So-net無料ブログ作成
検索選択

空襲直前の目白文化村・1944年(昭和19)。 [気になる下落合]

 どの邸宅も築20年前後が経過し、庭の樹木も大きく育って充実した、二度と見られない「目白文化村」完成形の姿だ。でも、残念なことに改正道路(環状6号線=山手通り)の工事がすでに伸びてきており、第一/第二文化村と第三/第四文化村との間を、まっぷたつに分断している。この写真が撮影された当時、戦争の激化とともに道路工事はすでに中断していたかもしれない。
 1936年(昭和11)撮影の空中写真Click!と、大きな違いが4点ほどある。まず、第一文化村の弁天池あたりClick!が本格的に整地され、比較的コンパクトな文化住宅がたくさん建ち並んでいる点だ。ちょうど谷戸の水源と思われるあたりは、早くから埋め立てられて道路もできていたのだが、その両側が改めて宅地として再開発されたのだろう。また、現在は三方に階段が設置されている谷間の上、箱根土地によって第一文化村が造成された当初から埋め立てられたところにも、西端のテニスコートを除いてすべて住宅が建っているのが見える。
 
 第二文化村は、ところどころにチラホラ見えていた空地もほとんどなくなり、こちらも佐伯祐三の『下落合風景』Click!に描かれた南端のテニスコートを除いては、ほぼすべてのエリアで邸宅が建ち並んでいる。めずらしい光景としては、箱根土地が社宅用として確保した土地に、大きな建物が造られているのが見えている。箱根土地は、大正末期に目白文化村からは引っ越していたので、この敷地も第二文化村の宅地として、あとから売りに出されたのだろう。戦後の1951年(昭和26)、ここには下落合教会Click!ができ、つづいて下落合みどり幼稚園が開園する一画だ。
 同様に、第三文化村も随所に見られた空地がなくなり、わずか西側の一部に残るだけとなっている。とうに敷地は完売しているので、おそらく投機目的の不在地主の土地ではないかと思われる。値上がりを見こんだ文化村の不在地主は、都内はもちろん近県にまでおよんでいた。また、不動谷に面した西側の尾根筋に、数多くの家々が並んでいるのが見える。昭和初期まで、ほとんどが雑木林で覆われていた尾根道だ。国際聖母病院Click!の西に接した谷間も宅地化され、家々が建ちはじめている様子も捉えられている。8年前には、一面の草原が拡がっていた。
 空襲による延焼は、緑に囲まれた佐伯祐三のアトリエClick!(酒井億尋邸敷地)を例外として、聖母病院に面した北辺の道で止まっている。文化村の中では、比較的住宅の建つのが遅かった第三文化村の北側では、屋敷森が十分に育っておらず、それが府営住宅からの類焼をたやすくしたのではないだろうか。もっとも、いくら屋敷森が濃く繁っていても、第一文化村や第二文化村、第四文化村のように焼夷弾の直撃を受けてしまえば、もはやどうすることもできなかったろう。第一・第二文化村は1945年(昭和20)4月13日の空襲Click!で焼失しているが、第三文化村はそれと同時ではなく、少し遅れて目白通り沿いが狙われた5月25日の空襲で延焼したのかもしれない。
その後、第一文化村と第二文化村は4月13日夜半と、5月25日夜半の二度にわたる空襲により延焼していることが新たに判明Click!した。
 
 
 落合小学校(現・落合第一小)に隣接した第四文化村にも、大きな邸宅がいくつも建設されている。文化村の住民から「スキー場」Click!と呼ばれた急斜面が、ひな壇のように整地されて大きな家々が建っているのが見える。周辺住民の増加とともに、子供の数も急増したのだろう、落合小学校Click!の校庭西側に、新たな校舎が増築されているのがわかる。
 目白文化村ではないけれど、もうひとつおまけに四ノ坂を見てみよう。1936年(昭和11)の空中写真には、刑部人邸(1931年・昭和6築)がすでに建っているのが見えていた。(この時点で気づき、空中写真が1930年撮影というのを疑うべきでした) 坂道をはさんで、その西に隣接していた島津製作所所長の所有地は、広い空地になっていた。でも、1944年(昭和19)の写真には、刑部邸(母屋)のすぐ西側に、大きな別棟が新たに完成しているのが見える。さらに、道をはさんで新築の林芙美子邸Click!(1941年・昭和16築)も確認できる。
 四ノ坂1944.jpg

 中井駅周辺は、8年前の空中写真とは比較にならないほど家々が一気に増えており、大正期の目白文化村とは雰囲気が微妙に異なる、昭和初期のいわゆる“ムウドンの丘”Click!が形成されていた。1945年(昭和20)4月13日の空襲で、第二文化村の大半は焼失したけれど、“ムウドンの丘”は無キズで残った。わたしがここに足を踏み入れたのは、さらに30年後の1970年代半ばの高校を卒業するころ。多くのお屋敷は、まだそのまま残っていた。

■写真上:1944年(昭和19)の目白文化村上空で、陸軍参謀本部陸地測量部による撮影。
■写真中上が1936年(昭和11)第一文化村の弁天池あたりで、が8年後の谷間の様子。谷戸の水源地にあたる西側に、住宅が急増しているのが見える。
■写真中下左上が1936年(昭和11)第三文化村の上空で、右上が8年後の同所。左下は1936年(昭和11)第四文化村で、右下が8年後の同所。西側を改正道路工事によって削られている。この道路工事によって、会津八一はせっかく引っ越した先の自宅がひっかかり、目白文化村内をもう一度引っ越すClick!ハメになった。
■写真下左上が1936年(昭和11)の刑部人邸の上空で、右上が8年後の同所。刑部人邸の母屋西側に、大きなアトリエが新たに建てられているのが確認できる。は、1944年(昭和19)の南斜面“ムウドンの丘”の全景。
 


読んだ!(1)  コメント(0)  トラックバック(3) 

読んだ! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 3

この記事のトラックバックURL:
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。