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絵のモデルはアルバイト感覚? [気になる下落合]

 中村彝が、ワシリイ・エロシェンコについて書いた文章は、今村繁三Click!洲崎義郎Click!中村春二Click!あての書簡の随所で見つけることができる。でも、エロシェンコが彝のことを書いた資料が見つからない。これまでいろいろ調べてみたけれど、エロシェンコの作品や書簡に、彝の名前を見つけることができなかった。日本に4年間滞在し、大正文壇において異色の存在となった彼は、日本で3冊の本を出版しているけれど、その中にも彝に触れた箇所は見つからなかった。
 そもそも、残されたエロシェンコの書簡類が、非常に少ないことも原因なのだろう。最初の日本滞在を終え、東南アジアへの旅に出る1916年(大正5)から、日本で3回の逮捕をへて1921年(大正10)に国外退去処分でウラジオストックへと去るまで、友人知人へ宛てた手紙は40通前後しか残っていないようだ。宛て先は、鳥居篤治郎(目白台の東京盲学校時代の学友)、秋田雨雀(劇作家)、中村精二(エスペランティスト)、小川源助(東京盲学校の教師)、吉田均(アナーキスト)、アグネス・アレクサンダー(バハイ教布教師)など。そして、『エロシェンコ氏の像』Click!が描かれた1920年(大正9)以降のそれらの手紙には、残念ながら彝の名前は一度も登場していない。
 そのほか、多くの手紙のやり取りがあったと思われる、寄宿先の相馬黒光(新宿中村屋)や、好きになってしまったらしい神近市子(ジャーナリスト/作家)、竹久夢二(画家)などへ宛てた手紙は、どうやら現存していないようだ。1916年(大正5)6月、最初の訪日から南アジアへと旅立つとき、エロシェンコが学友の鳥居篤治郎に宛てた手紙が残っている。みすず書房から出版された、『ワシリイ・エロシェンコ作品集2』(高杉一郎編/1974年)から引用してみよう。
  
 一日じゅう、夜おそくまで、私はあなたの来るのを待っていました。それなのに、あなたは・・・
 私は、あなたが夢二さんといっしょに遊びにいってしまったことをよく知っています。あなたは、私の電報など待ってはいなかったのです。
 (中略)私は、あなたが私のいちばんいい友だちであることもよく知っています。たぶん、そのためでしょう。神戸を出帆したときに、奇妙な不平の感情が私の胸をいっぱいにしたのです。----どうして、あなたは来てくれなかったのだろう、と。  (1916年6月13日「鳥居篤治郎宛所管」より)
  
 
 ちょっと恨みがましい文章だけれど、エロシェンコの少しグチッぽい表現は、のちに書かれた『日本追放記』にも見てとれる。『日本追放記』の初出は、1922年(大正11)の『改造』9月号に掲載された「赤い旗の下に----追放旅行記」(タイトルが内容に合っていない)だけれど、この中でも見送りが少ないことを嘆いている。彼は3回の逮捕拘留のうえ、内務省から「帝国ノ安寧秩序ヲ害スル」として国外退去を命じられた。ボルシェビキの烙印を押された国外退去処分のロシア人を見送ることは、大正デモクラシーのただ中でさえ、当時の日本では勇気のいることだったに違いない。
 国外退去の直前、3回目の逮捕のときに警察へ最後まで抵抗したのは、新宿中村屋の相馬黒光と愛蔵夫妻だった。中村屋へ土足で踏み込んで障子を壊し、エロシェンコに殴る蹴るの暴行を加えて連行した淀橋署の刑事たちを、行政執行法違反と職権濫用で告訴している。結果、淀橋署の署長を辞任に追い込んだものの、国外退去命令を覆すことはできなかった。
  
 日本追放の命令をうけ、大勢の警官にとりかこまれて鳳山丸というウラジオストックゆきの汽船にのせられた私に最後のわかれをつげにきてくれたひとは、朝日新聞の記者と、敦賀警察でロシア語の通訳をしている商業学校の先生の二人だけでした。二人とも私に同情して、私からはなれずに、そばにいてくれました。そして私がなにか言うと、二人は心配そうに、「気をつけなさい。いかんです。警官がきいている」と注意してくれました。それで、私も黙りこみました。私が黙りこんでも、二人は私のかぎりない悲しみ、言葉では言いつくせないさびしさをわかってくれたことでしょう。
 私は、誰か東京の友だちがきてくれるものと思っていました。しかし、誰もきてくれませんでした。友だちは、会いにくることができなかったのです。
 (中略)私たちはまた、警官ににらまれながら、甲板に立ちました。いくら待っても、東京からは誰も別れにきてくれませんでした。 (エロシェンコ『日本追放記』より)
  

 日本から追放された直後、白軍が支配していたメルクーロフ政権下のウラジオストックから、赤軍ソビエトの支配地域へ入ろうとするが、日本軍と赤軍が対峙する前線付近、ウスリー川の手前で入国を断念している。のちに、北京の魯迅からエスペラントの講師として招聘され、彼は北京大学で教鞭をとることになる。日本では中村彝と鶴田吾郎の作品に、中国では魯迅の短編『あひるの喜劇』の中に、エロシェンコの姿が残されることになった。絵画では静謐で神秘的な雰囲気を漂わせる彼だか、魯迅はエロシェンコの作品『ひよこの悲劇』にひっかけて、彼のことを多少情けなく皮肉たっぷりに描き、「エロシェンコ君はどこにいるやら、まだ便りがない」と結んでいる。
 中村彝にとっては、創作のうえで強烈な印象を残したワシリイ・エロシェンコだが、エロシェンコ自身にしてみれば、ちょっとしたアルバイトとして絵のモデルを引き受けただけ・・・という程度の意識だったのかもしれない。少なくとも魯迅ほどには、彝に対して強い印象を持ったとは思えない。

■写真上:ワシリイ・エロシェンコのエスペラントではなく、ロシア語によるサイン。
■写真中は、1916年(大正5)4月に水戸で開催された講演会の記念ショット。中央のエロシェンコの左が劇作家の秋田雨雀、手前でバラライカを持っているのが親友の鳥居篤治郎、その左側に座っているのが画家の竹久夢二。は、1974年(昭和49)に出版された『ワシリイ・エロシェンコ作品集2/日本追放記』(高杉一郎編/みすず書房)。
■写真下:北京の魯迅とエロシェンコ。魯迅は、エロシェンコ作品のいくつかを中国語訳している。


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ノンキー

時々お邪魔しています。
落合さんは、mixiにもアカウントをお持ちでしょうか。
mixiの私の日記でこちらの内容を紹介したいのですが、よろしいでしょうか。(まだアップはしてません)
内容はエロシェンコと魯迅に関してです。

よろしくお願いします。
by ノンキー (2013-03-30 18:08) 

ChinchikoPapa

ノンキーさん、わざわざコメントをありがとうございます。
facebookは数年前から形だけやっていますが、mixiは残念ながら5年ほど前にやめてしまいました。どうぞ、この記事はご自由に引用されてかまいません。
「落合さん」と呼ばれたのは初めてで、ちょっとびっくりしました。w
ハンドルネームは「ChinchikoPapa」ですので、どうぞよろしくお願いいたします。^^;
by ChinchikoPapa (2013-03-30 22:51) 

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