChinchikoPapa

4枚目の写真は、なんだか絵画のような色合いで眼を疑います。
nice!をありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2014-10-17 11:47) 

ChinchikoPapa

高田駅が、すごいことになっていますね。火の見のようなお城のような……。nice!をありがとうございました。>sonicさん
by ChinchikoPapa (2014-10-17 11:52) 

ChinchikoPapa

わたしも旧・国鉄のストでは、いろいろとひどい目にあってますね。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2014-10-17 12:00) 

ChinchikoPapa

崖線下をとおる雑司ヶ谷道の山手線ガードが修復中なので、コンクリの下から明治期の煉瓦積みがのぞかないか観察中ですが、なかなか見えないですね。nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2014-10-17 12:02) 

ChinchikoPapa

3Dモナリザは、3Dメガネをかけてみると左右が反転して浮き上がったりもどったりと面白いですね。nice!をありがとうございました。>シルフさん
by ChinchikoPapa (2014-10-17 12:17) 

ChinchikoPapa

気温が下がってきたせいか、うちのナスとピーマンの“野菜畑”もそろそろ終わりです。nice!をありがとうございました。>okin-02さん
by ChinchikoPapa (2014-10-17 14:22) 

ChinchikoPapa

わたしも地下鉄乗り継ぎが多かったのですが、最近バスに乗る機会が多く、かなり便利なことに気づきました。nice!をありがとうございました。>沈丁花さん
by ChinchikoPapa (2014-10-17 15:10) 

ChinchikoPapa

ちょうどいまの記事の和宮と同様に、「道具」化された女性は日本にもゴマンといますね。nice!をありがとうございました。>makimakiさん
by ChinchikoPapa (2014-10-17 17:52) 

ChinchikoPapa

ネコの置物や彫刻もいいですが、やはりほんとのネコに傍にいてほしいですね。nice!をありがとうございました。>simousayama-unamiさん
by ChinchikoPapa (2014-10-17 18:44) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>kaminews100さん
by ChinchikoPapa (2014-10-17 21:46) 

オジロ

『余談』へのコメントで恐縮ですが、目白駅についての推察です。学習院への横断歩道の手前に『旧目白駅高欄』が保存されていて、説明板がありますが、それには「1923年旧目白駅架橋、1932年目白駅の移動にあわせて目白橋が架け替えられた」と記載されています。また、『写真で見る日本女子大学の110年』(Web上で公開されています)には、1923年11月2日の目白駅の写真が掲載されています。『目白駅の勘違い』に掲載されている学習院側からの写真に写っている駅舎を目白橋から見たものです。目白橋側に改札口があり、この改札は道路からかなり奥まったところにあります。現在の駅舎とほぼ同じ位置です。目白駅の高架化を1919年とする旧国鉄の公式記録は事実ではないでしょうか。おそらくその時の目白橋は木造の幅約3mほどの小さな橋だったはずです。1923年の写真はこの時の駅舎だと思われます。1924年の複々線化にあわせて新しい目白橋が架橋され、高欄が設置されます。架橋工事の間、駅舎からは例の謎の階段を下りて金久保沢の道路に出ていたのでないかと思われます。階段の最上段はこの時の駅舎内にあったと思われます。そして、1932年に記憶に新しい先代駅舎が旧駅舎の北側に造られ、道路にほぼ接する位置に改札口が造られたのだと思います。この年に本当に橋の架け替えがあったかどうかは不明です。
by オジロ (2014-10-17 22:16) 

ChinchikoPapa

オジロさん、コメントをありがとうございます。
いや、そうではないように思います。目白駅の橋上駅化を、宮崎白蓮が手記に書いた1924年(大正13)以降ではなく、「関東大震災以降」としたのは、とりあえず日本女子大のくだんの写真があるからです。(写真のタイムスタンプに誤りがないとしてですが)
宮崎白蓮は、宮崎邸を初訪問する以前から一時期、高田町に仮住まい(隠れ住まい)をしていたことがあり、その時期の記憶と宮崎邸初訪問のときの記憶がゴッチヤになったと仮定すれば、誤記の可能性がありますね。ただし、それにしても白蓮が東京の高田町にやってくるのは、少なくとも1922年(大正11)以降のことです。もし、目白駅が橋上駅化されていたとしたら、今度は金久保沢改札口を利用したことを、白蓮がどうして書けるのか?……という課題が起きてきます。
いや、これは白蓮の証言に限らず、佐伯祐三アトリエや中村彝アトリエを訪ねる画家たちの証言、あるいは下落合に住んだ鈴木誠の証言でも1921年(大正10)以降も金久保沢の改札を利用しているのは明らかです。(桜並木のある高田大通りへは、改札を出て右手の土手を上がることになります)
したがって、1919年(大正8)の橋上駅化というのは、実際に駅を利用していた地元の人々の証言(ひとりふたりの証言ではありません)を優先するわたしとしては、省線時代の記録になにかのまちがいがあるのではないかと疑っています。
by ChinchikoPapa (2014-10-17 23:42) 

ChinchikoPapa

どこかサメに似ていて、進むことをやめると人間も死んでしまうように感じますね。nice!をありがとうございました。>.comさん
by ChinchikoPapa (2014-10-17 23:51) 

オジロ

ChinchikoPapaさま、返信ありがとうございます。ちょっとわかりにくい表現をしてしまい、失礼しました。私が言いたかったのは、目白駅が橋上駅化された当初の出入り口は目白橋側にはなく、謎の階段を下った金久保沢にあったのではないかということです。橋上駅というのは線路を跨ぐ跨線橋に駅舎機能を備えたものをいいます。たいていの橋上駅の出入り口は地上(線路と同じ高さ)にあります。東武東上線坂戸駅や現在計画中の中野駅のようなものです。目白駅の場合は、将来(1923年)の目白橋(コンクリート橋)架橋の際にそちら側に改札口を設けられるように目白橋と同じ高さに駅舎(橋上駅)を作ったのではないでしょうか。実際に改札口が目白橋側に開いたのは1923年以降だと思います。いかがでしょうか。
by オジロ (2014-10-18 00:38) 

オジロ

すこし補足します。1923年に架け替えられる前の目白橋は、豊島区立郷土資料館刊行の調査報告書第18集「鉄道関係史料Ⅰ」によると、1903年架橋の木造(檜、杉、松)の「清戸道人道橋」です。そこに改札口から出た人の流れをつくるとは到底思えないので、目白橋側に改札口ができたのは目白橋の架け替え後だと思われます。
by オジロ (2014-10-18 11:42) 

ChinchikoPapa

いよいよ、今日からスタートですね。いい結果を残せますように。
nice!をありがとうございました。>ベッピィさん(今造ROWINGTEAMさん)
by ChinchikoPapa (2014-10-18 18:02) 

ChinchikoPapa

きょうはスニーカーをはいての散歩日和で、あちこちを気持ちよく歩きまわってきました。nice!をありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
by ChinchikoPapa (2014-10-18 18:06) 

ChinchikoPapa

このブログはIE表示を基準に書いてますけれど、OS+IEのVer.ちがいで表示が異なるのがなやましいですね。nice!をありがとうございました。>Ujiki.oOさん
by ChinchikoPapa (2014-10-18 18:13) 

ChinchikoPapa

オジロさん、重ねてコメントをありがとうございます。
え~と、……ちょっと弱りましたね。上記のコメントで、目白駅の課題についてはおしまいにしたかったのですが。w
実は、この目白駅については現在、綿密に調べて検証し、詳細な著作を書かれている方がいまして、お話をうかがったわたしが、その発表前にここで概要を書いてしまうわけにはいかないんですよね。
さいぜんのリプライより言わず語らず、奥歯にもののはさまった言い方しかできないのがもどかしいのですが、結果からいいますと、1919年(大正8)には目白駅は手つかずで、橋上駅化の工事はまったく実施されていません。当時は、イラストで残された目白橋から距離のある金久保沢の駅舎のままだった……ということだと思います。
目白駅の橋上駅化工事がなされたのが1919年(大正8)だと、いちばん最初に書いた研究者は、いったいなにを根拠にそう規定したんでしょうかね? おそらく、その方は「鉄道史」と呼ばれる分野では、権威のある人物ではなかったかと勝手に想像しているのですが、その後、当該の「鉄道史」本を参照したすべての資料が全的にまちがえていくという、こちらのサイトでもご紹介した尾崎翠の旧居跡(上落合850番地の規定)の、新宿区の資料1点を除く、すべての文学関連書籍が誤りつづけたケースと、まったく同じ事例ではないかと思います。
尾崎翠の場合は、「文学(文学史)」の分野でも権威のある方々が編纂した『定本尾崎翠全集』(筑摩書房/1997年)で、上落合における旧居跡の規定を誤ったがために、それがそのまま疑問も抱かれず検証もなされず「公式記録」化していったわけですが、目白駅のケースもまったく同じではないかと想定しています。
当初の1919年(大正8)に橋上駅化と規定した研究者は、ちゃんと残された工事記録の具体的な“ウラ取り”さえしておらず、想像で書いていた疑いがきわめて強いですね。……と、これぐらいしか書けません。これでも、著者からさっそくクレームが入りそうですが。w
換言しますと、先に書きました下落合側に残る、1921年(大正10)以降の金久保沢改札口の利用証言、すなわちイラストでしか現存しない目白駅舎と跨線橋の描写…etc.は勘ちがいなどではなく、すべて正確な証言だったということになります。
当の著作が発表されましたら、こちらのサイトでもさっそく引用させていただき、もう一度、画家たちや利用者たちの証言をたどってみたいと考えているしだいです。

by ChinchikoPapa (2014-10-18 18:42) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>seiさん
by ChinchikoPapa (2014-10-19 11:17) 

ChinchikoPapa

わたしはその昔、レンタルCDを入れたまま、オーディオCDプレーヤーが壊れて取り出せなくなったことがあります。PCなら、小さな穴から針金を入れてコチョコチョやればすぐに取り出せますが、オーディオはそんな穴などないのですね。ああいうときは焦るものですが、結局、CDが入ったまま修理に出して、CDだけすぐに送り返してもらいましたが、けっこうな延滞料を払わされました。でも、クルマは生活用具ですから、より深刻ですね。nice!をありがとうございました。>うたぞーさん
by ChinchikoPapa (2014-10-19 11:33) 

ChinchikoPapa

この時期になると、なんだか周辺がカボチャだらけですね。わたしは、カボチャが苦手なんですが……。w nice!をありがとうございました。>ネオ・アッキーさん
by ChinchikoPapa (2014-10-19 14:22) 

ChinchikoPapa

網の目に似た仕様のコンクリート擁壁(崖地崩落防止壁)は、大正時代から採用されている広報ですね。こちらでも、つい先年まで大正期のものが残っていました。nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
by ChinchikoPapa (2014-10-19 17:39) 

ChinchikoPapa

重ねて、ご訪問とnice!をありがとうございました。>Ujiki.oOさん
by ChinchikoPapa (2014-10-19 17:41) 

ChinchikoPapa

ギターソロは好きですね。特に転調するときの哀切さは、他の楽器にはない味わいだと思います。nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2014-10-19 22:59) 

うたぞー

パパさんの焦った様子が目に浮かびます。延滞料って痛いですよね。
by うたぞー (2014-10-20 08:30) 

ChinchikoPapa

うたぞーさん、コメントをありがとうございます。
あれ以来、ディスクのターンテーブルには、ちょっとトラウマがありますね。w 事情を説明しましたが、延滞料はかんべんしてくれませんでした。
by ChinchikoPapa (2014-10-20 10:11) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>nikiさん
by ChinchikoPapa (2014-10-20 13:49) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2014-10-20 19:44) 

ChinchikoPapa

しぶい焼き物が並んでいて、欲しくなる作品がありそうです。
nice!をありがとうございました。>ちびっこライダーさん
by ChinchikoPapa (2014-10-22 09:46) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>fumikoさん
by ChinchikoPapa (2014-10-24 12:13) 

ChinchikoPapa

こつらにも、nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-10-30 19:33) 

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