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島峰徹もビックリの地下式横穴古墳群。 [気になる神田川]

東京医科歯科大学.JPG
 1934年(昭和9)4月、第二文化村Click!の下落合1705番地に住んでいた島峰徹Click!は、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)が移転したあとに建設中の、東京高等歯科医学校(現・東京医科歯科大学)の工事現場から不可解な連絡をもらっただろう。ひょっとすると、同校の設計・建設を指揮していた大蔵省営繕管財局工務部長の大熊喜邦Click!から、じかに電話をもらったかもしれない。女子高等師範の旧校舎を解体し、学校敷地の整地作業がようやく終わり、基礎工事がスタートする矢先のことだったと思われる。
 工事現場の異様な状況を聞いた校長の島峰徹は、「そりゃあなた、江戸時代に神田明神の甘酒茶屋が掘った、地下の麹室(こうじむろ)の一種でしょうな。歯っはっは」と、気楽に考えていたかもしれない。ところが、これが御茶ノ水から湯島一帯にかけて、膨大な古墳群の確認と発掘の端緒となるエピソードだった。実は、江戸期にも湯島聖堂(のち昌平坂学問所)を建設する際、地下から多くの洞穴が出現しているのだが、江戸初期の古い「麹室」跡だろうということで片づけられていた。1690年(元禄3)に林信篤が記した『武州昌平坂大成殿上梁』に見える、「覆虆裡而填洞穴」の箇所がそれだ。しかし、考古学者の中には当時の文献を読み、古墳の羨道あるいは玄室の発見だったのではないかと疑う人々もおり、同地域における新たな発見が待たれていたのだ。
 いや、このテーマは湯島聖堂建設のさらに前の時代、江戸幕府が神田山(現・駿河台)の土砂を崩して海辺の埋め立てに用い、御茶井(おちゃのい)に平川Click!つづきの外濠(現・神田川)を掘削して、神田明神を湯島台側へ移した時点から語られるべきものだろう。神田山の北麗から湯島台一帯が、この地下式横穴古墳群で覆われていた可能性が高いのだ。それは、その後につづく各地点の発掘成果にもよるのだが、神田明神下に数多く見世開きしていた甘酒茶屋の地下麹室でさえ、もともとは横穴古墳群の洞窟をいくつか活用し、それを改良・拡張して造られていたものではないか?……とさえ疑われるようになった。
 でも、1934年(昭和9)春の当時、島峰徹はそのような事例をいまだ知らず、とっさに江戸時代の遺構がまた出現したと直感しただろう。昭和初期の当時、宅地開発や建物の建て替えにともない、東京各地で地下に埋もれた江戸期の遺構(おもに水道管や屋敷跡)が見つかっていたからだ。また、東京あるいは関東地方は蛮族たる「坂東夷」の土地柄であり、巨大な古墳Click!はおろか大規模な古墳群など存在しない……という皇国史観Click!の“神話”が、いまだ信じられていた時代だ。ところが、工事現場を視察に訪れた島峰校長は、おそらく設計・建築責任者である大熊喜邦から説明を聞いて驚愕しただろう。同時に、校舎建設の工事計画がどれほど遅れるのか、頭を抱えたかもしれない。
 大熊喜邦は、基礎工事で出現した大量の横穴を、当初より江戸期の「麹室」とは考えていなかった。それは、すべての工事をストップし、綿密な測量調査をはじめたことからもうかがわれる。そして、大熊は1934年(昭和9)の『建築』8月号に、新たに発見された古墳群の詳しい断面図や平面図など、詳細な計測図を現場レポートとともに掲載している。また、大熊喜邦は文部省の専門学務局史蹟調査室へも連絡を入れたらしく、同室のメンバーがチームをつくり膨大な古墳群を調査することになった。チームには、のちに目白3丁目3534番地で日本史蹟研究会を主催することになる、同省の上田三平も含まれていた。上田は同研究所の名義で、1943年(昭和18)に詳細な報告書『東京御茶水に於て発見せる地下式横穴の研究』を発行することになる。余談だが、目白3丁目3534番地は現在の目白幼稚園の北側あたり、山手線沿いにふられた当時の地番だ。
東京高等歯科医学校敷地.jpg
古墳発掘状況.jpg
古墳調査チーム.jpg
古墳断面図.jpg 古墳平面図.jpg
 では、上田三平の同報告書から、古墳が発見された概要を引用してみよう。
  
 (前略)その工事中の四月廿六日に根伐の底部に於て偶然不思議の洞穴を掘り当て、更に引き続いて他の場所に於てもトラックの車輪の陥落等によつて略同様の洞穴の存在せることを発見した。よつて現場監督員は、直ちに各々の洞穴の内部を仔細に点検し、その形状を測定したが、此等の洞穴は何れも予め十分な意図を以て設計され、その技術に於ても共通せる点があつて全く人工的なものであることを確め得たのである。/而してその一組と認められる形態は、地表から垂直に穿たれた深さ十二三尺の方形の孔を中心とし、その底部の周囲に於て数個の通路の如き穴を穿ち、それから矢車状に配置された四室若しくは五室に連続せることを発見したのである。その後も根伐工事の進捗に伴ひ、略同様の洞穴の集団が発見され益々その数を増加したが、この不思議な事実が遂に現場から文部省の専門学務局に伝へられ、鶴岡主任は之が調査を史蹟調査室の吾々に慫慂(しょうよう)されたのである。
  
 また、大熊喜邦の主導で計測された実測図面が、工事の現場事務所に次々と貼られていった様子も記録されている。大熊喜邦Click!は、もともと麹町の旗本家の出身であり、出現した遺構が江戸期のものでないことは直感的に理解していたかもしれない。その後、遺体を地面へじかに安置すると、富士山の火山灰である関東ローム層では酸性が強く、遺骨や副葬品が残りにくいという条件下で、かすかな遺骨の断片や副葬品が見つかるにおよび、ようやく大規模な古墳群であると確認されることになる。
 古墳の形状は、12~13尺(約3.6~4.0m)ほどのタテ穴を掘った底部から、四方へ4~5室の羨道と玄室を、まるで矢車か車輪のように掘っためずらしい形態をしており、古墳時代末期からナラ時代の最初期に多くみられる埋葬形態だと規定された。また、従来の東京女子高等師範学校のころより、急に地面にできた窪みに馬が足をとられたり、大雨が降ると敷地のあちこちに凹地ができていたことから、古墳は東京女子高等師範学校のキャンバス全体におよんでいると考えられた。
  
 而してその各々の横穴玄室の大きさは多少異る処はあるが何れも相似形を呈し、所謂羽子状を為せる点は殆ど同一といつてもよい。即ち羨門の内壁に沿ふて測定せる幅約七尺乃至九尺、奥壁の幅約十尺乃至十五尺、奥行約十五尺あり、室内の高さは側壁に於て約三尺乃至三尺五寸中央に於ける高さ約四尺余である。即ち室内の高さの比較的低い点も注意せねばならぬ。入口の幅は二尺に充たず高さ約二尺五寸とは甚だ狭隘なものである。然かも玄室に於ても高さ四尺位に過ぎず、加ふるにその室内の形状は略等しい点は、此等の土室は何の用に供せられたものであるかを暗示してゐるのである。
  
古墳01.jpg
古墳02.jpg 古墳03.jpg
古墳04.jpg 古墳05.jpg
古墳06.jpg 古墳07.jpg
 古墳時代の前・中期に発達した、大規模な前方後円墳Click!や円墳、帆立貝式古墳Click!などの時代から、人々の生活観や死生観に合理性が生まれ、葬儀形式や墳墓形態が大きく変化していった経緯を感じとれる古墳最末期の築造とみられる。羨門部はくびれ、幅が遺体を引きこめる程度のわずか60cm余で高さが約80cm弱しかなく、玄室は奥ゆきと奥壁が約4.5m前後、高さが約1.2m余で、明らかに埋葬施設の様相を呈しているのがわかる。同じ1934年(昭和9)の10月になると、今度は大塚古墳Click!近くの小日向台町1丁目に建っていた杉浦家の庭からも同様の横穴が発見され、副葬品として鉄鏃や鉄片、土器などが出土し、改めてこの奇妙な形態の地下式横穴群が古墳であることが確認された。
 地下式横穴古墳群は、東京高等歯科医学校の校舎ひとつぶんの工事現場から、なんと40基もの羨道と玄室が発見されている。さらに、その周辺域にも拡がりを見せており、聖橋筋の道路をはさんだ湯島聖堂側の江戸期に行われた普請で見つかった地下洞穴も、同様の古墳群だったことが推定された。また、当時はすでに多様な建築や住宅の下に埋もれてしまった、同学校の西側や北側、そして掘削されて現存しない南側の神田川、すなわち神田山の北斜面にも同様に展開していただろうと推測されている。
 現在では、同じような地下式横穴古墳群は全国各地で発見されており、見つかると同時に古墳認定がなされているけれど、当時はいまだ発掘事例も少なく、江戸期の麹室だとする学者との論争に、文部省の調査・発掘チームは忙殺されることになった。しかし、福井県敦賀郡の沓見地域で、当時は「丸山古墳」と呼ばれていた墳丘の斜面から、地下式横穴古墳がまとめて発見(現在では30基を超えているようだ)されるにおよび、改めて発見場所である東京高等歯科医学校の敷地を中心に、大規模な古墳群の存在が認知されている。
 しかし、同横穴古墳群の報告書が発行されたのは、1943年(昭和18)という太平洋戦争のまっ最中であって、しかも軍国主義による「神国ニッポン」=皇国史観の徹底化がなされているさなかでもあり、明治政府以来の朝鮮半島ひいては中国から拝借した非科学的な「東夷蛮族」史観が活きていたせいか、関東地方で続々と発見される大規模な古墳群は黙殺され、名称さえ付加されていない。「坂東夷」などと祖先が呼ばれてしまっているわたしは、江戸東京地方はおろか、広大な関東平野に拡がる古墳時代全期を通じての膨大な大小古墳群は、おそらく近畿地方を量的にも規模でも同等か、あるいはそれを凌駕していると想定しているので、ぜひ上田三平が調査した同古墳群にも名前を付けたいのだが(名称を付加して規定しないとカウントされない)、代々地付きである大熊喜邦の洞察力と、上田三平の優れた研究成果や業績をそのまま踏まえ、「御茶ノ水地下式横穴古墳群」ではいかがだろうか?
古墳08.jpg 古墳09.jpg
古墳10.jpg 古墳11.jpg
古墳12.jpg 上田三平報告書1943.jpg
 余談だけれど、昨年まで群馬県(上毛野勢力圏)において発見された古墳数がついに1万基を超えたらしく、このまま進めば古墳数4位の福岡県や5位の京都府を抜き去る勢いだ。おそらく、空中考古学によるレーザー照射技術や地下探査技術などの発達にともない、今後は2位の千葉県(南武蔵勢力圏)や3位の鳥取県(出雲圏)に迫る日も近いのではないかと思われる。でも、ほとんどが早くから寺社や住宅街の下になってしまった江戸東京地方(南武蔵勢力圏)では、新たに発見される機会はこれまで以上に少なくなる一方だろうか?

◆写真上:御茶ノ水地下式横穴古墳群が発見された、現在の東京医科歯科大学の全景で、右手が湯島聖堂(昌平坂学問所)で手前が聖橋と御茶ノ水駅。江戸最初期には、手前から東京医科歯科大学あたりまでが、海浜埋め立てで崩された神田山の北斜面にあたる。
◆写真中上は、当時の東京高等歯科医学校の敷地図面で、斜線の校舎建設予定地から古墳群の一部40基が発見された。は、発掘現場を視察する調査団で立っている人物の左からふたりめが大熊喜邦。は、古墳1基の平断面図()と全体の平面図()。
◆写真中下:発掘中の羨道や玄室で、人物の大きさからそのサイズが想定できる。
◆写真下:同じく、発掘調査中の御茶ノ水地下式横穴古墳群の様子。は、人骨が発見された玄室。下右は、1943年(昭和18)に日本史蹟研究会から発行された上田三平の報告書『東京御茶水に於て発見せる地下式横穴の研究』の表紙。


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コメント 50

dendenmushi

@おもしろいですねえ。甘酒家の洞窟は知っていたけど、これは知らなんだ!
この医科大のなかを、毎日通り抜けていた時期もあったのにね。
いや、本当に、関東の古墳は大変なものだと思いますね。
by dendenmushi (2014-10-11 04:59) 

オジロ

発掘地のこの場所は、1903年に移転するまで東京高等師範学校(現筑波大)が使用していました。東京高等師範学校の前身である師範学校(1872年創立)は昌平坂学問所(1790年創立)の校舎や寮をそのまま使用したといわれています。現在の東京医科歯科大学湯島キャンパスの敷地はほぼすべてかつての昌平坂学問所の敷地です。『実は、江戸期にも湯島聖堂(のち昌平坂学問所)を建設する際、地下から多くの洞穴が出現している』というのは、同じものを指しているのかもしれません。
なお、東京医科歯科大学の国府台キャンパス内には全長65mの前方後円墳(法皇塚古墳)があります。こちらは戦時中に一部軍用地として破壊されましたが、ほぼ原形のまま保存されています。

by オジロ (2014-10-11 13:06) 

ChinchikoPapa

なんだか、70年代後半のフュージョンアルバムを想起させる、サンダースの作品です。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2014-10-11 13:32) 

ChinchikoPapa

うちはそれほど裕福な商家だったとは思えないのですが、親父の若いころからの荷物箱のひとつに、江戸期の煎茶を入れた古い茶箱がありました。江戸期からふつうの町人も番茶だけでなく、葉茶か茎茶かは別にして煎茶も飲んでいたと思いますよ。nice!をありがとうございました。>simousayama-unamiさん
by ChinchikoPapa (2014-10-11 13:43) 

ChinchikoPapa

宮崎吾朗の作品は、『コクリコ坂から』しか観てませんがふつうに面白かったですね。nice!をありがとうございました。>kaminews100さん
by ChinchikoPapa (2014-10-11 13:58) 

ChinchikoPapa

dendenmushiさん、コメントをありがとうございます。
わたしも、最初に話を聞いたときは「麹室?」と反応してしまいました。でも、当時の報告書や関連資料を参照するうちに、とんでもない規模の古墳群があったのだと納得できました。いまでも、同じ地下式横穴古墳群の発見は、全国各地でつづいているようですね。
by ChinchikoPapa (2014-10-11 14:02) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>やってみようさん
by ChinchikoPapa (2014-10-11 14:02) 

ChinchikoPapa

ほんとうに、マチュピチュに見えてきますね。w
nice!をありがとうございました。>yamさん
by ChinchikoPapa (2014-10-11 14:04) 

ChinchikoPapa

投函の必要がないVODがいいと思うのですが、やはり映画作品は大画面のモニターで観たいですね。nice!をありがとうございました。>いっぷくさん
by ChinchikoPapa (2014-10-11 14:08) 

ChinchikoPapa

近くの家がリフォームするため解体されましたので、わたしも崖地の関東ローム層の地層類を写真に収め、旧・新石器や土器片を探しをしていました。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2014-10-11 14:13) 

ChinchikoPapa

古いレンガのトンネルは、天城峠(旧道)もそうですがちょっと怖いですね。nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2014-10-11 14:15) 

ChinchikoPapa

オジロさん、コメントをありがとうございます。
東京高等師範学校が1903年(明治36)に移転した先、小石川の大塚窪町もまた古墳密集地帯の上なのが面白いですね。こちらは、大規模な前方後円墳や円墳が展開し、その一部は古くから寺社の境内にされているエリアですが。
国府台キャンパスの前方後円墳は知りませんでした。サイトを見ますと、ここにも「丸山古墳」がありますね。東京高等師範学校の移転先である大塚窪町キャンパスの向かいの丘にも、「丸山」の字があります。もっとも、こちらは大規模なマンション開発で痕跡がまったく消されてしまいましたが。
by ChinchikoPapa (2014-10-11 14:23) 

オジロ

現在の湯島聖堂大成殿は1935年再建のものですが、1690年の創建以来、少なくとも5回は再建もしくは改築がされています。最初の建物がどこにあったかははっきりしませんが、江戸名所絵図などを見ると、高いところにあり、現在の東京医科歯科大学の敷地内か、現在の湯島聖堂との間の道路上にあったのではないかと類推されます。
高等師範学校時代には煉瓦造りの校舎建築時に三宅米吉教授がたくさんの垂直孔があることに気づいていたり、女子高等師範学校時代には校庭の陥没を校庭掃除の掃き寄せで埋めたりしていたようですが、深くは探求されなかったようです。
by オジロ (2014-10-11 15:08) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>desidesiさん
by ChinchikoPapa (2014-10-11 15:23) 

ChinchikoPapa

きょうは朝から、歯の健診と買い物に出かけたのですが、少し急ぎ足で歩くと汗ばむぐらいで気持ちがいいですね。歯科の女医さんとは、タバコとバーボンで話がはずんでしまいました。記事の島峰先生ではないですが、歯にはよくないでしょうに…。w nice!をありがとうございました。>okin-02さん
by ChinchikoPapa (2014-10-11 15:26) 

ChinchikoPapa

PCの画面が真っ暗になり、わけのわからない文字や記号が表示されたら、とりあえずDOSコマンドを打ちこんでみたりするのは、時代遅れでしょうか?w nice!をありがとうございました。>Ujiki.oOさん
by ChinchikoPapa (2014-10-11 15:28) 

ChinchikoPapa

文字どおり一石を投じていると思うのですが、すぐに「じゃま~~っ!」といわれて撤去されそうですね。nice!をありがとうございました。>沈丁花さん
by ChinchikoPapa (2014-10-11 15:30) 

ChinchikoPapa

オジロさん、重ねてコメントをありがとうございます。
尾張徳川家の林家別荘だった上野の「先聖殿」から、幕府としての「聖堂」に衣更えして「大成殿」に建立しなおされたとき、おそらく建物自体の意匠も大きく変わったでしょうね。
高等師範時代、あるいは女子師範時代の“陥没”エピソードは、上田三平の報告書にも詳しいですね。また、この“陥没”現象は、東京歯科医学校のキャンパスのみならず、当時は各地で報告されていたことがわかります。
by ChinchikoPapa (2014-10-11 15:46) 

ChinchikoPapa

縁側に面した板張り廊下は涼しそうですが、冬は足下が冷えそうですね。小僧や女中たちが、白い息を吐きながら雑巾がけしたものでしょうか。nice!をありがとうございました。>opas10さん
by ChinchikoPapa (2014-10-11 15:51) 

ChinchikoPapa

アバコブライダルホールで挙式をされたんですね。学生時代に、このホールは何度か利用したことがあります。nice!をありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2014-10-11 19:20) 

ChinchikoPapa

かなり足どりが遅い台風ですね。いま、ちょうど上のオスガキが沖縄へ旅行中ですが、外は大暴風雨だそうです。nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-10-11 19:23) 

ChinchikoPapa

どちらかといえば、現実主義者(リアリスト)の多い女性ですので、実際には空想と妄想で勘ちがいして元恋人に逢おうとするのは、男のほうが多そうな気がします。nice!をありがとうございました。>makimakiさん
by ChinchikoPapa (2014-10-11 19:29) 

ChinchikoPapa

紅茶をワインの代わりにして、ボディチェックを学ぶのはソムリエの基本訓練のひとつですね。でも、紅茶と紅茶を比べて、いろいろ風味の比較するのはワインより難しそうです。nice!をありがとうございました。>沈丁花さん
by ChinchikoPapa (2014-10-11 20:00) 

ChinchikoPapa

わたしは、なにもない海辺の砂浜が好きでしたね。凧揚げには、最適なスペースでした。nice!をありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
by ChinchikoPapa (2014-10-11 22:27) 

ChinchikoPapa

いまの季節、深川あたりの料理屋であたたかい鍋をつつきながら、のんびりしたいですね。nice!をありがとうございました。>sonicさん
by ChinchikoPapa (2014-10-11 22:33) 

オジロ

東京医科歯科大学の構内(道路沿い)に『お茶の水貝塚の碑』がひっそりと建っています。地下鉄丸ノ内線は医科歯科大構内をかすめて通っていますが、その工事中の1952年に貝塚が発見され、医科歯科大解剖学教室と市ヶ谷高校による合同発掘調査が行われました。その後、翌年の歯学部付属病院建築の基礎工事の際に再度調査が行われました。その結果、ハマグリなどの貝類(15種)のほか、獣骨(ニッポンジカ、イノシシなど)の破片や人骨、石斧、槌石、縄文式土器(1500片)が出土しました。この貝塚は、著しく攪乱され一次堆積は見られなかったとのことです。位置は古墳群の南側ですが、古墳群と重なっているかもしれません。1964年1月20日に当時の岡田正弘学長などが参列して碑の除幕式が行われました。その後、新病院が建つなどして現在は近寄れなくなってしまいましたが、道路から柵越しに見ることができます。
気のせいかもしれませんが、医学部(西側)よりも歯学部(東側)の地下のほうがひんやりとした冷気(霊気?)を感じました。(30年程前のことですが・・・)
by オジロ (2014-10-11 23:20) 

ChinchikoPapa

オジロさん、コメントをありがとうございます。
その貝や遺物まじりの、丸ノ内線工事の掘削で出た大量の土砂は、実は下落合と深いつながりがありまして、中村彝アトリエ前(南側)の林泉園から、御留山の東側にある弁天池手前までつづいた、深い渓谷を埋め立てるのに使われました。その上に、住宅やマンションが建てられていますが、そこから出土するなんらかの遺物や埋蔵物は、下落合由来ではない……というのが、かなり前から地元での“お約束”になっていますね。w
ちょうど一昨年から、弁天池の上に建てられていた財務省官舎が全棟解体され、「おとめ山公園」を拡張するために、くしくも丸ノ内線の土砂を今度はすべて取り除く作業(元の下落合地形に近い形状へもどす作業)が行われました。つまり、元の渓谷に近い位置まで掘り下げられたわけですが、あれだけ大規模な土地の掘り起しにもかかわらず、埋蔵文化財をめぐる動きがまったく出なかったのは、行政も住民のみなさんも、よそから運んできた丸ノ内線の土砂からなにか見つかっても、地域の研究上ではほとんどまったく意味がない……というのを、よくご存じだからなんですよね。
by ChinchikoPapa (2014-10-11 23:51) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>げいなうさん
by ChinchikoPapa (2014-10-12 00:57) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>rizmさん
by ChinchikoPapa (2014-10-12 11:36) 

ChinchikoPapa

先年、千代田城の本丸側から富士見櫓の下までいったのですが、この櫓だけで彦根城ぐらいの大きさがありますね。nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2014-10-12 18:06) 

ChinchikoPapa

ほんとうに、いまこの瞬間を大切にしなければならないのですが、きょうは少し頭痛がしていたため、1日寝て暮らしてしまいました。nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-10-12 18:12) 

ChinchikoPapa

いつも、ご訪問とnice!をありがとうございます。>ネオ・アッキーさん
by ChinchikoPapa (2014-10-12 18:14) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>hujinomagumaさん
by ChinchikoPapa (2014-10-12 19:56) 

ChinchikoPapa

北の山々は、すっかり晩秋の趣きですね。身を清められるような冷気を、写真から感じました。nice!をありがとうございました。>ponpocoponさん
by ChinchikoPapa (2014-10-12 20:01) 

Marigreen

早稲田時代のことを思い出して、まずPapaさんのことを書いていたら、20枚を超えてしまった。これはPapaさんに送って『大学時代の私の側面』とでも題打って記事にしてもらった方がいいような気がする。
by Marigreen (2014-10-13 15:34) 

ChinchikoPapa

いまはブラウザの表示検証が、まとめてツールでできるようになりましたが、昔はいちいち異なるブラウザをインストールして検証してたのでたいへんでしたね。nice!をありがとうございました。>Ujiki.oOさん
by ChinchikoPapa (2014-10-13 19:07) 

ChinchikoPapa

今年の夏は、生ビールを一度しか飲む機会がありませんでした。
nice!をありがとうございました。>うたぞーさん
by ChinchikoPapa (2014-10-13 19:10) 

ChinchikoPapa

暴風雨にならないうち、先ほど早めに外出からもどりました。でも、雨でジーンズがびしょびしょですね。nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-10-13 19:14) 

ChinchikoPapa

Marigreenさん、コメントをありがとうございます。
わたしについて書くことが20枚もあったんですか!?? うーーん、そんなにエピソードを残してたかなぁ。お送りいただいた子ども時代を描いた本は、いま連れ合いが読ませていただいてますが、『大学時代の私の側面』は、ちょっとわたしだけコッソリ読んだほうがよさそうですかねえ。^^;
by ChinchikoPapa (2014-10-13 19:30) 

アヨアン・イゴカー

>御茶ノ水から湯島一帯にかけて、膨大な古墳群
大変興味深い記事で、面白く拝読しました。
国府台にも古墳があるのですね。機会があれば見てみたいと思います。
空中考古学という比較的新しい学問は、画期的な研究成果が期待できそうですね。
by アヨアン・イゴカー (2014-10-13 21:32) 

ChinchikoPapa

葉山マリーナーの手前、CHAYAのほうの日影茶屋あたりの浜ですね。
nice!をありがとうございました。>e-g-gさん
by ChinchikoPapa (2014-10-13 22:55) 

ChinchikoPapa

渡辺与平画のような女性のいる、床屋の看板が味わいありますね。
nice!をありがとうございました。>八犬伝さん
by ChinchikoPapa (2014-10-13 22:59) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、コメントとnice!をありがとうございます。
空中から地表へレーザー照射して、土地の微妙な起伏の痕跡を探ると、開墾や開発ですべて壊されてしまった墳丘でも、きれいに前方後円墳や帆立貝式古墳のかたちが現れるようですね。上が森林であっても、探査には支障ないようです。
でも、さすがに住宅があると危なくて照射できませんので、やはり田畑や野山が多く残る地域のみ有効な手法です。都市部では、もっと別の手法が開発されないかと、ひそかに期待しているのですが……。
by ChinchikoPapa (2014-10-13 23:09) 

niki

大変興味深いです!
うちの周り(ド田舎ですが)には名もなき古墳が畑の中に点在しますが、
このような大規模な古墳は、まだ関東のあちこちにたくさん
眠っているのかもしれませんね。

ロンドンやローマのような古代からの大都市に何層も古墳群が
見つかるということはよく聞きますが、江戸も江戸になる前(?)は
やはり人が暮らしやすい土地だったのでしょうか。
by niki (2014-10-15 09:21) 

オジロ

現在の文京区一帯は江戸になる前、というか古墳時代ころまでは人が住みやすいところだったようです。東京湾の入り江が入り込み、谷が多くて湧水も多く、狩猟が盛んに行われていたようです。本郷、千駄木、白山、本駒込、白山、大塚などからは旧石器時代の遺物が発掘されています。縄文時代の遺跡は湯島を含めてさらに広範囲です。このうち千駄木遺跡からは、縄文人のほぼ完全な人骨が出土しています。駒込病院工事中に発見された動坂遺跡は江戸時代の遺構(8代将軍徳川吉宗が復活した鷹匠の屋敷)の下から縄文遺跡が発掘されています。弥生時代はその名称となった弥生二丁目遺跡(向ヶ丘貝塚)が代表的です。実際の発掘場所は同定されていなく、東京大学農学部と工学部の間の道路わきにひっそりと「弥生式土器ゆかりの地」の碑が建っていますが、何かさびしい感じです。東京大学構内にはいまだ発掘されていない遺跡がたくさんあるものと思われます。
学生時代にこのあたりの遺跡めぐりや調査のお手伝いを少ししていたのですが、そのころのことをとても懐かしく思い出しています。
by オジロ (2014-10-15 11:40) 

ChinchikoPapa

nikiさん、コメントとnice!をありがとうございます。
おっしゃるとおり、気づかれずに眠っている古墳は、膨大な数にのぼるのではないかと想像しています。地域によって、その探査に熱心なところと、そうでもないところの差もあるようですが、東京はほとんどが住宅街や寺社境内の下になってしまい、ちょっと掘ってみる、あるいは上空からレーザーを当ててみよう……というわけにはいかないのが現状ですね。
これまで、神田川流域に展開した古墳の痕跡を紹介してきていますが、おそらく神田川に限らず、大小河川沿いの丘陵地帯には多くの集落と古墳群が、形成されていたのではないかと思っています。
おそらく、日本でもっとも古い社のひとつを擁する(神田明神よりも古そうですね)、nikiさんの地元にも、膨大な古墳が眠っていると思うのですが、皇国史観の呪縛から解放され、関東各地の古墳研究が本格的にスタートしてから、まだわずか70年弱(1945年~)しかたっていませんので、古代史のコペルニクス的な転回点となった出雲の荒神谷のように、これからまだまだ東日本でも大規模な発見がつづくのではないかと期待しています。
by ChinchikoPapa (2014-10-15 13:07) 

ChinchikoPapa

オジロさん、重ねてコメントをありがとうございます。
おそらく、気候が熱帯性から温帯性に変化してくる縄文時代から弥生時代以降、関東平野は現在と同様に住みやすい土地柄だったと思うのですが、穴倉生活の「蛮族」が跋扈する、「未開」の鄙びた「原野」イメージが意図的に形成され流布されるのは、いつごろからなのかに興味が湧きます。
おそらく、ナラ期末か藤原期(平安時代)あたりからではないかと想像しているのですが、明治以降も、たとえば江戸東京などの南関東は「武蔵野」の茫漠たる「原野」のイメージが強く印象づけられるような表現が多々見られますね。人口や生産力(経済基盤)で比較すると、まったくちがう様相が見えてきそうです。
近畿圏を凌駕する規模で、まつろわぬ「出雲」や野蛮な「坂東」から、多くの遺跡や大小古墳群が発見されるとマズイと考えてフタをした背景には、もちろん大規模な遺跡を形成するにはそれなりの経済力とマンパワーが必要なわけで、その“気づき”を怖れた近畿勢力による、徹底した「原野」化と「蛮族」化のイメージ規定・流布が、1945年までつづいていた……ということでしょうか。
ただし、明治以降の発掘調査で、関東の古墳をテーマにする考古学者や歴史学者たちは、大っぴらにそれを言明・発表することはできなかったにしても、それなりに気づいていた人々も少なからず存在しているように見えますね。
by ChinchikoPapa (2014-10-15 13:33) 

ChinchikoPapa

少し前の記事にまで、nice!をありがとうございました。>ちびっこライダーさん
by ChinchikoPapa (2014-10-22 23:06) 

desidesi

なにかこう、
シェルターのように
見えますが...!(◎_◎;)
面白いですね〜〜!
by desidesi (2014-11-20 01:05) 

ChinchikoPapa

desidesiさん、コメントをありがとうございます。
地下の貯蔵施設のようにも見えますね。戦後に見つかっていたら、なにかの軍施設か弾薬庫、あるいは珍しいタイプの防空壕が、まっ先に疑われていたかもしれません。
by ChinchikoPapa (2014-11-20 09:19) 

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