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第六天(大六天)には秘密がいっぱい。(下) [気になる下落合]

六天坂第六天2.JPG
 下落合の第六天(大六天)には、月三講社Click!富士講Click!とまったく同様に講中が存在している。おもに江戸期に発達した講だと思われるのだが、天災や病魔などの厄除け講として浸透していったのではないかと思われる。その前提には、自然神としてのカシコネやオモダルがことさら強く意識されていたのではなく、「第六天魔王波旬」すなわち仏教における「天魔」への恐怖が念頭にあったケースが多いのだろう。日本全国に第六天信仰が拡がったのは、自然神カシコネとオモダルを怖れ敬うというよりも、「天魔」を奉り鎮め、社へ封じこめるという意図のほうが強かったように思われる。
 事実、江戸期に勧請された第六天社は、病魔・疫病をもたらすといわれた湧水源や、飲料水・生活水として用いられた小流れの淵に設置されるケースが多い。また、さまざまな天変地異に起因する、災害への鎮めとして勧請されたケースもあるのだろう。明治政府が、ことさら第六天社の抹殺にこだわったのは、イザナミとイザナギ以前の神々を国民の記憶から消し去りたい、あるいは薄れさせたいという企図やねらいもあったのだろうが、神仏分離や廃仏毀釈の際に仏教と深く結びついた「天魔波旬」の面影を、すなわち仏教的な信仰心を国民から消去したかったと考えられる。
 さて、下落合あるいは長崎に残る第六天(大六天)は、いつごろこの地域へ勧請されたものだろうか? 関東地方では、もっとも有名な勧請元の第六天として、埼玉県の武蔵第六天社(さいたま市岩槻)がある。関東地方に展開する第六天社は、その多くが武蔵第六天神社(だいろくてんじんしゃ)から分社が行なわれ、各地へ社殿や祠が建立されている。疫病や天災がつづき、既存の地主神である鎮守や氏神が無力・無効だとすれば、そのつど第六天が勧請され、あるいはより大規模な社殿へとリニューアルされ、奉りなおされて信仰されたと思われる。また、疫病や天災などの種類によっては、ひょっとすると勧請元の第六天社が(その神威による効果ごとに)個々異なっていたのかもしれない。
 明治期には多くの神々が入れ替えられたが、消されてしまった元神についてまで率直に触れている、1962年(昭和37)に神社本庁調査部から出版された『神社名鑑』Click!(東邦図書出版)から、さいたま市の武蔵大六天神社の解説を引用してみよう。
  
 祭神 面足命 惶根命 経津主命 例祭 七月一五日 本殿 寄棟造 一坪六 境内 二二〇坪余 (中略)氏子 六〇戸 崇敬者 七万人 由緒沿革 天明二年の創立と云う。武蔵国第六天の一つで、その昔より江戸界隈の人達や武蔵国の諸所から崇敬者が加わり毎年三月より五月の間に奉拝者で賑わう。明治初年村社に列す。
  
 1782年(天明2)の、きわめて新しい創建だが、これは毎年つづいていた農作物の不作、すなわち飢饉と無縁ではないように思われる。翌1783年(天明3)には、浅間山の大噴火にともない田畑の農作物が壊滅し、ついに大飢饉の状況を迎えることになる。また、明治初年の早々に、第六天社を村社へ格上げしているのも、明治政府に対する当てつけのように思える。おそらく、明治政府の宗教政策を先読みしていた地域の人々が、先手を打って社格を村内の最高位へ上げてしまったものだろう。近畿地方の三丹地方と同じく、似たような例は明治初期の関東各地で見られる現象だ。
六天坂第六天3.JPG
六天坂第六天4.JPG
 下落合に残る第六天(大六天)の各社は、やはり天明年間の浅間山噴火による飢饉、あるいは同時代に流行した伝染病を鎮めるために勧請されたものだろうか? わたしには、実は文献的な根拠はまったくないのだが、もう少し古い時代に勧請された社のように思えてならない。なぜなら、落合地域は幕府直轄のいわゆる“天領”Click!であり、また代々の徳川将軍家による鷹狩り場Click!である「御留山」Click!や、「御留川」Click!として重要な神田上水Click!を抱える地域であるため、環境の異変や災害に対して名主や村民たちはかなり敏感に反応したと思われるからだ。いわば、将軍家や幕府から委任されている重要な地域であり、だからこそ神田明神Click!を勧請して奉るという、大江戸でもめずらしい総鎮守の分社化が行われる、稀有な土地柄であったとも考えられる。
 いまから300年以上も前、第六天社がもっとも“活躍”したと思われる時代に、元禄から宝永にかけてのカタストロフがある。1703年(元禄16)の11月23日、南関東一帯を元禄大地震が襲った。推定マグニチュードは8.2で、おもに関東沿岸の津波による死者は5,000人にものぼった。つづいて、4年後の1707年(宝永4)10月4日には、推定マグニチュード8.4の宝永大地震が発生し、関東地方を中心に2万人の死者が出ている。そして、とどめは同年11月23日に富士山が火を噴いた、宝永大噴火を迎えることになる。つまり、江戸期の元禄から宝永にかけては、天変地異つづきの時代だった。
 下落合あるいは長崎の第六天(大六天)は、はたして天明年間よりもはるかに早い、元禄から宝永年間に勧請されたものではないだろうか? なぜ、江戸時代のこの時期にこだわるのかといえば、富士山麓の御留山Click!である「御殿場」に展開する第六天の配置(気配)と、下落合・長崎地域における第六天の配置(気配)が、実によく似ているからだ。もちろん、御殿場に建立されている第六天は、富士山の宝永大噴火よりも古い時代からのものも存在するのだが、その古社自体も噴火という巨大な自然災害=天魔大王への結界として設けられたものではなかったか。
 文献が存在しないので、あくまでもわたしの“気配”にもとづく記述のみで恐縮なのだが、落合地域から常に西南西に見えている富士山の山麓が爆発して火を噴いたら、当時は驚天動地の事態だったにちがいない。ちなみに、富士の宝永噴火で江戸に降り積もった火山灰は、場所によってバラつきがあるようだが、数センチとも10cm近くともいわれており、田畑への被害も決して少なくはなかっただろう。
諏訪谷大六天1925.jpg 長崎大六天1854.jpg
 以前にも少し書いたけれど、わたしはキャンプや化石採集をするために、子どものころ箱根・金時山の北側に拡がる山北町へはよく遊びに出かけた。その際、静岡側まで足をのばして、御殿場にも何度か立ち寄っている。山北町にも、もちろん第六天社は存在するのだが、富士山麓に拡がる御殿場地域は、古くは鎌倉幕府の将軍の狩り場であり、江戸時代には徳川家康がおそらく巻狩りを想定して、地元の芹澤氏に御殿の建設を命じたのだろう、いわゆる御留山(場)としての“御殿場”だった。そこには、徳川御殿や御殿場の本村を災害から守るように、第六天が底辺の長い西を向いた二等辺三角形のかたちで展開している。下落合・長崎に配置された第六天(大六天)もまた、同じように底辺の長い二等辺三角形のかたちをして、西を向いているのだ。
 御殿場のいちばん北側、富士山麓の須走下にある芝怒田(しばんた)の第六天は、江戸期以前から建立されているようでかなり歴史も古そうだが、いずれも富士山噴火の鎮めとして設置されたように見える。ただし、御殿場の巨大な第六天三角形は正確に富士山へは向いておらず、西を向いているもののやや南寄りへ口を開けた結界として、機能しているように見える。下落合・長崎地域にある相似形の第六天三角形もまた、西の方角を向いてはいるものの、特に富士山の方角を指してはいない。真西に対して、やや北寄りの方角へ口を開けたほぼ二等辺三角形を形成している。いずれにしても、なぜ“西”の方角へ向けて次々と結界を張る必要があったのか、いまひとつ明確に説明することができない。ひとつ落合地域で気づくことといえば、その方角の中心には葛ヶ谷(現・西落合)の妙見山Click!が設定されている……ということだろうか。
 もし、下落合や長崎の第六天(大六天)が、江戸期以前のより古い時代に勧請され奉られていたとするならば、江戸時代の天変地異や疫病の流行、すなわち仏教によって広められた「第六天魔王波旬」のふるまいを鎮め、封じこめるために建立されたものではなく、もっとなにか別の理由から、ことさら古代神話で語られてきた天神7柱のうち、第六天神であるカシコネとオモダルの夫婦神が選ばれて奉られた理由を探さなければならない。
諏訪谷大六天6.JPG
御殿場三角形.jpg 下落合1921.jpg
 もうひとつ、下落合の大六天講の講中(メンバー)と、落合・長崎地域の富士講である月三講社Click!の講中とは、少なからず重複していたのではないだろうか。彼らは富士講による富士登山のあと、山麓にある御殿場の第六天社のいずれかへ、あえて参詣しているのではないか。換言すると、もし落合・長崎地域の第六天(大六天)社が、天明期以降の新しい時代に建立されているとすれば、御殿場に展開する第六天社の配置を、すでに彼らは知悉しており、落合・長崎地域へ災いが御留山(場)まで及ばぬよう、その結界配置(気配)を写して(移して)いるのではないだろうか?……、そんな気もどこかでしている。

◆写真上:旧・下落合3丁目の、六天坂下に現存する第六天社の祠。
◆写真中上は、個人邸の一画に奉られる六天坂の第六天社だが、本来はもう少し坂上の位置に境内があったようだ。は、同社の拝殿=本殿で鳥居は省略されている。シャッターを切ったら、なぜか殿前の部分に青白い光が写ってしまった。
◆写真中下は、1925年(大正14)に作成された「出前地図」Click!にみる諏訪谷の大六天社。は、1854年(嘉永7)作成の「御府内場末往還其外遠隔図書」に描かれた長崎の第六天社。(同図書をベースとしたエーピーピーカンパニー「江戸東京重ね地図」より)
◆写真下は、手水舎上にひるがえる大六天講の手ぬぐい。下左は、富士山麓の御殿場に展開する第六天社。下右は、落合・長崎地域に展開する第六天(大六天)社。


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コメント 48

YOKO

主婦ですから(言い訳w)政治と宗教にはうといのですが、こういう土着の神様を祀る習慣はとても興味深いですね~。徳川家康はものすごく風水や方角にこだわったそうですが、やっぱりどこの国でも地方都市でも、戦場や処刑台やあった後には集合住宅は建てませんね。私自身は霊感とかありませんが、うちが工務店なので、まあ、やっぱりいろいろ見聞きするものです。友達は夜のビルで警備員をするようになってから、幽霊の存在を信じるようになった、なんて言いだすし。氷川神社はたしか226事件の青年将校たちが、ことを起こす直前に祈願にいっていますよね?
by YOKO (2014-10-08 08:58) 

ChinchikoPapa

YOKOさん、コメントをありがとうございます。
それが東京では土地が貴重なこともあり、古戦場には美しい住宅街が拡がり、落城した中世の城跡には楽しげな遊園地ができ、処刑場跡や江戸期の焼き場跡にはマンションが林立しています。w
それに、膨大な死者が出た江戸期の大火事や関東大震災、大空襲を通じて、東京の市街地は街全体が「事故物件」かつ丸ごと「心霊スポット」ですので、いちいち幽霊や心霊現象を気にしていては、ここでは生活できそうもありません。^^;
のちに、義父も徴兵された第1師団の麻布1連隊が立ち寄ったのは、相馬家中屋敷跡のまん前にある赤坂氷川明神ですね。
by ChinchikoPapa (2014-10-08 13:40) 

ChinchikoPapa

先日、めずらしく相撲を見る機会があったのですが、最近は「モンゴル相撲」大会になってるんですね。nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2014-10-08 13:43) 

ChinchikoPapa

『Alone Again』も、何度めかの登場ですね。静かなリフレインが印象に残る作品です。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2014-10-08 13:47) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>やってみよう♪さん
by ChinchikoPapa (2014-10-08 13:48) 

ChinchikoPapa

もうひとつ、「防災」の名を借りた大規模工事=不要インフラへの過剰投資が気になります。ほかに税金を投入しなければならない施策が、ゴマンとあるはずなのですが……。nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
by ChinchikoPapa (2014-10-08 13:53) 

ChinchikoPapa

ドリフターズのギャグは面白かったですが、コント55号はあまり面白く感じませんでした。nice!をありがとうございました。>いっぷくさん
by ChinchikoPapa (2014-10-08 13:54) 

ChinchikoPapa

先年、この清水も近い町屋に泊まったのですが、近くのベーカリーから焼きたてのパンを飲み物とともに配達してくれるサービスが嬉しかったですね。町屋の座敷で、猫の額ほどの中庭を眺めながらクロワッサンというのも、不思議な体験でした。nice!をありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2014-10-08 13:59) 

ChinchikoPapa

阪急が入っていた東芝ビルには、仕事でちょくちょく出かけていました。1階書店の江戸東京をテーマにした地域コーナーは、少し古めな本や地図類が充実していて好きだったのですが、残念ですね。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2014-10-08 14:04) 

ChinchikoPapa

一昨日は、朝のうちは大荒れでしたが、途中でサラリと晴れたので助かりました。nice!をありがとうございました。>redroseさん
by ChinchikoPapa (2014-10-08 14:06) 

ChinchikoPapa

近々、身代り(替え玉)がテーマの記事を、アップしたいと考えています。nice!をありがとうございました。>nikiさん
by ChinchikoPapa (2014-10-08 14:09) 

ChinchikoPapa

ゴミ回収車をいまかいまかと待っている人たちが、めずらしいですね。ゴミを街角へ置きっぱなしではなく、回収車に積まれるのを最後まで見とどける……というようなシステムなのでしょうか。nice!をありがとうございました。>SILENTさん
by ChinchikoPapa (2014-10-08 14:15) 

ChinchikoPapa

BYODの流行りから、iPADを仕事に使ってる人は増えてるんでしょうか。AndroidやWinのデバイスなら、よく見かけるのですが。nice!をありがとうございました。>Ujiki.oOさん
by ChinchikoPapa (2014-10-08 14:21) 

ChinchikoPapa

交通費支給の出張で出かけても、きれいな景色に旅愁も情感もなぜか湧きにくいですね。nice!をありがとうございました。>sonicさん
by ChinchikoPapa (2014-10-08 18:50) 

ChinchikoPapa

今年は、娘が玄関先にナスとピーマンを植えましたが、野菜が育つ様子を見るのは楽しいですね。nice!をありがとうございました。>sarusanさん
by ChinchikoPapa (2014-10-08 18:54) 

ChinchikoPapa

アマガエルがかわいいですね。10年ぐらい前まで、うちの周囲でも雨が降るとガマガエルが、どこにこんなに隠れてたのかと思うほどたくさん出てきたのですが、最近は見かけないです。nice!をありがとうございました。>okin-02さん
by ChinchikoPapa (2014-10-08 18:57) 

ChinchikoPapa

このごろは朝起きると、まず着ていくものに迷います。
nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-10-08 18:58) 

ChinchikoPapa

気をつけて探すと、明治期に積まれた煉瓦の遺構はあちこちに残ってますね。先年から、神田川に架かる山手線鉄橋の東側土手が養生で囲われましたので、明治期の日本鉄道由来の煉瓦積みもこれまでか……と残念に思いましたが、どうやら煉瓦の橋脚部は手つかずのままで済むようです。nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2014-10-08 19:26) 

ChinchikoPapa

残念ですが、いずれの作品も観たことがないです。
nice!をありがとうございました。>月夜のうずのしゅげさん
by ChinchikoPapa (2014-10-08 20:15) 

Marigreen

古事記に書かれている神話以外にも、日本に神話があったのですか?今、家に一冊だけある『古事記』を探し回って、調べようとしてるのですが、「カシコネ」「オモダル」という神は覚えてないです。
by Marigreen (2014-10-09 11:00) 

ChinchikoPapa

Marigreenさん、コメントをありがとうございます。
ヤマトで編まれた『古事記』には、大六天神のカシコネとオモダル以降の「神話」しか採取されていません。第一天神からの詳しい上代の神話は、より詳細に伝承を採集したとみられる『日本書紀』のほうです。
また、日本神話は別にヤマトが記録した「記紀」だけではありません。北から南まで、さまざまな神話が存在しています。
by ChinchikoPapa (2014-10-09 11:08) 

ChinchikoPapa

季節によって伸び縮みする「江戸時間」は、昼夜の長さと連動してある意味で合理的ですね。nice!をありがとうございました。>simousayama-unamiさん
by ChinchikoPapa (2014-10-09 11:15) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>kaminews100さん
by ChinchikoPapa (2014-10-09 11:16) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!をありがとうございました。>goさん
by ChinchikoPapa (2014-10-09 11:17) 

ChinchikoPapa

東泊(menas-tomari)に対して西泊(sum-tomari)が少ないのは、東西の海岸線で波の荒さがちがうからでしょうかね。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2014-10-09 11:34) 

ChinchikoPapa

TGVは座席の座が深そうで、とても座り心地がよさそうです。
nice!をありがとうございました。>ネオ・アッキーさん
by ChinchikoPapa (2014-10-09 11:37) 

ChinchikoPapa

夏から夕食後のアイスクリームが常習化し、ちょっと次の健康診断が怖くなっています。nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-10-09 18:44) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>ハマコウさん
by ChinchikoPapa (2014-10-10 09:55) 

ChinchikoPapa

そういえば、二重橋をいったい何十年見てないのでしょう。親父と歩いた記憶はなく、おそらく遠足で見たぐらいでしょうか、nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2014-10-10 09:58) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>Ujiki.oOさん
by ChinchikoPapa (2014-10-10 09:59) 

ChinchikoPapa

コーヒーへの「こだわり」と美味さでは、1960年代末から80年代にかけて、日本の喫茶店がイタリアやオーストリアと並び、世界のベスト3に選ばれてましたね。nice!をありがとうございました。>TERUさん
by ChinchikoPapa (2014-10-10 10:06) 

ChinchikoPapa

家の中に、発泡スチロールのインスタレーションが置いてあったら、片づけたくなりそうです。w nice!をありがとうございました。>シルフさん
by ChinchikoPapa (2014-10-10 16:12) 

ChinchikoPapa

わが家では代々「鈴廣」かまぼこファンですので、「かまぼこ博物館」へはぜひ出かけてみたいです。nice!をありがとうございました。>makimakiさん
by ChinchikoPapa (2014-10-10 16:14) 

ChinchikoPapa

モミジのグラデーションが、ほんとうにきれいですね。
重ねて、nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-10-10 18:58) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>うたぞーさん
by ChinchikoPapa (2014-10-13 19:11) 

ChinchikoPapa

「依存症」の人たちが、パチンコ・パチスロにはずいぶんいそうですね。
nice!をありがとうございました。>hujinomagumaさん
by ChinchikoPapa (2014-10-13 19:23) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2014-10-13 23:10) 

ChinchikoPapa

一千年の窯の伝統というのは、気が遠くなる時間の長さですね。
nice!をありがとうございました。>ちびっこライダーさん
by ChinchikoPapa (2014-10-22 23:10) 

はな

”だいろくてんさま”と、呼んでいたそうです。
位置を地図で確認してみました。90歳になる叔母の話ではもっと坂の上の方にありました。当時はとても太い背の高い木がご神体でその木の上の方にしめ縄が巻かれて、半紙で作ったお飾りが付けてあったそうです。その付近はとても怖い所であって、人魂が出るとかお化けが出るとか云われてあまり近づかなかったとか、もっと中に入れば祠があったのかも知れないが、祠の事は知らないと云っていました。余談ですが、その傍に広く空いた所があって人殺しがあったそうです。今は昔、昔の話です。その昔は日本全国いたる所で人殺しがあったのですよね。私のプログはいろいろ本など調べていくうちに脇道に逸れてしまい足踏み状態で恥ずかしですが載せます。
by はな (2015-01-12 07:05) 

はな

先の話の”だいろくてんさま”は、旧下落合3丁目の方です。失礼しました。
by はな (2015-01-12 07:17) 

ChinchikoPapa

はなさん、貴重なコメントをありがとうございます。
六天坂下にある第六天社の本来の境内は、坂の中途へ2006年に建てられました、低層マンションの敷地あたり(今の位置から30mほど北側)ですね。現在の山手通りへと落ちこむ、西向き斜面の森の中です。
2006年にこのマンションが建てられる際には、神聖な第六天の境内へ「地下2階の3階建てマンション」と称しながら、実際は5階建てのマンションを建てる計画に、周辺住民の方々がビラやポスターなどを作って、ずいぶん反対をされてましたね。
古墳の墳丘などでもそうですが、神聖な場所がのちに荒らされないよう、さまざまな「怪談」や「恐怖譚」などのフォークロア形成され、後世へ伝承されるケースを東京のあちこちで耳にします。ただし、六天坂の殺人事件は初耳ですので、ちょっと調べてみたくなりました。

by ChinchikoPapa (2015-01-12 10:50) 

はな

「六天坂の殺人事件」は、叔母が17~18歳の頃の話と云っていました。
男の人が女の人を草藪に引き込んで、刺して殺したそうです。平穏だった村にそんな事件が起こったのですから押して知るべしです。そこは長い間空き地になっていたとか。話は違いますが、赤土山と云って坂上は当時は何もない空き地だったそうです。登って右の最初の路地を曲がると華子さまの実家がありました。今は知りません。祖父はお風呂で背中を流し合う仲だったそうです。東京大空襲の時はあの辺りの人はこの山に逃げたのです。我が家も家族全員ここに逃げたのですが、祖父は位牌しか持ち出せなかった云う程皆慌てた様です。叔母はB29が何機も空を飛び交い焼夷弾をバラバラと落とす様を見たそうです。
by はな (2015-01-13 17:47) 

ChinchikoPapa

はなさん、こちらにもコメントをありがとうございます。
第二文化村から六天坂上にかけて、山手通りが開通する前の丘のことが、「赤土山」と呼ばれていたことは、こちらでも6つほどの記事でご紹介してきました。「赤土山」の写真入りでご紹介しているのが、以下の記事です。
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-06-08-1

でも、文化村界隈での殺人事件は初耳でしたので、ちょっと驚きました。下落合では、泥棒の容疑者が警官を射殺した「ピス平」事件をはじめ強盗傷害事件など、大正時代からけっこう凶悪事件が起きていますが、六天坂上の殺人は知りませんでした。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/jsc/watashino/jiken.htm

さまざまな事件は、当時の社会や世相を知るうえでは貴重な出来事ですので、詳しい情報が見つかりましたら、上記のメニューに追加したいと思います。
お祖母様が17~18歳ごろといいますと、ちょうど日米戦争がはじまる直前の時期ですね。時間があるときに、新聞の縮刷版をたどってみたいと思います。
「赤土山」の山頂には、大正期に建てられたスパニッシュ風の大きな西洋館、中谷邸が建っていたはずで、バラ園が有名だったドイツ人のギル邸のあとには津軽邸があり、大正末には大きめな家々が建ち並びはじめていましたが、「赤土山」の西側は昭和に入ってからも、ずっと空き地状態がつづいています。ちなみに、津軽さんは現在もお住まいです。
六天坂や見晴坂沿いの家々の人々、つまり「赤土山」東側の方々は、1945年(昭和20)4月13日と5月25日の二度にわたる山手空襲の際、同丘の空き地へ避難したのでしょうね。「赤土山」西部の方々、つまり目白文化村とその周辺の方々は、さらに西のアビラ村にあった空き地や中井御霊社、バッケが原まで逃れています。
by ChinchikoPapa (2015-01-13 19:01) 

ChinchikoPapa

はなさん、六天坂の中腹に「宇田川さん」を見つけてしまいました。
下落合(3丁目)1792番地、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にも、また1938年(昭和13)作成の「火保図」にも、双方に氏名が採取されて掲載されています。
もし、お差支えなければ、こちらの記事末へ掲載いたしましょうか?^^
by ChinchikoPapa (2015-01-13 19:22) 

はな

ChinchikoPapaさん
私のプログ(つぶやき)にこの地域と関係あることを書きましたので、良かったら覗いて見て下さい^^
by はな (2015-01-15 17:04) 

ChinchikoPapa

はなさん、コメントをありがとうございます。
高田村(現在の豊島地域)に残る天皇家との「係累伝説」では、残念ながら醍醐天皇も後醍醐天皇も登場してきません。武蔵国主に関連する嵯峨天皇と、最初に豊島城を築いた葛西氏がらみの桓武天皇です。ただし、皇国史観が最盛期に執筆された郡史や町史ですので、どこまでが史的な裏づけのある証明された事実なのかは不明です。
高田村の名主・醍醐家が、皇族と繋がりがあったかどうかは、少なくとも地域資料からは不明です。ただし、明治以降は雑司ヶ谷村の名主・新倉家の勢いに押され、村誌にも町史にもあまり「醍醐」姓が登場してこないですね。


by ChinchikoPapa (2015-01-15 17:41) 

はな

ChinchikoPapaさん、いつも通りの詳しい情報ありがとうございます。
安徳天皇は、壇ノ浦で入水していなくて生き延びていたらしいし、「本能寺の変」にしても、信長の首をとったのは、実は黒人奴隷だった「ヤスケ」だったとか云う話が、明智光秀の御子孫辺りから出て来ているとか。公の歴史には書いてありません。歴史は権力者が造った歴史ですから、改ざんされ過ぎて何を信用していいのか分からないです。私の推察では、『醍醐家』は、その存在の意味が権力者にとって無くなったので、没落していったのではないかと考えます。当時の状況としては敗者ですし、隠す存在であったと思われます。擁護者であったであろう景村の存在も、うやむやにしてあり、本当の本当の事実は書き残せない。と云うのが事実ではないでしょうか。醍醐姓も始めから名乗ったかは不明ですし途中から姓を変えた同族もいた様ですし・・・・事実は藪の中^^
by はな (2015-01-16 11:30) 

ChinchikoPapa

はなさん、ごていねいにコメントをありがとうございます。
わたしも、明治政府の教部省(のち文部省)が編纂し、現在もあまり変わり映えのしない「日本史」は、権力者のご都合主義と思想統制がいきとどいた、非常に一面的かつ偏向したものだととらえていますので、このサイトでも繰り返し書いてきたようにまったく信用していません。
特に、1980年代以降に顕著化している、自然科学の分野からのアプローチと成果(おもにICTの発達にともなう解析・分析技術の進歩によります)、あるいは人文科学の考古学における発見や成果を、「なかったこと」にしている近畿地方を中心とした文献史学者たち(特に古代史分野)は、どこかの国の「将軍様史観」とたいして変わりはないと考えています。
だから、消されてしまった、あるいは片鱗しか残ってはいない事蹟にこそ、別の歴史が宿っているのではないかと考えるのは、はなさんとまったく同様ですね。
高田村の「醍醐さん」につきましては、ちょっと資料類を気をつけてみたいと思います。
by ChinchikoPapa (2015-01-16 13:03) 

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