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「エロシェンコ事件」の真相。 [気になる下落合]

 1942年(昭和17)に発行された『新美術』(旧・みづゑ)10月号に、中村彝の未発表書簡が中村秋一によりまとめて紹介されている。これらの手紙類は、彝の私生活に直接関連することが書かれていたり、芸術論的な記述がほとんどなかったために、岩波書店の『芸術の無限感』Click!(1926年・大正15)へは収録されなかったものがほとんどだ。これらの手紙の中に、いわゆる「エロシェンコ事件」をめぐる詳細な記述がみられる。
 一連の書簡でもっとも興味深いのは、中村彝が新宿中村屋の相馬夫妻によって仲を裂かれた娘・相馬俊子を、1919年(大正8)まであきらめていなかった思われる記述が見られる点だ。つまり、俊子が好きだった桜の並木が美しい下落合・林泉園のアトリエで、彝は彼女を待ちつづけていたらしい。彝が最終的に彼女をあきらめたのは、日本に亡命していたインド独立運動家であるラス・ビハリ・ボースと結婚してからであり、彼の平磯海岸行きは転地療養の名目もあるが、2ヶ月前に結婚してしまった俊子をあきらめるため、気分転換の傷心旅行だったのかもしれない。この未発表だった手紙は、成蹊学園の中村春二Click!あてのものだ。
 もうひとつ面白いのは、彝が自分で「作品絵はがき」を作って配っていたらしいことだ。絵はがきに使った作品は、『エロシェンコ氏の像』Click!と『少女像』(俊子像)、そして『傷心の花』の3点。絵はがきに用いた3作品を見ても、彝にはいまだ俊子への強い未練が残っていたことがうかがえる。相馬黒光(良)は、下落合の彝アトリエを頻繁に訪れていたようだが、彝が待ちつづけたかんじんの俊子Click!は、ついに一度もやっては来なかった。以前、彝アトリエのドアの1枚に、女性のポートレートClick!が描かれていたのを紹介した。中村秋一は、それが誰の顔だったのかは黙して語らないけれど、やはり俊子の面影ではなかっただろうか? 描かれていたのが、人が訪れ、出入りするドアの板面だったというのも、とても暗示的に思えるのだ。
 
 そして、「エロシェンコ事件」のこと。別に事件と表現するほど大げさな出来事ではないけれど、中村彝の当時の生活上から言えば、間違いなく深刻な“事件”だったのだろう。『エロシェンコ氏の像』をめぐり、彝のパトロンである今村繁三Click!と、友人であり支援者だった洲崎義郎の板ばさみにあって、作品があっちへ行ったりこっちへ行ったり・・・という、めずらしい“事件”だった。
 洲崎は、早くから『エロシェンコ氏の像』を観て欲しがり、彝もその熱意にほだされて作品を新潟にいる彼に送り、代金を受け取ってしまった。ところが、中村春二を通じて今村繁三から、作品はいつ送ってくれるのか?・・・という問い合わせが入ったのだろう。今村にしてみれば、できあがった作品を買い上げるのが恒常化していたために、しごくあたりまえの要望だったにちがいない。彝は洲崎と今村の間に挟まって、にっちもさっちもいかなくなってしまった。ついに、譲渡先の洲崎あてに、彝は買いもどしを嘆願する手紙を書くことになる。その手紙を投函した直後、今村の代理人である中村春二あてに、さっそく報告の手紙を送っている。
  
 先き程、お話のあつた「エロシェンコ氏の像」取り戻しの事については、早速友人に手紙を出して置きました。多分承知して呉れるだらうとは思ひますが、何しろ、私の絵の中でも殊にあの絵を狂熱的に愛して居る男ですから、何んと返事をして来るか、彼れからの確答を得ない中は何んとも申上げることが出来ません。たヾ私と今村様との関係に就いては、その男もよく知つてゐる筈ですから、多分譲渡して呉れるだらうと信じて居るだけです。今となつては、立場の苦しい点では私、先生と少しも変りがありません。あの絵は御承知の通り、名もない放浪の一盲露人を描いたものに過ぎないので、純粋の芸術的見地を離れて、これを一般的に鑑賞するには甚だしく不適当なものである為に、稍ともすると、その価値を過られ易く、何となくあの絵の運命が気遣はれてならなかつたので、態ざと今村様へ差上げる事は差控へたのです。
 (中略)無論私としても今村様によつて、あの絵のほんとの価値が認められ、愛を以て御引き取り下されるならば、これこそ、この上もない光栄であり喜びであるのですから、初めからその事が分かつてさへゐたら、私どんなに嬉んで差上げたか知れないのです。今から考へると、出品前に於てあの絵を今村様にお目にかけなかつたのが私の手落ちだつたのです。
                         (中村彝「中村春二あて書簡」大正9年10月27日より)
  
 『エロシェンコ氏の像』を、一般的な鑑賞にはたえない駄作だとでも言いかねない表現をするそばから、すぐに作品の「ほんとの価値」を認めてくれるのは嬉しいし光栄だ・・・などと、かなり支離滅裂で狼狽していた彝の様子が伝わってくる。
 
 半分以上が、今村への言いわけで占められているこの手紙によれば、彝は『エロシェンコ氏の像』を発表前に今村へ一度も見せていないことがわかる。今村にしてみれば、帝展で作品を初めて目にしたときから、作品が自分のもとへ送られてくるものと信じていただろう。ところが、いつまで待っても彝からは、作品譲渡の話が持ちこまれない。シビレを切らして問い合わせたら、なんとすでに売却されたあとだったので、彼はかなり気を悪くしたに違いない。いつになく、彝の文面に狼狽している様子がうかがえるので、今村の怒りと落胆が彼のもとへもヒシヒシと伝わってきたのだろう。
 洲崎は、彝のおかれた苦境を察してか、その後、すんなり『エロシェンコ氏の像』を返却してよこした。彝もきっと、胸をなでおろしたにちがいない。こうして、この代表作は今村の手にわたり、やがて戦後は東京国立近代美術館に納まることになった。

■写真上:中村彝『エロシェンコ氏の像』(1920年・大正9)が描かれた、アトリエ北東の一画。
■写真中は、『洲崎義郎像』(1919年・大正8)。は、新宿中村屋でヴァイオリンを演奏するワシリイ・エロシェンコ。彝の作品がならぶ壁面に置かれた、ボックスピアノを弾くのは中村黒光(良)。
■写真下は、俊子を描いた『少女』(1914年・大正3)。は、散歩する晩年の相馬黒光。


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yuyu-museum

ブログを読ませていただき、中村彝の満たされなかった思いと彼の天才性、短命に終わった悲劇性など、さまざまなことが頭の中を駆け巡りました。
by yuyu-museum (2007-02-04 20:31) 

ChinchikoPapa

悠々美術館さん、こんばんは。
このところ中村彝に関する情報がかなりたまってきてしまいましたので、しばらくまた連載しようかと考えています。現代の資料ではなく、当時の資料を読みますと、なかなか紹介されないエピソードがたくさん眠っていて、とても面白いですね。
by ChinchikoPapa (2007-02-04 23:39) 

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