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下落合を描いた画家たち・銭痩鉄。 [気になる下落合]

 吉田博が描いた下落合は、めずらしい木版画による徳川邸の「静観園」Click!だが、同様に西洋画ではなく墨画で下落合風景を描いた画家がいる。名前の通り、日本の画家ではなく中国の画家であり、また篆刻(てんこく)家としても有名な人物だ。銭痩鉄(せんそうてつ)の詳細については知らないが、近代中国では墨画の“三鉄”と呼ばれるほど、その作品は高く評価されていたらしい。銭は大正期、来日して京都の日本画家・橋本関雪の「白沙村荘」に滞在した。そして、大正の後期に描かれたと見られる、この絵のタイトルは『落合山荘』。
 題名からも想像がつくように、作品に描かれた山荘は下落合1296番地にあった、会津八一の下落合秋艸堂Click!だ。会津は、来日した銭と親しくなったらしく、何度か秋艸堂へも招いているようだ。ふたりは十五年戦争をはさんで、戦後まで友誼を保ちつづけている。会津が用いた篆刻も、銭がこしらえたものがいくつかあったのだろう。
 『落合山荘』を観ると、秋艸堂を眺める視点は落合小学校(現・落一小)前の尾根道から、南西の谷間を見おろして描かれているようだ。手前には井戸と、秋艸堂へと通う飛び石が置かれた小路が見えているが、画面の右手枠外にはすでに落合尋常小学校Click!の明治期校舎が建っていた。画面の左枠外が霞坂となるけれど、当時のあるかないかの細い山道が、すでにそう呼ばれていたかどうかは不明だ。正面に見える丘は、第一文化村の前谷戸Click!から流れくだった渓流のある谷間の、向かいの斜面のように思われる。実際の地形に比べると、対斜面までの距離が短いように感じられるが、墨画ならではの遠近把握による表現法なのかもしれない。この斜面を右手へ、すなわち50mほど行くと目白文化村の住民たちが雪の日にスキーを楽しんだ斜面Click!がある。
 
 会津八一が、市島春城の下落合別荘だった「閑松庵」を借りて引っ越してきたのは1922年(大正11)。少し前まで早稲田大学講師を勤めていたが、会津は身体を壊して辞職し、早稲田中学には籍を置いたまま千葉県の勝浦で静養をしていた。勝浦の海岸は、会津が生涯にわたり慕いつづけた渡辺ふみ(→渡辺ふみ子Click!→亀高文子)の写生地だった。ふたりそろって、勝浦へ旅行したこともあったらしい。渡辺ふみの夫が病死したとき、会津は頻繁に彼女のもとを訪れている。
 でも、学生時代からの恋は実らず、会津はふられつづけることになる。静養先に勝浦を選んだのも、彼女との想い出がたくさん詰まった土地だからだろう。健康を回復した会津は、下落合の山荘へ転居し「秋艸堂」と名づけた。やがて、渡辺ふみは再婚して亀高文子となり関西へ去ってしまうのだけれど、会津はなかなか諦めきれなかったようだ。
 
 早稲田中学の教師を勤めた会津だが、生徒の中には洋画家・曾宮一念Click!がいた。のちに、ふたりは下落合で親しく交流することになるのだが、曾宮の証言を聞いてみよう。
  
 会津は私が中学五年の時新潟から赴任して来て、姿は見たが教えは受けていない。彼の恋愛話は早大卒業前後で、傷ついて新潟へ去り、私が親しくなったのは十年以上を経ていた。近年になってそのころの彼にはまだ昔の余燼が残っていたことを知ったが、当時その号の道人らしい日常を送っていた彼はこういう青臭い話題にたち入らず、学芸のために独身を守るのだと口をぬぐっていた。たまたま戦後その相手方の婦人画家と私とあう機会があったのと安藤更生氏の会津を語る文によって知るに至った。それは事実において失恋に違いないとしても、会津の肖像を婦人画家が描きに行ったり、一週間の外房州旅行を共にしたりしているから、全然会津が相手にされなかったのでもないらしい。しかも画家の夫の死後幾度か婦人を訪ねてもいる。
 (中略)会津の場合、私は後年の老婦人の追憶と安藤氏の文を平均し、それに会津と親しかった料治熊太の文を加えて考えるほかはない。会津は私に「美しくなくては・・・・・・」と言ったのが女に関する唯一の言葉であった。会津は詩人であり、美(ここでは美女)への憧憬夢想を一生持っていた。
                                         (曾宮一念『東京回顧』より)
  
 自身も認める“傲岸不遜”な性格は、ほれた女性への想いを生涯にわたってハネつけられた、会津のコンプレックスに深く根ざしたものだったのかもしれない。渡辺ふみの側にしてみれば、「美術コレクションのひとつにされてたまるもんですか」・・・というような想いもあったのだろうか?
 
 うつせみは うつろふらしも まぼろしに あひみるすがた とはをとめにて
 渡辺ふみ(亀高文子)は女子美術学校を出たあと、満谷国四郎Click!について絵を学んでいるが、ほどなく太平洋画会の研究所へ入る。同時期の研究生には、中村彝Click!中原悌二郎Click!らがいた。のちに、下落合へ集まってくる芸術家ばかりだけれど、会津の期待に反して、渡辺ふみ(亀高文子)が訪れることはなかった。
 銭痩鉄が描く寂寞とした『落合山荘』(下落合秋艸堂)だが、この時代の会津の傷心を映しているようで、どこか切なく痛々しいような印象を受ける。ちょうど、中村彝がどこかで相馬俊子の来訪を期待していたように、会津八一も待ちつづけていたのではないか。でも、渡辺ふみは、会津が待っても待っても、下落合へやってきはしなかった。ひそやかに、待ちつづける人たちのいる下落合・・・。

■写真上:1923年(大正12)前後に描かれたとみられる、銭痩鉄の『落合山荘』。
■写真中上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる元・秋艸堂の建物。は、1910年(明治43)の「早稲田・新井1/10,000地形図」にみる、市島春城の別荘「閑松庵」あたり。
■写真中下は、1922年(大正11)に撮影された下落合秋艸堂。これが、当初の建物形状だったようだ。は、早稲田中学教師時代の顔が大きな会津八一で、手前左は大隈重信。
■写真下は、渡辺與平が1909年(明治42)に描いた『ネルの着物』(部分)で、モデルは妻の渡辺ふみ。3年後の1912年(大正元)、渡辺與平は急死する。は、かつての下落合秋艸堂のたたずまいを髣髴とさせる、2005年早春の目白崖線沿い下落合風景。(撮影:武田英紀氏)


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ChinchikoPapa

毎回、ご丁寧な評価をありがとうございます。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2007-09-26 19:59) 

ChinchikoPapa

nice!をありがとうございました。
 >一真さん
 >アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2015-02-10 14:51) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。
 >kurakichiさん
 >さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2015-02-10 14:52) 

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