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岸田劉生に褒められた村山知義。 [気になる下落合]

 

 岸田劉生は、展覧会へ出かけると当時主流となっていた西洋画を前に、片っぱしから「こんなバッカな絵を描いて! こんなものを!」と怒鳴って歩いていたという。だから、画家仲間からはどんどん孤立し、もちろん友人たちからは疎まれて、後年には劉生のもとを訪れる人さえまれになっていく。この「バッカ!」という発音に、劉生ならではの軽蔑と揶揄をこめていたようで、ステッキを振りまわしながら「Bakka!」を連発していた。こう証言するのは、うちの親父とも日本橋(柳橋?)界隈で親交のあった、当時は八十助時代の8代目・坂東三津五郎だ。
 劉生は一貫して、「古典」や「古いもの」を知らない、あるいは尊重しない芸術家は大嫌(でえっきら)い、大正時代に落合界隈で開かれていた村山知義による「マヴォ展」Click!などはもってのほかで、村山を「なぐってやる!」とまで腹を立てていたらしい。岸田には、ヨーロッパから輸入された油絵表現や技法を、そのまま無批判に踏襲し、まるで欧米のコピー=猿マネ作品ばかりが並ぶように見える軽佻浮薄な洋画界に、我慢がならなかったにちがいない。日本ならではの美や表現の上に、いかに油絵表現を消化して新たなものを創造していくかが、劉生の江戸っ子らしい頑固なメインテーマであり、それこそ右から左へとお手軽に描かれていくようなコピー作品には、一貫して容赦のない罵声をあびせつづけた。その中でも、当時の画界でことさら評判を呼んでいた、「マヴォ」を主催するドイツ帰りの村山知義は、もっとも腹にすえかねていたのだろう。
 「古典」を尊重し「古いもの」を熟知しなければ、なにが日本ならではのオリジナルで「新しいもの」なのかが皆目わからず、新しい表現の方向性が見えないばかりか、えてして「古いもの」の焼き直し、あるいは既存の作品表現を自身の新しい表現でありオリジナリティだと思いこむ錯誤を犯す・・・、わたしもこのような考え方にはとても共感をおぼえるのだけれど、劉生のように並はずれてあまりにも頑迷すぎると、一歩間違えればアナクロニズムに陥りかねない危うさがともなう。劉生は終生、その危うくて滑りやすい丸太のような橋の上を歩きつづけた人ではなかったかと思う。

 ところが・・・、「なぐって」やりたい村山知義と岸田劉生は、銀座でバッタリと出くわしてしまう。そのときの様子を伝える、8代目・三津五郎(当時は八十助)の証言が残っている。1975年(昭和50)に出版された『絵』10月号の、下程勇吉による「岸田劉生と坂東三津五郎~急死十時間前の録音テープより~」から引用してみよう。
  
 古典といえば、「面白かったのは」といって、三津五郎丈はマヴォ展をやっていた村山知義と劉生との出合いの一コマについて話し出した。マヴォ展を見て“こんな絵をかくなんて、ばか野郎、なぐってしまう!”とカンカンに怒っていた劉生は、銀座のライオンでばったり村山に会った。ところが、村山はいきなり“先生!”といって劉生の手をにぎり、話しかけたので、劉生は面くらってしまったが、いろいろ話しているうちに、もともと“岸田先生を大変尊敬していた”村山は、マヴォ展をやるのも、世間に出る手段だなどと説明したので、劉生はすっかり機嫌を直し意気投合し、“あいつはあんなことをやるが、世間をゴマカスためにやっている、あいつはやはり古典を愛する人間で、えらい奴だよ”と御機嫌であったという。(同文「芸術論あれこれ」より)
  
 8代目・三津五郎の証言は、京都でフグに当たって亡くなる10時間前にテープ録音されたもので、もしこのインタビューがなければ、劉生と村山との銀座邂逅の情景は、永遠にわからなかったにちがいない。このインタビューの翌朝、大和屋は京都で急死している。
 
 それにしても・・・なのだ。村山知義は、いったいなにを言っているのだろう。「マヴォ」が世の注目を集めるためだけの、世間を「ゴマカス」ための手段だなどと劉生に説明していたようだ。このあと、銀座のどこかで飲んだのだろう、ふたりは「意気投合」しているように三津五郎(八十助)には見えていた。もっとも遠い存在であるはずのふたりが、水と油のこのふたりの画家が、大正末ごろの銀座で「意気投合」していたなどと誰が想像しえただろうか?
 村山は「自伝」を残しているが、もし誰かが客観的な評伝を書くとしたら、この資料を見つけたとたんに頭を抱えてしまうだろう。わたしも、劉生に「ゴマカス」ならぬ「ゴマスリ」している村山知義を知り、そのイメージが大きくブレてしまった。もう、ほんとに、お願いしますよ、村山センセ!

■写真上は、代々木時代Click!と思われる劉生。は、1922年にドイツで踊る村山知義。
■写真中:1911年(明治44)に描かれた岸田劉生の『街道(銀座風景)』(部分)。
■写真下は、歌舞伎「暫(しばらく)」から岸田劉生の役者絵『鯰坊主』(1922・大正11)。は、八代目・坂東三津五郎(大和屋)。劉生と村山の邂逅を目撃したのは、坂東八十助時代のこと。


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ChinchikoPapa

昔の記事にまで、nice!をありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2011-06-06 15:32) 

ChinchikoPapa

以前の記事にまで、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2012-01-03 13:31) 

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