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自動車に轢かれたのかしらん。 [気になるエトセトラ]

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 大正期が終わると、山手線のさらに外側へ通称「文化村」と呼ばれる洋風住宅街が次々と形成されていく。目白文化村Click!の開発を終えた箱根土地は、東大泉Click!の開発とほぼ同時に、中央線の国分寺と立川間に「国立駅」Click!を建てて鉄道省に寄付し、本社を国立へ移転して本格的な「学園都市計画」を進めていった。ただし、「学園都市」とか「田園都市」といった表現は、ディベロッパーやその関係者が唱えた用語あるいは社名であり、また後追いで徐々にそう呼ばれるようになったのであって、当時の一般的な呼称としては浸透していない。マスコミなどでつかわれていた呼称は、みんなまとめて相変わらず「文化村」だった。
 1935年(昭和10)に発行された『婦人画報』4月号には、家々が建ち並びはじめた「省線のK駅」にある「文化村」のエピソードが紹介されている。もちろん、時期的にみても中央線の国立駅で、「文化村」と書かれているのは「国立学園都市」のことだろう。同記事から引用してみよう。
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 省線のK駅から徒歩で十七分の地点に十六軒の文化住宅が四列横隊に----否此れは四列縦隊と云つても差支へないが----キチンと整頓されてゐると云つた具合の文化村。
 「ニクライシ雨さん、朝はあんなに晴れて居たクセに」と呟いて、十六軒の善良な十六人の奥様が御主人のゴム長靴をさげて家を出ると、駅まで十七分の行程を隊伍を組んで行進すると云ふ仕掛け。/駅では、暫時電車から降りる御主人と、我先に愛する夫君の首に飛付かうとあせる奥様で大変な騒ぎ。やつと長靴に履代へると良き御主人と良き奥様が二人一組になつて、一組宛雨の中に入つて行く。 (同誌「文化村挿話」より)
  
 ・・・と、佐々木邦の『文化村の喜劇』Click!と同様、東京市街からさらにもっと遠い、不便な「文化村」を揶揄するような出だしなのだけれど、実はこのエピソード、「文化村」の実情を皮肉っぽく描いた記事ではなく、仲のいい夫婦のお話なのだ。ひょっとすると、当時の『婦人画報』編集部の中にも、国立から通っていたスタッフがいたのかもしれない。
 雨降りの夕方6時すぎ、駅まで長靴を持って夫を迎えに行った16人の奥様のうち、「春賀夫人」の連れ合い「喜多八氏」だけが、いつまで待っても帰ってこないのだ。当時、住宅街の道路は舗装されていないから、ひと雨降るとぬかるんで泥沼となってしまった。これは、目白文化村やアビラ村(芸術村)Click!でも事情は同じだったろう。ぬかるみに足を取られ、靴がどこかへいってしまい「発クツ調査」をする場面が、先の『文化村の喜劇』にも登場している。
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 「春賀夫人」は、「今度の車に居なかつたら断然私、帰つちやオ!」とか「あの人ツたらどうしたんでシヨ、自動車にでも轢かれちやツたのか知らン」などと、物騒なことをつぶやきながら、結局、夜の10時半まで駅のベンチで夫の帰りを待つのだが・・・
  
 「雨が降る日は尾が東、犬が西向きや天気が悪い!」なんかと訳のわからぬ事を叫びながら電車から転出した酔漢をよく見ると、それが春賀喜多八氏。
 「アナタ!」
 「ヤ、奥様ですか、今迄此んな処に我輩を待ツてゝ呉れたですか? アリガト、スンマセン!」と感激の余り喜多八氏、その儘其処へ坐り込んで、ポロポロ泪を流したと云ふさうで。 (同上)
  
 かなりストレスがたまっていて、鬱病にならなければいいと願う「喜多八氏」だけれど、このような情景は、別に「文化村」に限らず、当時の東京ではどこの駅でも見られただろう。それが、ことさら記事になってしまうのは、「文化村」と呼ばれるような小ギレイな洋館が建ち並び、どこかツンと取り澄ましたような雰囲気のある街には、「昔からの住民もいなけりゃ、人情なんてありゃしないのさ」とイメージしていた人たちが、東京市街には大勢いたからではないだろうか?
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 戦後の1960年代でさえ、旧・日本橋区エリアが小林信彦のいう“町殺し”Click!で住みにくくなり、多くの住民が「今度、とうとう郊外へ引っ越すことになっちゃって」と、お先まっ暗で絶望的な表情をしながら言っていたぐらいだ。ここでいう「郊外」とは、池袋から目黒あたりにかけて山手線のすぐ内外あたりのことを指している。わたしの世代には、すでにそのような感覚は皆無だけれど、40年前の彼らの感覚からすれば、そこはすでに「東京市内」でさえ、すなわち(御城)下町Click!ですらなかった。昭和初期であれば、その意識はさらに強烈だったろう。
 でも、「文化村」と呼ばれた街でも、東京市街とまったく同様の人情や機微が息づいていたのであり、「文化村挿話」は市街地のことさらネガティブなイメージを少しでも払拭するために書かれた、郊外在住の編集者による特集記事ではなかっただろうか?

■写真上:1935年(昭和10)の『婦人画報』4月号に掲載された、「文化村挿話」の挿絵より。
■写真中は、1947年(昭和22)に撮影された国立駅前。戦後になってからも、家の数はかなり少なかったのがわかる。は、昨年解体された尖がり屋根の旧・国立駅。
■写真下:同挿画。1935年(昭和10)ごろなので、女性の洋装と和装が半々ぐらいになっている。
 


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コメント 7

ChinchikoPapa

「蝦夷の文」、ネーミングからしていいですね。ぜひ食べてみたくなりました。
nice!をありがとうございました。>納豆(710)な奇人さん
by ChinchikoPapa (2008-10-13 13:27) 

ChinchikoPapa

「Steal Away」は、秋のやわらかな陽射しの中で聴くにはもってこいですね。
nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2008-10-13 13:31) 

ChinchikoPapa

ネコは高いところが好きですね。うちでは、冷蔵庫の上が指定席です。
nice!をありがとうございました。>パルの大冒険さん
by ChinchikoPapa (2008-10-13 18:35) 

ChinchikoPapa

都心でもいわゆる「宿直医」が減っているのか、救急の搬送リードタイムが延びる一方のようです。nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2008-10-14 10:55) 

sig

こんにちは。
40年位前までは、幹線道路でも砂利道のところがあって、雨が降ると凸凹穴に水がたまったり、泥んこ道になったりして…、さすがにその頃は長靴は履かなかった分、革靴は泥だらけになったものでした。
国立駅まで長靴を持って夫を迎えに行く奥様方の様子は滑稽ですが、その通りだったと思います。
そこで思うのですが、現在の街づくりは道路整備から始めるようで、まず舗装道路ができたあとに家を建てると思います。そうならば、国立の奥様方の靴持参お出迎えはないと思うのですが、そのあたり、目白文化村や国立はどうだったのでしょうか。

佐々木邦の絵、母の「婦人倶楽部」などで知っています。懐かしいです。
by sig (2008-10-14 11:01) 

ChinchikoPapa

sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
いまの新しい住宅地は、上下水道やガスの配管工事のあと、きれいな舗装道路を敷いて生活インフラを整えてから造成されますね。自家用車の数がそれほど多くなかった大正時代、舗装されていたのは東京市内の街中だけで、郊外の住宅地はほとんどが土の道だったようです。目白文化村も、目白駅のすぐ西側に展開した近衛町も同様で、玄関先に「手洗い場」や「靴洗い池」を設置したお宅もありました。
佐々木邦が書いた『文化村の喜劇(文化村奇譚)』に出てくる、ぬかるみの中に革靴がはまって行方不明になり、ハイカラな奥さんが鍬を片手に「発クツ調査」へ繰り出す・・・というのは、あまりにもカリカチュアライズされた表現ですが、でも雨が降ると靴もズボンの裾も泥だらけになったというのは、事実だったんでしょうね。
ただ、下落合界隈のケースですと、昭和初期ごろから土の道路に砂利をまいて、その上から押しかためるという“簡易舗装”がされていた道路も出現しはじめているようです。ただし、アスファルトやコンクリートを使った本格的な舗装は、戦後からですね。
by ChinchikoPapa (2008-10-14 12:08) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございます。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2009-07-16 15:43) 

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