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文化村の子供たちアルバム。 [気になる下落合]


 上の写真は、大谷石の石組みにチョコンと腰かける女の子ふたり。その両足の下には、花崗岩でできた共同溝がはっきりと見てとれる。それぞれの住宅敷地に盛り土が多めで、箱根土地が目白文化村の販売を控えて総力を注いだと思われる、最初期の第一文化村らしい光景だ。昔は、住宅の北側やトイレの近くに数多く植えられた、ヤツデのある風情も懐かしい。
 第一文化村の“弁天通り”沿いの光景で、戦後まもなくのころの撮影。当時は、というより1970年代ごろまでは、このような大谷石の石組みがそこかしこに残っていたが、住宅を建て替えると同時に石組みを崩し、地ならしをして道路面と同じ高さにしてしまうか、あるいはコンクリートに造りかえてしまうお宅が増えた。もちろん、ガレージからのクルマの出し入れを可能にするためで、大正中期に造成された文化村では、さすがに自家用車やガレージまでは想定されていない。でも、販売終了とともにクルマを所有するお宅が現れはじめ、路上駐車をしていたお宅以外は、石組みを崩してガレージをこしらえた住宅もあったのではないだろうか。
 
 次の写真②③も、第一文化村の弁天通りで遊ぶ子供たち。は、最初はスイカを食べているのかと思ったけれど、ここは下町ではない。(^^; お気に入りの人形を抱いて、遊んでいるショット。やはり、大谷石の石組みに寄りかかっているところを見ると、遊び疲れた子供が、ちょっと一息入れるにはちょうどいいスペースであり、拠りどころだったのだろう。「人さらいが来るよ」とか、「サーカスに売られちまうよ」(・・・古い。わたしは言われたことがない)と言われても、子供たちは夕暮れまでこういう道路端で遊びつづけた。子供たちだけで遊んでいると危険がイッパイの現在では、「人さらい」や「サーカス」はシャレにもならないけれど・・・。
 写真は、弁天通りのキャッチボール。お手製のグローブ(グラブではない)をしながら、ボールをキャッチした瞬間らしい。路面がきれいに舗装され、そろそろ木製電柱(電話線か?)が立ち始めているが、道端の下水溝ないしは共同溝はそのまま残っているので、1955年(昭和30)以前ではないかと思われる。前にご紹介した第一文化村アルバムClick!の、冒頭に載せた晴れ着の女の子の写真よりは少し新しいようだ。元・同志会Click!(生活協同組合)のあったあたりから西側を眺めた光景で、カメラマンの背後20~30mのところには弁天社がある。
 この写真にも多くの樹木が写っているが、第一文化村の木々は空襲でかなりのダメージを受けている。大きな樹木の中には、幹や枝葉が焼けたにもかかわらず、戦後に息を吹き返したものもあった。写真の右手前は空襲で延焼しているが、戦後間もなくにしては大きすぎる木が見られるので、息を吹き返した樹木なのかもしれない。道の奧には、初期型のオート三輪が写っている。
 
 写真は、第一文化村の庭で行われたスイカ割りの模様。これは、山手と下町共通の遊び。(笑) 庭先に繁る樹木が、いかに濃かったかがわかるショットだ。学生時代に文化村を歩いたとき、森の中に家々があると感じたのは、これらの庭木が大きく育っていたせいだからだ。スイカを載せた角型のお盆が、まあなんとも懐かしい。
 写真は、一転して第二文化村の下落合教会にあった牧師館だ。わたしも、この牧師館については知らなかったし、もちろん一度も目にしたことがない。旧・礼拝堂Click!の向かい側(西側)に建っていたようだが、そうすると、正面の緑が濃いあたりに、現在では十三間道路(新目白通り)が貫通していることになる。現在の建物でいうと、留学生寮のあたりに建っていたものだろうか。

 この写真は、上落合に住んでいた壺井栄・原作で、高峰秀子・主演の『二十四の瞳』の分教場・・・ではない。第二文化村にあった「プール」だ。正確に言うなら、下落合みどり幼稚園の中にあった、プールで遊ぶ子供たち。もちろん、戦後間もないころだ。でも、どう見てもプールではなくて、葦が繁る池としか思えないのだけれど・・・。(^^; でも、女(おなご)先生が引率しているので、間違いなく「プール」なのだろう。卒園生のオスガキに見せたら、「プール? マジですか? ただの池じゃん!」とたいへん不評だった。

 上掲の写真は、「みどり幼稚園なら、もっと古い写真があったよ」・・・ということで、1953年(昭和28)当時の、これは卒園式だろうか? 下落合教会が第二文化村に創設されたのは、この写真が撮られるわずか2年前のことであり、幼稚園の開設はそのあとということなので、開園早々の記念写真なのかもしれない。以前にご紹介した、みどり幼稚園の集合写真より、さらに8年も古い撮影だ。
 以前にご紹介した写真もそうだけれど、とにかく当時は子供の数がやたら多い。この写真は、戦後すぐのころに産まれた、いわゆる“団塊の世代”の子供たちだ。現在の下落合みどり幼稚園は、この半分の園児数にも満たないのではないだろうか。塀の向こう側の風景は、戦後8年目の第二文化村だ。空襲で一面が焼け野原だったエリアだが、このころには家々がちゃんと建ち並んでいた様子が確認できる。ただ、戦前のようなしゃれた意匠の住宅ではなく、当時は東京のどこにでも見られた普通の家々だ。戦後8年がたったとはいえ、まだ日本が本格的な復興をとげる前の時代の一葉だ。

 


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ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2009-11-27 12:48) 

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