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岡崎キイがめぐる彝死去の急報ルート。 [気になる下落合]

鶴田吾郎アトリエ跡下落合804.JPG 夏期講習会パンフ1.jpg
 1924年(大正13)12月24日(水)の晴れた日、中村彝Click!が喀血をのどに詰まらせて急死したとき、付き添って看護していた岡崎キイはそれを知らせるために、下落合に住んでいた彝の親友たちのもとを大急ぎでめぐっている。まず、鶴田吾郎Click!のもとへ駆けつけ、つづいて曾宮一念Click!の家に立ち寄っている。このキイの急報ルートが、わたしの長い間の疑問だった。なぜなら、下落合でこれまでに判明している鶴田邸Click!は下落合645番地、すなわち佐伯アトリエClick!のすぐ北側、目白通りに近い敷地に位置している。彝が死去したとき、同所にそのまま鶴田吾郎が住んでいたとすると、岡崎キイの行動が腑に落ちないのだ。
 林泉園の彝アトリエから、鶴田邸(「出前地図」では「寉田」と表記)へと向かうには、最短距離をとるとすれば、どうしても諏訪谷に面した曾宮一念邸Click!の前の道を通らなければならない。だから、彼女は曾宮一念になにも知らせないまま彼のアトリエ前を素通りし、鶴田邸へ急を知らせたあと、その帰り道に曾宮邸に寄って彝の急変を知らせるという、ちょっと不自然でおかしな行動をとったことになってしまう。最初はキイの気が動転していたとも考えたが、彼女の気の強い性格からするとそうは思えないのだ。常識的に考えれば、諏訪谷の曾宮アトリエへひと声かけてから、より西側にある鶴田邸へ向かうのが自然だろう。
 1982年(昭和57)出版の鶴田吾郎『半世紀の素顔』(中央公論美術出版)には、佐伯アトリエ北側の自邸(下落合645番地)のことが次のように書かれている。ちょうど、1923年(大正12)9月1日の関東大震災Click!のときで、鶴田は池袋から目白通りをめざして大急ぎで帰宅している。
  
 上り屋敷から落合の通りに抜けて家に戻ると、妻子は無事であったが、家は五度位傾き、壁は殆んど落ちて、足の踏み場もない。床の間に立てかけておいた三十号のスキターレッツ(ゴーリキー達の仲間だったロシヤの作家、大森に来ていたので描いた)の肖像画は壁の下敷きとなっていたが、これも無事だった。 (同書「下落合から長崎村」より)
  
鶴田吾郎1965.jpg 中村彝1924.jpg
 このあと、鶴田は傾いてしまった家を出て、その年の冬(実際には翌年か?)に下落合804番地へ自邸と小さなアトリエを建て、しばらくの仮住まい(下落合800番地)のあとに引っ越している。ちなみに、下落合800番地には、おそらく服部建築土木事務所Click!によって借家がいくつか建てられていたようだが、彝の友人のひとりである鈴木良三Click!が大震災の前日、1923年(大正12)8月31日から住んでいた。でも、大震災後しばらくすると、鈴木はいったん画業をあきらめ、医者になるために故郷の水戸へ引き上げている。
  
 関東大震災も一応落ち着いて、中村の画室に近くなったところへ、無理して小さな画室をその冬造って移ることにした。曾宮と中村の中間にある処だった。 (同上)
  
 この自ら建てた下落合の住まいと小さなアトリエの所在地が、鶴田吾郎関連の資料や年譜などにも収録されておらず、これまでずっと不明のままだった。後述するけれど、おそらく鶴田自身はこの住所にいた時代のことを1日でも早く忘れたかったのだろう。鶴田の新しい住所が判明し、岡崎キイによる先の急報ルートの疑問がとけたのは、鶴田が転居したあと、1925年(大正14)8月に太平洋画会が開催した「洋画夏期講習会記事」のパンフレットを目にしたからだ。そして、貴重なパンフレットをお持ちだったナカムラさんからコピーを譲っていただいた。関東大震災から1年弱、この時点で鶴田吾郎の住所は「下落合804番地」と記載されている。
夏期講習会パンフ2.jpg エロシェンコ1920.jpg
 確かに道順を考えるなら、中村彝アトリエと曾宮一念アトリエの「中間」と表現できなくはない。岡崎キイは、まさにこの道順をめぐって急を知らせているのだろう。まず、彝の様子がおかしいのに気づいたキイは、林泉園の道を七曲坂筋を突っ切って西へと向かい、西尾邸の前へ出ると薬王院墓地のあたりめざして一気に南下した。大震災のとき、キイは鈴木良三に連れられて彝とともに鈴木邸へと避難していることから、薬王院周辺の道筋はよくわかっていたにちがいない。
 そして、帝展に落選し、中村彝が名づけ親となった長男・徹一を疫痢によって亡くしたばかりの、意気消沈している鶴田吾郎のもとへ彝の急変を伝えたあと、彼女は鶴田を追いかけて彝アトリエにはもどらず、その足で西側の久七坂筋へと出て北上し、今度は曾宮一念のもとへ急を知らせた。ちなみに、この薬王院墓地に近い一画をモチーフに、2年後の1926年(大正15)9月22日の小雨が降る中、佐伯祐三Click!は『下落合風景』の1作「墓のある風景」Click!を描いている。
急報ルート.jpg
  
 満州から戻ってからの私の身辺は決して面白いものではなかった。宇都宮に行って大谷の石仏観音をみてから、秋の帝展に出品すべく百号に描いて出したが、これは落選となり、続いて長男の徹一が疫痢で一夜にして死亡、それも片付かない十二月、中村の最期となったのである。(中略) 震災直後につくった小画室も、子供の急死や中村の最期などで住むのも嫌になって、池袋の奥、祥雲寺前の新築の貸家を見つけて三ヶ月ばかり住み、更に奥の長崎村に小さな家が見つかったので越すことにした。大正の終りでまさに昭和に代る時である。 (同上)
  
 こうして、下落合804番地で不幸つづきだった鶴田は、苦労してせっかく建てたばかりの自宅とアトリエを放棄し、1926年(大正15)に長崎村の地蔵堂に見つけた小さな家Click!(旧・長崎町字地蔵堂971番地)へと移っていくのだ。

■写真上は、下落合804番地の鶴田アトリエ跡の現状。は、太平洋画会が発行した「洋画夏期講習会記事」(1925年)。鶴田は講師として、人体・石膏の写生授業を7回も受け持っている。
■写真中上は、1965年(昭和40)ごろ要町のアトリエにおける鶴田吾郎。は、1924年(大正13)12月25日にスケッチされた鶴田吾郎の素描『横たわる中村彝(逝去の翌日)』。
■写真中下は、太平洋画会の夏期講習パンフレットに掲載された鶴田の自宅兼アトリエの所在地。は、1920年(大正9)に制作された鶴田吾郎『目白駅に立つエロシェンコ』。
■写真下:岡崎キイがめぐった、彝の死を知らせる下落合の急報ルート。


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ChinchikoPapa

広告塔は、日本ではあまり見かけないですね。韓国の街角にもあるのですか。
nice!をありがとうございました。>Krauseさん
by ChinchikoPapa (2008-06-07 11:28) 

ChinchikoPapa

「康楽館」のようなところで、ぜひ芝居を観てみたいですね。音曲の響きからして、まったく違うのではないかと思います。nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2008-06-07 11:34) 

ChinchikoPapa

最近、東京でも「町づくり協議会」と同じ概念の「地区協議会」を設ける区が盛んに増えています。下落合のある新宿区は少し前からありますが、お隣りの目白がある豊島区は今年からスタートするようですね。nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2008-06-07 19:23) 

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