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やっと出てきた第二文化村の遠景。 [気になる下落合]

 
 佐伯祐三が描いた、明らかに目白文化村と思われる家並みが、初めて『下落合風景』シリーズに登場した。でも、残念ながら遠景で、文化村を取り囲む通り、あるいは文化村の中の道からの眺めを描いたもの。画面右の通り沿いには電柱が見えているが、左手の目白文化村の屋敷街には電柱が1本も見あたらない点に注目いただきたい。電源ケーブルは、地下共同溝に埋設されて、電柱のない文化村ならではの特異な風景が形成されていたのがわかる。
 さて、これはどの文化村なのだろうか? 画面左へ向け、地形が少しずつ左傾斜しているので、最初は第一文化村を北側の府営住宅との境界にある道から、西南方向へ眺めた風景だと考えたが、ぜんぜん違う。大正末、第一文化村にはさまざまなデザインの屋敷が、すでにぎっしり建てこんでいたはずで、このようなスカスカな光景ではなかっただろう。また、左手前には昭和初期まで建っていた、旧・箱根土地本社(中央生命保険)の建物が見えなければおかしい。
 では、佐伯のアトリエに近い、第三文化村はどうだろうか? 以前、佐伯は第三文化村へ入りこみ、菊の湯の煙突が見える風景Click!と、空き地から見た八島邸Click!を描いている。大正末には、いまだ空き地ばかりが目立つ第三文化村を北側から眺めたら、このような風景が見えたのだろうか? でも、ためつすがめつ眺めても、この風景にピッタリくる家並みが第三文化村には存在しない。だいいち、第三文化村にしては敷地がかなり広範すぎる。手前の道端に描かれた白くて太い線、つまりこれが大谷石による文化村敷地の縁石だとすると、かなり広大な面積の場所ということになる。そして、なによりも画面奧へと向かう右側の道が広い。道幅から想定すると、これは文化村の周囲、または村内に敷設された三間通り(5.5m道路)=メインロードの可能性が高い。
 
 そして、もうひとつ見逃せないのは電柱の存在だ。文化村の中には、昭和の初めになると電話線の電信柱がみられるようになったというが、この道端に立っている電柱は明らかに電源ケーブルのものだ。目白文化村で電柱が見られたのは、各文化村の外周に近いエリアか、ないしは開発に時間差のあった各文化村の境界だ。特に、販売時には間に合わず土地買収が遅れたところには、電柱が残っているケースClick!が見られた。(第一文化村の一部周辺など) そこで、当時は第一文化村よりはまだ建物が少なかった第二文化村の周辺を探すと、はたしてそれらしい描画ポイントを見つけることができた。それは、第一文化村と第二文化村の境い目あたり。文化村の敷地ではないエリアが、西から大きく食い込み、また買収が遅れていた土地が東側にも島状に残っていた一帯だ。なぜかこのあたりに、ヒツジClick!が飼われていたのをご紹介したことがある。また、ヒコーキ兄さんClick!がやってきた児童遊園地にも近い。
 ほんのわずか左(東)へ傾斜した土地に建築された、向こうに見えている大きな屋敷群は、第二文化村の北東側にあたる住宅街だ。そして、佐伯がイーゼルを据えた位置は、第一文化村が終わり第二文化村が始まるあたり、つまり両村のちょうど境界線にあたる三間通り(5.5m道路)沿い、わたしが「目白文化村」シリーズで説明の便宜上“センター通り”と呼称した道に相当する。このポイントは、箱根土地が地主から土地をなかなか買収できず、やむをえず借りるかたちで設置された第一文化村のテニスコートがあった、すぐ西側にあたる位置だ。ここなら、道端に電柱があってもおかしくないし、家々が建てこんでおらず、空き地が多いのも容易に説明がつく。
 
 このあたりは西洋館が多く建ち並んでいるが、中央に見えている大きな屋敷が石川邸か松下邸、その前面のおそらくは焦げ茶色に赤い屋根の洋館が白石邸か石川邸、右手にあるおそらく赤い屋根と思われる洋館は、残念ながらどなたの屋敷か不明だ。また左手にチラリと見えている日本家屋は、村田邸あるいは第二文化村の外側に接した家々だろうか。右手の道路沿いに建っている小さな建物は、建築資材の物置小屋に見える。この位置には、ほどなく寺尾邸が建設されたはずだ。地形は現在でも面影が残っているが、左手(東)へ向かって少しずつ傾斜し、この傾斜は第一文化村の水道タンクあたりを経て、いまの下落合駅手前までつづいている。この画角の左外れには、最後まで箱根土地が買収できず借地の状態がつづいた、第一文化村の中央テニスコートがあるはずだ。左に白く見えているのは、テニスコートの南にあった観覧席のあたりだろうか。
 でも、この文化村の屋敷群の位置へは二度と立つことができなくなってしまった。もちろん空襲で焼けてもいるが、いま、この風景を形成する左から右へのラインが、丸ごと十三間通り(新目白通り)になってしまっているからだ。十三間通りは、ちょうど第一文化村と第二文化村との境目あたりを貫いており、これらの建物が建っていた住宅敷地はすでに存在していない。画面右手の三間道路(センター通り)をまっすぐ進むと、やがて第二文化村の東西に走るメインストリート(下落合教会の道)と交差するが、いまはクルマが行き交う十三間通りで断ち切られている。

 せっかく登場した第二文化村は、北東エリアの角に近い遠景で、そのさらに向こう側に展開していた第二文化村の中心部でなかったのは残念。では、この『下落合風景』を描画ポイントClick!へ追加してみよう。少しは、文化村の中が埋まってきたように思えるが、かんじんの街並み自体を間近でまともに描くのは、佐伯は相変わらず好まないようだ。

■写真上は、『下落合風景』(1926年・大正15?)。空き地に見える白っぽい描写が、テニス観覧席に積もった雪だとすると、1927年(昭和2)の可能性もある。は、現在の三間通り(センター通り)から描画方向を見たところ。第二文化村への道が、十三間通りによってすぐに遮断される。
■写真中は、1936年(昭和11)の空中写真。「×」印の建物が、作品が描かれたあとに建てられたと思われる屋敷。は、1944年(昭和19)の同所。テニスコートが消え、大きな洋館が建っているのが確認できる。
■写真下:第一文化村と第二文化村を分断した、十三間通り(新目白通り)の道筋の様子。佐伯が描いた建物群のある敷地は、ちょうど道路の掘削にひっかかって消えてしまっている。
 


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