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第一文化村アルバムPart2。 [気になる下落合]


 「まあ、また佐伯様は、第三文化村の八島様あたりをお描きなの? まあ、いやですわ、なんてことでしょう。きっと、第一文化村をお忘れなのね。それとも、お嫌いだったのかしら? 佐伯様の『下落合風景』Click!の絵には、わたくし写真で対抗してよ。・・・これでもか。では、ごきげんよう~」と、第一文化村にお住まいの「お嬢様」(カギカッコをつけるな!/爆)から写真をご提供いただいた。(冗談です、念のため)
 上の写真のお宅は、おそらく第一文化村のものだと思われるけれど、どこにあったものなのかわからない。おそらく、邸宅の裏側(北側?)を写したと思われるが、該当する建物の屋根を、空中写真から特定することができなかった。おそらく、正面にまわると美しい洋風住宅なのだろう。給水タンクが設置されているので、空襲により水道が寸断された戦後すぐのころかもしれない。大谷石による築垣が頑丈になされており、手前は空襲で焼けてしまったのか原っぱになっているようだ。このデザインだと、壁はベージュで屋根瓦は濃いオレンジまたはしぶいグリーンの、南欧風の建築だったかもしれない。

 次の写真は、どこかのお庭での記念写真。右手には、下見板の横板張りが美しい、まるで別荘建築のような洋館の細長い窓が見えている。また、人物たちの背後にある緑の向こう側には、鋭角の典型的な尖がり屋根の一部がチラリとのぞいている。この屋根は、写真中央の左側まで斜めに下ってきているようで、佐伯祐三が「フビラ(フヴィラ)」と表現した北欧の別荘建築に見られるデザインだったのかもしれない。カメラ位置をもう少し引いて撮影されていれば、周囲の建物の様子がもっと判明しただろう。
 それにしても、アイマスクをすると文化村ではなくて、全員サングラスをかけたまったく別の怪しい写真に見えてしまう。困ったものだ。

 上の写真は、空襲による一面の焼け野原から少しずつ立ち直り、目白文化村にも復興の槌音が響きはじめていたころのもの。ようやく焼け跡の一画に、再び家々が建ちはじめた時期の写真だ。区画割りにつかわれた大谷石の縁石はそのままに家を建て、空襲で疎開していた人たちや、家を失い他所ですごしていた人々が、少しずつ文化村へもどり始めていた。また、もともと文化村に住んでいた人たちでも、空襲で家を失った人たちの中には、文化村へもう一度家を建てることをあきらめ、土地を売却して転居してしまった人たちも大勢いる。そのような区画には、新しくやってきた住民たちが次々と家を建てていった。
 4つの文化村の中でも、延焼比率が大きかった第一文化村では、戦後、新しい住宅が建設されるにつれて、それまでの目白文化村ならではの街並みイメージとは異なり、ふつうのお屋敷街化が急速に進んでいった。第二文化村や第三文化村の南部が、1970~80年代ごろまで当初の文化村の面影を色濃くとどめていたのに対し、もっとも早く誕生(1922年・大正11)した第一文化村は、文化村の特色をいちばん早く失っていくことになる。わたしの学生時代には、すでに第一文化村は一部を除いてふつうの屋敷街となっており、目白文化村の面影を味わうためには第二文化村の南部か、第三文化村の尾根道を歩かなければならなかった。

 この写真は、戦後も10年以上たったころのもの。人々の生活は落ち着き、再び文化村にクルマを持つお宅が増えてきたころの風景だ。大正末から昭和初期にかけ、文化村では自家用車を持つお宅は、それほど奇異ではなかった。大きな華族の邸宅や大金持ちのお宅ではなく、いわゆる「中流」の住宅にガレージがありマイカーを備える・・・、ここでも戦後、いまでは普通になった日本の住宅の姿を、文化村が先取りしていた様子がうかがえる。
 写真のクルマは、またしてもダットサン。第一文化村にも、木製の電柱が立ち始めた1960年(昭和35)ごろ、東西を走る弁天通りClick!あたりの光景だ。まるでパン屋さんの店員のような帽子をかぶっている男性、これから彼女とドライブなのだろうか? それとも、“配達”なのだろうか? いずれにしても真夏らしい様子を見ると、ジリジリと照りつけられる鉄板の車内、エアコンのない当時のドライブは地獄だったろう。

 


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