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射撃場の廃止移転への上落合連判書。(下) [気になるエトセトラ]

小泉癸巳男「陸軍射撃場」1937.jpg
 落合町の署名者を、少し詳しく見ていこう。まず、署名筆頭に記されている加藤公太郎(上落合524番地)は、地元旧家の出であり衆議院への「請願書」Click!当時は、上落合の町会役員および月見岡八幡社の氏子総代をつとめていたと思われる。以下、『落合町誌』Click!(1932年)から引用しよう。
  
 当家は草創の旧家で、町内に於ける徳望家として称へられて来た家柄である、氏は先考藤太郎氏の長男にして明治二十二年一月三十日を以て出生、酒類商武蔵屋を経営して家名に数段の色彩を添へつゝあり、一面町内協和会、八幡神社氏子総代等公共の事に熱心関与する処あつたが、町民の輿望益々加はり、昭和四年五月町会議員に推され、警備委員を兼ね以て現在に至る
  
 また、やはりのちの落合町会議員であり、大正末には自治活動へ積極的に尽力していたと思われる、高山治助(上落合577番地)の項目を引用してみよう。
  
 徳孤ならず、氏の在るところ必ず徳風起り良俗養はるゝと云ふても過言ではない、事ほど人格の高潔、稀に見る徳望の士である。而も徒らに売名を好まず深く蔵して顕さずといへども、生来の止むに止まれぬ犠牲的精神の発露は、夙(つと)に公共自治への尽力となり、現時第二小学校児童保護会副会長、八幡神社氏子総代、栗原親和会副会長、町会議員、衛生委員、家屋税調査委員、同二次委員等の職に就き、蹇々(けんけん)の至誠を努して、日も之足らざるの状である。
  
 もちろん、『落合町誌』へ氏名を掲載するには、「紳士録」へ名前を載せるのと同様に、発行主体である落合町誌刊行会へ出版協賛金を払っているのだろうから、その文面はおおよそ美辞麗句を書き連ね、必要以上に“ヨイショ”している可能性が高いと思われるのだが、「請願書」への署名者が地元の活動にことさら熱心だった人々であることはまちがいない。
 また、文中に出てくる「協和会」あるいは「親和会」というのは、大正末にできた上落合の町会組織であり、その形成母体となっているのは1923年(大正12)9月に起きた関東大震災Click!自警団Click!だった可能性が高い。江戸東京の(城)下町Click!では、江戸期からの町内仲間や町内連中が明治以降、町内会的な組織へそのまま移行しているケースが多いけれど、乃手の町会は関東大震災を契機に誕生しているものがほとんどだとみられる。ちなみに、上落合字伊勢宮下を中心に組織された、上落合協和会の様子を『落合町誌』から引用してみよう。
衆議院請願第624号19250220.JPG 陸軍受領第1318号.JPG
小滝橋.JPG 上落合住宅街.JPG
  
 本会は大正十四年十一月二十三日部落親睦と公共助成を目的として創立し、初代会長に故林宇之助、同副会長宇田川忠蔵、二代会長山本秀樹、同副会長高山万太郎諸氏を経て、現会長小林亨次郎氏就任、会員三百五十余名を算する団結厚き自治会である、
  
 また、上落合字栗原下を中心に組織された、栗原親和会の様子も引用しておこう。
  
 自治的精神の発達には、凡ての自覚を協力一致の力に俟たねばならぬのは論を要せないが、其の統一に於て内容に於て名声を馳する栗原親和会は大正十四年十一月の創立にかゝり、(中略) 現在会員六百五十人を擁し、着々自治齋美の実を挙げつゝあり、因に会長には秋元虎松氏野々村金五郎氏を経て現在磯田正朝氏其の任にあり、副会長は高山治助、近藤健蔵の両氏である。
  
 ここに登場してくる人物が、ほとんど「請願書」署名に参加している点に留意したい。いわば、大久保射撃場の「撤廃移転」は町ぐるみのテーマだったといえるだろう。
 周辺の自治体が連合して、帝国議会へ直接きびしい内容の「請願書」を提出するにおよび、陸軍省はようやくシビアな危機感を抱いただろう。議会で同射撃場の「撤廃移転」決議でも出されてしまったら、現実に代替地を探して戸山ヶ原から出ていかなければならなくなる情勢だった。大正期から昭和初期にかけ、まがりなりにも議会制によるデモクラシーがいまだ機能していた時期では、すべてにおいて「軍の意向」がそのまま最優先され、まかり通るような状況ではなかったのだ。
上落合署名1.JPG
上落合署名2.jpg
 また、陸軍省の側としても、頻繁に寄せられる住民からのクレーム処理Click!に辟易していたと思われ、抜本的な対策を講じる準備を進めていたのかもしれない。なぜなら、この請願を受けてからほどなく、小銃の射撃場全体をコンクリートのドーム(射撃隧道)Click!で覆ってしまうという計画が、それほど間をおかずに提起されているからだ。おそらく、陸軍省内部では早い時期から、そのような施設の建設計画が審案として存在しており、1925年(大正14)2月の議会への「請願書」が直接的なきっかけとなって、具体的な実施の運びとなったようにも思われる。
 落合町では、陸軍軍人が直接署名している事実こそないが、その父親あるいは兄弟と思われる人物が“代理”で署名しているケースがまま見られる。たとえば、上落合512番地に住んでいた橋本群という人物は、『落合町誌』が出版された1932年(昭和7)には陸軍砲兵大佐であり野砲第一連隊長をつとめている。ところが、同じ敷地内に住む父親ないしは兄だろうか、橋本幾次郎という人物が「請願書」に署名していたりするのだ。
 また、上落合には戸山ヶ原が近いせいか、陸軍関係者が数多く住んでいた。ちょっとピックアップしただけでも、陸軍歩兵少佐・足羽善行(930番地)、同科学研究所技師・宇田川春太郎(189番地)、同砲兵中佐・川上寿(515番地)、同歩兵少佐・川上明(511番地)、同歩兵少佐・城戸常規(931番地)、同歩兵中佐・黒田重徳(736番地)、同砲兵大佐・林狷之助(番地不明)・・・と佐官クラスがずいぶん住んでいる。これら上落合に家庭を持つ軍人たちも、できることなら「請願書」へ署名したかったのかもしれないのだが・・・。それほど、いつ流れ弾が自宅にまで飛んできて両親や妻、子供たち家族を殺傷しても、決しておかしくはない状況だったのだ。
高山治助.jpg 福室郷次.jpg 中村金四郎.jpg 福室りん太郎.jpg
秋元虎松.jpg 荒川角次郎.jpg 加藤喜崇.jpg 磯田正朝.jpg
 おそらく陸軍省内や近衛師団の内部でも、大久保射撃場の根本的な設備改善と安全性の確立を求める声が、大正期の後半あたりから少なからず大きくなっていたにちがいない。周辺の頻繁に起きた流弾被害については、近々改めて「落合地域の事件簿」Click!で取り上げてみたい。

◆写真上lot49sndさんClick!よりご教示いただいた、1937年(昭和12)制作の小泉癸巳男による「昭和大東京百図絵」(版画完制判)の第93景にみる『陸軍射撃場』。
◆写真中上上左は、1925年(大正14)2月20日に衆議院へ提出された衆議院請願第624号「請願書」。上右は、陸軍次官が内閣書記官長から正式に受け取った受領第1318号書。下左は、戸山ヶ原と上落合が部分的に接する小滝橋。下右は、上落合の住宅街の現状。
◆写真中下:「戸山ヶ原陸軍射的場移転ノ件請願書」に付随する、上落合地域の署名簿。
◆写真下:おそらく、地元に住んでいた在郷軍人会のメンバーも含まれているのだろう、「請願書」へ積極的に署名をした上落合の人々。上左から高山治助、福室郷次、中村金四郎、福室鏻太郎。下左から秋元虎松、荒川角次郎、加藤喜崇、磯田正朝。


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コメント 43

lot49snd

小泉癸巳男を紹介していただきありがとうございます。
これだけ住民が反対しているということは、小泉は移転促進の援護射撃のためにこの作品を発表したのかもしれません。
あるいは、当時、それだけ皆が「百図絵」にふさわしい話題性があったということなのでしょう。
リンクまでしていただきありがとうございます。
by lot49snd (2011-04-08 00:44) 

ChinchikoPapa

lot49sndさん、コメントをありがとうございます。
コンクリートの大規模な「射撃隧道」が完成したのは1928年(昭和3)ですが、それ以前の射撃訓練は、なんの覆いもない露天で行なわれていました。周囲に土手をめぐらしているとはいえ、その土手を超えて弾丸が流れたり、あるいはなにかに跳ね返った弾がとんでもない方角へ飛んでいったりしたのでしょうね。
周囲の自治体連合による大久保射撃場の「撤廃移転」運動は、射撃場が露天時代のものです。おそらく、射撃場全体をコンクリートのトンネル状にしたため、流弾の被害や騒音の心配がなくなった1928年(昭和3)の時点で、運動自体は沈静化しているのではないかと思います。先にも書きましたけれど、陸軍省も射撃場施設を積極的に公開して、「安全」キャンペーンを繰り広げた可能性がありますね。
ただ、請願書に書かれている経済上の不便(特に交通関連)は解消されていないわけですから、住民たちの不満はくすぶりつづけたのではないかと思います。そこで、戸山ヶ原を南北に突っ切る環状5号線(明治通り)の工事を、急がせたようにも見えますね。
by ChinchikoPapa (2011-04-08 11:30) 

ChinchikoPapa

緻密なオーケストレイション好みな、ギルの監修眼を感じる作品ですね。彼のオーケストラと勘違いして、買ってしまった1枚です。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2011-04-08 12:21) 

ChinchikoPapa

今回の輪番停電では、ソーラーパネルを導入した知人宅は停電時間が3時間前後ですので、余裕でまかなえているとのことでした。nice!をありがとうございました。>hanamuraさん
by ChinchikoPapa (2011-04-08 12:25) 

ChinchikoPapa

1923年(大正12)の直前に、陸地測量部や東京府はいろいろな縮尺の地形図を作ったようなのですが、それが翌年の大震災ですべて測量のし直しとなり、多くがお蔵入りしてしまった・・・という話を聞きました。このあたりも、ちょっとそそろられるテーマです。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2011-04-08 12:33) 

ChinchikoPapa

米国の図書館では、すでに電子書籍や音楽のネット貸し出しシステム作りが昨年から本格化しはじめていますし、紙媒体やCD/DVD/BD媒体には難しい課題がこれからたくさん出てきますね。ただ、ラジオやTVの普及で新聞がなくなると言われた時代がありましたけれど、新聞・雑誌類は健在ですので、新たな付加価値作りや市場開拓を行なうことで、メディア自体がなくなってしまうことはありえないと思います。nice!をありがとうございました。>Webプレス社さん
by ChinchikoPapa (2011-04-08 12:58) 

ChinchikoPapa

なんにもない原っぱ・・・というのが消えて久しいですので、野原を見るとホッとしますね。今度の御留山の「ふれあいの森」計画では、なんにもない原っぱが計画されていますので、楽しみにしています。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2011-04-08 13:03) 

ChinchikoPapa

「西武鉄道沿線案内」の、1935年(昭和10)版画像をお送りくださり、ありがとうございました。近々、記事にしてご紹介したいと思っています。nice!をありがとうございました。>ものたがひさん
by ChinchikoPapa (2011-04-08 13:05) 

ChinchikoPapa

その昔、イギリスの「不可知論」哲学の分野でしたか、太陽は赤ではなく青かもしれない・・・と主観的認識のみの世界へ閉じこもっていく本を読んだことがありました。だから共通の客観的認識(存在)は神のみ・・・という、どこか神学がかったところへ落ちていく内容だったんですけどね。nice!をありがとうございました。>cjlewisさん
by ChinchikoPapa (2011-04-08 13:11) 

ChinchikoPapa

昨日、打ち合わせがあって行きは湘南電車、帰りは横須賀線に乗ったのですが、ガラガラでした。いつもの年なら、お花見や周辺散歩の人たちで座れないはずなのですが・・・。nice!をありがとうございました。>sonicさん
by ChinchikoPapa (2011-04-08 13:14) 

ChinchikoPapa

サクラの種類にもよるのでしょうが、都内の名所は若干の時間差がありますね。nice!をありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2011-04-08 15:26) 

ChinchikoPapa

わたしも、今年の花はなんとなく空ろに見えます。きっと心のどこかが、あまりの事態に動顚しているせいだと思います。nice!をありがとうございました。>SILENTさん
by ChinchikoPapa (2011-04-08 17:24) 

ChinchikoPapa

学生時代に歌舞伎町の奥を歩くと、必ず「ポン引き」(死語でしょうか)のお兄さんが声をかけてきました。浅草あたりのお兄さんとは、ぜんぜん雰囲気がちがいましたね。nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2011-04-08 18:56) 

hanamura

あ!画像が変わりましたね!(見れば分かる)
文字、単語での検索の逆に、映像から作者や題名…
グラビアから女優の名前を検索できたらなぁ~っと思います。
by hanamura (2011-04-08 20:54) 

ChinchikoPapa

hanamuraさん、コメントをありがとうございます。
昨日までのアイコンは、ちょっと長く使いすぎましたので、ちょっと気分転換を。^^ まさに、わたしも同じ願望を抱いてまして、パターン検索あるいはグラフィック検索とでもいうのでしょうか、キーワードや人名が見当もつかない場合、写真や人物像から逆にテキストを検索できたら・・・と思うことがありますね。
by ChinchikoPapa (2011-04-08 23:55) 

ChinchikoPapa

樹氷のかたちが面白いですね、生きものみたいです。
nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
by ChinchikoPapa (2011-04-09 00:17) 

ChinchikoPapa

きのうからきょうにかけての春嵐で、こちらはサクラがだいぶ散ってしまいました。nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2011-04-09 22:56) 

ChinchikoPapa

ゴムはもともと樹液だから、アレルギーの出る人がいるのでしょうね。w
nice!をありがとうございました。>tamanossimoさん
by ChinchikoPapa (2011-04-09 23:00) 

ChinchikoPapa

圓通寺の借景庭園を観ますと、セミ時雨が降りそそぐ暑い暑い夏を思い出します。なぜか、圓通寺を訪れるときは盛夏なんですね。nice!をありがとうございました。>opas10さん
by ChinchikoPapa (2011-04-10 15:21) 

ChinchikoPapa

企業の連携を研究することで、効率的にポイントを貯めていくルートがいろいろと見つかるんですね。nice!をありがとうございました。>うたぞーさん
by ChinchikoPapa (2011-04-10 22:32) 

ChinchikoPapa

土壁が剥脱して、小舞がのぞいているのもなんともいえない風情ですね。
nice!をありがとうございました。>mayasophiaさん
by ChinchikoPapa (2011-04-10 22:37) 

ChinchikoPapa

この状況下で選挙にも弱りますが、投票したい候補者がゼロというのはもっと困ったことです。nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
by ChinchikoPapa (2011-04-10 22:40) 

ChinchikoPapa

わたしはオバカでわきまえを知らない知事の「天罰」発言は、兵庫県の愚劣な某知事と同様、人間性を根底から疑うべき言質として、まったく許容できませんね。nice!をありがとうございました。>銀鏡反応さん
by ChinchikoPapa (2011-04-10 23:53) 

dendenmushi

@ChinchikoPapaからいただいたコメント、ご承諾いただけましたので、さっそく本日のブログに転載させていただきました。
 ありがとうございました。
by dendenmushi (2011-04-11 06:15) 

ChinchikoPapa

dendenmushiさん、ごていねいにコメントをありがとうございます。
安藤対馬守が、摂津の佃・大和田各村と佃島の「担当窓口」だったというのは、まさに言いえて妙でわたしもそう思います。下落合に隣接した目白通りの北側、鼠山と呼ばれた地域に、寛政年間には安藤対馬守の下屋敷が建ってました。面白いですね。
by ChinchikoPapa (2011-04-11 14:19) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2011-04-12 12:11) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>ひまわりさん
by ChinchikoPapa (2011-04-12 20:54) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>fumikoさん
by ChinchikoPapa (2011-04-12 23:42) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>ナカムラさん
by ChinchikoPapa (2011-04-13 16:11) 

katox29(加藤 徹)

私は加藤公太郎の孫にあたるものでございます。
紹介ありがとうございます。
最近、叔父叔母から聞いたことで祖父が大震災以降の朝鮮人排除運動に対して公楽キネマ(祖父が作った)に100人単位の韓国人を匿ったことを知り、情報を集めています。
どなたかお分かりの方がいらしたらお知らせください。
by katox29(加藤 徹) (2012-04-17 11:28) 

ChinchikoPapa

加藤徹さん、コメントをお寄せいただきありがとうございます。
お祖父様は、衆議院請願第624号「請願書」の筆頭に署名をされていますので、きっと一連の運動の中核におられたものと想像しておりました。ごていねいに、ありがとうございます。
公楽キネマにつきましては、上落合に住んでいた作家や美術家たちを追跡・研究されていますナカムラさんが、彼らがよく映画を観にかよった映画館として写真を探してらしたので、わたしも長崎側の「洛西館」とともに、にわかに興味をおぼえていました。
でも、関東大震災の際、警察や自警団などに迫害された朝鮮人たちを大勢かくまったというお話は、初めてうかがいました。事実だとしますと、落合地域ではとても貴重なエピソードのひとつだと思いますので、わたしも詳細を知りたいです。このサイトをお読みで、詳細をご存じの方がいらっしゃいましたら、ぜひコメント欄へ情報をお寄せいただければ幸いです。わたしからも、よろしくお願い申し上げます。
by ChinchikoPapa (2012-04-17 12:58) 

まごすず

上記、中村金四郎氏は、戸塚村村長の中村家の出ですか?早くに亡くなった妻が高山右近の子孫であった中村氏でしょうか?
by まごすず (2015-01-14 23:57) 

ChinchikoPapa

まごすずさん、コメントをありがとうございます。
中村金四郎さんの中村家は、江戸期から代々つづく上落合村の旧家で、戸塚村とは関係がないかと思います。奥さんは、下練馬にあった旧家の出身です。
by ChinchikoPapa (2015-01-15 12:44) 

まごすず

私の曽祖父では…と思い、コメントさせて頂きました。実家の母や、5年程前に亡くなった祖母から良く落合の家の話を聞いていました。私の実家にある写真の曽祖父に良く似ていたもので。
落合の家の周りには陸軍の士官学校があったとか、震災時は塩瀬さんが軒先で店を出していたとか。当時は柿の木がたくさんあり、浅草方面から買い付けにくる店もあったとか。
そんな話、聞いた事ありませんか??
by まごすず (2015-01-15 14:36) 

ChinchikoPapa

まごすずさん、重ねてコメントをありがとうございます。
落合地域に「中村さん」はたくさんおられますが、『落合町誌』に収録されている「中村さん」は、先の金四郎さんを含めて9家です。そのうち、詳しい解説が添えられているのは中村金四郎と中村庸の2人で、後者はカネボウの取締役です。
残りの7家は名前のみで、詳細な解説はありません。地付きの「中村さん」は、そのうちの5家ですが、そのうちの4家までが上落合の地主で、残りの1家が下落合の地主です。上落合には、中村銀太郎、中村吉兵衛、中村鍬次郎、中村半三郎、下落合には中村竹蔵の名前が収録されています。この中に、お心当たりの名前はあるでしょうか? 下落合か上落合かで、もう少し絞り込めるとおもうのですが…。
ご承知のように、陸軍の士官学校は市ヶ谷駅前にあり、落合周辺では陸軍幼年学校と陸軍戸山学校が、(下)戸塚村の南側にありました。明治から大正にかけ、落合地域から上高田(野方村)にかけては「落合柿」の名産地で、あちこちの農家で柿の木を栽培しています。おそらく、上記の農業を営んでいたらしい地主の中村家では、すべての家が柿を育てていたのではないかと思います。
by ChinchikoPapa (2015-01-15 15:37) 

まごすず

重ねがさねありがとうございます。
実は曽祖父の曾孫にあたる方の名前も住居も存じておりますが、なにしろ訳ありの断絶状態でして…
いなげや近くの天理教や中野の葬祭場も曽祖父の土地だった、と聞いています。昔は目白駅から他人の土地を踏むことなく家に帰れた、と。菩提寺へ出向いても個人情報ですので…。
曽祖父から続く男子は皆、郎の字がついているようです。あとは高山の親戚に世話になった、と。あ、これもだいぶ個人情報ですね。祖母は亡くなるまで曽祖父の話をしていたので、和解したかったのかな、と私の余計なお世話ですね。
by まごすず (2015-01-15 16:21) 

ChinchikoPapa

まごすずさん、コメントをありがとうございます。
おっしゃるとおり、『落合町誌』レベルの情報は公開されているものですので、別に問題はないかと思いますが、それ以上のことはプライベートな領域ですので書きにくいですね。
小滝橋の稲毛屋近くの土地、あるいは落合斎場の周辺の土地といいますと、やはり上落合におられた心証が強いです。先の中村金四郎の父・中村金左衛門(上落合209番地)は上落合の開発に尽くした人のようで、おそらく江戸から明治の話だと思います。
ただし、江戸期から明治期にかけての名主は、上落合でもっとも大きな地主だった福室家が代々つとめていて、中村家は登場していません。また、下落合村も江戸期より戸長時代までは、大地主だった鈴木家が名主をつとめていますね。ついでに西落合(葛ヶ谷村)は、名倉家が名主を代々つとめていました。
「落合村」という行政区分は1889年(明治22)以降のことで、それまでは江戸期を通じて上落合村、下落合村、葛ヶ谷村の3村でした。

by ChinchikoPapa (2015-01-15 17:18) 

まごすず

何度もありがとうございます。
叔母も母も高齢となり、従兄弟達との和解や墓参り、仏前に線香でも…と叶えてあげたくて曽祖父の情報が少しでも分かれば、と考えていました。村長だった、という事が間違いないのか確認したくて、こちらのブログに辿り着いた次第です。村史、一度拝見してみたくなりました。
またお邪魔させて頂きます。本当にありございました。
by まごすず (2015-01-15 17:33) 

ChinchikoPapa

まごすずさん、なんだかチャットみたいですね。^^
落合村の歴代村長は、鈴木→名倉→鈴木→福室→川村(以下、落合町時代)と、川村家を除き旧・名主=戸長の家がつとめています。この過程で、中村家が登場してくるのは、1904年9月~1908年9月(明治37~41)までの川村村長時代の4年間、助役として先に記しました上落合の中村金左衛門が就任しています。
このあたりの詳細は、1932年(昭和7)に出版されました『落合町誌』に掲載されています。ご参照ください。
by ChinchikoPapa (2015-01-15 17:51) 

スズキ

まごすずさん
落合の中村家は知りませんが中村家は戸塚柏木東大久保百人町と広範囲にありどれも旧家です。東大久保と戸塚の中村は同族ともいわれているそうなので関係はあるかもしれません。しかし戸塚の中村は畠山重忠の遺臣を名乗っていますから高山家とは関係がありません。上落合に高山右近直系の子孫という高山家がありますからそちらの方でしょうか。高山家や中村家については新宿区文化財総合調査報告書4等にありますからそちらを御一読されては。
ちなみに戸塚や東大久保の中村家は家紋が四つ目結いです。
by スズキ (2017-01-08 15:53) 

ChinchikoPapa

スズキさん、コメントをありがとうございます。
「同族」だったといわれる、戸塚と東大久保の中村家は存じませんでした。ごていねいに解説いただき、ありがとうございました。
まごすずさんが読まれて、ご教示いただいた資料等をご覧になれば、なにかの手がかりが得られるか、または具体的なことがわかるかもしれませんね。重ねて、お礼申し上げます。
by ChinchikoPapa (2017-01-08 19:36) 

まごすず

ご無沙汰してます。明日は金四郎さんの命日…という事で久々にお邪魔しました。スズキさん、貴重なご意見をありがとうございます?落合の高山は曽祖母(曽祖父の先妻)の実家で、祖母と弟を産んで早くに亡くなったそうです。初めて富士山に登った女人も先祖に居ると聞きました。後妻さんは練馬の方から来た、と聞いた覚えもあります。現在、転勤で北の国におりまして文献について不自由も多いので帰省した際に色々調べてみたいと思います。またお邪魔させてください。
by まごすず (2017-02-21 20:48) 

ChinchikoPapa

まごすずさん、お久しぶりです。コメントをありがとうございました。
>「初めて富士山に登った女人も先祖に居ると聞きました。」
このあたりから、なにか資料でたどれそうな気もします。ご承知のとおり、富士山の祭神は女神「コノハナサクヤヒメ」ですので、「山ノ神」が嫉妬して事故を起こす、あるいは遭難するといわれ、女性の登山は江戸期には基本的にできなかったはずです。
落合地域は、江戸期から戦前にかけてまで、富士講が盛んな土地がらですが、もし富士山初登頂の女性がいたとすれば、どこかに記録や伝承が残っている可能性が高いですね。ちょっと、気をつけてみます。
by ChinchikoPapa (2017-02-21 22:36) 

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