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目白文化村の造成を見ていた目白中学生。 [気になる下落合]

第二府営住宅跡.JPG
 ちょうど1921年(大正10)に、品川から下落合の落合府営住宅Click!へと引っ越し、翌1922年(大正11)からスタートする目白文化村Click!の宅地造成を目撃していた人物の手記が残っている。自宅の窓から、目前で展開する文化村の造成を目撃しているので、彼が住んでいたのは落合第二府営住宅であり、しかも弁天池のあった前谷戸Click!も近い南側の敷地だ。
 手記が掲載されているのは、1924年(大正13)4月に発行された目白中学校Click!の「桂蔭会」会誌『桂蔭』第10号だ。同誌には当時、目白中学の4年生だった松原公平という生徒が、「郊外の発展」というエッセイを寄せている。第二府営住宅で松原邸を探すと、第一文化村のすぐ北側、北辺の二間道路に沿った前谷戸の永井外吉邸Click!にもほど近い、下落合1524番地(第二府営住宅24号)に発見できる。松原公平は、1932年(昭和7)出版の『落合町誌』によれば、日本青年館主事であり大日本青年団の主事も兼ねていた松原一彦の子息だと思われる。では、文化村が造成される以前、引っ越してきたばかりのころの下落合の様子を、『桂蔭』第10号の同エッセイから引用してみよう。
  
 我が一家が、狭苦しい品川を逃れて、空気清き郊外の落合に移転して来たのは、一昨年の春であつた。其の時、目白駅で降りて、現在の家に至るまでの通りを、始(ママ)めて通つた時の印象は、只田舎らしい町と云ふ一語に尽きて居た。/町並の多くは藁葺きの、もう何代住むだらうと思はれる、古びた家ばかりで、而も疎に点々と道の両側を飾つ(て)居る位で実に寂しいものだつた。がそれも束の間で、我が一家の住む府営住宅の建つて以来と云ふものは、この町は急速な発展振を示した。我も我もと改築新築が流行つて、ペンペン草繁り青苔生えた藁屋根はかび臭い臭ひを立たせながら取払はれて行つた。後に残る黒く燻つた棟も、槌の音高く取外され、残つた土台の上には新木の香の快い材木が、それも漸く出来たばかりの材木屋から、どんどん運び出され、切組まれて行つて、後には瓦新しく格子の目の細い二階家が立派に建てられた。この様にして警察署願済の札が懸けられ、板囲が何度となく作られたり取毀されたりして、二年経つた今日では押すに押されぬ新開地となつて、古臭い田舎染みた駄菓子屋、乾物屋、めし屋、八百屋、それらは皆百姓相手の店ばかりであつたのが、それの代りに靴屋、洋品店、書籍店、牛肉店等が幾軒も幾軒も出来て来た。西洋料理店、時計店、料理屋等が素晴しく幅を利かせ始めた。見上げる様な銀行も落成すれば、好景気にホクホクものゝ活動常設館も出来た(。)新しい看板屋は応じ切れぬ注文に転手古舞し、建具屋は造るそばから持つて行かれる忙しさに、身体の休む時もないやうだ。(カッコ内引用者註)
  
 なお、年度ごとに毎年1回発行される『桂蔭』なので、文中の「一昨年の春」という表現は文章が書かれた1923年(大正12)当時から起算したものであり、1921年(大正10)の春に転居してきたという意味だろう。また、好景気で客入りが多かった「活動常設館」とは松原邸のほど近く、目白通りの反対側にあった長崎バス通りClick!沿いにオープンしている洛西館Click!のことだと思われる。
 江戸期からつづく旧・椎名町Click!界隈(現在の目白通りと山手通りの交差点あたり)を中心に、大正初期から建ちはじめた落合府営住宅の建設を契機として、目白通り沿いの風情が激変していく様子が記録されている。だが、このような激変は商店街ばかりでなく、住宅街においてはさらに顕著だった。下落合の東部は、近衛町Click!が開発される以前から山手線の目白駅に近いため、家々や施設が相対的に数多く建っていた。また、華族たちが明治期から本邸や別邸を建てて住んでいたのも、おもに下落合の東部だった。目白中学校(東京同文書院Click!)もまた、下落合東部の目白通り沿いに位置している。
松原邸1万分の1地形図1921.jpg
松原一彦邸跡.jpg 前谷戸弁天池跡.JPG
 しかし、下落合の中・西部(現・中落合/中井地域)は、大正期の後半になってから宅地化が急速に進んでいる。これは、田園地域における健康的で文化的な「郊外生活」の流行Click!や、関東大震災Click!によって危険な人口密集地である市街地から郊外への急速な人口流入によるものだ。佐伯祐三Click!による『下落合風景』シリーズClick!は、その多くが下落合の中・西部に展開する宅地造成や道路整備の工事現場Click!ばかりを選んで制作しているが、まさにこの文章に書かれた様子と軌を一にしており、変貌をとげる下落合中・西部のその瞬間を切り取っていることになる。
 では、目白文化村の造成がスタートする以前、堤康次郎Click!による遊園地「不動園」Click!が企画されていたころの、前谷戸の様子はどのようなものだったのだろう? 松原家の窓を通して見えていた風景を、同エッセイから引用してみよう。
  
 我が一家の来た当時、硝子窓を通して見えるものは、只青々と繁つた森、見渡す限り広々と開けた緑の畑ばかりで、朝な夕なの景色は、物に譬へやうもなかつた。併しそれも長くは続かなかつた。すぐ附近にある某富豪の大庭園、それは始(ママ)めて見た我々の眼を如何に驚かせ喜ばせたか云ふ迄もない。広い芝生、鯉浮ぶ池、夏尚寒き木立等におこがれて、夏の夕、薄暗き中を涼し気な浴衣姿もチラホラ見えて、昼間は青々とした芝生に戯れ遊ぶ小児の群、池畔に鯉と遊ぶ幼児も、実に楽し気に見えて、古へのエデンの園もかくやと迄思はれた(以下略) (カッコ内引用者註)
  
 「某富豪の大庭園」とは土堤で囲まれた、のちに第一文化村から第二文化村にかけての住宅敷地へと変貌する、広大な箱根土地による「不動園」のことだと思われる。また、「鯉浮ぶ池」は前谷戸の浅い谷底にあった弁天池のことだろう。府営住宅の敷地の多くは、堤康次郎が東京府へ寄付したものであり、やがてはその南側に位置する「不動園」敷地に大規模な文化村住宅地の建設が計画されていることなど、府営住宅の住民はおそらく知るよしもなかったにちがいない。
 東京府が推進する府営住宅事業へ協力することで、新たな住民を下落合へ大量に誘致し(しかも遊園地「不動園」に隣接する風光明媚な環境であることが、最大限に宣伝されただろう)、それによって形成される目白通り沿いの新しい商店街や施設群、交通・電気・通信などの各インフラ整備を前提に、満を持して本来の目的である目白文化村を造成し販売するという、堤康次郎の事業戦略は図に当たった。目白文化村は、大正期を代表する最先端の街並みとして、メディアを問わず広く喧伝されることになる。
松原邸事情明細図1926.jpg
第一文化村.JPG
 つづいて、造成工事がスタートした目白文化村の状況を見てみよう。
  
 (前略)間もなく汚い掘立小屋が建ち、頑強相な朝鮮人土工達の数百人も入り込んで来て、地球も真二つと打込む鍬の先に、それらの楽しみは皆終のを告げた(。)広い芝生は何時の間にか醜い赤土の原と化した。そして無情な土工達の手は容赦なく園外の畠まで延(ママ)びた。漸く育つた許りの麦の芽が涙も情もない土方の手に掛つて無惨に掘り起され、トロツコに放り上げられた。トロツコの音が、麦の芽の漸く伸び始めた頃から、桐の葉色濃かな頃まで毎日毎日続いた。さうしてその音の止んだ時、そこには何万坪かの見渡す限りの赤土原が開かれた。竹垣は結ひ廻された。間もなくそこには黄色の壁、赤い瓦の洋風建築が大工の鑿の音につれてドンドン出来て来た。我々の住む府営住宅に、東京の町を田舎に移して来た様だと驚いた村人も、更にこの文化村に驚異の眼を見張つて以来は見向きもしなかつた。/文化村の出来つゝある頃、已(すで)に方々には赤屋根の家が多く見受けられる様になつて居た。緑濃い大樹の下、コンモリ繁つた山の端等に、コントラストの取れた赤い家は、宛然(えんぜん)一幅の油画をなして居た。(カッコ内引用者註)
  
 前谷戸周辺へ一気に造成される、第一文化村の様子が記録されている。箱根土地は、造成工事に日当の高い日本人労働者ではなく、労賃が安価な朝鮮人労働者を大量に動員していたことがわかる。また、宅地造成を終えてから住宅を建設したのではなく、造成工事と並行して販売を終えた敷地から、次々と住宅が建設されていった様子もわかる。おそらく、販売が終了するかしないかのうちにほぼ竣工していた、神谷邸Click!のような例がほかにもあるのだろう。それらの多くは、箱根土地建築部Click!による仕事だったにちがいない。
「桂蔭」第10号表紙.jpg 「桂蔭」第10号表4.jpg
 このあと、松原邸から見える風景は激変をつづけ、わずか1~2年ほどの間にオシャレでハイカラな「一幅の油画」だった風景が、目白文化村の周辺に増えつづける住宅のために台なしとなり、ついには松原邸の前にも2階家ができて風景が遮断されてしまう。「窓から見えるものは只屋根許りになつてしまつた」。松原邸は、すっかり家々の屋根や第一文化村の西外れにできた萩ノ湯Click!(→伊乃湯→人生浴場)の煙突に囲まれてしまったのだ。

◆写真上:第二府営住宅の跡で、松原邸のすぐ南側を通る三間道路の現状。
◆写真中上は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる目白文化村建設予定地。前谷戸には土堤の囲みがあり、遊園地「不動園」だったのがわかる。下左は、下落合1524番地の松原一彦邸跡。下右は、前谷戸の弁天池跡。
◆写真中下は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる第二府営住宅24号と記載された松原邸。は、第一文化村の現状。
◆写真下:1924年(大正13)4月に発行された目白中学校『桂蔭』第10号の、表紙()と表4()。当時は、5年生だった岩谷信之助という生徒が所持していたようだ。


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コメント 30

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>どらいさん
by ChinchikoPapa (2014-05-08 10:25) 

ChinchikoPapa

『Codona, Vol. 2』は、学生時代の同時代サウンドです。ただ、当時もいまも同アルバムは持っていません。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2014-05-08 10:28) 

ChinchikoPapa

ライトアップすると、サクラが夜目に白く浮きあがって見えます。
nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2014-05-08 10:30) 

ChinchikoPapa

「象の像」は、待ち合わせにもってこいですね。w
nice!をありがとうございました。>ネオ・アッキーさん
by ChinchikoPapa (2014-05-08 10:37) 

ChinchikoPapa

寅さんや家族たちのしゃべり言葉に、なぜ日本橋弁が混じるのか?…というナゾがありましたけれど、人口稠密になった日本橋から葛飾へ、集団移住した経緯があったようですね。nice!をありがとうございました。>いっぷくさん
by ChinchikoPapa (2014-05-08 10:42) 

ChinchikoPapa

サイトに無料で提供されている自動翻訳機能は、すごい訳し方をしてくれますので楽しいです。nice!をありがとうございました。>やってみよう♪さん
by ChinchikoPapa (2014-05-08 10:47) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>makimakiさん
by ChinchikoPapa (2014-05-08 10:49) 

ChinchikoPapa

そういえば、西武新宿線はアトムにバカボンにガンダムと、マンガ列車を走らせようとすればテーマに困らないのに、なぜか企画がありませんね。nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2014-05-08 10:52) 

ChinchikoPapa

車高が低いバンは、段差一発ガリガリくんですね。
nice!をありがとうございました。>hanamuraさん
by ChinchikoPapa (2014-05-08 10:55) 

ChinchikoPapa

豊島氏の「照姫まつり」は、13万人近くの人出があるのですね。
nice!をありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2014-05-08 11:00) 

ChinchikoPapa

箱根山は、葉が繁る季節になると見晴らしがきかなくなりますね。
nice!をありがとうございました。>sonicさん
by ChinchikoPapa (2014-05-08 11:50) 

ChinchikoPapa

いまでも戸山ヶ原の旧・陸軍衛戍病院=国際医療センターには、第五福竜丸の乗組員を治療した記録が、同船の模型とともに保存・展示されていますね。nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
by ChinchikoPapa (2014-05-08 17:11) 

ChinchikoPapa

サクラの花吹雪の中をバイクで走るのは、実に気持ちがよさそうですね。nice!をありがとうございました。>(。・_・。)2kさん
by ChinchikoPapa (2014-05-08 17:15) 

ChinchikoPapa

確かに機動隊の警備車両からの投光器が、通りの群集を照らしているように見えます。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2014-05-08 17:37) 

ChinchikoPapa

山々の重なりや山ひだがきれいですね、秋に撮影されたものでしょうか。nice!をありがとうございました。>yamさん
by ChinchikoPapa (2014-05-08 19:06) 

ChinchikoPapa

1日でも早く全快されることを、心よりお祈りいたします。
いつもnice!をありがとうございます。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-05-08 19:52) 

ChinchikoPapa

下の子のガールフレンドが、夏になるとショートパンツでよく遊びにくるのですが、キレイでつい見とれてしまいます。身長も170cm弱と高いので、スラリとした脚が美しいですね。nice!をありがとうございました。>SILENTさん
by ChinchikoPapa (2014-05-08 21:47) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>sechsさん
by ChinchikoPapa (2014-05-09 00:52) 

ChinchikoPapa

わたしもビワが好きで、あのツヤツヤした種がコツンと前歯に当たる感触がいいですね。毛をとって陰干しした、ビワの葉茶も好きですよ。nice!をありがとうございました。>沈丁花さん
by ChinchikoPapa (2014-05-09 11:45) 

ChinchikoPapa

「トムル層」の海岸線を、タガネとハンマーを手に散歩してみたいですね。かつて、東北の海岸線を散歩した際、ふたつの道具を持ってこなかったことに悔しい思いをしました。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2014-05-09 11:51) 

ChinchikoPapa

きょうの午後の雷雨は、すっかり初夏のものですね。
nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-05-09 19:04) 

ChinchikoPapa

どちらかといえば、ブロッコリーよりもカリフラワーのほうが好きです。
nice!をありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
by ChinchikoPapa (2014-05-10 20:31) 

ChinchikoPapa

以前に住んでいたマンションの風呂場がタイル張りで、掃除をするのに大変でしたので、家を建てるときは樹脂の壁や床にしました。nice!をありがとうございました。>うたぞーさん
by ChinchikoPapa (2014-05-10 20:35) 

ChinchikoPapa

重ねて、ご訪問とnice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-05-10 20:46) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>tamanossimoさん
by ChinchikoPapa (2014-05-11 15:00) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>okin-02さん
by ChinchikoPapa (2014-05-11 23:26) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2014-05-11 23:35) 

ChinchikoPapa

下落合のあちこちに、昔はニセアカシアの並木があったようなのですが、いまは消滅してしまったようです。先年、sigさんの記事を拝見してから、一度天ぷらにして食べてみたいのですが、いまだ見つかりません。nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2014-05-13 12:37) 

ChinchikoPapa

平安神宮というと、ヒビの入ったまんじゅうを思い出します。
nice!をありがとうございました。>opas10さん
by ChinchikoPapa (2014-05-13 23:55) 

ChinchikoPapa

以前の記事にまで、わざわざnice!をありがとうございました。>suzuran6さん
by ChinchikoPapa (2014-05-15 16:54) 

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