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大正期のもうひとつの“洗い場”。 [気になる下落合]


 下落合の“洗い場”というと、曾宮一念の『冬日』Click!にも描かれ、大正末にはやや南へと移動し、のちにプールとなった諏訪谷のものが有名だけれど、聖母坂や国際聖母病院(1931年・昭和6)ができるずっと以前、反対側の不動谷Click! (大正中期の不動谷はすでに西へ移動したあと)にも“洗い場”と呼ばれる池があったことは、あまり知られていない。諏訪谷と同様、付近の農家が収穫した野菜を洗ったり、子供たちが盛んに水遊びや虫捕りをしていたようだ。
 不動谷の“洗い場”は、大正中期には雑木林に囲まれた中にあり、佐伯祐三も何度か足を運んでいる。いまの位置でいうと、聖母病院の裏側(西側)にある、ちょうど新宿区の公園「聖母病院脇遊び場」のあたりだ。もともと、池の端からはゆたかな泉が湧いていたのだろうが、戦前には大きな屋敷が建設されて埋め立てられている。戦後、このあたりは戦災にも焼けずに、古い建物がずっとのちまで残っていた。
 余談だが、B29による空襲では、マリアの使者聖フランシスコ修道会のある聖母病院への空襲は意図的に回避された・・・という話が伝承されているが、事実かどうかはよくわからない。なぜなら、明らかに聖母病院のコンクリート建物を狙った250キロ爆弾が、病院へ投下され屋上を直撃しているからだ。幸い屋上がぶ厚いコンクリート造りで、直撃弾が爆発しても貫通せず被害は軽微だった。戦後、いち早く食料や薬品などの救援物資を、米軍機がパラシュートで聖母病院へ投下した事実はあるが、これも最初は学習院昭和寮(現・日立目白クラブ)へ誤って投下しており、聖母病院の位置を米軍が正確に把握していたかどうかさえ、ちょっと疑わしい。
 
 さて、聖母病院ができるずっと以前、佐伯祐三たちは、この“洗い場”あたりをどのように活用していたのだろうか? 1922年(大正11)の冬、季節はクリスマスを迎える暮れも押しつまったころ、同じ美術学校の同級生だった、洋画家・山田新一の証言から引用してみよう。
  
 (前略/クリスマスの)前日になると――当時の佐伯のアトリエの裏手は谷になっていて、今では公園になっている近所の池では、付近の農家の人達が大根やゴボウを洗っているのどかな田園地帯であったが、その雑木林のなかに常緑樹も間々生えていて、我々の仲間の数人が谷へ降りて、クリスマスツリーに手頃なモミの木を見立てて、鋸で切り倒した。これをアトリエに持って帰り、その狼藉の犠牲になったモミの木に、立派なデコレーションを飾り付けた。 (山田新一『素顔の佐伯祐三』の「クリスマス・イブ」より)
  
 ちなみに、佐伯祐三は寺の二男として生まれ、なにやら反省や後悔をすることがあると、首に下げた護符を握りしめながら「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」・・・と唱えるのが習慣だったようだけれど、彼のアトリエには“洗い場”から伐り出してきたクリスマスツリーが飾られていた。そして、夜も更けたころ寸劇やライブコンサート、マジックショーなどをまじえたクリスマスパーティー、要するに画家仲間によるドンチャン騒ぎが行われていたらしい。
 
 当時、目白文化村の第一文化村はすでに建設され始めており、クリスマスツリーを飾ったハイカラな屋敷もすでにあったのかもしれない。あるいは、もともとキリスト教会の多い下落合周辺の風情を見て、なんとなく楽しそうなクリスマスパーティーを思いついたものだろうか?
 いずれにせよ、実家の光徳寺が見たら目をむきそうな光景が、不動谷にあった“洗い場”上の佐伯アトリエでは繰り広げられていた。

■写真上:聖母病院の西側にある、新宿区立「聖母病院脇遊び場」。このあたりに、雑木林に囲まれた第二の“洗い場”があったらしい。正面上の建物は、聖母病院の病棟。
■写真中は、1936年(昭和11)の“洗い場”あたり。すでに雑木林はかなり伐られているが、“洗い場”の痕跡らしい池のようなかたちが見える。は、佐伯アトリエから不動谷へ抜ける路地。もともと私道だったのか、現在は途中に住宅が建っていてアトリエまで通り抜けできない。
■写真下は、聖母の丘から眺めた不動谷の谷間。写真左寄りの雑木林の中に、谷間に建った家の屋根がちらりと見えているが、これだけ深く谷底は落ちこんでいた。写っている家々は、第三文化村の家並み。は、1910年(明治43)の地形図。おそらく、古くから“洗い場”と呼ばれていた池を、諏訪谷と不動谷の双方へ記載してみる。
 


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