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古代の下落合に「大王」はいたか? [気になる神田川]

北西側後円部.JPG
 東京23区内には、「すりばちやま」古墳と名づけられた古代の墳墓が、わたしの知る限りふたつ存在している。ひとつは、上野公園の高台にある「摺鉢山古墳」Click!(台東区)、もうひとつが久が原の旧・六郷用水沿いの斜面にある「スリバチ山古墳」(大田区)だ。上野の前者が古墳時代中期(5世紀半ば)ごろの古墳だが、久が原の後者は古墳時代末期(7世紀)ごろのものと新しい。
 都内には、摺鉢山と名づけられた「山(跡)」や「丘(跡)」が多いが、この2例の古墳も発掘場所の名称をとって付けられている。でも、「すりばちやま」という地点を発掘するたびに「摺鉢山古墳」と名づけていたのでは、日本じゅう同名古墳だらけになってしまいかねないので、現在ではもう少し広い地域の名称を取って命名されることが多いようだ。上野にある「摺鉢山古墳」の存在は、明治期から知られていて命名も古いが、久が原の「スリバチ山古墳」は戦後になって発掘されたもので、都内の同名古墳と差別化するために、呼音のまま「スリバチ」とカタカナにしたものと思われる。
 同様のことが「丸山」Click!や「双子山」、「稲荷山」などの古墳地名についてもいえる。少し前に、谷間のユリさんからもコメント欄でご指摘Click!をいただいたけれど、「丸山」(円山と漢字が当てられた例も多い)地名は全国各地に存在しているが、戦前から古墳であることが確認されると「丸山古墳」と名づけられてきた。でも、それでは全国が「丸山古墳」だらけになってしまい区別が難しいので、現在では「丸山」の上に広域名を付けて呼ぶことが多い。港区の「芝丸山古墳」Click!や、茨城県の「石岡丸山古墳」などがその例だ。さらに、あまりに「○○丸山古墳」が多くてわかりづらいので、新しいネーミングでは「○○○古墳」の「丸山1号墳」といった名称も増えてきている。だから、テツオさんが記事へコメントされている「下落合摺鉢山古墳」(仮)Click!あるいは「下落合丸山古墳」(仮)という、差別化のための地域名をかぶせた呼称は、いまや必須といえるのだ。
上野摺鉢山古墳1.jpg 上野摺鉢山古墳2.JPG
芝丸山古墳1.jpg 芝丸山古墳2.jpg
 さて、1984年(昭和59)の調査では帆立貝式古墳とされてしまったが、わたしは本来の姿は前方後円墳ではないかと疑っている、上野公園の摺鉢山古墳についてみてみよう。上野山は明治以降、全体の公園化を含めて多大に人の手が入れられている。おそらく、台地上はあらかた平らに均されてしまい、わたしも鳥居龍蔵と同様に多くの古墳群がつぶされ、破壊されてしまったと想定している。上野の摺鉢山古墳は、全長が100m弱で後円部と前方部のかたちが公園道路のために削られ、また墳丘も平らに削られて、公園の見晴台のひとつにされていたようだ。明治以前には、おそらく全長100m以上のもっと大きな前方後円墳だったと思われるが、いまやその面影はない。造営されたのは5世紀後半、つまり古墳時代中期の後半あたりと推定されている。
 「下落合摺鉢山古墳」が築造されたのは、上野の摺鉢山古墳よりももう少し早い時期ではないかと想像している。古墳時代の中期(5世紀)は、古墳の形式からほぼ5期に大別できるけれど、上野摺鉢山古墳の築造は中期古墳4~5期に相当する。わたしは、「下落合摺鉢山古墳」Click!はそのサイズや規模からみて、全国で巨大な前方後円墳がほぼ同時に造営されはじめた、古墳時代の前期末から中期初めあたりではないかと考えている。よりピンポイントで規定すれば、中期古墳の2期あたりからは、後円部の直径に対し前方部の幅が同等か、直径を上まわるデザインが登場するようになる。でも、「下落合摺鉢山古墳」は、後円部の直径を前方部の東端幅が上まわっているようには見えない。したがって古墳の巨大さ、中期古墳2期以前のフォルムから推定すると、古墳時代の中期1期(5世紀初頭)、ないしは前期4期(4世紀末)あたりの築造ではないだろうか。港区の芝丸山古墳の存在と、その造営時期とを意識すれば、中期古墳1期(5世紀初頭)に比定できるかもしれない。
白石稲荷山古墳1.jpg 白石稲荷山古墳2.jpg
太田天神山古墳1.jpg 太田天神山古墳2.jpg
 この5世紀初頭には、同じ都内の巨大な芝丸山古墳のほかに、関東地方ではどのような古墳が築造されていたのだろうか? 古墳の規模からみて、同様のものは北関東(上毛野地域の群馬/栃木)にみることができる。群馬県藤岡市の白石稲荷山古墳(前方後円墳/175m)と、太田市の太田天神山古墳(同/210m)だ。築造時期と古墳のデザイン、地勢などからいえば、「下落合摺鉢山古墳」は白石稲荷山古墳(中期古墳1~2期)にとてもよく似ており、その巨大さからいえば太田天神山古墳(中期古墳2~3期)に近似している。特に白石稲荷山古墳は、川の河岸段丘に沿って築造されている点でも、下落合ケースとそっくりだ。(しかも群馬の同古墳の地域名はなんと「上落合」だ) したがって、そのまま単純に規定すれば、「下落合摺鉢山古墳」は白石稲荷山古墳と太田天神山古墳とが造営された、ちょうど中間期ごろ南武蔵に築造された大王の巨大墳墓ではないか・・・ということになるのだが、はたしてどうだろうか?
 同じ上毛野地域の栃木県側には、江戸期から明治期にかけ開墾のために崩されつづけた、墳丘のみで推定220mを超える雷電山古墳があるが、本来の姿はさらに巨大な300m前後のサイズだったのではないだろうか? 前方後円墳と思われる「下落合摺鉢山古墳」も、周濠域まで含めれば軽く200mを上まわっていたものと思われる。ほかにも、関東における数多くの古墳は、おもに明治以降も道路や開拓によって破壊されつづけてきた。下落合の周辺域で挙げれば、上落合の小字名にも残る大塚古墳(円墳)が戦前の山手通り(環六)工事で、墳丘に奉られていた地蔵尊のみが残る大久保の金山古墳(円墳)と真王稲荷塚古墳(円墳?)その他も山手線敷設や道路工事で、戸塚(十塚)の高田富士になっていた富塚古墳(前方後円墳)は早大の校舎建設で破壊されている。また、富塚古墳のすぐ隣り、明治以前では古墳が高田八幡としてならされてしまい、のちに境内から羨道が見つかったため通称「穴八幡」(おそらく境内の形状からみて前方後円墳Click!だろう)と呼ばれるようになった社が早稲田にある。(上野山の花園稲荷=穴稲荷Click!も同様のケースだ)
 まつろわぬ、火さえ起こせぬ「坂東夷」が跋扈していた土地は、基本的に「ヤマトタケル」が「征伐」すべき対象としての「野蛮」な武蔵野の「原野」であるべきであり、「地方豪族」の「辺鄙」な墳墓がいくつか発見される程度であれば「問題」はないけれど、あちこちで「大王」レベルの巨大な前方後円墳が多数発見されては、「日本史」として非常に都合が悪く「マズイ」時代が、つい60数年前まで存在していたのだ。たとえ大規模な古墳だとわかっていても、そんなものは「早く消滅させて、なかったことにしてしまえ」という意向が、明治政府とそのエピゴーネンたちの意識の俎上になかったのかどうか? 新宿区教育委員会も、「落合遺跡」の発掘報告書で旧石器時代の発見テーマともからめて、戦前の非科学的かつ「自虐的」な「考古学」の問題を取り上げている。
 これらの巨大古墳が公に認知され、本格的な学術調査がスタートするのは、少なくとも科学的にモノが見られるようになったおもに戦後のことだが、にもかかわらず高度経済成長期からいまにいたるまで、関東地方の膨大な古墳破壊はいまだ止まらない。
朝子塚古墳.jpg 観音塚古墳玄室.jpg
 古代の落合地域に南武蔵勢力を代表する「大王」のひとりがいた・・・というと、「下落合摺鉢山古墳」という仮定の上に、さらに屋上屋の仮説を重ねることになり、学術的には(考古学的にも古代史学的にも)ありえない想定だが、わたしのイイ加減なこのサイトでなら、そこまで想像の幅を拡げても別にどこからもお叱りを受けないだろう。4世紀末から5世紀初頭の南武蔵勢力を代表する王のひとりが、平川(江戸期から神田上水で現・神田川)沿いの目白崖線斜面へ築かれた巨大な墳墓とともに、1600年の時を超えて眠っているかもしれない・・・と想像すると、この土地に連綿と伝わる人々の愛着やこだわりを強く感じて、いまに生きるわたしも、なんとなく優しい気持ちにもなってくる。
 では、これだけ大規模な前方後円墳を造営するだけのマンパワーや経済力が、当時の下落合とその周辺域に実際に存在したのだろうか? 実は、その答えはすでに出ている。古代の、おもに上落合地区には古墳時代の住居跡が多く発見されているし、またより大規模な遺跡である「落合遺跡」(旧・下落合4丁目の目白学園敷地)も同様だ。特に、「下落合摺鉢山古墳」から西南西へ300~600mあたりの地域、最新の「上落合二丁目遺跡」(上落合1丁目21~23番地/上落合2丁目4~8番地)や、「上落合二丁目西遺跡」(上落合2丁目27番地)の発掘をはじめとする、古墳時代の住居遺跡の確認と豊かな出土物(生活用品や栽培植物、装飾品など)が、それを裏付けているといえるのではないだろうか。でも、記事が長くなってしまうので、それはまた、別の物語。

■写真上:「下落合摺鉢山古墳」(仮)の、後円部にあたる北西側の円弧がつづくあたりの現状。下落合駅前から旧・徳川邸の池があったあたりを経て、円弧状のカーブは斜面へとつづいている。
■写真中上は、台東区の上野公園にある摺鉢山古墳の残滓(現存95m)。は、西側と南側に大規模な破壊を受けた港区の東京タワー下、芝増上寺境内に残る芝丸山古墳(現存108m)。
■写真中下は、群馬県藤岡市にある白石稲荷山古墳(推定175m)だが、ほとんどが農地化されて墳丘はほとんど存在していない。面白いことに、同古墳のある地域名は「上落合」だ。は、同県太田市にある太田天神山古墳(約210m)で、県道が古墳の後円部を貫通している。
■写真下は、道路工事で部分破壊された太田市の朝子塚古墳。都内では全破壊のケースが目立つ。は、日本でも最大クラスの玄室を備えた群馬県高崎市にある観音塚古墳(105m)。「下落合摺鉢山古墳」も、このような高度かつ緻密な石組みの巨大な玄室を備えていただろうか。


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漢

豊富な資料……感服!
by (2009-03-28 11:49) 

ChinchikoPapa

『マルコムX自伝』を読みながら、学生時代に『Fire Music』を聴いた憶えがあります。でも、「イパネマの娘」が同じアルバムに入ってるところが、アーチー・シェップらしいですね。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2009-03-28 11:56) 

ChinchikoPapa

うちの周囲でも、このところ早朝から目覚ましがわりのウグイスと、昼間はくぐもった声で枝々をわたるメジロが目につきます。nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
by ChinchikoPapa (2009-03-28 12:02) 

ChinchikoPapa

ライオンの雪かぶりと線路をまたぐ女性の脚は、あまりに珍しく見とれてしまいました。^^; nice!をありがとうございました。>shinさん
by ChinchikoPapa (2009-03-28 12:07) 

ChinchikoPapa

漢さん、コメントとnice!をありがとうございます。
先日、漢さんが歩かれた下落合駅の南側「せせらぎの里」の、線路をはさんでちょうど反対側が「下落合摺鉢山古墳」のあるメジロ崖線のエリアです。書かれている大きなマンションの屋上近くから撮影した写真を、何度か掲載してきました。
また近くにお越しの際は、ぜひ歩かれてみてください。^^
by ChinchikoPapa (2009-03-28 12:20) 

川崎 千恵子

今日はじめて、あなたのブログを拝見しました。それは、澤田美喜さんのテレビ東京45周年記念番組の感想を自分のブログで、書くために、澤田さんの履歴の正確なところを知りたくて、グーグルの検索を開いているうちに見つけたのです。

 それで、自分の文章の中に、あなた様の、2006年12月2日の記事を、・・・引用せず、・・・ただ、URLを記載して、それも、参考になさるように書いております。

 それで、実は、私も長い文章を書く人間で、大磯で、地引網をしただとか(それは、55年以上前のこと)、最近では、彫刻家のアトリエを訪ねるために高麗神社近くによく行くとか、導入として書くつもりでしたが、やめました。
 あなたのご文章に、そういう導入のよさが充分あったからです。

   では、お互いによい文章を書いていきましょう。あなた様のものは、
場所を訪ねて書いて行くと言うテーマの統一があるらしいので、ご立派です。私のテーマは多岐に渡りますが、その後で、テーマごとに選び本へ、致します。小さなシゴトですが、今のところ、よく書評が出ます。5種類で、3種類に対して、書評が出ました。

 あなたさまも、ご本があるのなら、教えていただきたいです。
ご面倒でも、私のブログを開いていただいて、メルアドをご覧になっていただければ、連絡が取れます。そちらは、どうでも宜しいのですが、
 URLをご紹介している、部分はご覧いただければ幸いです。
by 川崎 千恵子 (2009-03-28 13:35) 

ChinchikoPapa

川崎様、ごていねいなコメントをありがとうございます。
わたしの拙ない記事をわざわざご紹介くださり、たいへん恐縮しております。わたしは、もともと東京の出身なのですが、親父の仕事の関係で生まれてから15年間、平塚の虹ケ浜の海辺に住んでいました。そのせいで、親や祖父に連れられて歩いた、あるいは小学生になってからは花水川を自転車でわたって出かけられる大磯地域は、遊びのテリトリーとしてかけがえのない大切なエリアでもありました。学校の勉強などほったらかして、海へ山へと遊びまわりました。“ワルガキ”だったそんな環境の中で、澤田美喜さんとの出会いがありました。
川崎様のブログから、テーマごとに本を制作される手法、すばらしいですね。^^ わたしはこのサイトから本を作ったことはまだありません。唯一の例外は、佐伯祐三の『下落合風景画集』がありますけれど、文章ではなく絵画作品と現在の下落合風景を対比させたもので、わたしが個人的に楽しむためのものです。
いまでも、懐かしい大磯へはたまに出かけることがあります。今後とも、どうぞよろしくお願い申し上げます。^^
by ChinchikoPapa (2009-03-28 15:18) 

ChinchikoPapa

昨夜、夜桜花見コースを通って帰宅したのですが、こちらではまだ3分~5分咲きのソメイヨシノがほとんどでした。nice!をありがとうございました。>今造ROWINGTEAMさん
by ChinchikoPapa (2009-03-28 15:23) 

ChinchikoPapa

ブログに掲載する写真を、みなさんすごい一眼レフデジカメでお撮りで、わたしなど気が引けてしまいます。^^; nice!をありがとうございました。>takagakiさん

by ChinchikoPapa (2009-03-28 17:22) 

sig

こんばんは。
すごいロマンを感じます。
どんな人たちが、どんな社会を営んでいたのでしょうね。
by sig (2009-03-28 19:17) 

ChinchikoPapa

sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
90年代に発掘が行われた、上落合の古墳時代前期末の住居跡からは、女性のペンダントと思われるクリスタル製のビーズが見つかっていますので、かなり豊かな暮らしをしていたのではないかと思います。クリスタルを溶かしてアクセサリーを作るには、1,000度を超える窯と加工技術が必要と思われますから、古代の下落合にもアクセサリーショップがあったんでしょうね。^^
by ChinchikoPapa (2009-03-28 20:07) 

Chinchiko Papa様

 ご返事を、ご丁寧に、有難うございます。二回もコメントを送るつもりは無かったのですが、一回目が送れなかった模様に、見えましたので、二回トライさせていただきました。

 今、その最初に送った模様(成功した模様)の古墳群の記事を読んでいますが、大変なお勉強振りで、お偉いです。

 Papa と名づけておられますから、ご自分もお父様でしょうが、お子様方は、里山、もしくは野山で遊ばれましたか?

 私は今、66歳です。子どもは充分に里山(横須賀地方、北久里浜)で、遊ばせました。

 私の、本職は画家、又は、版画家ですが、文章の方が面白くなっていて、両方は出来ないので、毎日一篇のエッセイを書く事を、楽しみに、人生を送っております。それで、メールの方にso-net からでしょうか? グーブログからでしょうか、あなた様が、コメントを書いてくださったのを、知りましたので、それを、探して、下落合の方を先に読みました。たくさんのコメントが、寄せられておりましたね。とくに、赤瀬川産の記事の挿入とか、カフェのマダムの様子が好感を得たものと思われます。

~~~~~~~~
 ただ、私は最初に、澤田さんの記事で、あなたのブログを知ったのをとても、幸いだと考えております。

 澤田さんの章は古いものの、大勢の人が感動した模様で、名文の域に達していると思います。

 あなたさまのような、図版が多い本でも、私が遣るほう方ですと、70万円ぐらいで、1000部できると思います。私が出版社になるのではなくて、あなた様がご自身で、データを作り、印刷所へ持ち込む場合ですが・・・・・

 本にしてしまうと、売る(?)と言うか、配る(私はほとんど、資金の回収は見込んでおりません)のが大変ですが、あなたのブログへ感想をお寄せになる大勢のお仲間に、お頼りになれば、1000部はすっと、さばけると思います。いろいろ、欲張るのは、大変ですが、

 でも、これだけ、立派なブログですと、紙の本にしておくのもよいのかなあと思います。生協の白石さんのブログが本になって有名ですが、現在の出版界では儲かる本しか扱わないのだそうで、相手様(出版社)から申し込みが来るケースが少ない模様ですので、差し出がましいが、こう申し上げました。私がお勧めする印刷所は、恵友印刷と申します。お言葉が、あれば、電話番号等をお知らせいたします。では、
by Chinchiko Papa様 (2009-03-28 22:13) 

アヨアン・イゴカー

関東圏に大きな畿内に対抗する文化があったと言うお考えは、とても興味深く読ませて頂いております。「常陸風土記」でしたか、土ぐも?とか言う、穴居人のような「蛮人」が出てきますが、あの部分だけはとても印象深く覚えています。
それにしても、大きな、広い玄室ですね。
Chinchiko Papaワールドも奥行きが広いですね。
by アヨアン・イゴカー (2009-03-28 23:39) 

ChinchikoPapa

川崎様、重ねてコメントをありがとうございます。
昼間、わたしの澤田美喜の記事から、川崎様の記事あてにトラックバックをさせていただきました。このトラックバック機能により、川崎様の記事からすぐに、わたしの記事へジャンプでき参照していただけるようになったかと思います。
うちの子どもは男の子がふたりですが、ときどき記事で取り上げます大磯と鎌倉で遊ばせました。結局、わたしが子供のころによく遊んだ海や山へ連れて行っただけなのですが、特に大磯は毎年夏になると出かけていましたので、子どもたちにも馴染み深い場所のはずです。いまは、わたしと一緒に海や山へ遊びに出かけるよりも、ガールフレンドとどこかへ出かけるほうが、よほど楽しそうですが。そのせいか、わたしはこのブログの取材にかこつけて、欲求不満を解消しにいろいろな場所を散歩することになったようです。
里山といえば、いま住んでいます目白崖線沿いの下落合も、このところ毎晩タヌキが出没し、ハクビシンが電線をわたり、アオダイショウがお風呂へ入ってくる(^^;、都内でもかろうじて武蔵野の自然が残されている地域ですので、どこか里山の面影をなんとなく感じたりします。
また、過分のお言葉とアドバイスをありがとうございます。でも、わたしの記事などまだまだ取材や調査・研究が甘く、書籍にするほどの内容ではありません。そしてもうひとつ、あるテーマについて重層的かつ立体的に参照できます、Webサイト(ブログも含めて)の便利さに慣れてしまいますと、2次元の紙メディアであります本という形態が、ちょっと面倒で物足りなく感じてしまうのは、わたしがネットワークにのめりこみすぎているせいでしょうか。^^;
ありがとうございます。過分のお言葉に、重ねてお礼申し上げます。

by ChinchikoPapa (2009-03-29 00:25) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、コメントとnice!をありがとうございます。
「記紀」にも、現在の近畿地方に住んでいた「土蜘蛛」や「国巣(クズ)」と名づけられた人々が登場していますね。彼らは、もともと近畿地方に住んでいた原日本の先住民族だと思いますが、九州からやってきた「神武東征」神話では、逃げる彼らを追い詰めて皆殺しにしたという記載が見えます。「クズ」はその後、ゴミと同意の用語として成立しますが、「人間のクズ」とはなんともひどい呼称ですね。
あるいは浪速(なみはや=大阪)に住んでいた「ナガスネビコ」や「エウカシ」には、戦いで「神武」軍が破れ兄が戦死していますので、穴倉暮らしをしているロクに火も知らない逃げるばかりの「マヌケ」に描かれた「蛮族」が、なんで互角に戦えて「神武」軍を熊野まで敗走させているのか?・・・という「記紀」上の矛盾も、「神武」(北九州出身の「応神」のダブルイメージ?)の出自ともども、60年ちょっと前までは触れられることのほとんどなかったテーマかと思います。
by ChinchikoPapa (2009-03-29 00:44) 

ChinchikoPapa

わたしは間違いなく、バイクショーではマシンではなく「きれいなお姉さん」を観ていることでしょう。^^; nice!をありがとうございました。>まるまるさん
by ChinchikoPapa (2009-03-29 22:49) 

ChinchikoPapa

きょうは、外苑から青山のサクラを観てきたのですが、まだまだ3分咲きといったところでした。六義園は、ライトアップされた夜桜もきれいですね。nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2009-03-29 22:54) 

ChinchikoPapa

いいですね、「アースアワー」。夜間にはルータやネットステッチの電源を落として、ミッションクリティカル環境を再考しようという動きが日本でも出ていますけれど、これは省エネというよりも、企業のコスト削減の発想から出てきたテーマですね。nice!をありがとうございました。>yoshinoさん
by ChinchikoPapa (2009-03-29 23:03) 

ChinchikoPapa

位置的に見て、確かに富士山は合成のようですね。平塚宿の客引きは、実際に「この宿をでると、あの山越えがありますよ」と高麗山を指差していたようですので、ペテン山という呼び方は実際にあったのかもしれません。ペテンは、中国語の「詐欺」の転訛ですので、江戸期からつかわれていたと思います。nice!をありがとうございました。>SILENTさん
by ChinchikoPapa (2009-03-29 23:29) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>甘党大王さん
by ChinchikoPapa (2009-03-30 11:21) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>komekitiさん
by ChinchikoPapa (2009-03-31 23:27) 

komekiti

学校では習えない貴重な見解ですね!
縄文~弥生~古代王朝時代と不明瞭な歴史しか習った覚えが無く、
大化の改新の事を習ったときにはすでに大和王朝ありきで教わったような気がします。その後の流れは、壬申の乱などを経て、いつの間にか関東まで大和(畿内)王朝の権勢が及んでいたような曖昧な教わりかたをした気がします。
上の文章を読んだ後だと時代は随分降ってしまいますが、平将門などが関東で新皇を称して独立しようとした事などは何となく理解できるような気がします。変な思想ではなく僕は天皇家が存続している事に敬意を持ち、またこの先も存続し続けて欲しいと願っています。しかし同時に天皇家の生い立ちや、日本の王権や勢力がどのように確立されていったのかも科学的な裏づけとともに知りたいと思っているので、上載のような関東の歴史などがきちんと研究されて欲しいなと思います。
何しろ想像が膨らみますよね(。^ω^)
by komekiti (2009-03-31 23:31) 

komekiti

あ!
追記です。
こんなに大規模な古墳が関東にあるってことはぜんぜん知りませんでした。千葉県育ちなので、縄文期の貝塚や小規模な古墳群が多数あるということは知っていましたが、これほど大規模なものまであったとは・・・。
目から鱗でした。
関連のブログも拝見させていただきます!
by komekiti (2009-03-31 23:35) 

ChinchikoPapa

komekitiさん、コメントをありがとうございます。
少し歴史を見る角度を変えると、明治以来、あまり変化していない教科書的な「日本史」とは、まったく異なる「日本史」の姿が見えてきます。南関東の有力武士団連合である鎌倉幕府は、なぜ全国に坂東武士の守護地頭を可能な限り配し、南武蔵勢力の一画(鎌倉)に政治の中枢を無理やりもってきたのか・・・? 上毛野勢力の末裔と思われる足利氏とその一門は、なぜ北関東に政治の中枢をもってこようとして失敗しているのか・・・?
同じく上毛野の足利氏に隣接して領地を有していた、江戸の神田明神の氏子でもある世良田氏(足利幕府下では松平氏のち徳川氏)は、なぜ出自の北関東ではなく南武蔵に政治の中枢をもってきたのか?・・・等々、面白いことに気づきます。秀吉によって勢力をうとまれ、「できるだけ遠くの馴染みのない関東へ移封された」というのは、関東の歴史を知らない方の「空想」だと思います。特に徳川氏は、7代将軍から北関東の「世良田」姓を復活して名乗るようになりますので、ことさら上毛野地域(北関東の出自)を意識していたと思われますね。
鎌倉幕府の南武蔵勢力圏に存在した御家人連合の家々に、また室町幕府の北関東を中心とする有力武士団の家々に、そして当時の世良田=松平=徳川家とその一族に、往古からどのような出自の伝承が存在していたものか、非常に惹きつけられるところです。
わたしには、百済または加羅(韓)から北九州に上陸して橋頭堡をつくり、圧倒的な鉄器で武装して最終的には熊野からナラへと侵入し、近畿を中心に全国的な政治のヘゲモニーを掌握したヤマト朝廷から、原日本のクニグニ、特に関東勢力を中心に(出雲との濃い連携が見えるので、旧・出雲勢力も支援しているかもしれません)、再び政治のヘゲモニーを原日本の関東へと、一貫して持ってこようとしている・・・というふうに見えて仕方がありません。
1600年後の今日をみると、メチャクチャご都合主義的で結果論的ではありますが、鎌倉幕府以来の政治闘争がまんまと成功している・・・と言えないこともありませんね。^^;
by ChinchikoPapa (2009-04-01 00:58) 

よもたろう

上野公園内の古墳についての手がかりとして、1994年に実施された国立科学博物館構内の遺跡発掘調査報告で、形象埴輪の破片1点、円筒埴輪の破片36点が派遣されているといいます。弥生時代や古墳時代の住居跡も見つかっているようですが、江戸時代の寛永寺塔頭の造営によってかなり破壊されているようで、古墳がどこにあったかまでは確認されていないようですが。また同じころに隣の西洋美術館構内でも発掘があり、多数の古墳時代住居跡などが発見されているようです。こちらも大部の報告所が出ています。御参考まで

『上野忍岡遺跡』:国立科学博物館(たんけん館・屋外展示模型)地点発掘調査報告書、国立科学博物館上野地区埋蔵文化財発掘調査委員会、1995年
by よもたろう (2009-04-09 14:59) 

ChinchikoPapa

よもたろうさん、コメントをありがとうございます。
最新の貴重な発掘情報を、ご親切にありがとうございました。上野山は、江戸期の寛永寺境内だったころと、現在の公園化されたあととでは、地形を変えてしまうような大規模な人口的造成も含めて、相当変貌したのではないかと想像しています。いまに残るのは「摺鉢山古墳」と、「穴稲荷」=花園稲荷の古墳跡のみですが、おそらく山全体に古墳が散在していたんじゃないでしょうか。
いまでも、さまざまな遺跡が上野山とその周辺から発見されますね。上野の不忍池や神田のお玉ヶ池は、「縄文海進」時に形成されていた考古学で呼ばれる「奧東京湾」の名残りといわれていますので、相当早くから上野山(忍岡)や目白崖線の段丘上には、人が定住してきたんだしゃないかと想像できます。西洋美術館の発掘現場は、ヤジ馬根性で見に出かけました。^^
下落合の「摺鉢山」周辺でも、戦前から埴輪片や土器片が広範にわたって田畑に散乱していたようですし、また戦後は各地から古墳期の集落跡も発掘されていますので、上野山と似たような遺跡ではないかと考えています。
また、お気軽にコメントをお寄せください。
by ChinchikoPapa (2009-04-09 16:34) 

ChinchikoPapa

こちらにも、ごていねいにnice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2011-07-07 11:11) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2015-01-23 18:06) 

道の奥

某目白の杜の大学生です!
毎回楽しみにしております!

数年前から落合道人さんを参考に街歩き趣味が本格化し、
昨日、荻窪から中野へ抜け、中野から新井薬師へ薬師から薬師道〜バッケ道を通って帰った際に同じ仮説を立てました(笑)

下落合氷川神社創建の歴史も古くは上古と書いてあったので、その大王を従えたヤマト朝廷が、神的なものを作ったのかもしれませんね!

古代のまつろわぬ民と神社の関係性
面白そうです。。
by 道の奥 (2017-01-21 09:16) 

ChinchikoPapa

道の奥さん、コメントをありがとうございます。
拙記事をもとに、街歩きをしていただいているとは光栄です。いまでは地名変更が行われて、少しわかりにくくなっていますが、地合地域は案外広くて散歩のし甲斐がありますね。
昨年は、東西の古墳をめぐる重要なニュースがつづきましたね。来月は、東京の大規模な古墳について、少し長い記事を書きたいと思っています。ちょっと目白・落合地域から、南へ少し離れますが……。w

by ChinchikoPapa (2017-01-21 20:13) 

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