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「門」の屋根はやっぱり赤かった。 [気になる下落合]

 先日、『佐伯祐三全画集』(朝日新聞社)を観たとき、 「門」Click!がモノクロではなくカラーで掲載されていたのがうれしかった。練馬区立美術館の佐伯展では、モノクロの質の悪い写真でしか展示されていなかったので、てっきり戦災で焼けたか行方不明なのだと思っていた。それが失われずに、現在でもどこかで観られるチャンスがあるということだ。きっと、個人蔵なのだろう。
 そして、やはりこの家の屋根は赤かった。間違いなく、これは第三文化村に面した八島邸とその門だ。モノクロ写真では気づかなかったけれど、目白通りへと抜ける尾根道には親子連れだけではなく、さらに何人かの人影が見てとれる。この道の方角は南を向いており、右へと折れる道が見えているが、この筋が第三文化村北側の「田」の字に似たエリアを突き抜ける真ん中の道。正面を第三文化村の南側に沿ってまっすぐに歩いていくと、やがて静観園Click!のある西坂の徳川邸へと出る。
 また、八島邸の木立に隠れて見えないが、前方には左手へと折れる道がある。「八島さん前通り」では、犬を連れて散歩をする人物が右折していく道だ。この道を下りると、不動谷の湧水源と思われる谷戸があり、ほどなく佐伯祐三のアトリエへと入りこむ路地が左手にある。現在、この路地は行き止まりとなっているが、当時は酒井億尋の敷地に沿ってカギの字型に通り抜けできた。
 この道を、やはり同じ方角に向いて描いた『下落合風景』シリーズが残っている。1927年(昭和2)の年明けに制作された、雪景色の下落合Click!だ。八島邸の「門」よりも、南へ30~40mほど下がったあたり、不動谷に面した大塚邸の近くにイーゼルを据え、南を向いて描いた作品だ。「八島さんの前通り」Click!の尾根道が、佐伯はよほど気に入っていたのだろう。
 八島邸とは、道を隔てて接する第三文化村だが、第一・第二文化村が販売終了とともに次々と家々が建ち並んだのに比べ、第三文化村はずいぶんあとまで空地が目立っていた。これは、目白文化村の人気を当てこんだ投機目的の不在地主が、土地を競って購入したためだ。だから、販売終了から10年以上たった1936年(昭和11)の空中写真を見ても、やたら空地が目立っている。なかなか屋敷が建設されず、太平洋戦争も間近になってから、ようやく家並みが揃うようになる。でも皮肉なことに、やっと文化村の住宅街らしくなったころ、空襲により第三文化村の北側、「田」の字型のエリアは丸ごと空襲で焼けてしまった。
 
 余談だが、朝日晃は『佐伯祐三のパリ』(大日本絵画)でこう書いている。
  
 当時、佐伯家の南と西側を文化分譲地と名付けて売り出していた。(中略:制作メモの)タイトルにでてくる浅川、森、矢島(佐伯のメモは八島)家は文化村に面していた。 (同書/335ページ)
  
 これは、明らかに誤りだ。まず「矢島」は、当時の目白通りの商店街が出前用に作成したと思われる、朝日晃も次回著作『そして、佐伯祐三のパリ』(大日本絵画)の中でも引用している2色の地図が誤っており、ここのお宅は地元の記憶でも「下落合事情明細図」でも、佐伯祐三のメモにある「八島」のほうが正しい。また、浅川邸は文化村とは方角違い、不動谷ではなく「セメントの塀」と同日セットになった反対側の諏訪谷尾根筋のお宅Click!だ。いま風の住所でいうと、第三文化村の中落合3丁目ではなく、聖母坂をはさんだ東側、下落合4丁目の久七坂筋にある大六天近くだ。浅川邸は、戦後ほどなくY邸(オスガキ同士の繋がりでうちとも親しい)となった大きなお屋敷だ。(現在はマンションに建て替えられている)
 さらに、森邸あるいは森○(森尾?)邸も、佐伯アトリエ近くには見あたらず、諏訪谷の尾根筋に1軒、現在の野鳥の森公園上に1軒、下落合公園近くに1軒、そして第一文化村周辺に1軒あるのみだ。この中で、「トナリ」とはどの家のことなのか、作品が特定できないので不明のままだ。
 では、とりあえずカラーの「門」を、『下落合風景』の描画ポイントClick!に追加しよう。

■写真上は『下落合風景』の「門」で、1926年(大正15)のおそらくは9月28日に描かれたもの。
■写真下は、八島邸の赤い屋根の拡大。ものたがひさんに教えていただいた天候のとおり、空は晴れている。は、「八島さんの前通り」(1926年・大正15)。右手の赤い屋根が八島邸。
 


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ChinchikoPapa

わたしも、実は下落合666番地にある、“「”字型のこの大きな建物が気になっていました。地所的にいいますと、北の小泉邸か東の酒井邸の敷地になりそうですが、詳細は不明です。なんとなく、学校かアパートのような風情がありますけれど記録がありません。佐伯が『下落合風景』を描いた当時はなかったと思われますので、昭和初期に建設されたもののようですね。
・・・牛舎か鶏舎だったりして。(爆!)
わたしが「疑って」いるのは、昭和初期に上落合郵便局長を勤めた宇田川邸です。郵便局長がこんなお屋敷を・・・とも思えますが、宇田川家は江戸期からつづく下落合の旧家(村役人)のひとつで、明治末から大正期の急速な宅地化によって地所を次々と手放したため、膨大な資産家になっていたようです。だから、旧・戸田邸ばりの大きな邸宅が構えられたのではないかと・・・。そのほか、下落合666番地あたりで思い当たる邸宅は、わたしの知りうる限りありません。
by ChinchikoPapa (2006-05-02 16:21) 

ChinchikoPapa

近隣の牧場から牛乳を仕入れて、ヨーグルト工場とかチーズ工場があったりすると楽しいですよね。「下落合ヨーグルト」・・・。(^^
葛ヶ谷(西落合)には、おとめ山の旧・相馬家が経営するジャム工場がありました。「アマリリスジャム」というのですが、下落合では夏みかんがたくさんなりますので、「下落合マーマレード」なんていかがでしょ?(笑)
でも、この建物が鶏舎だったりすると、佐伯邸はもう東も西もニワトリだらけで、早朝3時からコケコッコーと睡眠不足のノイローゼになりそうです。誰も思いつかなかった新説『そして、佐伯祐三の下落合』(大日本懐疑)では、西の鶏舎のニワトリで不眠症になった彼は、パリへと逃れ(第一期)、昭和初期に完成した東の鶏舎でノイローゼとなった彼は、またしてもパリへと脱出(第二期)していったのだった・・・。(><;☆\オバカ
by ChinchikoPapa (2006-05-02 17:20) 

ChinchikoPapa

佐伯の『下落合風景』を見てますと、中に描かれている人たちをめぐり、いろいろな物語ができそうですよね。彼らが交わす、話し声まで聞こえてきそうです。

>(5月は毎日ですか〜? ^^)

いえ、ある程度まとまった時間がとれて、地図や写真を検証できる連休中だけです。(^^;
by ChinchikoPapa (2006-05-04 18:16) 

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