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城北学園(目白学園)近くの夕暮れ。 [気になる下落合]

 

 佐伯祐三の『下落合風景』は、朝日晃氏によれば60点余が存在した作品として確認でき、戦災で焼けてしまった作品、あるいは個人に秘蔵されて表に出ない作品、さらには佐伯作品と気づかれずに死蔵されている作品などを差し引くと、現在40数点ほどの画像を確認することができる。この中には作品の実物を確認できず、画像としてのみ記録されているものも含まれているから(特にモノクロ画像として残る作品)、すでに消滅した作品も含まれているだろう。
 でも、実際には100点を超える『下落合風景』が、実は描かれていたのではないだろうか? それを示唆する、里見勝蔵が1928年(昭和3)の『美術新論』10月号に書いた、次のような興味深い文章が残っている。
  
 佐伯君は日本でもむさぼる様に仕事した。ある時は田端駅構内の汽車や月島の汽船を描く為に、朝家を出てかへつて来た。下落合の風景は家を一歩出た所から、遠くの遠くまで絶景を描き尽した。時に佐伯君と私は昼夜兼行で二日、三日もかゝつて六十枚、百枚の画布を製造した。そして私達は何の障害をも超越して只々仕事した。                (里見勝蔵「佐伯とヴラマンクと私」より)
  
 これによれば、『下落合風景』は「家を一歩出た所」つまり「八島さんの前通り」Click!あたりから、「遠くの遠くまで」すなわち西は中井御霊神社下の「洗濯物のある風景」Click!から、東は大黒葡萄酒の製造所と宮崎邸Click!近くの山手線「ガード」Click!まで描いたことを示唆している。里見勝蔵が画布を「百枚」も製造したと書いているが、これは文字通り2~3日でキャンバスを100枚分も用意したという意味で、作品を100点仕上げたということではない。佐伯は独自の技法で、絵の具の乗りがいいオリジナルのキャンバスをこしらえていたのは広く知られている。それを、数日で100枚も作ったということだ。
 もうひとつ、渡辺浩三が佐伯からじかに聞いた話として、画布製造に関する貴重な資料を残している。1937年(昭和12)の『美術』4月号に掲載された、下落合におけるキャンバス製造の点数だ。
  
 そして二度目に巴里に来た折、僕に語つたところでは、二回目の渡欧迄東京で過した約1年間に、凡そ六百枚の画布を製造したといふ事である。これに二度目の渡欧の分を加へると、佐伯君が製造したキャンバスの数量は、恐らく二十号平均にして千二、三百枚になるのではないかと思ふ。
                             (渡辺浩三「佐伯君余談-画論-提琴家佐伯-画布製造-」より)
  
 これによれば、佐伯は下落合で600点もの画布を製造していることになる。3日ほどで里見と100枚もの画布をこしらえるぐらいだから、1年間で600枚はかえって少なく感じるぐらいだ。多少の誇張はあるのかもしれないが、絵を描いて画布を消費しなければ、画布を追加で作ることはありそうもない。そう考えると、『下落合風景』が60点余の10分の1というのは、あまりに少なくて勘定が合わないのだ。佐伯がパリから友人にあてた手紙にあるように、わずか5ヶ月の滞在で軽く100点以上の作品を仕上げた、佐伯の制作スピードClick!を考慮するとなおさらだ。

 この『下落合風景』も、下落合の「遠くの遠くまで」描いた作品のように思われる。周囲の様子から、この風景は現在の下落合側ではなく、中落合から西、つまり旧・下落合4丁目(中落合・中井2丁目)の可能性が高い。周囲に畑地が多く残る、目白崖線上の風景だ。中央には農家と思われる家が描かれ、その周囲には畑が拡がっているように見える。でも、右手の少し先には、明らかにとんがり屋根の小ぶりな西洋館が見えている。また、まっすぐのびる道の右手には、2階建ての大きな屋敷が描かれている。
 光線の具合から、わたしはこの絵が夕方近くに描かれたものと想像している。西陽のあたり方を考慮すると、画面の左手が西となり、この道はおよそ北へ向かってのびていることになる。住宅がまばらになる、目白文化村の西側あるいは南側から、空中写真を西へ西へとたどっていくと、1箇所だけそれらしい風景のポイントを見つけることができた。城北学園(目白学園)の北、下落合の北西端にある、新青梅街道(目白通りのつづき)へと向かう南北の道だ。
 
 左手に見える大きな邸宅の裏手が、ほどなく葛ヶ谷(西落合)との境界にあたる道で、この道を右折すると4~5分で「原」Click!「富永医院」Click!、そして「道」Click!の描画ポイントへと出ることができる。これら3棟の建物による三角の配置と道との関係、そして建物のデザインとがなんとか一致しそうなポイントだ。昔の字(あざな)でいうと、下落合字大上にあたる一画だ。
 
 1926年(大正15)の「下落合事情明細図」には、ここにはまだ住宅が描きこまれていないので、アピラ村と同様に宅地造成されつつある地域だったと思われる。また、「事情明細図」の特徴として、地元にもとからあった農家は描きこまれることが少ないようだ。描画ポイントを探すにあたり、1936年(昭和11)の空中写真だけでは不鮮明なので、1944年(昭和19)の写真や、運よく空襲を受けていない地域なので戦後の1947年(昭和22)の写真とも併せて、しらみつぶしに当たることになった。念のために南北道にとらわれず、東西道などその他の道も考慮してみたが、地形的にも風情的にも一致する場所は、このポイントしか見つからなかった。
 
 わたしは当初、この作品こそが「フビラ村の道」と考えていた。フビラ(フヴィラ)が、とんがり屋根の象徴的な北欧の別荘建築だと思っていたからだ。ところが、制作メモClick!「アビラ村の道」Click!と判明したので、その想定はピント外れであることがわかった。この『下落合風景』のサブタイトルが、なんであったのかは不明だが、制作メモの1926年(大正15)9月27日に「夕方の通り」というのがある。ひょっとすると、この作品のことかもしれない。
 では、この作品を『下落合風景』の描画ポイントClick!へ追加しよう。

■写真上は佐伯祐三『下落合風景』(1926年・大正15)、は道が拡幅された現在の同所。
■写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真。は、11年後の1947年(昭和22)の写真。すでに農家があったと見られる位置には、住宅が密集しているようだ。
■写真中下は、同じ道路筋に建つ集合住宅。旧・下落合4丁目の番地をそのままマンション名にしているところをみると、下落合に愛着のある方が名づけたものか。は、描画ポイントよりやや先へ進んだポイント。横断歩道の見える交差点から先は、もう葛ヶ谷(西落合)だ。このまま進むと、ほどなく目白通りのつづきである新青梅街道へと出る。
■写真下は、「下落合事情明細図」に描かれた同所。は、この南北の道沿いへ1923年(大正12)に建てられたO邸のアトリエ風建築。気さくなご主人が、「載せるのならキレイに撮ってね」と言われたけれど、カメラも腕もいまいちよろしくない。
 


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