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帝展派の「中村会」と曾宮一念。 [気になる下落合]

 中村彝の死後、彼のアトリエは周辺に住む画家たちのサロンのような使われ方をしていた。いわゆる「中村会」、あるいは「画室倶楽部」の集いだ。大正末のこの時期、いまだ「中村彝会」とは呼ばれず、仲間うちでは「中村会」と呼称されていた。新宿の中村屋に集まるときの会名と紛らわしいという理由から、クラブの名称が「中村彝の会」、やがては「中村彝会」に変更されるのは、もう少し時代がくだってからのことだ。
 毎月1回のペースで開かれる会合には、中村彝の友人だった画家をはじめ、近隣に転居してきた画家たちも加わり、洋画界の情報交換の場として活用され、あるいはちょっとしたワークショップのような催しも開かれていたようだ。先に紹介した、1925年(大正14)3月の『中村彝作品集』Click!(中村彝作品集刊行会)の出版企画が練られたのも、この画室においてだった。
 ここに集った画家たちは、ほとんどがアカデミックないわゆる“帝展派”であって、二科会の樗牛賞を受賞していた彝の親友のひとりである曾宮一念Click!は、むしろ在野的なスタンスのめずらしい存在だった。だから、曾宮は“帝展派”の多い「中村会」へ参加すると、周囲に対してはやや批判的にふるまっていたようだ。1938年(昭和13)に出版された『アトリエ』10月号で、鈴木信太郎は1925年(大正14)ごろの「中村会」の情景を思い出しながら、次のように述懐している。
  
 あの頃私共は目白の故中村彝さんの画室へ毎月一回づゝ集つて雑談に耽つてゐたのだが、こゝのクラブは皆帝展派で、曾宮さんが樗牛賞の祝の御神酒を持ちこんだ頃は、まだ出品制作で夢中な時だつた。やつと十月も仲ばとなり庭の虫の音も澄んで来る頃吉例の帝展入選祝をやつた。おでんにこわめしなどの添へ物に有難い君からの捧物、樗牛賞の御酒を皆で頂戴したわけだつた。
 今日では君の生活も一種落ついたものが与へられ、一寸雲間に納つたといふ形を呈してゐるが、当時君の性情には元気溌剌の中に諧謔を弄して常に人を皆笑はせ乍ら、相当しんらつな攻勢に、一同たぢたぢとしてゐた所があつたが、あの頃の所産としての君の優秀な漫画は今思ひ出しても相当なつかしいものであつた。   (鈴木信太郎「人物ハンドスケッチ/曾宮一念」より)
  
 また、「中村会」を通じて彝アトリエに集まった画家たちは、彝のパトロンだった今村繁三Click!とも知り合いになり、当時は吉祥寺にあった今村邸を「中村会」として訪問し、所蔵の作品を鑑賞したり絵を描いたりしていた。『アトリエ』に書かれた鈴木信太郎の文章の中で、今村邸を「国分寺」としているが、吉祥寺の記憶違いだろう。ちょうどこのころ、成蹊学園も吉祥寺へと引っ越している。
今村繁三は吉祥寺に加え、国分寺にも別荘Click!を持っていたことが、その後判明している。
  
 あの頃の目白の会合は、仲々に楽しいものであつた。ある秋の末、私共は当時洋画所蔵者として有名な国分寺(ママ)の今村繁三氏の邸内に招かれ、写生会をやつた事があつた。至極暢気な集りで菊の花がま盛りだつた。原野そのまゝの邸内では柿や薄が美しかつた。いつか夕方になり私共は草原でねころび乍ら、その日の収穫を集めて丁度俳句会の互選でもするやうなのんびりした採点をやつたのであるが、遂々私が御褒美を貰つてしまつた。その品は当家の御主人今村氏愛用の英国製ステツキで、開けば三脚椅子となる便利なものであるが、何しろ鉱鉄(ママ)で出来た相当重いものであつた。 (同上)
  
 
 曾宮一念は身体が弱く、しばしば信州の富士見へ療養に出かけたり、下落合の諏訪谷Click!に面した自宅の庭にちっぽけな小屋を建てては、そこをまるで病室のように使って寝たり起きたりの生活をしていた。だから、「中村会」のメンバーの様子や催し、洋画界の動向などには疎かったように思えるけれど、実は彼のこの小屋が、下落合界隈における画家たちの“情報交差点”のような役割りを果たしていた。いつも小屋に引きこもっているはずの曾宮が、「中村会」の中では意外に“情報通”だったことを鈴木信太郎も認めている。
 アカデミックな“帝展派”が中心だった「中村会」から、少し距離をおいたせいだからだろうか、フォーブの1930年協会に参加していた佐伯祐三Click!も、曾宮邸には米子夫人とともに頻繁に姿を見せていた。1928年(昭和3)の夏、曾宮は信州富士見へと再び療養に出かけていたが、その留守宅の夫人のもとへ、死んだ直後の「佐伯の幽霊」Click!が訪れている。第二次渡仏前の佐伯は、佐伯アトリエにあったイーゼルや画材道具を記念として譲るほど、曾宮一念とは親しくなっていた。

■写真上:大正末に、月1回のペースで「中村会」の画家たちが集ったアトリエの天井。
■写真下は、大正末ごろと思われる曾宮一念。は、中村彝が存命中から使っていたと伝えられているランプ。配線とソケット部は、のちに修理がなされたのか戦後の部品が使われている。


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ChinchikoPapa

東京シリーズ、わたしもごちそうさまでした。^^
nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2009-03-14 20:40) 

ChinchikoPapa

今村繁三の別荘が、吉祥寺のほかに国分寺にもあったことがわかりましたので、註釈を入れました。ことらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2009-11-21 15:47) 

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