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目白にあった八甲田の雪中行軍写真。 [気になるエトセトラ]

学習院資料館.JPG
 公的な機関や大きな図書館ではなく、学校にきわめて貴重な資料類が残されていることがある。特に設立が古い学校には、公的に保存されたが震災や戦災で喪失した記録、あるいは逆に公的には保存されなかった記録が眠っているケースが多い。これは学校の関係者やOBが寄贈したり、学校自体が独自に調査・研究するために蒐集した例も少なくない。
 目白の学習院大学Click!の史料館(あるいは図書館)に残された写真類には、これまでまったく未見のものや、断片的な複写では見たことがあるものの、紙焼きの原版では一度も目にしたことのない写真が数多く保存されている。たとえば、明治期の写真だけでも437点が確認できるが、この数は1945年(昭和20)5月25日の山手空襲Click!をくぐり抜けた点数であり、同空襲によって書庫の一部が焼けているので、それ以前の保存点数はもっと多かった可能性がある。中でも、ひときわ目を惹かれたのは、青森第八師団の弘前歩兵第三十一連隊から寄贈された、「八甲田山雪中行軍写真」だ。写真は同連隊の高畑少尉が撮影し、第三十一連隊長から学習院へ直接寄贈されているので、おそらく青森歩兵第五連隊が八甲田山系で遭難した1902年(明治35)のうちだとみられる。「雪中行軍写真」といっても、実際にシャッターが切られたのはわずか5枚にすぎず、それ以上は悠長に記念撮影などしていられる状況ではなかったのだ。
 1902年(明治35)1月末、第八師団司令部では寒冷地における行軍訓練と、太平洋側から日本海側への厳冬季輸送ルートの調査・開拓を目的として、雪中行軍演習を計画した。輸送ルートの確保とは、もし津軽海峡に仮想敵(ロシア)の艦隊が侵入し鉄道が艦砲射撃によって破壊された場合、太平洋側と日本海側の軍事拠点が分断されてしまう・・・という危機感があったからだ。演習計画書の「行軍ノ目的」には、「積雪ノ時期ニ於テ田代街道ヲ三本木ニ進出スル為メ其通過ノ難易並ニ行李運搬法ノ研究」という一文が付記されている。青森が東西に分断された際の、山岳地帯を踏破する軍需物資の輸送ルート確保が主目的として挙げられている。
 雪中行軍演習は、青森第五連隊の将校・下士官兵210名と、弘前第三十一連隊の同38名(+新聞記者1名=計39名)で行なわれた。青森第五連隊は、青森市街を出発して八甲田山系を抜け、田代から三本木、十和田、弘前をまわり青森へと帰着する行程であり、弘前第三十一連隊は弘前市街を出発し、逆まわりで十和田から三本木、田代から八甲田山系を踏破して田茂木野から青森へと抜け、弘前へ帰着するルートを計画していた。
 弘前第三十一連隊の行軍は、山岳各地で地元の案内人(今日の山岳ガイド)を雇っているが、青森第五連隊は「不要」として案内人を雇わなかった。もし、八甲田山系を熟知した案内人を立てていれば、少なくとも山上での環状彷徨は最少限に防げたか、あるいは-40℃といわれる大暴風雪の中での行動を案内人から強く制止された可能性が高い。弘前第三十一連隊は、もっとも難しい八甲田山系の縦走では、入念に6名もの案内人を立てているが、それでも1月27日の猛吹雪では田代平へのルートを見失い、案内人ともども道に迷って露営している。翌1月28日にようやく田代平を発見し、大峠小峠を抜けて田茂木野へ抜ける行程で、青森第五連隊の銃器が棄てられているのを発見して持ち帰ることになるのだが、このとき青森第五連隊の将兵はほとんど全滅に近いありさまだった。
学習院正門1908.jpg 学習院図書館(資料館)1909.jpg
弘前隊雪中行軍01.jpg
弘前隊雪中行軍02.jpg
 弘前第三十一連隊の雪中行軍隊は、38名(+新聞記者1名)の全員が、命からがらなんとか青森へとたどり着くことができた。ただし、帰着できたといっても九死に一生をえて奇跡的に下山できたのであり、新田次郎原作の映画『八甲田山』(1977年)に描かれたフィクションとしての弘前第三十一連隊の姿と、同隊の実情とはまったく異なっている。全員の入院加療が必要なほどのひどい状態で、体力を使い果たし消耗しきっていたと思われる。つまり、八甲田山系へと突入したあとは、行軍隊つきのカメラマン高畑少尉は大暴風雪の中、自身の生命を守るのがせいいっぱいであり、隊員たちへ向けてシャッターを切るどころではなかったのだ。
 残されたわずか5枚の写真を見ると、1902年(明治35)1月20日に弘前市街を出発した第三十一連隊の雪中行軍隊が、途中、大休止をとったところの記念写真からスタートしている。写真の右端に、兵たちとはやや離れてしゃがんでいるのが地元の東奥日報の記者だろう。写真の裏面には、「第壱号図ハ雪中行軍隊明治三十五年一月二十日即チ出発ノ当日 南津軽郡大光寺村大字本町菊池健雄庭内ニテ休憩ノ際 高畑歩兵少尉之ヲ撮影ス 他ノ写真図モ亦同少尉ノ撮影ニ係ル」というキャプションが貼られている。()
 2枚めは、1月20日に黒倉山を登攀中の雪中行軍隊で、ほとんど垂直に近い崖地を登っている。「第弐号図ハ一月二十日雪中行軍隊黒倉山通過ノ際難路ノ状況ヲ撮影セルモノナリ 此ノ如キ難路ハ十和田山八甲田山等積雪ノ為メニ処々在リシガ 大風雪ニ妨ケラレ再ビ其状況ヲ撮影スルノ時ヲ得ズ」という解説が、裏面に添付されている。()
弘前隊雪中行軍03.jpg
弘前隊雪中行軍04.jpg
弘前隊雪中行軍05.jpg
 3枚めの写真は、十和田湖手前の琵琶台を通過中のもので、先頭には地元の案内人(ガイド)がふたり、雪中行軍隊を先導して付き添っているのがわかる。キャプションには、「第参号図ハ一月二十一日雪中行軍隊小国ヲ発シ琵琶台通過ノ状況ナリ 轡導トシテ先頭第一ニ在ルハ樵夫第二ニ在ルハ南津軽郡竹舘村々長相馬清次郎ナリ 此付近ハ山嶺ニシテ風ノ為メニ積雪少ナク行路脛ヲ没セズ 山嶺ニアラザル部ハ一丈以上ノ積雪ナリシナリ」と書かれており、風が吹きすさぶ琵琶台の山頂以外は、積雪が約3mにも達していたようだ。()
 4枚めは、十和田山を踏破中の雪中行軍隊。山頂から渓谷へと下降する途中の隊員たちをとらえたもので、腰まである積雪に悩まされているようだ。このあと、立っていられないほどの急斜面にかかり、ほとんど身体ごと滑って下りるような行軍だったという。右側の将校は、記念写真を撮影するのに際し、いまだ抜刀してささげる余裕が残っている。()
 最後の5枚めは、八甲田山系へと入りこむ前日、1月26日に倉手山の山麓で小休止をとる雪中行軍隊の姿だ。立ち止まってジッとしていると、身体の末端からどんどん凍りついてしまうため、小休止の間も常に手足を小刻みに動かしていなければならず、隊員たちの体力は急速に奪われていった。倉手山の崖から下がる長いつららが、厳寒の様子を物語ってる。() これ以降、1月27日から八甲田山系へと踏み入り、弘前第三十一連隊は案内人ともども山中を道に迷いながら彷徨し、ようやく1月29日に大峠小峠を越えて田茂木野まで到達するのだが、およそ写真撮影などしている余裕はなく、生命を賭した八甲田からの脱出行軍だったのだろう。最低気温が-40℃であれば、カメラが凍りついてシャッターが下りなかったのかもしれない。これまで公開された八甲田の雪中行軍の記録写真は、ほとんどが第五連隊遭難後の救援隊や遺体捜索隊を写したもので、当時の雪中行軍隊自体をリアルタイムで撮影したこれら5枚の紙焼きは、きわめて貴重な記録だろう。
 青森第五連隊の遭難の様子を、1902年(明治35)10月に第八師団司令部がまとめた報告書「歩兵第五連隊第二大隊雪中行軍遭難顛末書」には、次のように書かれている。
  
 行軍隊ハ一列側面ヲ以テ鳴沢渓谷ヲ下レリ 山口少佐倉石神成大尉ハ先頭ニアリテ進路ヲ定メ今泉見習士官(当時最強健ナリシ)ハ後尾ニアリ落伍者ヲ救援セリ 行クコト五百米突ナルモ帰路ヲ認メス 因テ転回シ再ヒ露営地ヲ通過シ尚ホ西南ニ進メリ 患者ハ歩一歩ニ加ハリ飢餓ハ刻一刻ニ迫レリ 登ルコト七八百米突忽チ峻嶺ノ横ハリテ又攀ツ可カラサルニ会シ如何トモスルコト能ハス 長恨之ヲ久フセシカ再ヒ勇ヲ鼓シ露営地ニ至リ 徐々ニ策ヲ講スルニ如カスト三タヒ転回ノ行進ヲ始メ往々死者ノ糧食ヲ収容シテ糒(ほしいい)及餅若干ヲ得タリ 此時興津大尉ハ部下ニ抱護セラレ行進シアリシカ終ニ絶命シ兵卒ノ志気又大ニ消沈シテ逐次其数ヲ滅ス 此往復ニ於テ約三十名ハ昏斃シ田中見習士官、長谷川特務曹長等十数名行路不明トナレリ
  
救援隊生存者遺体収容資料19020226.jpg
雪中行軍遭難顛末書190210.jpg
 厳寒の八甲田山系で、谷間から尾根筋へ、また尾根筋から谷へと絶望的な環状彷徨を繰り返していた様子が、青森第五連隊の生存者証言として記録されている。
 弘前第三十一連隊は、八甲田の田代平をすぎたあたりで、青森第五連隊が遺棄したとみられる銃器類を発見して回収しているが、おそらく同隊が遭難事故を起こしていることに薄々気づいていただろう。第五連隊の捜索活動は、1月末から開始され5月末までつづくことになるが、210名中199名が死亡し、生還できたのはわずか11名にすぎなかった。

◆写真上:学習院が目白に移転した翌年、1909年(明治42)に完成した図書館(現・史料館)。
◆写真中上上左は、1908年(明治41)の移転新築の直後に撮影された正門で、背後には学習院馬場Click!がある。上右は、翌年に竣工した学習院図書館(現・史料館)。の写真は、「雪中行軍隊出発当日ノ休憩」と題された南津軽郡大光寺村での記念写真。の写真は、「黒倉山通過時ノ難路状況」と題された同日の様子で、このときから写真撮影が困難になっていく。
◆写真中下の写真は、「行軍隊琵琶台通過ノ状況」。の写真は、「雪中行軍隊十和田山中ノ渓谷下降状況」。の写真は、八甲田を目前にした「倉手山断崖ノ氷笋ヲ看テノ休憩」。
◆写真下は、1902年(明治35)2月26日現在での生存者および遺体発見の地点を示す賽ノ河原から田代平あたりにかけての地形図。は、遺体収容作業が終了したあと同年10月にまとめられた、国立公文書館に保存されている報告書「歩兵第五連隊第二大隊雪中行軍遭難顛末書」。


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コメント 39

ChinchikoPapa

一気に気温が下がり、真冬に逆もどりしてしまいました。◎◎温泉の入浴剤でも入れて湯船で温まらないと、風邪を引きそうです。nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2011-02-28 15:19) 

ChinchikoPapa

「小悪魔のような」と「悪魔のような」では、まったくイメージが違いますね。w
nice!をありがとうございました。>tamanossimoさん
by ChinchikoPapa (2011-02-28 15:22) 

ChinchikoPapa

最近、新幹線はよく見かけるのですが、しばらく乗っていないですね。ということは、遠出をしていない・・・ということでちょっと寂しいです。nice!をありがとうございました。>hanamuraさん
by ChinchikoPapa (2011-02-28 15:24) 

ChinchikoPapa

暗渠化された流れの跡をたどるのも楽しいですが、蛇行してた川を直線化したあと、元の川が流れていたところを道路にしてしまうケースもあって、クネクネした蛇行道を歩くのも面白いですね。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2011-02-28 15:28) 

ChinchikoPapa

「はい」が6つで「軽度のストレス」の範囲のようですが、なんとなくもっとたまっていそうに感じます。w nice!をありがとうございました。>綾小路曽根斗麿さん
by ChinchikoPapa (2011-02-28 15:31) 

ChinchikoPapa

またロケに出られたのですね、TBSのドラマでしょうか。
nice!をありがとうございました。>漢さん
by ChinchikoPapa (2011-02-28 15:33) 

ChinchikoPapa

これは楽しいアルバムですね。ラテン好き、土臭い演奏が好きなわたしとしては欲しくなりました。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2011-02-28 15:38) 

ChinchikoPapa

わたしの予想は、非常に特殊だったのでしょうか、みごとに外れてしまいました。nice!をありがとうございました。>sonicさん
by ChinchikoPapa (2011-02-28 15:41) 

ChinchikoPapa

春が近づいて、さまざまな匂いが鼻先に感じられるようになると、ハッとするような懐かしい匂いに出会うことがあります。nice!をありがとうございました。>あんぱんち〜さん
by ChinchikoPapa (2011-02-28 15:57) 

ChinchikoPapa

「御備射祭」の形態も、江戸期には農作物の吉凶を農民が占ったことになっていますが、明らかにより古い鎌倉期を思わせる武家文化の「卜術」の名残りを感じますね。nice!をありがとうございました。>ひまわりさん
by ChinchikoPapa (2011-02-28 20:09) 

hanamura

 貴重な記録が残っているのですね。第五連隊遭難=人災的なイメージには、気象の記録から疑問があったので、モヤモヤはスッキリしましたが、最近の異常気象と重なって、重い課題も顕在化したようです。
by hanamura (2011-02-28 20:44) 

ChinchikoPapa

鎌倉を散歩していると、街中までタイワンリスが出没しているのに驚きます。タヌキもアライグマに駆逐されそうだと聞き、考えさせられてしまいました。nice!をありがとうございました。>Sanchaiさん
by ChinchikoPapa (2011-02-28 21:12) 

ChinchikoPapa

hanamuraさん、コメントをありがとうございます。
今日的な気象予報は望むべくもないですが、もう少し山の経験のある人物のアドバイスを重視し、天候の変化へ気を配ってさえいれば、ずいぶん生命が助かったのではないかという気がしますね。方位磁石さえ凍ってしまうほどの、気温の急低下をともなう山の大暴風雪を知っている人間が、地元には必ずいたはずだと思うのですが・・・。
by ChinchikoPapa (2011-02-28 21:20) 

ChinchikoPapa

わたしもやはり、海産物にまず目がいってしまいますね。
nice!をありがとうございました。>da-kuraさん
by ChinchikoPapa (2011-02-28 23:52) 

ChinchikoPapa

FDAの就航機は、ほんとうにカラフルで面白いですね。
nice!をありがとうございました。>うたぞーさん
by ChinchikoPapa (2011-02-28 23:55) 

ChinchikoPapa

大島の元町から差木地までの海岸線が、たいへん印象に残っています。なぜなのか考えてみるのですが、きっと海岸線そのものに魅力があるのでしょうね。nice!をありがとうございました。>ばんさん
by ChinchikoPapa (2011-03-01 00:01) 

ChinchikoPapa

登録してはいるものの、とても手がまわらないFacebookですが、たま~にコメントを上げてたりします。nice!をありがとうございました。>ファンページMAXさん
by ChinchikoPapa (2011-03-01 15:11) 

ChinchikoPapa

『極北の怪異』は、今日的なドキュメンタリーから見ますと、登場人物の動きやカメラワークに演出のあとが顕著ですので、「セミドキュメント」という範疇に入るのでしょうか。nice!をありがとうございました。>galapagosさん
by ChinchikoPapa (2011-03-01 15:16) 

ChinchikoPapa

先日、お御籤を引いたばかりだというのに、もう3月です。
nice!をありがとうございました。>cjlewisさん
by ChinchikoPapa (2011-03-01 15:30) 

ChinchikoPapa

再び、待ちに待った映画記事のスタートですね! 楽しみにしています。
nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2011-03-01 19:10) 

sig

こういう現実の写真が残っていたとは驚きです。
画面の鮮明なのに驚かされます。当時はコダックが出したばかりの箱型のブローニー版小型カメラというものがあったようですが、どんなカメラが使われたのでしょうね。いずれにしても酷寒の中で、カメラやフィルムは機能しなくなったかもしれませんね。
by sig (2011-03-01 19:11) 

ChinchikoPapa

sigさん、コメントをありがとうございます。
わたしも、その生々しさにビックリしました。いまにも、積雪をかき分ける音とともに兵士たちが動き出しそうで、映像の1シーンを見ているようです。
カメラは、おそらく軍隊の装備品でしょうから、当時の最先端の機能を備えたものだったのではないでしょうか。おそらく、カメラが凍りつかないような防寒装備をしていたのでしょうが、それでもシャッターを切っている余裕がないほど、八甲田の踏破は過酷だったのかもしれませんね。
by ChinchikoPapa (2011-03-01 19:23) 

ChinchikoPapa

ヘッドラインのビジュアルに最近、しばし見とれてしまうのですが、水田さんは管理者様のタイプなのでしょうか。ww nice!をありがとうございました。>Webプレス社さん
by ChinchikoPapa (2011-03-01 19:58) 

ChinchikoPapa

新田次郎の小説と事実とは、かなり異なりますね。ストーリーをよりドラマティックに展開するため、かなり大がかりな創作(フィクション)が含まれています。だからこそ、登場人物たちをすべて架空の名前にしたんじゃないかと思いますね。nice!をありがとうございました。>ponpocoponさん
by ChinchikoPapa (2011-03-01 23:51) 

ねじまき鳥

新田次郎の本は読みました。

by ねじまき鳥 (2011-03-02 00:16) 

fumiko

>帰着できたといっても九死に一生をえて奇跡的に下山できたのであり、新田次郎原作の映画『八甲田山』(1977年)に描かれたフィクションとしての弘前第三十一連隊の姿と、同隊の実情とはまったく異なっている。

そうなんですね。-40度、シャッターも作動しませんね。
貴重、丁寧なリポートでした!

ChinchikoPapaさん!
先方から届いた弁明書に対して我々は21日建築審査会に「反論書」を提出しました。そこに口頭審査を早期にして欲しいと記述したところ、審査会から「18日に行います」との連絡が本日届きました。
われ関せずで工事をし続けている業者の非常識に唖然としつつも、我々は最強パワーのアドヴァイスをいただきながら頑張っているところです。
明日には最新の画像もマンション紛争のページに追加しておきます。
アドヴァイスがありましたらよろしくお願いします。
たぬきの森の判決はとても心強いです!
by fumiko (2011-03-02 00:52) 

かもめ

 ごぶさたしておりました。このところの寒さに思い出して雪中行軍記録を見ていたら、こちらもひっかりました。(笑) 弘前隊の写真が残っていたとは! びっくりです。
 後姿から見ると、毛織の外套に軍手や藁沓のようですね。背嚢も小さいので充分な食料や着替や備品はなし。横にあるのは草鞋でしょうか?。
 すでにオイル塗の防水布衣料やワカンはあったはずですが、装備の選定のときに調べが足りなかったのかと。-40℃ではコンパスは当然凍ります。現在のオイルコンパスや電池を使うものでも懐に入れておかなければ。それに、どこかで青森隊の遭難者を見つけていたはず。
 以前、北アルプスの尾根でガイドともども遭難した登山一行を思い出しました。
by かもめ (2011-03-02 10:18) 

ChinchikoPapa

ラムさんの切手アート、(142)と(143)ではどこが違うのか、ちょっと見ただけではわかりません。これは作品を間近で観察しないとわからないのでしょうね。黒ないしは濃いセピアの色合いでしょうか。nice!をありがとうございました。>ナカムラさん
by ChinchikoPapa (2011-03-02 10:22) 

ChinchikoPapa

信玄の被弾伝承、面白いですね。なんらかのエピソードがあったものか、ぜひ掘り起こしてください。nice!をありがとうございました。>ねじまき鳥さん
by ChinchikoPapa (2011-03-02 10:26) 

ChinchikoPapa

『お嬢さん乾杯』はなぜか佐野周二の表情やしぐさが記憶に残り、『カルメン故郷へ帰る』は踊りのゆるゆるリズムが耳に残り、『白痴』は画面の暗さと異様な長さが印象に残っています。いずれも、映画館では観てないですね。nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2011-03-02 10:33) 

ChinchikoPapa

fumikoさん、コメントとnice!をありがとうございます。
建築審査会は、いちおう3ヶ月以内に裁定を下すことになっていますが、タヌキの森ケースですと半年近くかかっています。(それでも違法な「合法裁定」を繰り返したわけですが) 審査期間中も工事を止めないとすれば、違法裁定が出るはずがないとタカをくくっているか、建築審査会は「味方」だとするなんらかの心象(読み)があるものでしょうか。
建築審査会で仮りに「合法」裁定となった場合、間をおかずに提訴という段取りがいいように思います。提訴と同時に、係争中の事案につき工事差し止めの仮処分請求が裁判所に出せますので、裁判所の命令で工事を強制的に止めることができます。竣工・完成してしまってからでは、いくら建築基準法違反の建物であっても、既成事実として存在しているということで取り壊せない事例が多いようですね。このあたり、弁護士さんが各地のケーススタディに詳しいかと思います。
タヌキの森ケースに比べ、建築規模がやや小さめのように感じますので、工事にかかるリードタイムも短いのではないかとちょっと心配です。
by ChinchikoPapa (2011-03-02 10:59) 

ChinchikoPapa

かもめさん、コメントをありがとうございます。こちらこそご無沙汰です。
装備を見ますと、今日の冬山登山の常識からは考えられないほどの“軽装”だと思います。行軍の計画が村から村、人家から人家へと結ぶようにルートが設定されているようですが、そこで食料は随時調達するという段取りだったのでしょうね。でも、もし道に迷って村へ行きつけなければすぐに飢餓状態となり、当然体力も低下する一方となりますので、ほとんど綱渡り計画のようにも映ります。もっとも、それぐらいの危険を冒さなければ、軍隊の演習にはならないという考えも、どこかには付随していたのでしょう。
弘前第三十一連隊の報告では、三本木から田茂木野へと抜ける行程で銃器を回収しているようですが、遭難者を発見したとは書かれていません。これは発見したけれど、自分たちが二重遭難の怖れがあったため救助している余裕がなかったのでそのままにしたのか、それとも大暴風雪のせいで遺体が短時間で大雪に埋もれて気づかなかったのか、さらには三十一連隊自体が八甲田で一昼夜、道に迷って遭難しかかっていますので、遺体が多く散在する現場を通りかからず、五連隊とは異なるルートで田茂木野へと抜けていったものか、そのあたりの詳細は資料からのみではうかがい知れないですね。
by ChinchikoPapa (2011-03-02 11:23) 

SILENT

新田次郎ファンで読みましたが事実は過酷ですね
ノモンハンに20代で参加した方が近くにおられますが
事実とは何なのか考えてしまいますね。
by SILENT (2011-03-02 15:24) 

ChinchikoPapa

SILENTさん、コメントをありがとうございます。
小説はドラマ性をプロットへ織り込むために、ときに事実の持つ“重み”や“鋭利さ”を緩めてしまうことがありますね。フィクションは、過酷で厳粛で容赦のないむき出しの事実(現実)に追い越されていく・・・とは、1980年代ぐらいから言われはじめたことですが、人間の想像力を超えることが現実に起きてみると、実際に起きた出来事をベースに小説や映画、芝居などにするということがどのような意味を持つものか、改めて考えさせられます。
大磯の浜辺に、ウミガメが産卵しにやってくるというのは、さんざん渚で遊びまわったわたしも、一度として見たことがありません。すごいですね。
by ChinchikoPapa (2011-03-02 18:39) 

ChinchikoPapa

家の近くに音楽学校があるのですが、ギターの「帆」かけた若い子たちが夢を胸に航海していきます。nice!をありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
by ChinchikoPapa (2011-03-02 22:01) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2011-03-04 12:48) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>opas10さん
by ChinchikoPapa (2011-03-05 14:11) 

ChinchikoPapa

昔の記事にまで、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>siroyagi2さん
by ChinchikoPapa (2015-09-30 18:25) 

ChinchikoPapa

こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>はじめてのDORAKENさん
by ChinchikoPapa (2016-10-16 15:09) 

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