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二宮尊徳と相馬家との深い関係。 [気になる下落合]

目白の二宮金次郎.jpg 二宮金次郎像2.jpg
 以前、下落合の御留山Click!(現・おとめ山公園)に建っていた、相馬孟胤邸Click!の内部を撮影した写真の中で、応接間の窓際に薪を背負って本を読む、「二宮金次郎」の彫刻らしいフォルムを見つけて書いたClick!ことがある。そう、その像は間違いなく二宮金次郎(正しくは金治郎のようだ)=二宮尊徳であり、相馬家と二宮家とは浅からぬ関係で結びついていたのだ。その情報をいただいたのは、当の将門相馬家のご一族である相馬彰様からだった。そして、二宮家と中村藩相馬家とは姻戚関係にあり、そのつながりは江戸時代にまでさかのぼる。
 江戸時代も後期に入るにつれ、幕藩体制における各藩の財政は、相次ぐ飢饉によって急速に逼迫の度を加えることになる。徳川幕府の譜代大名だった相馬中村藩(現・福島県相馬市とその周辺域)もご多分にもれず、たび重なる凶作で藩財政は火の車となっていた。各藩では、租税が軽減される新たな農地の開拓や、洪水の際に農地へのダメージをできるだけ軽減する治水事業、新規の地場産業の育成などに力を注いだ。余談だけれど、将門相馬家は鎌倉幕府が成立して以来、同地を動くことなく治めつづけており、日本はおろか、世界的に見てもこれほど長く同じ地域を統治した領主はまれな存在だ。現在でも相馬家が、同地でことさら親しまれているゆえんだろう。
 1833年(天保4)からはじまった天保の大飢饉で、中村藩は藩の存続自体が危うくなるほどの壊滅的なダメージを受けた。このとき、表高では6万石とされた相馬藩の収入は、わずか457石にすぎなかったと伝えられている。相馬中村藩では1845年(弘化2年)、農政改革や質素・倹約、協働、互助、譲り合いなどを思想的な軸とする、二宮尊徳が唱えていた「二宮仕法」の本格的な導入を決定している。これにより、中村藩とその藩民の窮状は幕末に向けて急速に回復していき、「二宮仕法」は廃藩置県後の明治期までつづけられることになった。
 明治維新の直後、幕藩体制が崩壊する混乱の中で、二宮尊徳に恩義を感じていた相馬中村藩では、尊徳の孫にあたる二宮尊親一族を相馬家の国許へ招聘している。こうして、「二宮仕法」による中村地方の農政改革を、そのまま引きつづき二宮家が担当することになった。そして、二宮尊親の弟の娘、すなわち二宮尊徳の曾孫である女性こそが、相馬彰様のお祖母様にあたる方だ。相馬家と二宮家とは、明治以降により強い絆で結ばれることになった。
相馬邸応接室.jpg 相馬邸二宮金次郎.jpg
 わたしが小学校時代、道徳か社会の授業で二宮金次郎(金治郎)は登場していた。二宮家は湘南の小田原(一説では、もともとは大磯Click!の隣りの二宮)出身であり、地元の物語として授業の副教材に取り入れられていたのだろう。だから、本ばかり読んでぜんぜん遊ばない、湘南ボーイらしからぬ二宮金次郎は、ことさら印象的であり、いまでもどこか畏敬とともに親しみをおぼえる。(ちなみに、わたしは金次郎とはまったく正反対の少年時代をすごしている) また、江戸時代に冬みかんが収穫できる北限地は湘南・二宮であり、その開拓とみかんが採れるまでの苦労物語に子供のころ感動したせいか、よけいに「二宮」というワードが記憶に残ったのかもしれない。
 戦前、小学校の校庭には、たいがい二宮金次郎の像が置かれていた。銅製がもっとも多かったようだが、石製やコンクリート製、陶製のものも少なからず存在していた。銅製の金次郎像は、戦時中の金属供出でほとんどが消えてなくなり、石製やコンクリート製のものが戦後までかろうじて残されていた。戦後にGHQが、民主的な教育を阻む象徴として撤去したという話も多く聞くけれど、占領軍の教育機関からそのような指示が出された事実は見あたらない。金属でできた日本じゅうの二宮金次郎像は、すでに戦時中から、とうに消えて溶かされていたのだ。戦後の混乱期における記憶の齟齬か、あるいは戦前の残滓を取り除くために、学校側が“自主規制”で撤去したか(GHQの名を借りたかもしれない)のどちらかだろう。
 仁や徳を基盤とする、いわば「社会主義」的あるいは「共産主義」的な発想、または“キリスト者”的な匂いさえどこかに漂う二宮尊徳の思想と、戦前の軍国主義に象徴的な忠君愛国の「亡国思想」とは、どう見ても重ならず異質のものだ。中国が、ずいぶん以前に「学ぶべき日本人のひとり」として二宮尊徳の名を挙げていたのも、なんとなくわかるような気がする。
二宮尊徳像.jpg 二宮家住宅.jpg
 目白・下落合界隈では、かろうじて目白小学校(旧・高田第五尋常小学校)に、二宮金次郎像が現存している。この小学校に残る像は、めずらしいことに陶製なのだ。一度は強風で倒れて腕を骨折し、“治療”したら今度は生徒が投げたボールが当たって、手の上の本が砕けてしまった。だから、目白小学校の金次郎はしばらく前まで読書をしていなかった。
 さんざんな目に遭っている目白の金次郎なのだけれど、これでようやく、いつでも遊びに出かけられそうな湘南ボーイになったので、今度、手の上にPSPかケータイでも載せて撮影してあげようか・・・などと思っていたら、いつの間にか再びしっかり本を持たされてしまった。せっかくだから、もう少し遊ばせてあげてもよかったのに。

■写真上:目白小学校に残る、陶製でめずらしい二宮金次郎像。は、本ではなくケータイが欲しそうな修復前の金次郎。は、いつの間にか本を持たされていた現在の姿。
■写真中は、相馬邸の応接間で1915年(大正4)に撮影された『相馬家邸宅写真帖』(相馬小高神社宮司・相馬胤道氏蔵)より。は、二宮金次郎像の拡大。
■写真下は、伝えられている二宮尊徳像。は、小田原に現存する生家の二宮家住宅。


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アヨアン・イゴカー

>戦後にGHQが、民主的な教育を阻む象徴として撤去したという話

確かに、このような説明を大分前に聞いたような気もします。子供の頃は二宮尊徳は、そういう類の人だったのかと漠然と思っていましたが、それが間違っていることは後日分かりました。

>仁や徳を基盤とする、いわば「社会主義」的あるいは「共産主義」的な発想、または“キリスト者”的な匂いさえどこかに漂う二宮尊徳の思想と、戦前の軍国主義に象徴的な忠君愛国の「亡国思想」とは、どう見ても重ならず異質のものだ。

的確なご指摘だと思いました。内村鑑三も『代表的日本人』として取り上げているくらいですから。皇国史観とは関係ありません。人間として尊敬できる「人物」であったことは間違いないと思います。

目白の学習院大学の向かいにある小学校の校庭に、二宮金次郎の例の像があります。柵越しではありますが、本物を見たのはあれが初めてです。あれは陶製なのですか?知りませんでした。

by アヨアン・イゴカー (2008-12-30 00:33) 

sig

こんにちは。
Chinchikoさんの世代で二宮金次郎を学んだというのは、多分地元の偉人としてだったのでしょうね。sigでさえ、小学校入学は新制になった年ですから学んでおりません。
今この時代に日本に求められているのは、二宮金次郎と田中角栄氏でしょうか。(笑)
それでは、どうぞ良いお年を。

by sig (2008-12-30 10:34) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、コメントをありがとうございます。
わたしも、子供のころに教えられた二宮尊徳の生涯と、戦前の軍国主義とがどこでどう繋がるのか、しばらくは首をかしげてたことがありますが、どうやらさまざまな誤伝や勘違いが大きいようですね。
特に戦後、知らないうちに校庭から二宮金次郎の銅像が消えているのを見た誰かが、戦時中にとうに撤去されて溶かされていたとは思わず、「戦後に消えた」→「戦後教育には不適当」→「GHQからの命令」→「戦前教育の象徴」・・・と、どんどん想像がふくらんでいき、混乱期の影響も輪をかけて、そのような俗説が流布していったのではないかと思います。
もっとも、小学校で教えられていた内容は、子どものころから一生懸命に勉強をつづけた二宮金次郎・・・という、ご都合主義的にただそれだけの側面であって、本格的な思想にまでは踏み込んでなかったんでしょうね。
ところでピアノ曲、素晴らしいですね。しばし、拭き掃除や料理の手を休めて聴き惚れてしまいました。
by ChinchikoPapa (2008-12-30 17:29) 

ChinchikoPapa

sigさん、コメントをありがとうございます。
はい、わたしも小学校のとき二宮金次郎を習った・・・というと、周囲から怪訝な顔をされますね。(笑) でも、相模の海っぺりの人物ですので、どうして勉強ばかりで遊ばない子が湘南に生まれてしまったのかと、昔から不可解に思いつつ、どこか親しみをおぼえる“偉人”なのです。
ブログ1周年、おめでとうございます。来年も、どうぞよろしくお願いいたします。^^
by ChinchikoPapa (2008-12-30 17:37) 

ChinchikoPapa

暮れは掃除に料理にと、なにかと用事が多くてなかなか外へは出られません。盛り場はおろか、近くのカフェへもそっと脱走して行かないと叱られます。^^; nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2008-12-30 17:44) 

ChinchikoPapa

昔の記事に、nice!をありがとうございました。>西尾征紀さん
by ChinchikoPapa (2011-02-07 13:38) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2011-02-07 15:36) 

yy

"二宮家は湘南の小田原(一説では、もともとは大磯Click!の隣りの二宮)出身であり、地元の物語として授業の副教材に取り入れられていたのだろう。だから"

二宮家は栢山(旧桜井村)に十数件あり、本来はそれらの本家が二宮金次郎の盛夏だそうです。中郡二宮町は旧吾妻村ですね。川匂神社が相模の国の二宮と言われております。私の父の実家は旧吾妻村です。また従姉の嫁ぎ先は二宮家の一族で、栢山が実家で二宮姓です。
by yy (2011-10-31 16:23) 

ChinchikoPapa

yyさん、貴重な情報をありがとうございます。
桜井村(足柄上郡)と吾妻村(中郡)では、郡違いのエリアなのですね。大磯の隣りの「二宮」は、比較的新しい80年ほどの町名だとしますと、「二宮金次郎とのつながり」は後世の付会で生まれた伝承でしょうか。確か社会科の教師までが、そのようなことを言っていた記憶があります。w
先ごろ、二宮金次郎が一時期、江戸の相馬藩中屋敷にいたという情報を、相馬様よりいただきました。
by ChinchikoPapa (2011-10-31 20:07) 

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