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入門を断られた中村彝。 [気になる下落合]

 中村彝が絵を描きはじめるきっかけとなったのは、兄たちと同じく軍人をこころざしていた陸軍幼年学校時代に罹患した、肋膜の影響がはなはだ大きい。ただ、当初は油絵ではなく、明治末に大流行していた水彩画をめざしていたのは、あまり知られていない事実だ。当時、水彩画の流行画家となっていた三宅克巳のもとへ、彝は弟子入りを志願しに出かけている。新宿の角筈にアトリエをかまえていた三宅克巳Click!については、以前にこのサイトでも一度顔をのぞかせている。
 そのころの彝は、新宿原町にあった願正寺境内の2階家に、祖母と姉とで3人暮らしをしていた。日露戦争の直後で、長兄の中村直が沙河会戦で戦死したばかりのころだ。次兄の中村中は、士官学校在学中に鉄棒から落ちて事故死(扱いは病死)し、中村家の男は彝ひとりとなってしまった。彝自身も病気が発覚し、士官学校を退学したばかりだった。ほどなく、彝は一緒に暮らしていた祖母と姉も失うことになる。
 角筈の三宅アトリエを訪れた彝は、水彩画の人気画家に対して、さかんに議論をふっかけたらしい。だから、三宅にしてみれば、中村彝には決していい印象を持っていない。1967年(昭和42)の10月に開催された、日本経済新聞社主催による「中村彝展」の図録に、鶴田吾郎がそのときの様子を、三宅克巳の書いた『思い出づるまま』(平凡社)から引用している。
  
 この時分、すなわち明治38年頃の話だが、やはり水彩画研究志望の熱心な青年が突然現われ、私の門弟になりたいと懇願するのである、(句読点ママ) 例により一応は断ったが、その青年容易に得心の模様なく、猛烈に議論を吹きかけてくるのである、最後にはこちらが先方を諭すのだが、向うがこっちをやりこめてくるのか、その態度があまり礼を失しているように思えたから、「あなたの健康も悪いし、またそんな理屈ぽい人は、水彩画に限らず到底絵に成功する望はない」と一本真向から打ち込んだのである。その後再三長々と理屈ぽい手紙までくれたが、ついに諦めたと見えてそれなり煙のように姿を隠してしまった。
 しかるに何んぞ計らんその青年は、後年大天才と天下に謳われた、故中村彝氏であったのである。氏は私に断わられて後太平洋画会の研究所に入学して、真面目に油絵を勉強されたそうだが、氏としてはその時私に断わられ、水彩画など学ばれなかったことは、むしろ同氏のため仕合せのことであったと思われる。  (三宅克巳『思い出づるまま』より)
  
 
 三宅アトリエを訪れた彝は、その場で入門を断られ、さらにあとから受け取った手紙でも、重ねて入門を拒絶されている。どこかに三宅へ宛てた彝の手紙が残っていたら、ぜひ読んでみたい気がする。この時代の彝は、なにごとにも理詰めで、“論理の純潔”をなによりも優先していたフシが見える。もし、このとき三宅のもとへ入門を許されていたなら、彝は油絵を描かず、水彩画家で一生を終えていたかもしれない。
 やがて、彝は水彩画への興味を失ったのか、菊坂白馬会研究所から赤坂溜池研究所へ、そして中村不折Click!満谷国四郎Click!が主宰する太平洋画会真島町研究所へと移り、本格的な油絵の修行時代を迎えることになる。この時代、彝の周囲には鶴田吾郎Click!をはじめ、中原悌二郎Click!野田半三Click!、広瀬嘉吉、高野正哉、雨宮雅郷、白山仁太郎などの画学生が集まりはじめていた。この中で、彝と野田半三、鶴田吾郎は早稲田中学の同窓生だった。

 ちなみに、「議論を吹きかけてくる」「理屈ぽい」彝とは異なり、キリスト教徒だった野田半三は、三宅門への弟子入りをすんなり許されている。のちに、下落合の彝アトリエへも顔を見せるようになる、芸術家グループの初期の仲間たちだった。

■写真上:冬を除いて、新鮮な空気を入れるために開けられることが多かった両開きドア。
■写真中は、三宅克巳『白壁の家』(1921年・大正10)。は、晩年の三宅克巳。
■写真下:1967年(昭和42)10月に開催された「中村彝展」の、図録(日本経済新聞社)に掲載された彝とその学友たち。この時点で、生存していたのは鶴田吾郎ひとりだった。前列右から、鶴田吾郎、中原悌二郎、白山仁太郎、高野正哉、後列右から、野田半三、中村彝、雨宮雅郷。


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