「教会に行ってみたが駄目だね」彝。 [気になる下落合]

中村彝の水戸の実家は代々神道のようで、彝は死後「中村彝命(ナカムラツネノミコト)」として奉られている。でも、生前に彝が神道へ積極的に帰依していた記録はない。むしろ、病床の枕もとにはフランス語の辞書とともに、いつも聖書が置かれていた。
ただし、聖書を読んでいたからといって、中村彝がキリスト教を信仰していたかというと、どうやらまったく違うようだ。彼の髭を生やした晩年の容貌が、どこか十字架にかけられたキリストに似ていたことから、最後は宗教に深く帰依していた「安心立命」のクリスチャンだった・・・というイメージが、死後、ほどなく作られたようだ。だが、実情はどうやらかなり異なっている。
不治の病にかかった彝は、「慰め」や「安心」のヒントを聖書の中身に求めたのかもしれないが、ことあるごとに周囲の友人たちへ「キリストの奇跡は信じられない」という疑問を口にしている。彝は若いころ、クリスチャンの洋画家・野田半三のすすめもあって、牛込(早稲田界隈)の教会でわざわざ洗礼まで受けている。でも、キリスト教に対する疑念や不審は消えず、常に持ちつづけていたようで、ときに野田は彼からの執拗な質問攻めにあって往生している。
彝は、ものごとを論理的に組み立てて考え、筋道を通して整然と思考するタイプの画家だったようだ。モデルを描いているとき、おもむろに用意していた人体解剖図を取り出しては、骨や筋肉の配置と形状を確認しながら再びモデルと向き合うなど、彼の現実主義的で几帳面な姿勢の一端が垣間見られる。だから、キリストの「復活」をはじめとする“奇跡”の数々が、彝にはどうしても現実のこととは認められず、マユツバものに思えたに違いない。

洋画家・遠山五郎は、1927年(昭和2)7月の『美術新論』で次のように書いている。
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少しでも疑問が起ると之が根本的に解決しない限りどうしても次に進めないのが君の性質である。その頃友人の顔さへ見れば『オイ君はあのクリストの奇跡を信じるかい』といふ疑問を発して友人を困らせた。私もかつて君の新宿時代にその質問を受けた事がある。
(中略)そんな具合でその頃の中村君は徹頭徹尾自己の芸術観から割り出した理実主義(リアリゼム)でおし通さうとしていた。クリスト教を信じやうとして奇跡を信じ得なかつたのもそうした気持ちからである。
その後十年を経て落合の君の病床を見舞つた時に昔の話が出た。そして彝君はしみじみとした句調で語つた『この頃でも矢張り充分信仰の道に這入れないでいる。聖書は読むそしてキリスト教に充分の敬虔の念と親しみは感ずるがどうも所謂クリスチヤンにはなれない。つい此頃も近くの教会の牧師さんに熱心にすゝめられて久しぶりに俥に乗つて教会に行つてみたがどうも駄目だね』と云つていた。 (遠山五郎「現実に徹底した彝君」より)
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枕もとに黒革の聖書を置いて、ときどきページを開いていた彝は、晩年にもう一度だけ教会へ俥(じんりき)で出かけているようだ。でも、やっぱりどうしても信用できなかったらしい。教会には、彝にとっての「救い」や「癒し」は存在しなかった。
中村彝が出かけた教会とは、メーヤー館Click!のある自宅直近の目白福音教会だろうか? それとも、少し離れたところにできたばかりの目白聖公会(1919年・大正8創設)だったのだろうか?
■写真上:中村彝アトリエのドアとノブ。生の扉の向こう側に、彝ははたしてなにを見たのだろう。
■写真下:左は、未完のまま残された『自画像』(1916年・大正5?) 右は、1924年(大正13)12月24日にスケッチされた中村彝の遺体で、目を見開いたまま息絶えていた。鶴田吾郎『中村彝氏の死せる俤』。中村彝の遺体は写真に撮られ、友人によりデスマスクも作成された。
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