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下落合で行き倒れた小出楢重。 [気になる下落合]

下落合540番地界隈.jpg
 目白駅近くの「田舎道」を歩いていた小出楢重Click!が、貧血で倒れて動けなくなった話はあちこちに出てくる。目白駅から歩いて、自宅へ帰ろうとしていた途中で意識がもうろうとし、そのままうずくまって“行路病者”となってしまったのだ。
 1919年(大正8)に『Nの家族』を出品した二科展で、樗牛賞を受賞したばかりのころだった。小出は当時、下落合540番地にあった大久保作次郎アトリエClick!のごく近くに、「百姓家」を借りて住んでいる。そのときの様子を、1927年(昭和2)に出版された『楢重雑筆』(中央美術社)に書かれ、のちに岩波書店の『小出楢重随筆集』(1987年)に収録された「胃腑漫談」から引用してみよう。
  
 私はこの脳貧血のために今までに二度行路病者となって行き倒れたことがある。一度は東京の目白のある田舎道で夜の八時過ぎだった、急にフラフラとやって来て暗い草叢の中へ倒れた、その時は或る気前のいい車屋さんに助けられたものだった、その時の話は以前広津氏が何かへ書いたことがあるからそれは省略するとして、今一つは奈良公園での出来事だった。
  
 小出楢重が住んでいたのは、目白通りをはさんで北側へ三角形状に飛び出した下落合の一画か、または隣接する雑司ヶ谷旭出(現・目白)あるいは長崎村へ入ったあたりだったと思われる。文展・帝展の大久保作次郎と二科の小出楢重とは、若いころから家同士で行き来する友人ではあったけれど、のちの小出の文章から推察するとそれほど親しかったとも思えないが、彼は自分の家へ帰る目印として、大久保作次郎のアトリエを意識している。
 1919年(大正8)の落合地域といえば、いまだあちこちに田畑や森が広がり、目白駅近くや目白通り沿いを除いては、住宅がまだまだ少なかったころだろう。南側の目白崖線の丘上や斜面には、華族の屋敷や別荘が建ち並んではいたが、関東大震災Click!後にみられるようなハイカラな郊外住宅街の姿は、いまだ形成されていなかった。
 では、小出が「広津氏」と書いている、広津和郎の証言を聞いてみよう。小出が死去したあと、かなりたった戦後の広津のエッセイでは、目白での出来事が「大久保」と誤記されている。おそらく、下落合の大久保作次郎Click!のアトリエ近くという小出の話から、エピソードが起きた場所を「大久保」と勘違いして書くようになったのだろう。1948年(昭和23)に書かれ、のちに『広津和郎全集』(中央公論社)に収められた「奈良と小出楢重」から、少し長いが引用してみよう。
小出楢重「Nの家族」1919.jpg 小出楢重「少女梅の像」1920.jpg
  
 少し余談に渡ったが、話を前に戻すことにして、或日、彼はその大久保(引用註:目白)附近の町を歩いている中に、例の胃の発作におそわれて、道端の草の上に倒れていた。/そこに人力車が通りかかった。そこでその人力車に向って、手真似をしながら、「あのう、あのう」と呼びかけると、車夫は、/「わたしは今お客さんに呼ばれて行くところですから、あなたを乗せるわけには行きませんが、今誰か代りのものを寄越しますから待って下さい」といって行ってしまった。/暫くすると、その車夫の約束した通り、他の車夫が人力車を引いてやって来た。/小出君は大久保作次郎氏の家まで乗せて行ってもらいたいといった。/そして大久保作次郎氏の家の裏口まで来たので、「ここでよろしい」といって車を停めてもらい、「何ぼや?」と訊くと、/「いえ、お代なんか要りませんや。お金を頂こうと思って乗ってもらったんじゃありませんや」と車夫は威勢よくいって、車を引いてどんどん帰って行こうとする。行路病者だと思ったらしいのである。前の車夫が「行路病者が道端にころがっているからお前行ってやれ」とでもいったのかも知れない。/小出君は吃驚して、蟇口(がまぐち)を開けながら、例のどんもりで言葉が出ず、「あのう、あのう・・・・・・」と呟いている中に、車夫はさっさと行ってしまった。/これはどんもりのために彼は車賃を儲けたのである。
  
 「目白のある田舎道」が、「大久保附近の町」の道へと変わってしまっている。当時は、目白駅界隈よりも大久保(東大久保・西大久保・百人町)のほうが、まだ相対的に賑やかだったのだろうから、広津は「町」という不自然にはならない表現に、あえてしているのかもしれない。
 小出楢重は、しゃべることが苦手だったらしく、なかなか言葉が出てこないことを自身で「どんもり」と称していた。「あのう、あのう・・・」といったきり、次の言葉がなかなか出てこないのは、どこか同じ大阪出身で「あのな~、あのな~」を連発していた佐伯祐三Click!を思わせる。小出が下落合界隈に住んでいたころ、中村彝Click!アトリエClick!は下落合464番地に建っていたが、佐伯祐三はいまだアトリエを建てていない。彝アトリエと曾宮一念アトリエClick!の、ちょうど中間に位置する二瓶等アトリエClick!は、すでに建っていたものか。ひょっとすると小出は、佐伯が下落合に借家Click!住まいをするころまで、大久保アトリエの近くに東京での拠点となる「百姓家」を借りていたかもしれない。
大久保作次郎邸1921.jpg 大久保作次郎邸1926.jpg
牧野虎雄「早春」1922.jpg
 小出の「あのう、あのう・・・」が災いして、せっかく描いた「下落合風景」と思われる風景画を、記者を装った詐欺師に盗られてしまった事件も発生している。再び、広津の文章から引用してみよう。
  
 樗牛賞がついたという事で小出君の名は一遍に人に知られたが、その当時は文展や二科に初入選したというだけで、今よりは新聞などで騒がれ、それが賞がついたとなると、大々的に書き立てられたものであった。そこで小出君のその百姓家の一室には各社の記者諸君が競争で出かけたらしいが、或時、或新聞社の記者の名刺を持った一人物が人力車で駈けつけ、小出君に向って、「何か近作がありませんか。ありましたら一つ拝見したいもので」といった。小出君はその附近を描いた八号の風景画を一枚取出して見せると、「おお、これで結構でございます。どうもありがとうございます」とその人物はその絵を押戴いて一礼し、そのまま縁側から下りて、待たしてあった人力車に乗ってその絵を持って行ってしまいそうにする。小出君は驚いて何かいおうとしたが、例のどんもりのために咄嗟に言葉が出ない。それで「あのう・・・・・・あのう・・・・・・」と呟いている中に、人力車はどんどん走り出し、とうとう小出君は絵を一枚持ち逃げされてしまった。
  
 小出は、大阪人にしてはめずらしく、東京美術学校時代には同郷人たちとつき合っていない。むしろ、東京にいるときは「殊に大阪人を非常に厭がったものであった」と書いている。「大阪弁が急に耳に押し寄せてくるのが何よりもむっとする」とも書いているから、自身は長堀橋筋出身の生粋な大阪っ子にもかかわらず、なかなか言葉が出てこない「どんもり」な性格とあいまって、複雑な心境だったものか。無口な大阪人には、異郷で出会う同郷人がわずらわしかったのかもしれない。
小出楢重「帽子を冠れる自画像」1928.jpg 広津和郎.jpg
 新聞記者を名のる詐欺師に持ち去られた、小出楢重の風景画8号はその後、どこをどうさまよっているのだろうか? 彼が大正中期に描いた東京作品で、どこか田舎っぽい風情の風景画が見つかるとすれば、それは「下落合風景」あるいは「目白風景」である可能性が高い。

◆写真上:貧血で倒れ車屋に助けられた小出楢重が、俥をつけた大久保作次郎アトリエ(下落合540番地)あたりの現状。ごく近くに、小出楢重の住んでいた「百姓家」があった。
◆写真中上は、1919年(大正8)に二科で樗牛賞を受賞した小出楢重『Nの家族』。は、翌1920年(大正9)に二科賞を受賞した小出楢重『少女梅の像』。
◆写真中下上左は、1921年(大正10)に作成された早稲田1/10,000地形図にみる大久保作次郎邸とその周辺。上右は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる同所。は、大久保作次郎アトリエや小出楢重宅近くの長崎村に住んでいた牧野虎雄が、1922年(大正11)に自身のアトリエで描いたと思われる『早春』。おそらく、小出宅の周辺も似たような風情だったろう。
◆写真下は、1928年(大正3)制作の小出楢重『帽子を冠れる自画像』。は、広津和郎。


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コメント 61

niki

こんばんは^^
今回は何ともユーモラスなエピソードですね。


by niki (2011-09-03 01:10) 

hanamura

良い人悪い人個性的だなぁ。
by hanamura (2011-09-03 05:43) 

ChinchikoPapa

磯臭くてにがいところが、サザエを好きな理由かもしれません。サザエを口にしますと、子どものころ日がな1日、潮だまりで遊んでいた情景を思い出すからかもしれませんね。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2011-09-03 11:35) 

ChinchikoPapa

nikiさん、こんばんは。コメントとnice!をありがとうございます。
小出楢重は、非常にユーモラスで個性的な人物ですね。いくつかあるエッセイも秀逸で、東京でいいますと木村荘八や曾宮一念のような存在のように思えます。つい噴き出してしまう文章は、とても魅力的です。
「A Sad Morning」は、静かなバンドネオンかスパニッシュギターのバラッドが似合いそうな情景です。
by ChinchikoPapa (2011-09-03 11:46) 

ChinchikoPapa

文字と記号と線で構成されたモノトーンの作品も、想像が拡がっていいですね。nice!をありがとうございました。>ナカムラさん
by ChinchikoPapa (2011-09-03 11:52) 

ChinchikoPapa

台風もやってきて、少し涼しくなってからビールを楽しんでいます。w
nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2011-09-03 11:53) 

ChinchikoPapa

このアルバムは、ジャケットデザインとともに強い印象を残しています。
nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2011-09-03 11:56) 

ChinchikoPapa

すごく幻想的な光景ですね。NMB48というのは、初めて知りました。w
nice!をありがとうございました。>マチャさん
by ChinchikoPapa (2011-09-03 11:59) 

ChinchikoPapa

hanamuraさん、コメントとnice!をありがとうございます。
俥で乗りつける悪い奴も、どこかおかしいですね。きっと、新聞記事かなにかで小出楢重が訥弁なのを知り、さっそく記者を装って作品をチョロまかしに来たのだと思います。
by ChinchikoPapa (2011-09-03 12:03) 

ChinchikoPapa

神楽坂はオフィスが近かったせいか、ほぼ毎日歩きました。数年前、大久保通りの角に高層マンションができてしまってからは、あまり歩かなくなってしまいました。nice!をありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2011-09-03 12:09) 

ChinchikoPapa

エステーは戦後の焼け跡時代から、ずっと下落合にある会社ですね。ほぼ毎日、本社前(旧・神田精養軒本社)を通っています。nice!をありがとうございました。>da-kuraさん
by ChinchikoPapa (2011-09-03 12:16) 

ChinchikoPapa

造船でもっとも重要なテーマである、公試運転前の気密試験を見てみたいですね。きっと、いまでは昔とは比べものにならないほどシステム化されているのでしょうか?>ねねさん(今造ROWINGTEAMさん)
by ChinchikoPapa (2011-09-03 12:22) 

ChinchikoPapa

単なる記号の羅列にならないよう、ここの記事の表現も気をつけたいと思います。nice!をありがとうございました。>銀鏡反応さん
by ChinchikoPapa (2011-09-03 12:25) 

ChinchikoPapa

親や祖父母の世代にはお馴染みの姿なのでしょうが、わたしは一度も見たことのない東京駅が、そろそろ顔を見せはじめましたね。nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2011-09-03 13:32) 

ChinchikoPapa

パーペチュアルデイトジャストは20年間愛用しましたけれど、ほんとうに丈夫な時計で一度も故障しませんでした。上げてしまったのが、ちょっと惜しい気がしています。nice!をありがとうございました。>あんぱんち〜さん
by ChinchikoPapa (2011-09-03 15:27) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2011-09-03 23:43) 

ChinchikoPapa

わたしの場合、仕事中はコーヒーが手放せません。おそらく、3~4杯/日は飲んでいるでしょうか。nice!をありがとうございました。>うたぞーさん
by ChinchikoPapa (2011-09-03 23:46) 

ChinchikoPapa

昭和シェルの労資紛争は40年にもなるのですね、驚きました。
nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
by ChinchikoPapa (2011-09-04 00:58) 

ChinchikoPapa

国内旅行で旅先に滞在するとき、ホテル滞在というのはやったことがありません。どうしても、地元料理が付いた旅館を選んでしまいますね。nice!をありがとうございました。>eva-chinさん
by ChinchikoPapa (2011-09-04 12:42) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>opas10さん
by ChinchikoPapa (2011-09-04 13:04) 

ChinchikoPapa

わたしも30代前半に、「自律神経失調症」になったことがあります。微熱が下がらず、身体がだるくて1か月半ほど会社を休んだのですが、精密検査をしても原因がわからず病原菌も検出されないので、最終的に付いたのが「自律神経失調症」でした。その後、漢方薬をしばらく飲んだら健康体にもどってますので、どうやら原因が特定できないときに西洋医が付ける病名のようですね。漢方医は、身体のバランスが失われているという前提で、また違った診断や処方をするのかもしれません。nice!をありがとうございました。>こさぴーさん
by ChinchikoPapa (2011-09-04 15:17) 

ChinchikoPapa

竹林の独特な匂いが、風のそよぎとともに漂ってきそうです。
nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2011-09-05 11:42) 

ChinchikoPapa

母音ではじまる「ウ・ス」(有珠など)、「オ・ソ」(恐など)、「ア・ソ(マ)」(阿蘇、浅間など)の火山名称は、原日本語との絡みで面白いテーマです。富士山も、千数百年ほど前には「ア・ソ」と記載されてますね。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2011-09-05 11:52) 

ChinchikoPapa

左官屋さんの機転、イキでしゃれてますね。w 東京では、左官屋さんがなかなかいなくて、古い邸のお宅では探すのに苦労されているようです。一度引退した左官屋さんに、お願いするケースも出てきているようです。nice!をありがとうございました。>SILENTさん
by ChinchikoPapa (2011-09-05 12:01) 

ChinchikoPapa

『キャバレー』が上映された当時、街のあちこちでライザ・ミネリの顔を見た憶えがあります。nice!をありがとうございました。>galapagosさん
by ChinchikoPapa (2011-09-05 16:28) 

ChinchikoPapa

最近は「茶」系ばかりで、ジュース類は飲まなくなりました。たまには飲んでみるのも、身体にいいのかもしれませんね。nice!をありがとうございました。>seisさん
by ChinchikoPapa (2011-09-05 16:30) 

ChinchikoPapa

9月初めの達成とは、早いですね! これからも、ちょくちょくお邪魔します。^^ nice!をありがとうございました。>fumikoさん
by ChinchikoPapa (2011-09-05 19:25) 

ChinchikoPapa

わたしも最近、映画作品よりコンサートやPVのDVDにはまっています。やや疲れ気味のときに、こういう傾向が出るようです。nice!をありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
by ChinchikoPapa (2011-09-05 21:48) 

ChinchikoPapa

トンボ玉は、わたしも惹かれます。古墳などからも、ときどき見つかりますね。nice!をありがとうございました。>tosi-akiさん
by ChinchikoPapa (2011-09-05 23:04) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>sonicさん
by ChinchikoPapa (2011-09-06 11:44) 

kako

こんにちは。
『さよなら、今日は』の方で、お邪魔させていただいていたkakoです。そちらの方は、まだ、芳雄さんがいなくなってしまったショックで何も書けないんですけど、小出楢重ファンなので、こちらにもお邪魔させていただきました。この人、いいですよね~。もちろん、絵も魅力的ですが。戦前戦後の画家さんや俳人のエッセイなどを読むと、「この人に会ってみたかったなあ」と思う人がいっぱいです。
少し前にアップされていた『浮雲』の高峰秀子さんの横顔の写真も、ため息がでちゃうほどいいですね~。好きな映画なので、スチールはたくさん見ているはずなんですが、この写真は初めて見て、あまりに素敵なのでPCの壁紙にさせていただきました。こんな女優さんで、あんな映画、もう作れないのかな…と、重ねてため息です…。
by kako (2011-09-13 03:38) 

ChinchikoPapa

kakoさん、コメントをありがとうございます。
小出楢重は、とっても魅力的ですね。文章を読んでいると、独特なユーモアのセンスと的確な比喩や指摘とともに、一度ゆっくりとおしゃべりでもしてみたい感覚にとらわれます。東京下町の生まれで、やはりエッセイストでもあった曾宮一念は、長命だったせいかたくさんの随筆を残していますが、小出楢重は早くに亡くなってしまいますので、随筆の数も少ないのが残念です。彼の文章を、もっともっと読んでみたかったですね。
小出の風景画は、独特な味わいがあって好きなのですが、下落合界隈を描いたと思われる1作が、詐欺で行方不明なのがなんとも残念です。先日の武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の『浮雲』ガードあたりを描いていて、佐伯祐三とは隣り同士の風景作品だったら面白いですね。^^
by ChinchikoPapa (2011-09-13 10:16) 

kako

こんにちは。kakoです。また、お邪魔しました。
小出楢重のエピソードを楽しく読ませていただき、私も、古い展覧会の図録を引っ張り出してみたのですが、1987年に『小出楢重 生誕100年』と題して開催された展覧会の図録によると、楢重は、1919年、大阪に移ってアトリエを構え、樗牛賞を受賞した『Nの家族』は、そこで描かれたものとされています。このアトリエは、当時、大阪画壇のリーダー的存在であった日本画家、北野恒富の旧居を借りたもので、広津和郎がそこを訪ねると、ちょうど『Nの家族』が完成したばかりだったという記述もあります。これが事実だとすると、楢重が持ち逃げされた「附近を描いた八号の風景画」というのは、大阪のアトリエ付近のものということになるかと思いますが、これは誤りでしょうか…? 
楢重ファンといいながら、これまで特に調査・研究などしたこともありませんし、たまたま手元にあった図録を見ただけなので、もし、間違っていたら、すみません。
ちなみに、私が楢重に興味を持ったきっかけは、昔、1927年に描かれた『裸女結髪』という作品を観て、強烈に魅せられてしまったからなんですが、一見、鈍重そうに見えて、実は、ものすごくシャープでおしゃれな感覚の持ち主だったのではと、非常に興味をひかれました。
by kako (2011-09-19 17:01) 

ChinchikoPapa

kakoさん、コメントをありがとうございます。
『N氏の家族』が描かれたのは、kakoさんが書かれているとおり大阪だと思います。それを二科展へ出品するために東京へやってきて、樗牛賞を受賞した直後、つまり1919年(大正8)の秋ぐらいから、目白の「百姓家」を借りて住んでいるようです。
この「百姓家」は、大阪のアトリエを引き払って完全に移住したわけではなく、大阪にそのまま残して新たに借りて住んでいますので、文中にも書きましたが小出楢重の東京における拠点だったように思います。翌1920年(大正9)には『少女梅の像』で二科賞を受賞していますので、そのころもいまだ「百姓家」を借りていた可能性が高いですね。二科へ出品するのに、大阪よりも東京にいたほうがなにかと便利だったから・・・ではないかと想像しています。
広津和郎は、東京の「百姓家」も訪問していたようですので、前後の文脈から「絵画持ち逃げ」事件は目白での出来事であり、訪問した新聞記者は東京の大手新聞社名の入った名刺を、小出に見せているようです。したがいまして、小出が下落合界隈に「百姓家」を借りていた時期は、おそらく樗牛賞受賞直後の1919年秋から翌年の二科賞受賞ぐらいまでの1~2年間ではないかと思われます。もっとも、その間も大阪のアトリエへは帰っていると思いますので、そちらでも作品を制作していた可能性が高いですね。
小出楢重は無口な反面、内面の精神生活はとても豊かだったのではないかと、書いたものを読むにつけ感じることができますね。また、独特なユーモアのセンスにも惹かれます。w
by ChinchikoPapa (2011-09-19 18:25) 

kako

ChinchikoPapaさん、詳細なご解説をありがとうございました。
私も前記の図録掲載の年譜をよくよく見てみたところ、
1919年2月:大阪市南区鍛冶屋町50番地の北野恒富の旧居に移る。
同年4月末―7月末:鍛冶屋町のアトリエを広津和郎が訪ねた時、《Nの家族》を見て二科出品をすすめる。
同年8月:上京する。鍋井克之の家で宇野浩二と対面。大久保の八幡宮釣堀の池畔に座敷を借りて《竹林》を制作。携えてきた《Nの家族》《静物》2点とともに第6回二科展に出品。
と、ありました。
ですから、「大久保の八幡宮釣堀の池畔の座敷」というのが、ひょっとしたら、「東京の百姓家」ということになるのでしょうか。
また、ここで描いたという《竹林》という作品は、《Nの家族》《静物》とともに二科展入選ということですが、その後の楢重の生前および没後の展覧会の出品記録にも、画集の掲載記録にも記載がないので、もしかしたら、これが、怪しい新聞記者に持ち逃げされたという作品なのかも…、と、勝手に想像を膨らませてみました。
《Nの家族》に描かれたとき、生まれたばかりの赤ちゃんだった長男の泰弘氏は、長じて早大理工学部に進まれたそうですし、何か、その近辺に縁が深かったのかもしれませんね。私も、大学はその近辺でしたので(理工学部ではありませんが)、さらに勝手に親近感を感じたりしています。
by kako (2011-09-20 01:09) 

ChinchikoPapa

kakoさん、重ねてコメントをありがとうございます。
もし、東京へ出てきてすぐに借りたところが、8月の「大久保の八幡宮釣堀の池畔に座敷」だとすれば、本人も書いている大久保作次郎邸近くの目白の「百姓家」は、10月に『N氏の家族』が樗牛賞を受賞した前後・・・ということになりますね。
したがって、広津和郎は大久保作次郎アトリエの「大久保」と目白とを混同しているのではなく、「大久保の八幡宮釣堀の池畔に座敷」と目白の「百姓家」を混同している可能性が大きくなります。なぜなら、貸し座敷と思われる大久保の家ではなく、樗牛賞受賞の際には「百姓家」に記者団が競争して押しかけたと広津は記憶し書いていますので、明らかに目白のほうの家の情景を記述していると思われるからです。
ただし、新聞記者を装った詐欺師が持ち逃げした風景画は、大久保風景なのか下落合(目白)風景なのかはちょっとわからないですね。w 広津が大久保と目白をごっちゃにして勘違いしているとすれば、「その附近」と書いているのは『竹林』の可能性もありますが、「百姓家」の流れで書かれている意識的な「その附近」だとすれば、やはり下落合(目白)風景のような気もします。小出は借りていた座敷や「百姓家」の周辺を、1点だけしか描かなかったとは思えませんので、なんとも判断のしようがないですね。
わたしも大学は「その近辺」ですので、「その附近」の作品が出てくると嬉しいですね。^^
by ChinchikoPapa (2011-09-20 01:40) 

kako

ChinchikoPapaさん、再び、ご解説をありがとうございました。
こうやって、自分が生まれる前にこの世を去ってしまった人の足跡を辿ってみると、なんだか不思議な気持ちになりますね。まったく個人的な話で恐縮なんですが、私はちょうど10年前にパートナーを癌でなくしましたので、それ以来、人が生きている間にしたことって何なんだろうと、よく考えるようになりました。考え始めると、必ず袋小路にはまってしまうので、そう頻繁には考えないようにしているんですけれど…。
なんだか、ヘンな話になってしまいました。ごめんなさい。
ちなみに、「大久保の八幡宮釣堀の池畔」って、どこだろうと、現在の新宿区北部にある神社をネットで探してみましたが、それらしいところは見つかりませんでした。神社と池がセットになっている場所というと、水稲荷神社と甘泉園くらいかな、と思いますが、甘泉園で釣堀をやっていたとも思えないし、場所もちょっと違いますよね。
by kako (2011-09-20 23:11) 

ChinchikoPapa

kakoさん、コメントをありがとうございます。
わたしも街を歩いていて、ときどき不思議な感覚にとらわれることがありますね。それは、どこか昔日の面影がまだ残っている落合地域のせいもありますが、目を閉じて開けるとめまいとともに、そのまま大正期や昭和初期にタイムリープしやしないかな・・・というような感覚です。仲里依紗が飲んだタイムリープ薬(「時をかける少女2010」)があれば、わたしは間違いなく中毒になりそうです。w
パートナー様のことお悔み申し上げます、残念でしたね。わたしも昨年母を亡くしたのですが、育ててもらった側として同じようなことを考えました。遺品などを整理してますと、よけいにそのようなことを考えてしまいます。
「大久保の八幡宮釣堀の池畔」、これがわからないですね。小出楢重が上京した当時、中央線の大久保停車場はできていて、百人町停車場(新大久保駅)ができてからまだそれほどたっていない時期に当たるわけですが、両駅ともに「大久保村」地域からは外れて百人町に建てられています。ただ、百人町も含めて大久保地域全体を見まわしても、明治以降に「八幡宮」は見あたりません。付随する池も、見つけられないんですよね。大久保駅から近い、柏木界隈(現・東中野)にもありませんでした。
兵庫県に、JR西日本の「大久保駅」(明石市の大窪界隈)があり、そこには八幡宮と池があるのですが、年譜の表現はそちらでの記録と東京での行動とを混同している・・・ということはないですよね。
by ChinchikoPapa (2011-09-21 15:37) 

kako

兵庫県の大久保! それ、なんだかありそうな話ですね。
年譜には、「8月:上京する。鍋井克之の家で宇野浩二と対面。大久保の八幡宮釣堀の池畔に座敷を借りて《竹林》を制作。携えてきた《Nの家族》《静物》2点とともに第6回二科展に出品。」と、一連の文章で書いてあるので、普通に考えれば、東京の大久保のつもりの記述としか思えませんが、当時、東京と大阪を行き来していたとすれば、もともと別々の記録があって、編集する際に、東京の大久保と思い込んで記述してしまった可能性はありますよね。
ただ、この年譜の製作者は、当時、兵庫県立美術館にいらしたらしい山野英嗣さんという方なので、兵庫県の地理には詳しかったはずと思うと、やはり、ちょっと?ですよね。
でも、なんだか、『砂の器』みたい(?)で、面白くなってきてしまいました。
by kako (2011-09-21 22:07) 

ChinchikoPapa

kakoさん、コメントをありがとうございます。
なんだか、ますます面白くなってきそうですね。w 東京の大久保地域(東大久保・西大久保・百人町)には、いくら調べても八幡宮も、その名がついて釣り堀のある池も、わたしが調べた限りでは見つかりません。
稲荷はたくさんあり、明神や天神の社はあるのですが、八幡を奉った社は見当たりません。また、明治期の地図には、池が2つほど採取されているのですが、ひとつは皆中稲荷の境内にあったごく小さな池、もうひとつがおそらく大きな屋敷の中にあった瓢箪型の池で、おそらく私有地内の回遊式庭園の池だと思います。
ただ、私有地内の池を公開していたり、それがなぜか釣り堀施設のある「八幡宮池」と呼ばれてたりすると、話はややこしくなります。w また、大久保は目白崖線と同様、あちこちの谷間から泉が湧いていた土地であり、地図に採取されてない湧水池はけっこう多かったように思います。その湧水池のひとつに、なんらかのフォークロアが結びついて、「八幡宮池」と呼ばれていた可能性もあながち否定できないですよね。
ただ、「八幡宮池」や「釣り堀」というような、地域にとっては非常に印象的なネーミングや施設があったとすれば、なにかの史的な資料に記載されていてもよさそうなのですが・・・。ちょっと、継続して調べてみますね。
by ChinchikoPapa (2011-09-21 22:33) 

kako

ChinchikoPapaさんの調査力と博識に今更ながら、びっくりです(「さよなら、今日は」の方でも、驚愕していたんですが)。
怠惰な私は、「小出楢重 八幡宮」とか、適当なワードで検索をかけてみたら、青空文庫の中にこんなものを見つけました。
「それから四、五年間私が住んでいた八幡筋へも八幡社を中心とする夜店が出た。自分の家の前が雑踏することは子供でもない私を何か妙にそそるところがあった。私は夜店の人の流れがおおよそ引去った一二時ごろひっそりと夜店の末路を歩いてみるのが好きだった。そして古屋敷の徳川期の絵草紙類や娘節用、女大学の絵に見惚れて仏壇の引出しを掃除しているごとき気になって時を忘れたものである。」
これは、楢重の『大切な雰囲気』の中で、岩波文庫の『小出楢重随筆集』には収載されていない「阪神の夜店歩き 大阪」の中の一文です。
ずっと後になってからの回想なので、「四、五年間私が住んでいた」というのが、いつごろのことなのかはわかりませんが、大阪で八幡様の近くに住んでいたのは確かなようですね。これが、釣堀池の近くの座敷かどうかは、さらに全くわかりませんが、大阪でも東京でも、八幡様の近くに住むという偶然って……、絶対ないとは言えないでしょうけれど、可能性としては、大阪かも…。
と、さらに、不確かな情報を見つけてきてしまい、すみません。なんだか私、Papaさんの素晴らしいブログを荒らしているような…。ごめんなさい。

by kako (2011-09-22 01:24) 

ChinchikoPapa

kakoさん、ご丁寧にコメントをありがとうございます。
いえいえ、友人知人のみなさんにお教えいただくことが多いですので、わたしが「博識」なわけではありません。(汗) わたしだけのサイトでしたら、これほど“巨大”にはならなかったと思います。^^;
夕べから、大久保の地誌や歴史を調べているのですが、やはり「八幡宮」に関するエピソードは出てきません。大字ではなく、より細分化された小字に「八幡」がらみの地名があるのではないかと思いましたが、江戸時代までさかのぼっても、そのような地名は見つからないですね。
また、百人町は幕府の鉄砲隊同心組がいた地域ですので、皆中稲荷のほかに武運を祈願する八幡社が、一時期勧請されていたのではないか?・・・、あるいは鎌倉時代には和田氏の領地でしたので、鶴岡八幡から分祀された社があったのではないか?・・・とも考えて調べたのですが、和田氏は天神を勧請してはいますけれど、八幡を勧請した記録がありません。
大久保に近い八幡社といいますと、早稲田の高田八幡(穴八幡)と、上落合の月見岡八幡ということになりますが、「大久保の」と表現するにはちょっと遠すぎる気がしますね。「八幡宮」が人の苗字だったりすると、「砂の器」とは逆のケースになりそうですが・・・。ww 「八幡」さんという苗字の方は、確かにいらっしゃいますね。
大阪の「八幡筋」というのも、かなりひっかかる記述です。小出楢重は八幡社が好きで、いつもその近くに居住していたものでしょうか。先の年譜の記述で、「大久保の」の部分が違っていたりすると、また異なる見方もできそうです。たとえば、大久保停車場の次の駅、歩いてもすぐの柏木駅(現・東中野)だとしますと、当時は村山知義の三角アトリエ前にあった、上落合の月見岡八幡が怪しい・・・ということになります。駅から歩いても、10分ほどの位置でしょうか。ただ、境内に池や釣堀があったという話は、かつて聞いたことがありません。

>Papaさんの素晴らしいブログを荒らしているような…
いいえ、まったくそんなことはありません。むしろ、こういう謎や課題を推理し、調べて解いていく過程がとても楽しく、面白いところだと思います。このサイトをやっていて感じるダイナミズムですね。こちらこそ、小出楢重のことを書いていながら、その経歴に詳しくなくてすみません。
by ChinchikoPapa (2011-09-22 12:39) 

kako

「これほど“巨大”に…」ほんと、ChinchikoPapaさんのブログ、すごいです。内容の濃さと更新スピードの速さが比例しているのが、信じられません。ふつう、反比例すると思うんですが…。
ところで、さっき、お風呂に入りながら、また、ふと馬鹿なことを考えてしまったのですが、例えば、「大久保の八幡宮釣堀の池畔に…」という記述のもとになった資料が、手書きの文書で(文書の記録があったとすれば、大元は間違いなく手書きですよね)、それが、もし横書きだったとしたら、当時は右から書いていたわけですから、「大阪の八幡宮」と書かれたものを、「大久保八幡宮」と読み間違えたという可能性もあるのではないかと…。かなり、こじつけみたいですが、当時、楢重は大久保あたりにいたはずだという先入観をもって読んだとしたら、「阪」のつくりを「久」と、こざとへんと「の」を合体して「保」と読んでしまうということも、あり得るのではないかと、思ったりしてみたのですが。
長年、人の原稿を読む仕事をしてきまして、最近はご年配の方でも、ほとんどみなさん、PCをお使いになるので助かっていますが、昔、ほとんどが手書きだったころには、達筆な方の原稿に非常に苦労した記憶があるものですから、つい、こんなアホなことを考えてしまいました。お笑いください。
by kako (2011-09-23 02:41) 

ChinchikoPapa

kakoさん、コメントをありがとうございます。
わたしも、いろいろとあれやこれや考えていました。もし、「大久保の八幡宮釣堀の池畔に座敷を借りて《竹林》を制作」という記述が、ほんとうに東京での出来事だとしたら、そして「大久保の」という地名部分が間違っているとすれば、あとはどのようなケースが考えられるのか?・・・というテーマです。そのカギとなるのが、「八幡宮」という表現なんですね。
ふつう、八幡神=誉田別(ホンダワケ)を奉った社は八幡社、明治以降は八幡神社といわれるわけですが、八幡宮と表現されるのは中でもいわれの古い、元締めとなるような大きな八幡社(たとえば鶴岡八幡宮)か、あるいはそこの分社でなければ「宮」という表記はつかわない・・・ということなんです。そういう視点から、改めて東京近郊の八幡を眺めてみると、大久保ではなく、新宿をはさんで反対側(南側)の代々幡村(現・代々木)に、代々木八幡宮があります。
代々木八幡宮は、まさに鎌倉の鶴岡八幡宮から勧請された分社であり、「八幡宮」と名乗ることができる社格を備えていますね。小出楢重が東京へやってきた大正中期、陸軍の代々木練兵場が近くにあり、周囲は水田にかこまれていたと「豊多摩郡誌」(1914年・大正5)には書かれていますので、おそらく灌漑用の池や湧水があちこちにあったと思われます。江戸期の「沿革図」を見ても、あちこちに池が確認できますね。もちろん、明治神宮(1920~)などいまだ存在せず、周囲は田園風景が拡がっていたんでしょうね。
「大久保」→「大阪」の読み違え、面白いですね。このサイトをやっていますと、いろいろな資料を調べることが多いのですが、案外ありそうな、そしてありがちな単純ミスのような気もします。w ときどき記事にも書いていますが、誰かが最初に書き間違えると、それが訂正されずにずっと誤りのまま書き継がれていく・・・という現象ですね。最初に書いた方が、かなり「権威」のある方だったりしますと、ウラ取りがなされないまま書き写されていくケースが多いようです。
もうひとつ、小出はなぜ「大久保」に仮住まいを決めたのか?・・・というテーマもありますね。(大久保という地名に誤りがなければ・・・ですが) 目白の「百姓家」は、明らかに友人である大久保作次郎のアトリエがあったからだと思うのですが、大久保も誰かとのつながり、あるいは誰かからの紹介で座敷を借りたという経緯があったように感じます。
by ChinchikoPapa (2011-09-23 18:26) 

kako

ChinchikoPapaさん、私の些細な疑問にお付き合いいただいて、ホントにありがとうございます。
この件は、なんか、ほとんど藪の中状態という感じですね…。そもそも、『竹林』という絵がどんなものなのかも、わからないですし。
そして、思うのは、随筆とか、日記とかも、実は「創作」であることが多いということです(部分的に創作が入ってしまうことは多々あるはずですし、中には、まったくの創作といっていいものもあるかもしれません)。
人は誰かに何かを伝えようとして、語ったり、書いたりするわけですから、人の興味をひくために少しでも面白くしようという力がその人の内面で働くのは、当然のことなんですよね。
でも、八幡様のことなど、私は全く知識がなかったのでChinchikoPapaさんに解説していただき、ちょっと興味がわきましたし、早逝した楢重の足跡を通して、私自身の「人が残すものって何?」というギモンへの手掛かりが少しつかめそうな気もするので、私ももう少し探ってみようかなと思います。(実は、本格ミステリファンでもありまして…。さして、詳しくはないんですが)
papaさんのご指摘のように、仮に記述に間違いや意図的な改変があったとしても、まったく何の縁もないところから出てくるものというのは少ないと思うので、何か、あるいは誰かに結びつくものが、あるような気がしますよね。
by kako (2011-09-24 02:42) 

ChinchikoPapa

kakoさん、わたしもこのテーマは非常に面白いですので、小出楢重の資料にも改めて当たってみたくなりました。まさに「藪の中」状態ですが、なにか解明への糸口がありそうですね。
きのう散歩をしながら、ふっと思い出したのですが、夏目漱石の『永日小品』に大久保の神社へ魚を獲りにいく話が載っていたのを思い出しました。物語の内容は創作だと思うのですが、周囲の地勢や描かれている情景は事実だと思われる作品です。
もし、「大久保の八幡宮釣堀の池畔」という表現の中で、「八幡宮」の部分がなにかの都合で誤記された、あるいは勘違いされた(大阪の八幡宮と混同されたなど)と仮定して、「大久保の○○○釣堀の池」とすると、該当する社がひとつだけありそうです。
漱石は、早稲田から戸山ヶ原あたりを南へと下り、大久保村の貴王社(現・鬼王神社)の杜にあったらしい池へ、「叔父さん」に連れられて魚を獲りに行っています。当時の地図には描かれていませんが、貴王社には魚が獲れる池が存在していたようですね。また、釣り堀とは書かれていませんが、漱石の経験は明治後期のことであり、その後に釣り堀が開設された可能性もありそうです。
わたしも、謎解きはかなり好きでして^^、記述が誤っているにせよ、なんの原因もベースとなる現象も存在せず、唐突に書かれているものとは思えないんですよね。なにか、そう記されるベースとなる出来事があったように思いますので、継続して調べてみたいと思います。
by ChinchikoPapa (2011-09-24 11:00) 

kako

『永日小品』の「蛇」ですね! ChinchikoPapaさんの凄い記憶力に、またまたびっくりです。私は同じ「四篇」に収載されている『文鳥』が大好きで、学生の頃、これを読んで、漱石に惚れてしまったんですが(ユーモアと甘くほの暗いエロスとタナトスのバランスが絶妙ですよね)、『永日小品』は、ささっと読み飛ばしてしまい、猫が死んでしまった話以外は、まったく記憶に残っていませんでした。
今、本棚の奥から、復刻版の初版本を引っ張り出して確認しました。この「貴王様」というのが、大久保にあるんですね。papaさん、なんでそんなことまで、知ってるんですか!? ホントにびっくりです。
ところで、また無理やりな話ですが、漱石も生涯、胃病に悩まされていたわけで、渡欧先はロンドンとパリで違いますが、漱石が明治の精神と近代化の狭間で苦しんだように、楢重も大阪土着の猥雑さを愛しながらも、西欧文明に惹かれ、芦屋に移り住んだのちは徹底した洋風の暮らしをしていたということですから、内面は漱石同様、ぐちゃぐちゃに引き裂かれるようなところがあったのでしょうか。それを、あえてユーモアで包んだ文章で表現したり、豊饒な裸婦像として表してしまうところに、やはり、とても魅力を感じます。
by kako (2011-09-24 17:09) 

ChinchikoPapa

kakoさん、コメントをありがとうございます。
『永日小品』は、わたしも初代のネコ死んじゃった(布団の上から、2代目のネコ踏んじゃった・・・のエピソードもありましたが)の話が、やはりいちばん強く印象に残っています。三代目の皮膚病にかかる黒ネコも、漱石の病気とシンクロしているようで、どこかユーモラスな感じですね。
「貴王様」は、明治以降はおもに「鬼王」と表現されるようになった、大久保村にある比較的大きな社です。いまは、「大久保」という地名が山手線の駅名のせいで、本来の位置から西へズレており、貴王社は新宿歌舞伎町の一部となってますね。
昔から貴王社が気になるのは、江戸時代に稲荷社と習合しているのですが、本来の主柱は将門だからでした。山手線をはさみ、東側には将門の貴王社が、西側には将門の鎧社が並んでいますので、神田明神とともに江戸東京の気になるポイントだからでした。漱石は明治政府が喜びそうな「鬼王」とは書かず、本来の「貴王」という地元の表現を尊重していますね。
きわめて日本的でファウンダメンタルな自己と、従来には見られなかったまったく新しい西洋表現に強く惹かれて、「引き裂かれた自己」を感じていたのは、おそらく多くの洋画家も同様だったのではないかと思います。よく記事にも登場します、岸田劉生なんかがその筆頭かもしれませんね。佐伯もフランスから帰国する際、「北宋画の線を学びたい」と言っていますので、どこかでアジア的なもの、あるいは日本的なものに回帰する時期というのが、もう一度自身の足元を改めて見つめてみるという瞬間が、さまざまな分野の表現者には訪れるのだと思います。
小出楢重も、そもそも「竹林」というような画題、まるで日本画のようなモチーフ(画因)を選んでいるところをみますと、そういう想いにとらわれた時期が少なからず、繰り返しあったのかもしれませんね。
by ChinchikoPapa (2011-09-24 19:31) 

ChinchikoPapa

kakoさん、なんとなく見えてきた気がします。
「大久保の八幡宮釣堀の池畔」は、あながち間違いではない表現のように思います。大正期、大久保村に隣接する戸山が原は、周囲の人々から「大久保」と認識されていますね。実は「和田戸山」というのが昔ながらの地名であり、大正期は「戸山」という地名なのですが、戸山が原の射撃場や練兵場は、ときに「大久保の射撃場」「大久保の練兵場」と表現されることがありました。つまり、ここでいう「大久保」を「戸山」に置き換えれば、すべてが見えてきそうです。
高田八幡は、近世になり古墳の羨道と思われる横穴が見つかり「穴八幡」と呼称されるようになりますが、高田八幡社だったものが「穴八幡宮」と表現されるようになります。現在、同社はみずから「八幡宮」と名乗っていますね。この八幡宮には、江戸時代から放生会のときに使用する八幡宮池があったようです。つまり、活きた魚を放して「いいことをした」功徳を積むという仏教の概念です。
ところが、明治以降は神仏分離で放生用の池は、仏教的な目的のために隣接する放生寺の管轄となり、八幡宮池は穴八幡とはいちおう分離されてしまいますが、八幡宮池という呼称はおそらく残っていたのではないかと思います。つまり「大久保」は「戸山の北端」が正しい表現であり、今日的にいうなら「早稲田の」と置き換えたほうが自然ですね。魚がたくさんいたこの池の一部が、釣り堀になっていたかどうかは未確認ですが、殺生をしないリリース専門の釣堀があった可能性は高いと思います。
つまり、早稲田の穴八幡宮の旧・八幡宮池の畔と解釈するのが、いちばん近い解釈でしょうか。ここには、明治末に若山牧水も下宿していましたので、大正中期にはさらに貸間や下宿がたくさんに増えていたと思います。
さて、きょう日動出版から発行された『小出楢重』(匠秀夫)を図書館から借りてきたのですが、小出楢重本人が「目白」と随筆に書いているのに、この本でも「大久保の百姓家」となっています。広津が戦後すぐに文章をかいたとき、小出楢重の著作が手元になかったため、勘違いして書いた可能性があるのは理解できますけれど、ある程度、時代を鳥瞰できる時期に同書をまとめた匠秀夫が、「大久保の八幡宮」で「???」とならなかったのは、彼が北海道出身であり東京に土地勘がなかったせいだからでしょうか? 同書の内容に従えば、大久保作次郎のアトリエも「大久保」にあったことになってしまいますね。^^;
by ChinchikoPapa (2011-09-25 23:51) 

kako

あ、あ、あ、あの、穴八幡なんですか?
我々が、時に、アイスなんか齧りながら歩いていた…。ひょっとしたら、とは思っていましたが…。たしかに、あのあたりなら、竹林ぐらい、あったかもしれませんね。でも、あそこで、楢重が絵を描いていたとしたら、なんだか、楽しい気分ですね。(あの境内では、悲しい事件もありましたが…)
それにしても、ChinchikoPapaさんの調査力には感服です。今日、ちょっとブルーな気分になっていたんですが(昨日だったか、たまたま付けた教育テレビで、『山月記』の解説みたいなのをやってて、なんだか自分の無能さを言われているような気分になり…。馬鹿みたいでしょ)、また、明日から、私も頑張ろーと、ちょっと元気が出ました。
目白と大久保の混同は、「竹林」制作のために一時的に借りていた「座敷」と、その後、腰を落ち着けた「目白の百姓家」が、わりと近かったために起きたものでしょうか。何か、こうなると、幻の「下落合(目白)風景」と同様、「竹林」も観てみたいですね。岸田劉生なんかは、楢重のことを「あいつは下人だ」とか言って、見下していたらしいですが、私はやはり、楢重の懐の深さみたいなものに惹かれてしまうんです。
by kako (2011-09-26 00:53) 

kako

また、ふと「?」と思ったのですが、楢重の「胃腑漫談」の「東京の目白のある田舎道で夜の八時過ぎだった、急にフラフラとやって来て暗い草叢の中へ倒れた」という記述は、自宅への帰路であったとは記されていないですよね。これだけ読むと、楢重は、たまたま大久保作次郎のアトリエを訪ねる途中で倒れたとも読める気もするのですが…。そうであれば、広津和郎の「彼はその大久保附近の町を歩いている中に、例の胃の発作におそわれて、」という記述も、本来「大久保邸」などとするべきところ、「邸」が脱落したとも考えらえるのでは…、と思ったりしたのですが。
広津和郎の「奈良と小出楢重」は、未読にして前後の記述を存じませんし、楢重が目白に住んでいたという記載がほかにもあるのかどうかも、浅学にして承知していないので、また、ただの思いつきなんですが…。
ひょっとしたら、楢重の東京の住まいは、穴八幡の池のほとりの座敷で、目白界隈へは、大久保作次郎などとの交流の中で訪れていたということはないでしょうか?
by kako (2011-09-26 02:14) 

ChinchikoPapa

kakoさん、コメントをありがとうございます。
記事末に、小出楢重が大阪からやってくる前年、1918年(大正7)の1万分の1地形図と、1936年(昭和11)の空中写真を掲載しました。ご参照ください。江戸期には、みな穴八幡の境内だったエリアですが、明治以降は敷地の南西側が放生寺の境内として分割されています。1万分の1地形図には、放生寺本堂の裏側に八幡宮池(放生池)が採取されていますね。
池の西側の放生寺境内には、おそらく寺が経営する学生下宿あるいは貸間とみられる建物が、何棟か建っているのもうかがわれます。おそらく、牛込に住む友人(鍋井克之)の紹介かなにかで、小出楢重はここの貸間を紹介されたのではないかと思われます。1936年(昭和11)の空中写真にも、池の周囲に同じような建物が見えますが、かなりの年月がたっていますので、たぶん建て替えられていると思いますが・・・。
若山牧水が、穴八幡の下宿から戸山ヶ原や落合地域へ散歩に出かけていることは、以前の記事でもご紹介していますが、ひょっとすると小出楢重が利用した貸間のごく近く、あるいは同一の下宿だった可能性もありますね。
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-03-28
もし、小出が借りていた貸間が穴八幡宮の放生池(八幡宮池)の池畔だとしますと、ここは寺の境内ですので「百姓家」は存在しません。また、すぐ南は早大の運動場(のち早稲田高等学院)、そして陸軍の戸山ヶ原ですので、「百姓家」は存在しないですね。貸間(座敷)と一戸建てとでは、やはり表現にちがいがあると思うのです。
岸田劉生は、歯切れの悪いしゃべり方をする人間をじれったく感じる、下町ならではの感覚を強く持っていたでしょうから、小出のもごもごとしゃべる「どんもり」に「こいつぁダメだ」と単純に思いこんでしまったのかもしれませんね。会話にリズムを産み出せない人間を、単にコミュニケーション下手とはとらえず、「人間性がダメだ」と解釈しそうな劉生の下町気質を感じますね。w
by ChinchikoPapa (2011-09-26 10:58) 

ChinchikoPapa

kakoさん、重ねてコメントをありがとうございます。
目白で俥に助けられる記述は、「百姓家」への帰路ではなく大久保作次郎を訪ねるところだった・・・という可能性は、小出自身が著した著作を見直してみたのですが、その可能性を否定する材料は見つからないですね。w
ただ広津の文章では、「大久保の田舎道」と「借りていた百姓家」とはセットになって記述されており、そのつづきの文章として上の記事に引用しました貧血で倒れ大久保作次郎邸の裏門へ付けてもらった・・・という広津文章につながっていますので、「百姓家」=田舎道=大久保邸の近くという感触は動かないのではないかと感じます。
そうしますと、「貸間」(貸座敷)ではなく「百姓家」(一戸建)を借りていたのは、1919年(大正8)にはすでに下落合に建っていた大久保アトリエの近く・・・と解釈するのが自然であり、すでに商店街もできて住宅が建て込んでいた、早稲田通りの周辺ではない・・・と思うのです。
小出が、八幡宮池畔の貸間にいた時代から、3年後に撮影された早稲田界隈の空中写真を、少し前にこちらでご紹介していますが、広津が表現する「百姓家」の情景とは、やはりあまりに違いすぎる風景だと思いますね。
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-07-07
当時の大久保地域(西大久保・東大久保・百人町)を考えますと、おそらく早稲田以上に住宅街が拡がっていたと思います。でも、1919年(大正8)の目白(下落合)界隈は、停車場からすぐのところに「田舎道」が、いまだあちこちに残っており、「百姓家」もかなりの軒数がそのまま建っていたと思うのですね。
by ChinchikoPapa (2011-09-26 11:37) 

kako

またまた、詳細なご解説をありがとうございます。
そうですね。早稲田界隈って、今の感覚だと、山手線の中の田舎…という気がしていたんですが、当時から、大学もあり、神楽坂も近い「町」だったんですね。そのあたりを、漱石が歩き、小出楢重が歩いていたんですね…。
もう、しばらく行っていないのですが、久々に、早稲田から馬場、下落合方面にも行ってみたくなりました。でも、下落合に行くと、和気一作を思い出して、悲しくなってしまいそうです…。時は容赦なく過ぎていきますね。
あ、でも、ニュートリノの方が速いんでしたっけ?
そんなニュースが流れ、自分の作品がネット上で云々される時代が来ようとは、漱石も楢重も、びっくりでしょうね。
by kako (2011-09-28 01:20) 

ChinchikoPapa

kakoさん、ごていねいにコメントをありがとうございます。
小出楢重については、勉強不足であれこれ確定的なお答えができずすみません。いま、いろいろ資料を読み込んでいますので、なにか新しいことがわかりましたら、改めてこちらでご報告いたします。
先日、大久保百人町の「百人町古墳」跡や金山古墳跡、真崎稲荷古墳跡、蜀光山、鎧神社と、神田川沿いの段丘を散歩してきました。ゆるゆると散歩するには、ちょうどよい季節ですね。
ニュートリノは、アインシュタインもびっくりですねえ。先日、タイムリープをするならいつの時代?・・・という会話をしていて、わたしは1926年(大正15)9月の下落合!と答えたのですが、1973年(昭和48)9月の下落合!・・・でもいいですね。ドラマロケが見られるかもしれません。w
by ChinchikoPapa (2011-09-28 12:54) 

ChinchikoPapa

Kakoさん、いろいろ調べてみましたら・・・。
みんな証言している内容や解釈が、メチャクチャなことがわかりました。(爆!) 八幡宮の釣堀は、穴八幡宮(高田八幡)ではありませんし、場所も大久保などではありません。その中で、比較的信憑性が高いのは1919年(大正8)の夏現在、代々木初台に住んで東京にやってくる小出楢重を迎えた、鍋井克之の証言です。
◆鍋井克之の証言
「第六回二科展の出品搬入が始る頃、小出君はそれ等の作品を抱えて、代々木初台の私のさゝやかな家を訪ねて来た。八幡宮の釣堀の池畔にあつた座敷を借りて、そこへ二三日滞在することになつた。私の家があまり手狭だつたにも依るが・・・」
鍋井は、自身が借りていた部屋が手狭だったので、近くの「八幡宮の釣堀の池畔にあつた座敷」を、おそらく小出のためにいっしょに探してやっています。もちろん、この八幡宮とは鶴岡八幡宮から勧請された代々木八幡宮のことですね。つまり、小出は1919年(大正8)の夏は、大久保ではなく新宿をはさんだ反対側の代々木にいたことになります。
これは、鍋井自身が住んでおり、そこへ小出がやってきているので間違えようがないと思われます。ここで小出は、代々木風景としての『竹林』を制作していますね。そして、『N氏の家族』『静物』『竹林』の3点をも二科展に出品しています。ところが・・・
◆広津和郎の証言
◆匠秀夫の解説
「楢重が借りた八幡宮の池畔の座敷というのは、大久保附近の大久保作次郎の家の近辺の百姓家の一間で、その頃の大久保は野や畑がそこここにある東京の郊外であり、百姓家なども残っていた。」
・・・ということになってしまいます。広津の証言から「代々木」という場所が消え、すべて「大久保」になっていますので、匠秀夫もそれを踏襲した解釈の上で『小出楢重』(日動出版/1975年)を書いています。
まず、広津が「大久保」と書いてしまったのは、やはり「大久保作次郎」に引きずられたものでしょうか? 大久保作次郎は、大久保に一度も住んだことはなく、1919年(大正8)現在は下落合で暮らしています。つまり代々木八幡の近くにあり、小出が二科展出品までの短期間借りていたと思われる「八幡宮の釣堀の池畔にあつた座敷」を「代々木」ではなく「大久保」と記し、樗牛賞を受賞したあと転居したのであろう大久保作次郎邸の近くにあった「百姓家」を、「下落合」または「目白」と書かずにこちらも「大久保」と記していることになります。小出の2ヶ所の居住地を、いずれも二重に間違えているのは、広津和郎の証言がもっとも重視され、それを匠秀夫が踏襲して小出楢重伝を著したがために、「代々木」とも「下落合」ともまったく場違いな「大久保」という地名が、年譜も含めた小出の資料にエンエンとつづくことになってしまったのではないかと思われるのですね。
例の新聞記者を装った詐欺師が、小出作品を持ち逃げする事件ですが、鍋井克巳は代々木での出来事としているのに対し、広津は樗牛賞受賞後の「大久保」の「大久保作次郎の家」近くの百姓家での出来事としていますので、どちらだか非常に曖昧な状況ですね。ww 受賞後だとすると、短期間住んだ代々木ではなく、目白のような気がしますが・・・。
by ChinchikoPapa (2011-10-08 14:44) 

ChinchikoPapa

kakoさん、・・・というわけで、記事末に掲載しました、おそらくまったく関係のないと思われる穴八幡宮の明治地図、および空中写真を削除しました。
残念ながら、代々木八幡が掲載された明治期の地図も、また昭和初期の空中写真も手元にありません。
by ChinchikoPapa (2011-10-08 20:31) 

NO NAME

Papaさん、またまた、詳細なご解説、ありがとうございます。唖然というか、あはは…というか、ウフフ…というか。
まあ、みなさん、後世のために正確な記録を残そうとされていたわけでもないでしょうし、現在のネット上で不正確な情報がどんどんコピペされていくのと同じことなのでしょうね。何か、昔の人はもっとちゃんとしていたように思ったりしてしまいますが、情報などというものには、今より、はるかにぞんざいだったとしても、不思議ではないかもしれないですね。あと、しいていえば、大久保、目白、代々木とも、あまり気にしない人にとっては、すべて新宿近辺で、例えば大阪と対比するなら皆同じ、くらいの感覚だったというようなこともあるのではないでしょうか。
それにしても、Papaさんの調査力には、びっくりです。小出楢重が、もう少しメジャーな画家であったら、ドキュメンタリー番組が作れるのでは…、と思ってしまいます(大久保作次郎の記事の方にお書きになっていた楢重の大久保作次郎評もすごく面白いですし)。
しかし、皆、見てきたように、滅茶苦茶、お書きになりますよねー。まあ、自分自身や知人に関する他人の噂などを耳にしたときなども、「なんで?」と思うことがよくありますし、証言とか記録というのも、そういうものでしょうか。あてにならないとも思えますが、そのいい加減さがまた、人の面白いところという気もします。
by NO NAME (2011-10-12 00:23) 

kako

ごめんなさい。先ほどのコメントに記名を忘れました。ChinchikoPapaさんの記事をいつも楽しみにさせていただいています、kakoです。また、興味深い記事を期待しています!
by kako (2011-10-12 00:28) 

ChinchikoPapa

kakoさん、ごていねいにコメントをありがとうございます。
もう、ハハハハァ~~ア・・・の状況ですね。^^; 広津和郎は、1919年(大正8)当時は牛込矢来町に住んでいますので(おそらく実家です)、西にある広大な「大久保」(現在の早稲田の南側から新宿歌舞伎町まで)をイメージし、その方面を適当にすべて「大久保」と呼んでいた可能性もありそうです。あながち、大久保作次郎の名前から・・・ではないかもしれませんね。
広津和郎は牛込(現・新宿区)生まれですので、匠秀夫は彼の証言がいちばん正確のはずだと採用したものでしょうか? でも、小出楢重周辺の友人たちの中では、いちばん間違った証言のわけですが。(爆!)
閑話休題
その大久保から牛込柳町、早稲田界隈を拠点とする新宿タウン誌があるのですが、次号では『さよなら・今日は』が登場しそうです。森繁久彌が早大の演劇博物館へ寄付した、同ドラマの台本を取り上げてくださり、わたしのブログと連携した記事を制作中です。おそらく、同ドラマが久しぶりにメディアへ取り上げられることになりますね。
このような情報誌をみて、マーケティング的にはいまでも売れるかもしれないと、DVD化の企画担当者が判断してくれるとうれしいのですが・・・。掲載されたら、改めて記事でご紹介する予定です。^^
by ChinchikoPapa (2011-10-12 15:01) 

ChinchikoPapa

昔の記事にまで、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2015-04-14 20:25) 

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