大岡越前は石をぶっつけられたか? [気になるエトセトラ]
目白駅から学習院側へ目白通りを歩くこと10分ほどで、右手にバッケ(崖線)の急斜面をひな壇状に造成した小さな公園(児童遊園?)がある。ちょうど、日本女子大学のまん前あたりで、戦前には小布施坂の由来となった広大な小布施邸が建っていたあたりだ。公園の南端からは眺望が開け、目白崖線上から新宿一帯を眼下に見わたすことができる。現在の地名は目白台1丁目だが、昔は小石川高田豊川町と呼ばれていたエリアだ。
なぜ豊川という地名が付いたのかというと、ここに下屋敷を構えていた大岡家の邸内に、豊川稲荷の社(やしろ)があったから・・・ということにどうやら起因しているようだ。稲荷を勧請したのは、享保年間に町奉行や寺社奉行をつとめた大岡越前守忠相だったとされている。現在は同地に稲荷はなく※、明治に入ってから大岡家は赤坂一ツ木に邸をかまえているので、そこへ移したものだろう。赤坂一ツ木の邸内にあった稲荷を、さらに赤坂見附付近へ1887年(明治20)に遷座している。そう、芸能人がよく参詣する赤坂の豊川稲荷Click!がそれだ。ちなみに、明治期から建っていた小布施邸は、大岡家下屋敷の敷地をそっくりそのまま買収しているようだ。
※わたしのウッカリでこう書きましたが、ももなーおさんのご指摘により大岡家下屋敷のものと思われる豊川稲荷は目白台に現存していることがわかりました。さらに、ナカムラさんからいただいたコメントを元に調べなおしたところ、下屋敷をかまえていた大岡忠恕は、同じ大岡家でも大岡忠世系ではなく、岩槻藩主をつとめた大岡忠房系であることがわかりました。ということは、『高田町史』(1933年)に掲載された「大岡屋敷」の記述(大岡越前守)が誤っていることになりますが、先の豊川稲荷の存在と豊川の地名の由来がわからなくなってしまいます。どなたか、ご存じの方がいらっしゃいましたらご教示ください。
さて、稲荷があったのだからキツネの昔話がたくさんあってもいい地域なのに、なぜか目白台の界隈もタヌキのフォークロアがやたら多い。昔から現在にいたるまで、タヌキClick!たちがたくさん棲んでいた目白崖線のこと、キツネは肩身が狭かったのかもしれない。そんな大岡屋敷にも、江戸期から伝わる昔話が残っている。1933年(昭和8)に出版された『高田町史』から引用してみよう。
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◇大岡屋敷の狸の悪戯
豊川町の大岡越前守の屋敷の前にあつた打紐屋に、毎日何処からともなく、沢山の石が降つて来るので、大評判となり、遠方から見物に来るものも多い。一日、雲低く空暗く、五月雨の粛々として物淋しき夕、激しく大岡屋敷から石が飛んで来るので、多くの見物人の中から一人が屋敷内に入り調べてみたるに、永くこの屋敷内に棲んで居る幾疋かの古狸が、人間を驚かさんとする悪戯である事が判つた。(同書「伝説」より)
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おそらく、わけのわからない現象は、みんな狐狸の類の仕業にしてしまったのだろうが、大岡屋敷の中間あたりがイタズラをしていたのではないか。ただし、幕末の尾張屋版の切絵図には大岡家下屋敷は存在するものの、文政年間の須原屋版の絵図には存在せず、同所は本庄伊勢守の下屋敷となっている。伝承された昔話の「大岡越前守」は、どこからか講談話がまぎれこみ、子孫の「大岡兵庫頭忠恕」がいつの間にか「忠相」へ転化したものではないだろうか? ちなみに、わが家の周囲ではほぼ毎晩タヌキを見かけるが、いまだ下落合ダヌキClick!たちに石を投げつけられたことはない。

つづいては同じく現・目白台で、『東海道四谷怪談』の舞台Click!となった高田四ッ家(谷)界隈に伝わる昔話。いつかご紹介したけれど、早大教授の山本忠興Click!が、あめりか屋に依頼して建てた“電気の家”Click!があったあたりだ。この一帯は、文化文政年間には尾張や水戸、一橋など徳川家ゆかりの家々が下屋敷をかまえていた界隈だ。田安家の下屋敷も、近くにあったのだろう。幕末に近くなると、ほとんどの家々が他へ移転している。再び、同書から引用してみよう。
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◇田安邸の狸征伐
高田四ツ家町の今の巡査派出所から高田銀行の向ふに渡つて徳川氏分家の一なる田安家の屋敷があり、広き邸内ゆへ、多くの狐や狸が棲んだ。年三回の練兵で、鉄砲の音が響くので、狐狸が驚き荒れ廻る、殿様の命令で、征伐して獲る事となり、大砲方の西原某が狸を生捕りにした。然るに其後、西原の妻が病気に罹り、狸の真似をして狂死し、生れた女の児は、半身不随の不具者となつたので、西原は応報が恐ろしく、遂に行方不明となつたと伝ふ。
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いるかいないかわからないほど大人しいタヌキが「荒れ廻る」というのは、いったいどのような状況なのか不明だけれど、これもなにか都合が悪かったことを、いっさいがっさい全部タヌキのせいにして落着させたような気配がする。無実の罪を着せられて殺されたタヌキこそいい迷惑で、人間が「応報」を受けるのはしょうがないかもしれない。


最近は、近衛町Click!にもタヌキの若いペアが頻繁に出没し、日立目白クラブ(旧・学習院昭和寮Click!)界隈ではドッグフードをカリカリと美味しそうに食べているそうだ。おそらく御留山Click!グループのうちの2匹だと思われるのだが、冬に備えて肥るのに一所懸命なのだろう。
■写真上:大岡家の下屋敷跡=戦前の小布施邸跡にできた公園から、新宿方面を眺める。
■写真中上:日立目白クラブ界隈に夜な夜な現われる、御留山グループと思われる若いタヌキのペア。近衛町にお住まいのHedawhigさんClick!が、ご自宅から撮影されたもの。
■写真中下:左は、1857年(安政4)に刷られた尾張屋清七版「雑司ヶ谷音羽絵図」にみる大岡家下屋敷。右は、1910年(明治43)に作成された「早稲田・新井1/10000地形図」にみる小布施邸。
■写真下:紅葉が散りはじめ、冬に備えるタヌキたちは食べるのに懸命だ。
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以前、豊島区郷土資料館前で工事がストップしている、「補助73号線」について記事Click!にしたことがある。人口が50年後には1億人を割りこみ、若者のクルマ離れも進んで台数が減りつづけているのに、新たな道路を造ろうという時代錯誤な土建的発想の行政が、いまだ放棄しないでいる計画だ。国では…[続く]










こんにちは。
けものたちが住みやすいというのは、多分、人にとっても自然なところなんでしょうね。
それにしても、都合の悪いことや広まっては困るようなことをみんな狐狸の類のせいにして通用していた時代は、問題の収まりも早くて良かったでしょうね。今日では、みんなが何でも知っているということが裏目に出ると、簡単に収まりそうな問題さえも大事件に仕立て上げられそうになったりして。
by sig (2008-11-30 14:33)
エキゾチックなDuke Pearsonのピアノは、夏の海辺にとてもよく合いました。
nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2008-11-30 14:58)
近くなのに、雑司ヶ谷鬼子母神には少しご無沙汰です。さっそく近々出かけてみたいと思います。nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2008-11-30 15:01)
sigさん、コメントをありがとうございます。
「そりゃタヌキに化かされたんだ」とか、「ありゃキツネの仕業さね」とかいうと「なるほど、そーか」・・・と納得してしまえるというのは、ある意味では自然に対する畏敬がどこかに感じられて、謙虚な姿勢というのも同時に感じられます。タヌキやキツネの存在を、気にもとめなくなったときこそ、人間にとっても危ない情況のように思えますね。
by ChinchikoPapa (2008-11-30 15:16)
>大岡家の邸内に、豊川稲荷の社(やしろ)があったから
それは全然知りませんでした。元住んでいた家の近くにある豊川稲荷
http://momonao.blogzine.jp/blog/2007/11/post_a8ec.html
とは違うんですか? じゃあ、この↑↑豊川稲荷とダブってた時があったんですね。大岡屋敷内の豊川稲荷が元赤坂の豊川稲荷だなんて、全く知りませんでした。
by ももなーお (2008-12-01 17:36)
ももなーおさん、コメントをありがとうございます。
おっと、大岡屋敷の豊川稲荷は、現存するこの豊川稲荷の可能性が高いですね! うっかり見過ごしていました。位置的にみても、そう捉えるのが自然です。ということは、上屋敷・中屋敷・下屋敷でそれぞれ勧請した稲荷を各屋敷ごとに分社化して祀っていたように思われます。
そう考えますと、赤坂見附の豊坂稲荷は上屋敷にあったもので、目白台に現存する豊坂稲荷は下屋敷にあったものがそのまま今日まで残っている・・・という可能性が高く思われますね。情報をありがとうございました。<(_ _)>
by ChinchikoPapa (2008-12-01 20:17)
>上屋敷・中屋敷・下屋敷でそれぞれ勧請した稲荷を各屋敷ごとに分社化して祀っていた
なるほど~、それは自然な考え方ですね。赤坂見附の稲荷さんと親戚なんてロマンがありますね。
by ももなーお (2008-12-01 21:54)
位置的に見ますと、豊川稲荷はどうやら大岡下屋敷の東南端にあったように見えますね。本所の吉良邸稲荷や、虎ノ門の京極邸金比羅社と同様に、江戸期から一般道に面した位置に鳥居や参道があり、おそらく周囲の町民たちへ自由に参詣を許していたんじゃないかと想像します。
by ChinchikoPapa (2008-12-02 00:27)
こちらにも、わざわざnice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2008-12-02 19:30)
ご無沙汰しております。タヌキが住み続けているというのは、人間にとっても、豊かなことですよね。それにしても、私もタヌキと同じ理由で『紅葉が散りはじめ、冬に備えるkadoorie-aveは食べるのに懸命』なんでしょうか。決して『肥るのに一所懸命』というつもりはないんですが。
by kadoorie-ave (2008-12-02 22:07)
kadoorie-aveさん、コメントをありがとうございます。
わたしはこのところ、平均体重よりもかなり痩せ気味で、たくさん食べなければいけないのですがなかなか肥れません。それほど激しい運動をしているつもりはないのですが、ちょっと仕事や取材をサボって、週末は食っちゃ寝生活をやってみようか・・・などと考えています。(爆!)
それとも、コーヒーとタバコの飲みすぎだったりして。^^;
by ChinchikoPapa (2008-12-02 23:48)
すみません、正確には書けないのですが、記憶をたどると・・・。大岡家は三河の出身で地元では豊川稲荷に帰依していた。江戸に赴任するにあたり、豊川稲荷を分社して小さな祠を屋敷の中に作った。それは今の赤坂小学校に位置であった。しかし、明治期に様々な異動があるなか、稲荷社は道路を越えて移設され、その後信仰者も増えて今のような大きな社になった、この大元の豊川稲荷は忠相がもってきたと聞いています。旗本クラスの大岡家は屋敷をわけていくつもだったのでしょうか。ちょっと疑問を感じますが。
by ナカムラ (2008-12-08 17:27)
ナカムラさん、コメントをありがとうございます。
大岡家は、忠相晩年には西大平藩主として大名に取り立てられているし、切絵図にも下屋敷記号がはっきりと入れられているので、わたしはそこに疑問を持たなかったのですが、改めて調べ直してみますと、ここに下屋敷をかまえていた大岡忠恕は、同じ大岡家でも大岡忠世系ではなく、岩槻藩主をつとめた大岡忠房系のほうのようですね。
ということは、『高田町史』の編纂時から、姻戚ではあるものの大岡家の系統を取り違えていたか、あるいは同町史が制作されたときに採集された伝承物語の段階で、すでに「大岡越前守」の大岡家との錯誤が生じていた・・・ということが考えられます。ふだんから、「公式」記録を鵜呑みにしては・・・と書いてるわりには、『高田町史』に書かれていることをそのまま信じてしまい、裏取りを怠ってしまいました。(爆!)
すると、目白台の大岡家下屋敷の南に残る豊川稲荷の存在に、よけいに興味が惹かれます。高田町史は、より地主神に近い社か大きな社しか収録していませんので、豊坂稲荷の掲載はあっても、ももなーおさんが撮影された豊川稲荷についての記述はありませんが、まさか、大岡忠世系の大岡家から、江戸後期に分社化してもらってはいないでしょうね。古そうな豊川の町名も気になるところです。
by ChinchikoPapa (2008-12-08 20:26)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2009-12-11 12:53)
初めまして。
最近、wikiの豊川稲荷東京別院を大幅に加筆したものです。
目白台の豊川稲荷にも言及しています。
最初の版は、参考文献の内容をそのまま書いたのですが、別の本で、どうやら文京区には越前守の下屋敷はなかったことが解り、このサイトを見つけて、記事を修正するに当たっての参考にさせてもらいました。
有難うございました。
by Suyasuya (2011-12-06 17:34)
Suyasuyaさん、わざわざコメントをありがとうございます。
わたしも、『高田町史』(1933年)の記述をそのまま鵜呑みにして、記事をサラッとためらいもなく書いてしまいました。普段から、「公式」の文書はウラ取りしないと・・・と書いているわりには、お恥ずかしい限りです。(汗)
わたしも、目白の豊川稲荷は散歩コースのひとつですので、またなにか新しいことがわかりましたら、こちらの記事でご紹介したいと考えています。
わざわざ、ありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2011-12-06 23:01)