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岡田虎二郎のずぶ濡れ帰宅ルート。 [気になる下落合]

岡田虎二郎邸跡.JPG 岡田邸1926.jpg
 1920年(大正9)の秋、東京地方は大暴風雨をともなう台風の直撃をうけた。当時の東京気象台の記録をたどると、9月30日の1日だけで、193.7mmの雨が降ったことがわかる。この日、目白駅で下車した岡田虎二郎Click!は、冠水した目白駅前の金久保沢Click!を通り、ずぶ濡れになりながら下落合の自宅へ帰っている。
相馬黒光の著書では、岡田が死去したのは1921年(大正10)となっているが前年の誤り。上記の記述を1920年(大正9)に訂正した。同年の9月30日には、台風が関東地方を襲い193.7mmの豪雨を降らせている。この集中豪雨により、目白駅前が冠水したものと思われる。
その後、目白駅の橋上駅化は1922年(大正11)と判明Click!している。
 大正期に一大ブームとなった「静坐法」で有名な岡田虎二郎の自宅が、下落合のどこに建っていたのかが、ずっと片隅にひっかかっていた。日暮里の本行寺で毎朝開かれていた「静坐会」Click!には、中村彝Click!中原悌二郎Click!たち芸術家をはじめ、木下尚江ら社会運動家、徳川家や相馬家などの華族グループ、大学教授、学生などが数多く参集し、一種の精神修養と健康促進を目的とする大規模なサークルが形成されていた。
 岡田の自宅が判明したのは、意外にも1966年(昭和41)に出版された安倍能成の自叙伝『我が生ひ立ち』(岩波書店)にある記述と、近衛町(このえまち)にお住まいの藤田様Click!よりお見せいただき、撮影させていただいた貴重な近衛町の分譲地割図からだった。岡田虎二郎が死去してのち、昭和初期に作成されたとみられる分譲地割図には、いまだ虎二郎のひとり娘である「岡田礼子」の名前が発見できる。おそらく、虎二郎の死後は母親と暮していたのだろう。
 目白駅を降りた岡田は、水浸しの金久保沢を下半身がずぶ濡れになりながら突っ切ると、豊坂稲荷のある坂を上って下落合の「近衛町」へと入った。でも、当時は「近衛町」という呼び方は一般的ではなかっただろう。東京土地住宅(株)の常務取締役で、近衛文麿の友人でもあった三宅勘一が、旧・近衛篤麿邸Click!の広大な敷地を「近衛町」と名づけて本格的に分譲販売Click!しはじめるのは、1922年(大正11)に入ってからのことだ。だが、すでに開発には着手されて、道路整備などが進んでいたものと思われ、ところどころには住宅も建っていたようだ。ひょっとすると、岡田は静坐会を通じて近衛家ともつながり、住宅を優先的に建てさせてもらったのかもしれない。
近衛町分譲地割.jpg 岡田礼子.JPG
 岡田は、大雨でぬかるんだ近衛町の真新しい道路を歩いて、旧・篤麿邸の玄関前にあった車廻しの双子のケヤキClick!が、夜目にもうっすらと見えるところまで来ると、道を西へと右折した。この西へ向かう道をそのまま進むと、林泉園から湧いた渓流が流れる谷間へとさしかかる。谷間に沿った道を北へと入り、谷沿いの桜並木をたどると、かつて頻繁に静坐会へ参加していた弟子のひとり、中村彝のアトリエがあることを彼は知っていただろう。その親友だった中原悌二郎が、その年の1月に死去していることも、相馬黒光Click!などを通じて耳に入っていたかもしれない。
 岡田は、林泉園に繁る森の暗闇を一瞥すると、今度は南へと左折した。50mほど歩いたところで右へ曲がると、ようやく正面が行き止まりとなる下落合404番地の自邸の前へたどり着いた。玄関に入ると、一度離婚して前年に再び結婚した妻・岡田き賀と、娘の礼子とが出迎えたことだろう。目白駅前で膝まで浸かったズボンや靴下を、さっそく玄関で脱いだかもしれない。
岡田虎二郎は生前、下落合356番地に住んでいたことがわかり、近衛町の下落合404番地は彼の死後、大正末に家族が転居した住所であることが判明Click!した。
 この近衛町にあった岡田虎二郎邸は、現在の街並みでいえば、旧・安井曾太郎Click!の自宅とアトリエが建っていた跡、つまり水琴窟の音色が美しいカフェ「花想容」のある藤田邸に接した、まさに西隣りの敷地だ。先日、この水琴窟の音色を甦らせる調査とクリーニングのため、NPO法人・日本水琴窟フォーラムClick!のみなさんとお邪魔をしたが、その経緯については、また、別の物語。
岡田邸1936.JPG 木下尚江.jpg
 もうひとつ、このサイトをご覧になっている方からご親切にお教えいただいた、安倍能成Click!の証言から引用してみよう。安倍は岡田本人とも何度か会っているし、ときには静坐会へも参加しているようだ。、また、安倍はモデルを引き受けたため、近衛町の洋画家・安井曾太郎のアトリエへは半身像で40回以上、全身像では60回の都合100回以上も足繁く通っている。
  
 (前略)都新聞に発表して居た木下尚江も、その頃は静坐に凝り、会場にいつもその姿を現はして居た。この岡田といふ人は、ホラ虎の名があつたさうだが、躯幹は偉大で言ふことはいつも大きかつた。或る時私の手にさはつて、こんな冷たいことではだめだと、剣もほろゝに罵つたのに、鈴木三重吉の友達だと知つて、急に愛相(ママ)好くなつたので、これは本物ではないと思つた。ニ三年して急になくなつたが、その下落合の宅の後に安井曾太郎君が住んで居た。この家へは肖像のモデルとして度々通つた。 (安倍能成『我が生ひ立ち』より)
  
 最初から親切にしてくれなかったと、安倍能成はかなりオカンムリのようだけれど、木下尚江を頻繁に見かけるほど、彼は静坐会へもちょくちょく顔を出していたらしい。岡田家は、のちに自邸の敷地を安井曾太郎へと売却しているようだ。
帰宅ルート.jpg
 岡田家側の記録が残っていないので、詳しいことは不明だけれど、この下落合の岡田邸にはさまざまな人たちが出入りしただろう。おそらく、先の木下尚江はもちろん、彝アトリエを訪ねるついでに相馬黒光も立ち寄っていたにちがいない。
 ずぶ濡れになって帰宅した大雨の日から1週間後、1920年(大正9)10月17日に岡田虎二郎は急死する。静坐法には、健康促進の効能も含まれていたから、その提唱者が尿毒症により49歳の若さであっけなく死んでしまっては、会員に対してしめしがつかなかったのだろう。静坐会は、木下尚江が跡を継いでしばらくつづいたものの、ほどなく会員が激減して消滅している。

■写真上は、旧・岡田虎二郎邸跡=洋画家・安井曾太郎アトリエ跡の現状。近くに、近衛篤麿の記念碑が建立されている。は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる岡田邸。
■写真中上は、藤田様にお見せいただいた昭和初期の作成とみられる近衛町の分譲地割図。は、岡田邸敷地の拡大。虎二郎のひとり娘だった、「岡田礼子」の名前が記載されている。
■写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる岡田邸界隈。は、静坐会の木下尚江。
■写真下:目白駅へ降りてから歩いた、岡田虎二郎のずぶ濡れ帰宅ルート。ベースとなっている地図は、近衛町が開発された1922年(大正11)に都市計画東京地方委員会によって作成された地形図。この地図はのちに印刷・出版されたものの、翌年の関東大震災による地形変動や街並みの変貌で改めて再測量が必要となり、実際にはあまり活用されなかったらしいめずらしい地形図だ。


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コメント 4

ChinchikoPapa

神奈川県の海辺に住んでいたころ、家の木材には松が多用されていました。独特なやわらかい触感と匂いがしますね。nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2008-05-31 23:13) 

ChinchikoPapa

アート・アンサンブル・オブ・シカゴほど、聴くときの気分で印象が変わる音楽はめずらしいですね。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2008-05-31 23:28) 

ChinchikoPapa

aoyamasijinnさん、nice!をありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2008-06-01 12:10) 

ChinchikoPapa

こちらにも、わざわざnice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2008-06-03 23:44) 

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