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人間交差点『聖母病院の友人たち』。 [気になる本]

 

 わたしの家族は、わたしひとりを除き全員が聖母病院への入院経験がある。オスガキたちが産まれたのも聖母病院なら、肺炎やインフルエンザ、喘息などで入院したのもこの病院だ。だから、わたしはなにかというとセーボ(地元の通称)へ通いつづける、見舞いの常連といったところだろうか。残念ながら、わたしは聖母病院へ泊まったこともなければ、飯を食べたこともない・・・というのはウソで、患者の横からちゃっかり食事をつまんでは賞味していた。はたして、セーボの食事は学校給食の味を思い出してしまい、わたしの口に合わずマズイ。正確には、1986~96年ぐらいまでセーボで出されていた食事は美味しくなかった・・・と書くべきだろう。その後、聖母病院は大改築が行われており、おそらく厨房設備も一新されているのだろうから、食事の味も大きく変化したのかもしれないが、わたしは幸か不幸かまだ味わったことがない。
 これまで、このサイトでは聖母病院Click!のことを数多く取り上げてきたけれど、その内部についてはあまり書いてはこなかった。入院したことのないわたしには、細かな病院内の様子までわからないからだ。いまから25年前、セーボの内部の様子を詳しいルポルタージュにまとめた方がいる。1981年(昭和56)に半年間ほど肝炎で入院した、上落合に住む時事通信社の記者が書いた本だ。絶版になってしばらくたつ、藤原作弥が書いた『聖母病院の友人たち』(新潮社→社会思想社/1982年)。わたしはこの本を買ってから15年間ほど、本棚で眠らせたままだった。なぜ放っておいたのかといえば、入院患者による病院内部の記録・・・という印象が強くて、読むのをあとまわしにしたまま、そのうち棚の奥へと埋もれてしまったというしだい。
 先日、本棚を整理していたら、久しぶりに本書が出てきた。パラパラめくっていると、「下落合風景」という章が目についたので読む気になったのだ。著者は海外特派員の経験が長く、上落合へ越してくるまでは横浜に住んでいた。上落合へ落ち着いてから1年そこそこで、聖母病院へ入院することになる。だから、下落合のことはあまりご存じない。旧・落合町の下落合としての概念から、中井2丁目(旧・下落合4丁目)が丸ごと抜け落ちているし、逆に現在の住所表記に引きずられてか、当時の東京府風致地区だった葛ヶ谷(西落合)が下落合の一部として解釈されていたりする。下落合に住んだ画家たちをめぐる記述も不正確だ。
  
 中村屋の美人パトロンのサロンに集まった昭和初期の芸術家群像は、それぞれドラマチックな芸術と生活を追い求めるあまり、短い時間で青春を燃焼させてしまった。佐伯祐三三十歳、荻原守衛三十一歳、中村彝三十八歳、岸田劉生三十九歳。私に画才があれば、この療養の機会に病窓から見える聖堂と修道院のある庭をスケッチするのだが――。
 中村彝のアトリエはもう跡形もないが、佐伯祐三のアトリエと居所は「佐伯公園」の形で保存、管理されている。しかし、冬の日の夕暮れ間近に訪れる人は一人、二人。 (同書「下落合風景」より)
  
 画家たちの没年が満と数えでゴッチャなのが気になるし、中村彝のアトリエClick!はしっかり現存しており、佐伯アトリエと並び下落合の丘上で保存される日をいまかいまかと待っている。聖母病院が建設されたのは「昭和四年」ではなく、正確には竣工・開業は1936年(昭和6)で、「昭和四年」は着工とともにフィンデルの本館のみが完成した年だ。・・・と、落合界隈の文化関連の記述には、つい“赤”を入れて校正したくなってしまう本なのだけれど、それでも知らず読み進んでしまうのは、内容がことさら面白いからだ。
 
 吉田満の著作に、『戦中派の死生観』という作品がある。本書でも紹介されているが、『戦艦大和ノ最期』Click!を読んだカトリック神父から吉田は対談を求められ、「欺されまい」洗脳されまい・・・と決意して対談に望んだ話は有名だ。ところが、この神父はキリスト教の神のことなど一言も触れずに、吉田と徹夜で対談をした。その夜をきっかけに、吉田はキリスト教(カトリック)へ入信することになる。藤原も最初は、「欺されまい」と気負いながら聖母病院へと入院する。でも、「下落合風景」と名づけられた日記代わりのノートは、キリスト教と関係のあるなしにかかわらず院内で起きる面白いエピソードで、多くのページが埋められていくことになる。
 早朝から、盛んに大声で念仏を唱える妙なヲジサンがいるかと思えば、病院の中でも特に上品で尊敬されている原節子似の洗練された山手のシスターが、「てめエ、なんか、文句あんのかよ」と下町の職人言葉で啖呵を切る場面が登場するなど、キリスト教系の病院らしからぬ風情に、著者は反対にカトリックへの興味を深めていくのが面白い。
 藤原は入院当時、たまたま聖母病院に勤務していた洋画家・鈴木良三Click!の子息である医師「鈴木先生」から中村彝の画集や著作を借り、また佐伯祐三の没後五十年記念展の図録を病室に持ちこんで、特に佐伯の「下落合風景」シリーズ2作品の描画ポイントの特定を試みている。
  
 画集には二枚の「下落合風景」が収められていた。その一枚は、電柱のある道の風景で、目白通りから聖母病院にいたる住宅地のたたずまいのようだった。
 もう一枚は、なだらかな、陽の当る坂道を一人の男が登ってくる。坂の曲り角に電柱が一本立っている。坂は切り通しのような土手を左に傾斜して下っていく。左手の竹垣の屋敷にはこんもりと木が繁っているが、道の右手の土手からは緑の丘陵が広がっていて、その丘は段々畑の感じの勾配で下っている。いまの聖母病院の丘に似ている。 (中略)この絵は、明らかにいまの聖母病院の場所から、西武新宿線下落合駅や小滝橋方面を見おろして描いた絵だ。 (同章)
  
 この2点の「下落合風景」のうち、前者は「八島さんの前通り」Click!のことだ。当時は存在しない聖母病院建設予定地の丘Click!へと抜ける道ではなく、第三文化村の横から西坂の徳川邸へと抜ける通りを南側から描いたもの。後者は、「下落合駅や小滝橋方面を見おろして描いた」と断定しているけれど、下落合駅Click!中井駅Click!も存在していない1926年(大正15)の時点で、二ノ坂上Click!から新宿東口のほていやデパート方面を見下ろして描いた、アビラ村Click!風景作品の1枚だ。著者はまだこの時点で、中井2丁目が旧・下落合だとは気づいていないようなので描画場所を誤ったのだろう。気になる記述はまだあるのだけれど、これぐらいに・・・。
 
 
 「欺されまい」という思いで入院した無宗教者、強いていえば広義の仏教徒を自認する著者が、退院してしばらくすると聖母病院のクリスマスイブ・ミサへ出席し、そのあとのココアパーティで数多くの「友人」たちと再会する「あとがき」は読んでいて楽しい結末だ。「下落合風景」には事実誤認(ウラとり取材不足/爆!)の記述がたくさんあり、女性を見るとつい「美人美人」と書きたがるヲヤジ表現の古さは感じるのだけれど、読後感のさわやかな本書は、下落合にお住まいのみなさんに限らず、またキリスト教者と非キリスト教者を問わず、お奨めしたいドキュメンタリー作品のひとつなのだ。

■写真上は、藤原作弥『聖母病院の友人たち』(社会思想社/1992年)。は、セーボの玄関。
■写真中は、同じく聖母病院の正面。は、ちょうど太陽が十字架の上にかかったマリアの宣教者フランシスコ修道会の聖堂。今年(2007年)は、解体・リニューアルが予定されている。
■写真下:聖堂周辺の風情と、補助45号線として丘を深く掘削して建設された聖母坂。
 


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Nylaicanai

うちの嫁が以前、入院した折に内部に侵入しました。
ベッドの上に十字架がかけられていて、宗教団体の運営なんだと改めて感じた記憶があります。
驚いたのが、「ジェダイの騎士」のようなローブを羽織った姿をした神父さんがいたこと。ちょっと憧れたり(^^ゞ
この人は医師の診察とは別に、回診? をしているそうです。

聖堂は建て替えられるのですか。
最後に、もう一度見ておかなくては。
by Nylaicanai (2007-02-08 13:44) 

ChinchikoPapa

「回診」していたのは、ジェローム神父ではないでしょうか。昨年うかがったところでは、聖堂は今年じゅうにリニューアルとのことでしたが、そこは良心的経営で常におカネがなさそうな聖母病院のことですので、延期になるかもしれません。
この本は、まだ古書店でも多く出ているようですのでお奨めです。記事に登場しました、著者の主治医で肝臓病専門の「鈴木先生」は、休みの日にスキーに出かけ、頭と膝を打って聖母病院に入院し、一夜にして医者が患者になってしまうなど(笑)、読み物としてもたいへん面白いです。
by ChinchikoPapa (2007-02-08 13:58) 

谷間のユリ

この本は出たときに中央図書館で借りて読んだのですが、もっと前に私が入院していたころよりずっと楽しそうな入院生活でへえ~そうなんだ、という感想でした。
セーボは、兄が生まれたところでのちに勤務医として勤めていたことと、私が18才(大学受験のころ)の時に虫垂炎を悪化させて入院したことがあったので、ちょっと複雑な思いがあります。手術室にも十字架がかかっていて、生きて帰れるかと心配したものでした。(笑)
看護士のシスターはきびしくて、腹膜炎をおこしかけていて術後に40度の熱で三日三晩うなされても、痛み止めも解熱剤もくれなかったのです。退院してもその後1年は調子悪くて、それ以来あの病院にはいかなくなりました。
兄はシスターと折り合いが悪く1年ほどで別の病院に移りましたが、内部の話はあまり爽やかではなかったです。今のシスターは違うと思いますが、そのころの修道女のひんやりした冷たさに良い思い出がないのがセーボです。
そういえば、戦時中に祖父の所にセーボへの救援物資が落ちてきたそうです。やっぱり、ピンポイントで物資を投下するのは難しかったのでしょうね

by 谷間のユリ (2007-02-10 12:24) 

ChinchikoPapa

おそらく、谷間のユリさんが退院されたあたりに、マリアの宣教師フランシスコ修道会だけでなくカトリック全般に大きな変革があったものでしょうか、戒律や習慣がガラッと変わった時期があったようですね。それまでの厳しいものから、グッとゆるやかになり、シスターたちも「くだけた」生活をするようになっていったようです。(笑) シスターたちの服装も簡易になり、看護士たちもふつうの病院とあまり変わらず、キリスト教臭もそれ以前に比べ、かなり薄れたような記載が本書の中にも登場しますね。
わたしも、シスターとは折り合いはあまり良くなさそうですが、聖母病院の玄関先前庭が一時期、氷川明神の出雲神・クシナダヒメ神輿の休憩所として解放されていたことは評価したいと思います。(笑) ただ、いまのシスターとお話してますと、冷んやりしたところはなくて、普通のおばちゃんみたいな感触ですが・・・。
救援物資の投下は、最初は近衛町の学習院昭和寮(目白クラブ)へ、次にご子息がドラム缶に当たって亡くなられた、子安地蔵通りの落合歯科医院あたりへ、つづいて聖母病院周辺へ・・・と、だんだん西へ投下されていったようですが、第一文化村へも落ちていたとは驚きです! 米軍のパイロットは、やはり聖母病院の正確な位置がわからず、それらしい建物めがけて投下していたのかもしれません。第一文化村付近というと、落合尋常小学校を病院と誤認したのかもしれませんね。
下落合の記録のそこここに、セーボに救援物資が投下されたという記述があり、「だから米軍は聖母病院の位置を知っていた」・・・という結論へ結びつけられているのですが、細かく取材をしていくと米軍は正確な位置を、少なくとも戦争末期までは知らなかったのではないか・・・というのが事実ではないかと思います。聖母病院の屋上へ、焼夷弾ではなく250キロ爆弾が命中していますので、米軍は明らかにコンクリート建物だと認識したうえでの、破壊を目的とした意図的な爆撃をしていることになります。
上空から見て、下落合にある大きな施設のどれかが聖母病院だということを知ったあと、学習院昭和寮(日立目白クラブ)と聖母病院、落合小学校の3つを目標に、「このうちのどれかが病院だろう」と、救援物資をばら撒いていったのではないかと想像してしまいます。
by ChinchikoPapa (2007-02-10 13:05) 

下落合育ち

聖母病院で長島一茂さんが生まれたのは有名な話です.
当時長島さんといえばスーパースター。
当時お産では有名だった聖母病院で産んで生まれてからそれがスクープされました。
by 下落合育ち (2007-11-28 00:18) 

ChinchikoPapa

下落合育ちさん、コメントをありがとうございました。
聖母病院の産科は、日本で初めてラマーズ法を導入して以来、かなり人気が高いようですね。都内だけでなく、千葉県や埼玉県など近隣の県からも、わざわざ来診して産みにみえているようです。病院近くの温泉プールで、専門家による妊婦トレーニングなんてメニューがあるのも人気の秘密かもしれません。
そういえば、うちのオスガキ(上)が産まれるとき、ちょうどマラソンの瀬古選手の奥さんが入院されてました。
by ChinchikoPapa (2007-11-28 12:34) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。
 >kurakichiさん
 >さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-11-03 16:20) 

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