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「森田さんのトナリ」に住んでいたのは? [気になる下落合]

「森たさんのトナリ」1926.jpg 

 「森?さんのトナリ」というタイトルが、佐伯祐三の制作メモに残っている。朝日晃の『佐伯祐三のパリ』(1994年・平成6)でも、「生誕100年記念佐伯祐三展」図録(1998年・平成10)でも「森尾さんのトナリ」と判読されている。でも、1926年(大正15)当時の「下落合事情明細図」を、隅から隅まで目を凝らして見ても、「森さん」「森島さん」「森山さん」などは発見できても、「森尾さん」は発見できない。そこで、ものたがひさんご指摘(判読)の、「森たさんのトナリ」ではどうなのだろうか? ものたがひさんにいただいた、制作メモの佐伯筆跡を観察すると、どう見てもこれは「尾」には見えず、わたしも「た」だと思う。制作メモの「た」と、佐伯が友人あてに出したハガキの「た」とを比べてみても、違和感なく同じ筆跡であることがわかる。
 
 「森田さん」というお宅は、当時の「事情明細図」に3軒存在している。(うち1軒は、ものたがひさんにお教えいただいた。まるで“カメダ○”を探す今西刑事みたいなことをしている) いずれも目白文化村とは正反対の方角、いま風でいうと「森田さん」は中落合ではなく、聖母坂をはさんで東の下落合側だ。3軒のうち2軒は、薬王院のすぐ上(北側)に、残りのひとつが下落合630番地あたり、諏訪谷のすぐ北側あたりに森田邸は位置している。1932年(昭和7)現在の『落合町誌』には、あえて掲載を遠慮したものか、人物事業編の中に森田さんは3軒とも記載されていない。
 下落合630番地・・・、当時の「事情明細図」に森田さんちを見つけてこの地番に気がついたとき、わたしは「アッ」と声を出してしまった。佐伯が描いた上掲の『下落合風景』が、下落合630番地あたりの風情に似ている・・・と、それまで当たりをつけていたせいでもある。でも、この作品の風景とは別に、「森田さん」の側からも決定的な発見があった。下落合630番地にあった「森田さん」だが、その「トナリ」に住んでいた人物がほぼ特定できたからだ。おそらく借家あるいは借地住まいだったのだろう、その人物の名前は、地主の酒井億尋の名前が載っているだけの佐伯家と同様、当時の「下落合事情明細図」には記載されていない。
 先に引用した、外山卯三郎の「画家・笠原吉太郎を偲ぶ」には、こんな一節も挿入されている。「当時パリ遊学から帰っていた前田寛治が目白(下落合)にアトリエをもち、その中間の早稲田側の谷に下る台地に、里見勝蔵がおり、宮坂勝が移ってき、その奧のところに佐伯祐三のアトリエがあったのです」・・・。文中に、早稲田側というような妙な表現があるけれど、これは聖母病院が建設される前の丘をはさんで東側・・・という意味だ。つまり、西の不動谷に対して、東の諏訪谷のことを言っている。
 佐伯祐三は死ぬ直前、二度めの渡仏(1927~1928年)時に、パリからこの人物へあてて何度か手紙を書いている。
  
 僕は今仕事を毎日続けてゐる。仕事のてんでは同じ事をくりかへす事がおそろしくなった。
 だがそれをやぶることはむつかしくつらいが、それをしなければならない。やはり町の画をかいてゐる。きわめて自由に-そしてダイザイはコーコクを毎日かいてゐる。
 最初字か画かわからぬ様なものをかかうと思って三週間程かゝったが、よくセイコウしなかった。それで色彩を明リョウなものを考へた。
 コノ頃ムラサキとエメラルドがすきになった。黒はもちろん離す事は出来ない。黄色もよい。コーコクは画のコーコクより字バカリの方がよいと思ふ。  (朝日晃『佐伯祐三のパリ』より)
  
 
 このパリから佐伯が投函した、カタカナ混じりの読みにくい手紙の宛名書きには、下落合630番地/里見勝蔵様と書かれている。洋画家・里見勝蔵は、佐伯祐三がヴラマンクに絵を見せに出かけて、「このアカデミズム!」と吐き棄てるように言われたとき、その現場にいた人物。いや、正確に言うと、佐伯をヴラマンクに紹介したその人だ。この時期、池袋の家を引き払ってフランスへわたり、帰国後は下落合630番地に住んでいた。
 この作品が、もし小雨もよいの暗雲が拡がる「森田さんのトナリ」を考慮せず、里見勝蔵の存在を考えなくても、わたしが風景的な一致を認めてめぼしをつけておいた場所のひとつ。「下落合事情明細図」および1936年(昭和11)の空中写真を見ると、この絵の風景に当てはまる場所が、薬王院上の「森田さん」周辺にはないが、下落合630番地の「森田さん」には1箇所あるのだ。手前に空き地が広がり、その向こう側に家が2軒並んでいる。家の建て方や向きからすると、左右いずれかが南ということになる。「森田さん」ちの周囲で、空き地とこの家々の配置パターンを探すと、「事情明細図」や空中写真のようなポイントから描画した場合にのみ一致する。

 1936年(昭和11)の空中写真では、手前の空き地にはすでに大きな西洋館らしい住宅が建てられているのが見えている。この作品の画角からいうと、左側の画角外れに森田さんちがあり、その「トナリ」(南隣り)、つまり下落合630番地の家並みを描いていることになる。この2つの家のうち、「トナリ」とカタカナで意識的に表現しているところをみると(単に佐伯得意のカタカナ表現にしただけか)、里見勝蔵宅は左側に描かれた家ではなかったか?
 森田家があったところは、現在、聖母大学のテニスコートとなっていて、当時の森田邸へと入りこむ路地は消されてしまっている。また、聖母坂(補助45号線)の貫通とともに、このあたりは起伏を抑える整地化も行われた。聖母坂が、不動谷と諏訪谷の間にあった丘を切り拓いて貫通したことで、里見邸から佐伯アトリエへと向かう道筋も断ち切られた。ふたりの家は、直線でわずか150mほどしか離れていない。そして、もうひとつひっかかるのは、森田さんちの上(北側)には、当時の下落合1~2丁目(現・下落合2~4丁目)界隈では珍しくなった墓地(屋敷墓)が、家々に挟まれるようにして残っていたことだ。でも、制作メモにある「墓のある風景」は、実は佐伯が好んで描いたらしい、ニノ坂(元名・蘭塔坂)にもあった。これについては、稿を改めて触れてみたい。
 
 佐伯祐三は、気に入った風景に出あうと、何度も通いつめて『下落合風景』を描くクセがあったようだ。もし、この作品が「森田さんのトナリ」だとすれば、「浅川ヘイ」Click!「コンクリートの塀」Click!、そして諏訪谷全景Click!とともに、“諏訪谷エリア”とでもいうべき連作のひとつなのかもしれない。
 では、空中写真にこの描画ポイントClick!を加えてみよう。

■写真上は、『下落合風景』(1926年・大正15)。は、南の空き地に面して「森田さん」の家があったあたりの現状。聖母大学のテニスコートとなっていて、細い路地はすでに存在しない。手前の柵の内側に、2軒つづけて家が並んでいた。「事情明細図」の空地に、現在は聖母大学の施設が建っているので描画ポイントと思われる地点には立てない。
■写真中は、1936年(昭和11)の空中写真と描画ポイント。は、「森田さん」ちへと抜ける路地があったところを南から北へ写したもの。道路の下に大谷石の区画が見えるが、大谷石が途切れたあたりに細い路地が通っていたのだろう。コートの左手に、2軒の家が建っていた。
●地図:「下落合事情明細図」(1926年・大正15)でみる描画ポイント。当時は、畑か原っぱだったのだろう。森田邸の北西の一画に、墓地の記載が見える。
■写真下は、佐伯アトリエでの「1930年協会」記念写真(1927年・昭和2)。前面中央に佐伯祐三が寝そべっているが、寄りかかられているのが里見勝蔵。その右のヒゲ面が林武。後列は、左より小島善太郎、木下善謙、野口彌太郎、前田寛治、木下孝則。は、1947年(昭和22)の同所。空襲でなにも残っていないが、路地の道筋がよく見える。
 


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ものたがひ

えーっ、森たさんの「トナリ」に里見勝蔵が住んでいたのですか!
東京市外下落合六三〇。あらら、『中央美術』(これもご近所に拠点あり)昭和3年2月号の「里見勝蔵君」の紹介記事にも、ちゃんと、そう書いてありました。ちなみに、その紹介文を書いているのは、下落合に家のある外山卯三郎。里見勝蔵は「曠野に咲く薊の花」なのだそうです。

さて、チェックの厳しい(笑)ものたがひとしても、この風景が『森たさんのトナリ』であることは、事情明細図・空中写真からほぼ確信しますが(当時の地形として「早稲田側の谷に下る」地点にあるので、手前の空地より低い土地に見えるのでしょうか)、『自筆メモ』とはサイズが違いますね。ラフで小ぶりな画面であることから、試作品だったのかもしれません。同じ所を何枚も描く佐伯の特性から、これに加え20号の『森たさんのトナリ』がある(あった)としても、自然だと思います。
もう一つ、別の考えとしては、もともと20号だった絵を、メモ以降に、気が変わってトリミングしてしまったというものです。佐伯はそういう事をするようですし、構図から見ても考えられるのです(約73×61センチから、53×46センチへ)。でも、もしそうだとすると、はじめは描かれていた「森田さん」ちが無くなり、メモ通りの「のトナリ」だけの絵になったのかもしれません(笑)!
それから、里見が「この時期、池袋から引っ越してきて下落合630番地に住んでいた。」というのは違っていて…。1921年に池袋の住まいを後にして渡欧した里見は、1925年に帰ってきた時、京都の実家に戻りました。しかし、渡欧仲間とのグループ展の機運が高まり上京した、というのが本人の弁(『みずゑ』257号)。
『1930年協会』に結実する機運と、皆でご近所に暮らす、ということが一体になっていたんですね!
by ものたがひ (2006-06-06 08:17) 

ChinchikoPapa

わたしも、下落合630番地という番地に気がついて、少々トリ肌が立ってしまいました。里見勝蔵が曠野のアザミ・・・・・・う、うーん。(^^; はい、ときどき書きとばしますので、厳しいチェックを入れてください。(笑) 

> (当時の地形として「早稲田側の谷に下る」地点にあるので、
> 手前の空地より低い土地に見えるのでしょうか)

実は、これがもっとも悩んだところです。手前の空地は「聖母の丘」(丘名がないので、時代が前後しちゃいますが便宜上こう表現します/笑)の、尾根筋へとつづくエリアだと思いますので、ちょうど八島さんの前通りの尾根筋から見ると、不動谷の突き当たり谷戸上にあった佐伯邸一帯が低く見えるのと同じように、諏訪谷の突き当たり一帯も当初は低かったのだろう・・・と想定しています。
これは、曾宮一念が『冬日』で描いた、まるで半島のように突き出た「聖母の丘」の高度を見ても想定できますね。いまでは、大きく丘が崩されて、なおかつ聖母坂(補助45号)が地面を掘削するように敷設されていますので、逆にこの界隈は聖母坂のほうがやや低くなってしまっています。

> はじめは描かれていた「森田さん」ちが無くなり、メモ通りの「
> のトナリ」だけの絵になったのかもしれません(笑)!

なるほど、そういう考察もできるわけですね。この絵が現存していれば、確認することができますね。

> 1921年に池袋の住まいを後にして渡欧した里見は、1925年に帰っ
> てきた時、京都の実家に戻りました。しかし、渡欧仲間とのグループ
> 展の機運が高まり上京した、というのが本人の弁(『みずゑ』257号)。

この部分、文章を少し手直ししておきました。ご指摘、ありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2006-06-06 14:17) 

小道

横から失礼します。
里見勝蔵と外山卯三郎という名前だけに反応してます。
田上義也というライトのところにいた建築家が、里見と外山の自宅を設計しています。竣工はどちらも1929年で、里見邸の住所は下井草になってます。
by 小道 (2006-06-06 21:06) 

ChinchikoPapa

小道さん、面白い情報をありがとうございます。里見勝蔵は、フランスから帰国したあと京都→下落合と、ほんの一時期の滞在なんですね。やはり借家だったのでしょう。下井草に建てた自宅は、やはりライト風のデザインだったのでしょうか。(^^
それから、外山卯三郎は実家が下落合にあったため、自宅は旧・下落合3丁目(中落合)に建てたんじゃないかと思われます。おそらく父親の「外山秋作」邸は、あの岡田首相が二二六事件で隠れた佐々木邸の「トナリ」のようです。
by ChinchikoPapa (2006-06-06 22:55) 

小道

外山邸の写真ありました。すごーいライト風の建物です。
こちらも外井荻になってます。里見邸は大きな窓のアトリエ付です。
by 小道 (2006-06-06 23:31) 

ChinchikoPapa

ということは、1929年に竣工した外山卯三郎の自邸は外井荻にあって、旧・下落合3丁目にあったのは編集室でしたか・・・。
ものたがひさんが、そのあたりお詳しそうです。(^^
by ChinchikoPapa (2006-06-07 00:07) 

ものたがひ

小道さん、はじめまして。いろいろ繋がってきますね(^^!
里見のアトリエは、東京市外井荻下井草1091、でしょうか。数年後には、住所がかわっているので、注文アトリエ住宅だとは思わなかったです。外山邸が1929年に井荻に竣工、ということになると、ちょっと謎も生じるのですが、ますます面白いです。しかもライト風…!
by ものたがひ (2006-06-07 00:25) 

ChinchikoPapa

わたし、「外井荻」って書いちゃってますが「市外井荻」なんですね。(^^;
井荻が東京市に編入されていなかった時代!
田上義也設計のライト風の建物、見たいです。>小道さん
by ChinchikoPapa (2006-06-08 14:32) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2010-03-07 17:49) 

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