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東亜同文書院の尾崎秀実とゾルゲ。 [気になるエトセトラ]

 近衛篤麿や犬養毅らが興した東亜同文会Click!は、中国人やベトナム人の留学生を受け入れるため、下落合の近衛邸敷地に東京同文書院Click!を建設した。のちに、留学生の数が減ると、校舎は目白中学校Click!へと改変されている。また、1901年(明治34)には中国の上海にも、地元の中国人学生あるいは日本からの留学生を受け入れるために、東亜同文書院を設立している。
 日中戦争が激しくなってからも、上海の東亜同文書院は閉校になることなく、そのまま運営をつづけていた。1932年(昭和7)の第1次上海事変ののち、中国との武力衝突が本格化しているのに、東亜同文書院の学生には、公然と「日帝打倒!」を掲げる中国共産党の学生党員が8名、また共産党の下部組織である中国共産主義青年団の学生が30名余も学んでいたことは、あまり知られていない事実だ。当時、東亜同文書院の学生数は400人だから、その1割が中国共産党系の学生だったことになる。もちろん、国民党に関係していた学生は、もっとたくさんいたことだろう。交戦相手の学生を募集して“留学”させるなんて事例は、ついぞ聞いたことがない。当時は人種のルツボといわれた、上海ならではの特殊な現象だったのだろう。
 魯迅もそうだが、リベラルな知識人や左翼学生が、“日帝”の学校である東亜同文書院へ積極的に集まったのにはわけがある。同院の図書館が、特に日本ではとうに発禁となっている社会主義の本も含め、社会科学に関連した書籍の宝庫だったからだ。マルクスやレーニンも、東亜同文書院では自由に読めた。下落合の東京同文書院などへ留学し、日本語が読める中国人たちは東亜同文書院の図書館へと通ってきた。また、日本からの留学生も図書館をよく利用し、日本の学校では考えられない「社研」や「マル研」などのサークルを作っては、反戦活動へと参加していった。
 学生たちは、朝日新聞上海総局を訪ねて、当時の中国通である尾崎秀実(ほつみ)をサークルの講師に招いたりもしている。そして、これらの学生たちは、尾崎を通じてソ連のスパイだったリヒャルト・ゾルゲや、米国の作家アグネス・スメドレーらとも接触していくことになる。つまり、上海の東亜同文書院は、日中両国の学生たちによる反戦活動の一大拠点だったのだ。でも、初めて実現した全学ストライキの理由が、「食堂のメシがまずいから」というところに、日本国内とは異なるどこかのんびりした様子が感じられる。ところが、日中が全面戦争へと突入する、1937年(昭和12)の第2次上海事変のとき、上海虹橋路の東亜同文書院校舎は放火により焼失してしまう。
 
 当時、東亜同文書院の院長だった犬養毅の弟子で、“自由主義者”を自認する大内暢三は、1940年(昭和15)に上海を訪問した貴族院議員・中野敏雄へ以下のように語っている。『東亜同文書院(大学)と愛知大学/第2集』(六甲出版)から引用してみよう。
  
 南京が落ちて、蒋介石が漢口に入っている時、近衛(当時の首相近衛文麿公を指す)は、陸軍にかつがれて、蒋介石を相手にせずとの声明を出した。今の支那に蒋介石をおいて誰か他に交渉相手があるというのか。 (中略)それで私は東京に飛んでいって、当時の宇垣一成外務大臣に会い、「武漢作戦をやらせるな。漢口を攻略すれば、彼(蒋介石)は必ず四川の重慶に行ってしまう。四川省は古の蜀の地で、到底、日本軍の攻め込んでいけるところではない。こうなれば、支那事変は、いよいよ泥沼に入って、収拾不可能になる。だからあの作戦はやらないで、蒋介石を漢口にそっとして置いて、交渉の余地を残し、前後処置をとるよう」進言した。しかし、宇垣は「自分も同感である。しかしすでに廟議で武漢作戦はやることに決定している」と言われた時には、私はがっかりした。
                               (河原寅男「祖父、大内暢三の肖像」より)
  
 第2次上海事変から2年後、第一次近衛内閣の崩壊直後に荻外荘Click!にもどった近衛文麿は、長男の文隆を東亜同文書院へ学生主事として送り込んでいる。蒋介石へ密使Click!を派遣しようとして陸軍の妨害にあい、何度か失敗していた近衛は、首相を辞めたばかりの1939年(昭和14)2月の時点でも、いまだ和平工作をあきらめていなかったのかもしれない。大内院長のもと、かろうじてリベラルさを残している東亜同文書院を足がかりに、近衛文隆を通じて国民党政府との接触を試みたと思われる。
 
 近衛文隆が、東亜同文書院へと着任した様子を、西木正明の『夢顔さんによろしく』(文芸春秋社)から引用してみよう。上海から近衛内閣へ向け、戦争不拡大を訴えつづけた大内院長は、戦争拡大を止めなかった近衛前首相の息子を、いかにも迷惑で不機嫌そうに出迎えている。
  
 大内暢三院長は、先に訪問した時のにこやかな顔つきとはうって変わって、苦虫を噛みつぶしたような顔つきで、文隆と対面した。文隆は、これが院長のふだんの姿なのだなと納得しつつ、着任の挨拶をした。院長は、文隆が話し終えるのを待って、おもむろにこう言った。
 「着任ご苦労。当書院は、ご祖父にあたられる篤麿公の創設になり、ご尊父文麿公も院長をおつとめになられた。このことを肝に銘じて、職務に精励していただきたい。蛇足のようだが、君は前大日本帝国内閣総理大臣のご子息である。ここ上海は、皇軍の厳令よろしく一応の平穏を得ているが、抗日分子の蠢動をすべて抑え込んだわけではない。君のような立場の者が当書院にいるとわかると、不逞の輩の攻撃目標となり、不測の事態を惹起する恐れなしとしない。くれぐれも身辺に気をつけられるよう、あえて要望しておく」
  
 大内院長の皮肉たっぷりな訓戒、いや「歓迎」の様子だ。
 でも結局、この和平工作はあまりにも遅すぎた。近衛文隆は、国民党政府との接触を試みようとするが、憲兵隊の妨害を受けてことごとく失敗し、ついに最後は逮捕されてしまった。文隆はその後、1940年(昭和15)に召集されて満州で敗戦を迎え、ソ連軍によりシベリアへ抑留されてしまう。そして、1956年(昭和31)10月、イワノヴォ州のラーゲリ(強制収容所)で死亡した。
 シベリアから日本へと送られた手紙には、いつも「夢顔さんによろしく」という言葉が書き添えられていた。「夢顔さん」とは、尾崎秀実らとともに東亜同文書院へも出入りしたとみられる、東京では文隆とも親しかったソ連のムガン(夢顔)出身、リヒャルト・ゾルゲのことだ。文隆は、日本の敗戦で刑務所から出所したとみられるソ連スパイのゾルゲに対し、ソ連政府へ自身の釈放運動をしてくれるよう暗に頼みつづけていたことになる。
 ゾルゲが、1944年(昭和19)11月7日のロシア革命記念日に、尾崎秀実とともに処刑されたのを、近衛文隆は最後まで知らなかった。

■写真上:上海の虹橋路にあった東亜同文書院の正門。校門に埋め込まれた大理石の校名は、近衛篤麿の筆蹟。校舎のデザインは、どこか下落合にあった東京同文書院に似ている。
■写真中は、書院本館の全景。は、上海の海格路にあった臨時校舎と思われる授業風景。
■写真下は、愛知大学東亜同文書院大学記念センターによる『東亜同文書院(大学)と愛知大学/第3集』(六甲出版/1995年)。は、西木正明『夢顔さんによろしく』(文芸春秋社/2002年)。


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ChinchikoPapa

takagakiさん、ありがとうございました。<(_ _)>
by ChinchikoPapa (2007-05-02 15:35) 

ゆっこ

上海の東亜同文書院に留学した祖父(私の生前の没)のことを知りたくて
ここにたどりつきました。軍人ではないのですが、陸軍のバックアップが
あったようで、ミステリアスな祖父のこともっと知りたいです! 横浜の税関へ勤めたり、戦前渋谷界隈で最初の洋食屋(丸善)を開いた人です。
岡田善次郎、もとは京都のお公家さんの出? 私もだんだん年を重ねて
くると自分のルーツに大いに興味を覚えます。
by ゆっこ (2008-01-13 13:55) 

ChinchikoPapa

ゆっこさん、コメントをありがとうございます。
東亜同文書院に陸軍が興味をいだいたのは、おそらく学生たちが研究目的で実施していた、中国各地の「大旅行」のレポート類が存在したからではないかと想像します。先日、霞ヶ関の霞山会館で開かれました「東亜同文書院展」で、学生たちが作成した「大旅行」の詳細資料が、中国全土にわたって膨大な数量存在していることを知りました。それに陸軍の情報部が、特に敵対地域のレポート類に目をつけたのではないかと思います。
http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2007-11-03

事実、陸軍が「大旅行」の情報を流用した事実が、愛知大学の研究資料にもみえていますね。詳細は、上記のURL内に掲載されています、愛知大学の成瀬様がまとめられた「東亜同文書院関係目録」に掲載されています資料類をご参照されますと、お祖父さまの時代の東亜同文書院の様子が、かなり詳しくわかるのではないかと思います。
by ChinchikoPapa (2008-01-13 22:15) 

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