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“般若”の有田八郎vs三島由紀夫。(上) [気になる下落合]

有田邸2008.jpg
 大学で法学を専攻した人でなくても、社会科学系の学部の一般教養過程で「憲法」とか「民法」を選択された方なら、おそらく教科書や参考書に掲載された判例で目にしている事件のひとつだろう。わたしも、一般教養でふたつの法を履修したので、サボッてばかりの講義だったけれどかすかに記憶に残った。六法全書にも、代表的な判例としていまだに掲載されている。大正時代から下落合に住んでいた元・外相の有田八郎が、小説家・三島由紀夫と新潮社を憲法違反で訴えた事件だ。三島が1960年(昭和35)に「中央公論」1月号から10月号まで連載した、小説『宴のあと』の内容をめぐる裁判なので、「宴のあと事件」と表現されることが多い。この訴訟が起きたとき、有田はすでに下落合から埼玉県の豊岡町へと転居していたようだ。
 手元の「判例六法」(有斐閣)を開くと、憲法と民法の項目に「宴のあと事件」として索引が設定され、それぞれの条項に解説ページが付属している。この裁判をひと言でいえば、戦前の広田内閣・第1次近衛内閣Click!米内内閣Click!などで外務大臣をつとめ、戦後は社会党から革新系の東京都知事選の候補として出馬し落選している有田八郎の、きわめて個人的な生活(都知事選前後の夫妻の生活と活動)を暴露した三島の『宴のあと』が、憲法第13条の「個人の尊重」に違反しているということで、モデルにされた有田が三島側を訴えた事件だ。
有田八郎.jpg 三島由紀夫.jpg
 有田は1961年(昭和36)3月に東京地裁へ提訴し、1964年(昭和39)9月の判決では原告側の全面勝訴、つまり被告の三島側に当時としては多額な80万円の損害賠償の支払いを命じる判決が出た。この裁判は、戦後の日本で初めて「プライバシー権の存在」と、その「侵害」に対する「損害賠償請求」という概念が判例として公に確立された、憲法上(第13・21条)からも民法上(第710条)からも、きわめて重要な裁判だ。その後、有田が1965年(昭和40)に死去すると、遺族と三島側との間で和解が成立しているが、六法全書にいまだ解説付きで掲載されるほど、画期的な地裁判決だった。今日、何気なく「プライバシーの侵害だ」とか「プライバシーもなにもあったもんじゃない」とか言われるときの権利概念のベースは、実はこの判例からきているのだ。
 有斐閣版「判例六法」に掲載された東京地裁の判決文から、重要な部分を引用してみよう。
  
 私事をみだりに公開されないという保障は、不法な侵害に対して法的救済が与えられる人格的な利益であり、いわゆる人格権に包摂されるが、なおこれを一つの権利と呼ぶことを妨げるものではなく、プライバシーの侵害に対し法的救済が与えられるためには、公開された内容が、私生活上の事実又は事実らしく受け取られるおそれがあり、一般人の感受性を基準にして当該個人の立場に立った場合公開を欲しないであろうと認められ、一般の人々にいまだ知られていない事柄であることを必要とする。(中略)小説なり映画なりが芸術的価値を有するとしても、それが当然にプライバシー侵害の違法性を阻却するものではなく、また、公共の秩序、利害に直接関係のある事柄の場合とか社会的に著名な存在である場合には一定の合理的な限界内で私生活の側面でも報道、論評等が許されるにとどまる。(中略)プライバシー権、つまり私生活をみだりに公開されない権利の侵害に対しては、侵害行為の差止め及び精神的苦痛による損害賠償請求権が認められ得る。
                                     (東京地裁判決1964年9月28日)
  
有田戦前.jpg 有田戦後.jpg
 物語の端緒は、元・外相の“野口”に惹かれた大料亭の女将である“かづ”が、積極的に野口へ近づき結婚をするところからはじまる。かづが経営する料亭「雪後庵」は、保守系の大物代議士が集まる高級料亭だった。結婚後ほどなく、野口は革新陣営から東京都知事選へ立候補することになり、その選挙活動へのめりこんでしまったかづは、夫に内緒で選挙参謀とともに次々と選挙応援の施策を練っていく。「雪後庵」の土地建物も抵当に入れて巨額の借金をし、とても革新系の候補とは思えない潤沢な選挙資金を手に、当の候補者である夫よりも派手な選挙戦を展開する。当時、実際の都知事選では、買収のカネや「怪文書」が双方の陣営で飛びかい、のべ5万人の運動員が動員されて、選挙違反の検挙者は前回選挙の実に7倍にものぼるというすさまじさだった。
 結局、夫は落選して、かづは「雪後庵」を手放さなければならない窮地に追いこまれるのだけれど、「政治的」なかけ引きやネゴシエーションの妙に目覚めてしまった彼女は、保守系の大物政治家の間に奉加帳を順ぐりに廻して寄付を募り、料亭の再建を画策しはじめる。皮肉なことに、きわめて「非政治的」で「理想主義的」な夫の野口は、自分の顔に泥を塗られたと激怒して、選挙にすべてを注ぎこんだかづをついには離婚してしまう・・・というような展開だ。
有田邸事情明細.jpg 有田邸1936.JPG
 登場人物は全員が別名だし、いちおう小説の体をなしているけれど、これ、大筋ではほとんどが実話だ。夫の野口の住居は椎名町ということになっているけれど、戦前に住んでいた有田八郎の住居はそこから1kmと離れていない、下落合の近衛町Click!にあった。有田邸は大正時代から下落合426番地(「下落合事情明細図」では427番地と記載されている)にあり、1932年(昭和7)に発行された『落合町誌』Click!にも、外交官としてその名前が見えている。『宴のあと』の舞台設定からして、三島由紀夫がそれを意識していたのは明らかだ。
                                                  <つづく>

■写真上:大正期から有田邸が建っていた、下落合426(427)番地の現状。『落合町誌』と「下落合事情明細図」にみられる番地の齟齬は、昭和初期の地番変更によるものかと思われる。
実はこの写真の位置は、有田邸の東隣りの敷地であって有田邸跡ではない。記事を書いたあと、しばらくして気づいていたのだが、「近衛町」造成当時の大谷石による築垣が貴重なのと、わたしの不精さのせいでそのままにしている。(爆!) 本来の有田邸は、この大谷石の垣が残る敷地に接した西隣りの区画で、現在は低層マンションとなっている。
■写真中上は、晩年の有田八郎。は、地裁判決の直後に開かれた記者会見における三島由紀夫。「毎日新聞」に掲載された写真で、三島の右側には戦前に目白商業(現・目白学園)で講師をつとめ、この裁判では被告の三島を支援していた小説家・伊藤整Click!がいる。
■写真中下は、戦前の外相時代に撮影された有田八郎。は、1957年(昭和32)に中国で撮影された社会党時代の有田(中央)で、右側は周恩来。
■写真下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる有田邸。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる有田邸。相馬閏ニ邸Click!の向かいにあり大きな邸宅だったのがわかる。


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コメント 7

ChinchikoPapa

このころのミンガスの曲想は、当時あまた撮られた16mm前衛映画のBGMに登場しそうなサウンドです。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2008-11-02 12:10) 

ChinchikoPapa

イチョウが色づくの早いですね。こちらでは、まだ本格的な紅葉はまだのようです。
nice!をありがとうございました。>納豆(710)な奇人さん
by ChinchikoPapa (2008-11-02 12:14) 

ChinchikoPapa

巣鴨拘置所の地下深くには、陸軍の弾薬庫があったスペースがそのまま残されているようですね。nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2008-11-02 12:19) 

ChinchikoPapa

いつも美しい写真を楽しみにしています。
たっくさんのnice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2008-11-02 12:27) 

ChinchikoPapa

昨夜、黄菊の甘酢あえを食べたばかりなので、美味しそうに見えてしまいました。
nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
by ChinchikoPapa (2008-11-02 17:14) 

ChinchikoPapa

ページ上にいまだアイコンは表示されないようですが、このエラーも気になりますね。nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2008-11-03 11:37) 

ChinchikoPapa

実は、わたしはバナナボートが大好きなのです。^^ 食欲の秋、月山周辺の紅葉がきれいですね。nice!をありがとうございました。>yamagatnさん
by ChinchikoPapa (2008-11-03 23:13) 

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